蓮狐.
屋敷の方が急に騒がしくなったと片耳を欹(そばだ)てた。薄っすら目を開け、格子の間から様子を窺い見るとまだ辺りは真っ暗だったが、近くまで物音が迫っているような気がした。
地面に誰かが崩れ落ちる音。扉の向こう側でこの家の主人の叫び声が聞こえる。声色から察するに尋常ではない慌て様で身の安全を乞い願う言葉に、さすがにただ事ではないようだと覚醒させられた頭で判断し、身体を起こす。
混乱に乗じて逃げ出せる機会が来たのかもしれないが、鎖で縛られた南京錠付きの鉄格子は力技で打ち破れるものでもない。
「ここにも何か隠しているな?」
言った後でその誰かが蝶番に手をかけたらしき音。肘金が外され観音扉を開け放つ何者かが、中へと侵入してきた。
「ん?こいつは?」
「そ、それはただの飼い犬のようなもので……」
「飼い犬を暗い土蔵の中に置き去りで檻に閉じ込めておくというのなら可愛がっていたわけではないだろう」
「…………」
蔵の中に急に光が差し込み、眩しくて顔が視認出来ない。だがよく通る堂々とした声で反論を許さない威圧がある男だ。役人か何かの取締りに合っているのかとも思ったが、よく目を凝らすと華美過ぎない程度に装飾も身につけていて上等な衣に見える。そんな風貌を見ると法を司る行政関係の人間とは違うような気がした。
「二重施錠とは。そこまで貴重なのか」
こちらの価値を見抜いたのか鍵を開けろと屋敷の主人に命令するのだと思った。だが不敵な笑みを浮かべている男は微動だにせずこちらを見下ろす。
直後男の背から何かが飛び出した。骨番の鞭のように撓るものがこちらをめがけて空を裂く。先端が鋭く尖ったかと思うとそれが鉄格子へ振り下ろされ、高い金属音が鳴り響いた。
聴覚が過敏なばかりに劈く音が脳天まで駆け抜けて目眩で蹌踉めく身体をそれでも気をしっかり持って踏みとどまろうと足掻くこちらの気など知らないのだろう。乱暴な男だ。
硬度のある錠と鎖をいとも簡単に打ち砕き、拉げた南京錠が放り出されると、また鞭のような何かは波打ちゆっくり男の後ろに戻っていく。
掛け金も外され扉が開くと中に大きな手が伸ばされ、雑に掴まれて抱え上げられてしまった。
鷹揚な態度と低い声色から渋味も増す頃の中年男性を想像させていたが、思っていたよりずっと若い。髪の長い色黒な肌の、顔立ちの整った目つきの鋭い男だ。
「普通の狐と毛色も違うし美しい毛並みだ。それに変わった形の尻尾だな。お前、大妖怪と噂に聞く九尾の親戚か?」
冗談のつもりかそう言って笑いかけてくる男を眼前に、毛皮の下で汗が滲んだ。
ふざけているように見えるがこの男、どこにも隙がない。絶好の逃げる機会のはずなのに、引っ掻いてすり抜けどんなに俊敏に走り去ろうとも逃げ切れる自信が持てなかった。それにあの硬そうな鞭のようなもので縛り上げられてはひとたまりもない。
首根っこを引っ掴まれ宙に浮かされたままどうすべきか考えあぐね迷っていると、その辺にあったつづらを足で蹴り飛ばしてひっくり返し中身をぶち撒けた粗雑な男は左手でそれを拾い上げ、その中に自分の身体を押し込んだ。
悩んでいる間にまた暗く狭い場所に閉じ込められてしまった。そんな絶望を感じる間もないまま籠がひどく揺すられる。どうやら男がつづらを抱えて歩き出したようだ。
「お頭、宝物庫の確認も全て完了しました」
男の手下らしき別の男の声がした。その相手に、この部屋も確認しろと先ほどよりも低い声で言い放つ男の声が響いた。
「外道な方法で得た利益なら盗られても文句はあるまい」
これ以上はと咽び泣く男に冷たく落とされる容赦のない声。屋敷の主人を少しだけ哀れに思いながらも籠の中で押し黙る。
乗り心地の大変よろしくない駕籠屋の仕事ぶりを心から嘆いていると編まれた葛の向こう側で人影が見えた。
葛籠の綻びの隙間から外を窺い見ると、屋敷の中から幾人も連なって人々が出てくる。
揺れる視界にそれでも目に飛び込んできた光景。男の仲間だと思われる賊たちに誘導されるように促され、女性たちに続いて子供まで数人中から出てきた。
