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    saku

    太中メインで小説を書いています。

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    saku

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    pixivの再掲

    #太中
    dazanaka

    夜が明る。その前に「太宰君、考えた事はないかい?」

     執務をする傍ら、森鴎外は突然そんな事を云った。
     任務に関する書類をつまらなそうに眺めていた太宰は顔を上げる。

    「楽に死ねる方法なら常に考えていますよ。あーぁ、早く死ねないかなぁ」

     手にしていた書類をぽいっと投げ、後頭部を支えるように指を組む。
     後ろに移動した重心により、腰掛けていた上等な椅子がやや軋む。

    「やれやれ、ほどほどにし給えよ」

     小難しい案件が書き連ねてある書類を苦虫でも噛んだかのように森は眉間に皺をよせ、端に避ける。

    「中也君の事だよ」

     出た名に何を感じたのか、太宰の組んだ指が少し反応した。

    「何故私が中也の事を考えなくちゃいけないの?」
    「おや、中也君を拾って来たのは君だろう?」

     次の書類を手にし、また同じ事を繰り返した森を太宰は怨みがましい目で睨む。
     反論しようと太宰が口を開きかけた時、

    「リンタロウ!!」

     バタン!! と豪快に扉を開いたエリスが真紅のワンピースを翻し森の元に駆けてくる。
     その愛らしさに森は眉間に寄せていた皺を崩した。

    「エリスちゃん! 今は大事なお仕事の最中なのだよ」
    「リンタロウはお仕事と私どっちが大事なの?!」
    「勿論エリスちゃんだよ、でも今は本当に大事なお仕事なんだよ、ごめんねぇ」
    「その大事なお仕事の最中に私に雑談をしてきたのは何処の誰でしょうね」

     先程の仕返しに、ここぞとばかりに太宰は口を挟む。

    「オサムとはお話するのに私の事は追い出すのね、酷い!! リンタロウなんて大っ嫌い!!」
    「違うよエリスちゃん!! お願いだからそんな事云わないで!!」
    「知らない!!」

     ぷいっと顔を背けるエリスに森は狼狽える事しか出来ない。
     そのやりとりを無感情に眺めていた太宰はよいしょ、と椅子から立ち上がる。

    「私よりエリス嬢のご機嫌をとってはどうですか、邪魔者は退散しますので」
    「先程の質問なのだけどね」
    「先程?」

     とっさには思い当たらず、僅かに首をかしげた太宰に森は含みをもたせた笑みを浮かべる。

    「私は保険をかける主義でね、何にでも」
    「?、そうですか」

     その言葉の意味と何故それが中也に結びつくのか意図がわからず、太宰は適当に返し執務室を後にした。
     背後には森がエリスを宥める必死な声が聞こえるがそれはごくつまらない、いつもの風景だった。
     そして、これから赴く任務もいつもと変わらない日常のはずだった。



     太宰が部屋に戻ると不機嫌丸出しの中也がソファに居た。
     人の部屋でよくそんな横柄な態度で滞在出来るなぁと思う。
     テーブルに一つだけ置かれている珈琲カップに、勝手に飲んだ事がわかり舌打ちが出る。
     中也が居るソファの正面に、音が出る程の勢いで座った。

    「私の分は」
    「あ?」

     まだ僅かに湯気が立ち、一口飲んだだけらしい珈琲カップを太宰は指す。

    「手前で淹れろ、俺は小間使いじゃねぇンだよ」
    「そうするよ、中也の淹れる不味い珈琲なんて飲めたものじゃないからね」
    「ンだと? そこで待ってやがれ!!」

     中也は怒り顔で立ち上がり、簡易的に設置された給湯室に向かう。

    「あ、今から任務だった、私これでいいや」

     中也が席を外した隙に、太宰はテーブルに置かれていた珈琲を飲み干す。

    「にっが!! 中也ブラック飲んでるの? あのねぇ、ブラックを飲んだからって大人になるわけじゃないし、背も伸びないのだよ?」
    「勝手に俺の飲むンじゃねぇよ!!」
    「ちなみに中也も同行だからね、珈琲淹れてる暇があったら準備したらどう?」
    「誰の分だよ! この糞太宰!!」

     握った珈琲カップにヒビが入るのが見えたが、見ぬふりをした。
     おそらく中也が手を離せば原型を留めておけず、破片となって床に落ちるだろう。
     任務を終えたら次は割ったカップの代わりをお使いさせなければなぁ、と新しく出来た嫌がらせに太宰は上機嫌で退出しかける。
     背後から後を追う中也の悪態が聞こえたが、無視をしてドアを閉めた。






    *   *   *

     何故、こんな事になってしまったのだろう。

     太宰は悪夢でも見ている気分だった。
     いつものように太宰の指示で誘導、追い詰めた所を中也が纏めて殲滅、というつまらない任務のはずだった。
     太宰と中也が組み“双黒”という異名が黒社会に広まる頃には、その名を噂で聞いただけで大群衆がゴキブリの様に逃げ惑った。
     
     太宰は奥歯を噛み締め、此処からでは見えない、中也が居る現場を見通すように睨んだ。
     耳元に手を当てインカムに意識を集中するが、向こう側が壊れたらしく何の音も拾わない。
     音が途切れる瞬間、中也は汚濁を発動する符号を口にしていた。
     ただの殲滅任務だった。
     なのに、中也は切り札である汚濁を発動する状況にまで追い込まれた。
     何が起きているのか。
     吐き気が込み上げる程の胸のざわつきに、太宰は役に立たないインカムを投げ捨て中也の元に走った。