それを見て、怒りと共に遣る瀬無さを感じた。人の物を強奪するような人間だ。平気でこういうことが出来る男なのだと。
そんな、物取りと呼ぶにはあまりに大胆な態度と落ち着き払った風体の、野蛮な男に運ばれ、今はただ揺れる衝撃を緩和させるために身体を丸めて耐えることしか出来なかった。
「また暗い場所に閉じ込めたりして悪かったな」
長い時間続いていた揺れが収まり、ようやく下ろされたらしかった。
つづらの上蓋が外されたので見上げると、男の顔が上から覗き込む。どうやら此処は男の私室なのか室内のようで、周りは誰もいる気配もなく静かだ。
内装はしっかりした堅固な造りだが、どこか素朴で派手さのようなものはない。
「……?怪我をしているのか。それなのに雑に運んですまなかった」
中から取り出そうとしているのか伸ばされる手に、逃げようとは思っていないものの睨みつけてしまうのは自分を檻から出してくれた相手でも、心から幻滅してしまったからだ。
「そんな恨めしそうな顔をするな。手当くらいさせろ。怪我が治ればちゃんと山に返してやる」
その言葉に目を丸くした。自分の価値を理解したなら売り飛ばして金に変えそうなものなのに。
男の意図がわからないまま抱え上げられてしまい、膝に乗せられると、本当に真剣な顔で自分の傷の具合を見てくる。
不覚にも罠に掛かってしまった時の、まだ新しい傷なのだが。トラバサミの鋭い刃が足首に食い込み、歩こうとしても痛みが走る。しかし自分としてはその足より籠の中で転がり回りみっともなく乱れた毛並みをどうにかしたいと思っていた。それを察したわけでもないだろうに傷を見ながら体毛に絡んだ葛を撫でて払い、綺麗にしてくれる手がそっと自分の身体に這わされる。
その優しい温かい手の仕草に少し気持ちよくなって恍惚としてしまいそうになり。すっかり相手に委ねる態勢になっていた自分にはっと気付き、身体を瞬時に固くする。
相手は血も涙もない蛮人だ。動物には優しいなんてそんな半端な慈悲を持ち合わせていたとしても懐柔されていいわけがない。
意思を強く持とうと身を起こし男を見上げる。自分の急な動きに気付き男も手を止めた。
「どうした?」
何かを必死で訴えようとしているのかとでも思ったのだろう。伸び上がる体躯を抱き上げる。次の瞬間に何が起こるとも知らずに。
「!!」
鼻を明かすどころか恐怖さえ植え付けそうな自分の行動が相手にどんな影響を与えるのか、それも知りたかった。
先ほどまで上を見上げ離れていたはずなのに一気に至近距離へと顔が近づく。
膝の上に鎮座していたはずの毛むくじゃらの獣が瞬く間に人の姿になり当然のようにその身に衣を纏い、重量まで先ほどと違うというのだからさすがに驚くだろう。
人の形に狐のままの耳を残し、豊かな尻尾はより大きく背後を覆う。
少しくらい度肝を抜いてやりたかった。他人の家に強盗に押し入ってもその余裕ぶりを崩さない傍若無人な男に、一泡吹かせてやれれば少しは懲りないだろうかと。
「……お前、あやかしものだったのか?」
確かに驚いた顔を見せたがそれは一瞬だけで、次に彼は繁々とこちらを見つめてくる。
思った以上に手強い相手のようだ。妙な技を使っていたしやはり彼も普通の人間とは違うのかもしれない。だからなのだろう。
「ただの狐ではないのだろうとは思っていたが」
「ああ。蓮狐(れんこ)といって、貴方が言っていた妖狐とは異なる種だ」
自ら正体を明かすことが命取りになるとわかった上で話している。
人型になればただの物珍しい愛玩動物として飼われるだけでは済まなくなる。異形だと虐待を受けるか、相手が物好きな主人なら慰みものとして甚振られることもあると聞く。
だが、この姿をこの男の目に触れさせたのは理由があった。
「山に返すと言ったが、値打が本当にわかる者に私を売れば高値が付くぞ」
「そうか。確かに、そんなに珍しいなら手放すには惜しい」
人型に変化すると知って物珍しさに興が乗ったのか楽しそうに頬を撫で、指で髪を梳いてくる。
「行くあてがないならお前が居たいだけ、此処に居ていいぞ」
意図する方向とは別の言葉が返ってきてしまった。その言葉に顔を顰め、興味本位で耳まで触ろうとしてくる手を軽く払い落とした。
膝上に乗ったままだったこともやっと思い出し、床に下りて相手から距離を取る。
「とても了承出来ない。他人の金品を強奪した上に女子供を連れ去るなど……私は貴方を心から軽蔑する」
「ほう?お前の目にはそう見えたのか」
「私を自由に売り飛ばしても構わない。だからあの人らは解放してやってくれないか」
「他人を助けるために己を身代わりに差し出すとは。殊勝なことだ。……だが、自分を大切に出来ないやつは気に入らない」
先ほどまで笑っていたはずが何故か一瞬だけ険しい表情に変わったように見えた。
「貴方に取り入ろうなどとは端から思っていないが」
「外を見てみろ」
「?」
後方の日を迎え入れるための大きな窓ではなく、敵を狙い打つための鉄砲狭間のような小窓が部屋にあり、彼がそちらを開けながらそこから下を見ろと言うので促されるまま外を眺めた。
高い場所から見下ろすような形で、眼下を見渡すと外で人集りが出来ている場所がある。
「衰弱している者は数日ここに留まり滋養をつけさせる必要もあるだろうが。彼女らには帰る家があるのならば村に帰っていいと伝えている」
どうやら彼は捕虜のように連れ去った女性や子供たちについて語っているらしかった。
「道中の安全も考慮して金翅鳥の送迎付きだ。至れり尽くせりだろ」
金翅鳥と呼ばれた巨大な鵬(おおとり)が黒い翼を羽ばたかせ飛び立とうとしている。その背にしがみつく女性は確かに屋敷から連れて来られたうちの一人だ。
「あの屋敷の主人は裏で奴隷商をしていた。近隣の村々から連れ去った人間を商品にしているような男だ。道理に反して得た金なら悪辣な人間の手元に置いておくべきではない」
ここで暮らしていた幾人かも山をおりていた際に連れ去られたのだという。黒い噂の絶えない男で突き止めるまでに時間は掛からなかったと、男はそう言う。
捕まってから蔵に閉じ込められていて水と食事がたまに差し出されるくらいで、あの屋敷の内情まではわかっていなかった。
「この里の者たちを養うには金がいる。駆け込み寺のようになってしまい年々人数が増えて今では切り詰めて生活をしているくらいだ」
そもそも余所者を誰でも受け入れていいということにはなっていないんだが……と、眉根を寄せどこか納得がいっていない様子も見せる。
「それでも、田畑を耕し山の恵みを糧に民は助け合って生活をしている。ここでは種族や容姿を超え互いに支え合うことが理想だと思っている」
よく見れば本当に肌の色の違いや姿形の異なる者たちが入り乱れて共存しているかのように距離が近い。
他の村や都でもなかなか見れない光景だろう。
方法が乱暴でやり方を全て肯定できるわけではないが、それほど悪い男ではないようだ
「勘違いをしてすまなかった。貴方のことをよく知りもせず軽蔑するなどと……」
「構わない。お前が真面目で頑固な変わり者だと言うことはよくわかった」
そう言って闊達に笑う。気に入らないと言われたり変わり者だと言われたり酷い扱いをされたが、この笑顔を見るとなんだか安心して、ただの誤解で良かったと思わせる。
「俺は阿修羅だ。お前は?」
「帝釈天だ」
互いに名乗り合うとやっと緊張が解れ肩の力が抜ける。我が国を離れて難から逃れずっと一人で生きてきた。誰かの前でこれほど心安らいだのはいつぶりだろう。
「じゃあ今度こそ手当をさせろ」
「!」
安心しきって気が緩んでいた。突然身体が宙に浮いて、先ほどと同じくらいに相手の精悍な顔立ちが間近にある。まさか抱き上げられてしまうとは思っておらず急な動きに驚かされしがみついてしまった。
こちらの狼狽える顔色など少しも気に留めず意気揚々と立ち上がると、落ち着ける場所へ運ぼうとしている。
彼になら気を許せそうだと思ってしまった前言を撤回したい。心が安らぐどころか予測出来ない彼の行動は心臓に悪い気がするな……と、心の中でひとり盛大に息を吐いた。