     聴覚が破壊されそうな破砕音と狂った咆哮が聞こえる先へ向かう道すがら、あちこちに死体と瓦礫が混ざりあって転がっている。
     中枢へ近づけば近づくほど、それは酷くなっていく。
     破壊の大きさとは対照的に、その中心には小さな一人の人間が居るだけだった。
     重力子を発動し、何の意思もなく道ゆくものを手あたり次第に破壊していく中也。
     敵の姿は無い。
     既に殲滅が終わっていたのか、汚濁により一層されたのかはわからない。
     今はそんな雑魚より余程手こずる相手が居る。
     重力子が乱れ飛ぶその中心。
     そこへ太宰は何の盾もなく突っ込まなくてならない。
     異能に触れる事でしか太宰の異能無効化は発動しない。
     何故か冷や汗にも似た汗が流れる感覚がした。

    「死ぬのはいいけど、中也に殺されるのだけは遠慮願いたいね」

     幸いなのは中也の攻撃にはまるで意志が無いため、重力子が太宰に向かう確率は低いという事。
     中也がこちらを認識しない限りは一瞬で体を、命ごと刈り取る攻撃が向かってくる事はない、と願いたい。
     把握している間合いを正確に捉え、着実に中也との距離を詰める。
     数ミリでも間違えれば簡単に体の部位が無くなる。
     後、少し。
     触れられる距離にまで中也の姿を捉えた時。
     伸ばした太宰の手に何の意志が宿っていたのだろう。

    「ッ!!」

     背後に迫った太宰に気付いたのか、ただの偶然だったのかはわからない。
     くるり、とやけにゆっくりと中也は振り返ったように見えた。
     奇妙な紋様が血のように赤く刻まれた腕が太宰に伸びる。
     当たる。
     太宰の脳裏に警鐘が鳴った瞬間、頭部に焼けるような痛みが走った。
     一瞬、口元が笑みに歪む。
     死。というものをすぐ側に感じる。
     だが、中也に殺された挙句、死ぬまで汚濁を発動するというのもまるで心中みたいで寒気がする。
     頭部に負った深い傷のせいで指先の感覚は無い。
     伸ばした手が中也に触れたのか、その感触が、熱が伝わらない。

    「…………だ、ざい……」

     抜けていく血に体を支える力が入らず、全身を地面に打ちつけて太宰は倒れた。
     瞬間、中也の声が確かに太宰の名を呼んだ。





    *   *   *

     意識が戻るのと同時に酷い痛みに襲われ始める。
     不快さに目を開けると、片側が何かに覆われ視界は半分になっていた。

    「ッ……」

     緩慢な動作で太宰は起き上がり、痛む頭部に手を当てると包帯独特の感触があった。
     太宰にとっては馴染んだその感触に何か思うところは無い。

    「太宰」

     呼ぶ声と同時に視界に人影が入り込む。
     片目の視界は見晴らしが悪く、人影の方へ顔を向ける。

    「織田作……?」

     此処に居る事が予想出来なかった人物の登場に、太宰は驚きに少しだけ目を丸める。
     無表情に僅かな険しさを浮かべて織田作之助は太宰を見ていた。
     傍から見る限りでは、その表情から何かを読み取る事は出来ない。
     だが太宰は、無表情な織田の中は存外様々な思いや考えがある事を知っている。
     此処でその険しい表情の意味を、もしや異能無効が失敗したのかと悟った。
     
    「ッ織田作、中也は?!」
    「隣だ」
    「え……?」

     織田が人差し指を向けた先を見れば、反対側に呑気な寝顔に涎まで付けた中也が居た。
     身なりは埃と血で薄汚れてはいるが目立った外傷はない。
     一瞬でも心配した事に腹が立ち、腹いせに中也の頬をつねる。
     僅かに眉間に皺を寄せる中也に少し満足した。
     周囲は夜のせいで闇に覆われ、遠くまでは見通せない。だが、辺り一面が瓦礫と化している事は歴然だった。
     様変わりしてしまった風景。
     そこで浮かんだ可能性に太宰は心臓が凍る感覚がした。
     常に死を望んでいる太宰に恐怖という感覚は人より鈍い。
     なのに、そのたった一つの可能性に震えが起きる程の恐怖を感じた。

    「……ねぇ、織田作」

     ゆっくり、息をつかないと逃げ場のない恐怖に叫んでしまいそうになる。

    「……私、わかったよ……森さんがあの時、何を云ったのか」

     感覚が戻っていた手を硬く握り締める。
     視線の先には呑気な顔で眠る中也が居る。
     その意味が、森の発した言葉で恐怖へと変貌した。
     脳裏に蘇ったのは森のたった一言だった。

    『私は保険をかける主義でね、何にでも』

     数刻前までは意味がわからなかったその言葉が結びついてしまった。

    「もし、これから先、中也の汚濁を止める事を失敗すればどうなる? ……止める前に私が中也に殺されたらどうなる……?」

     言葉にすれば、その可能性は現実に輪郭を伴っていくようで目の前に居るはずの中也が遠くなる。
     それは、頭部の酷い痛みのせいか、感じた事のない恐怖のせいか。

    「ッ………私は、中也の保険になり続ける事は出来ない。それをこの任務で森さんは確認したかったんだ……」

     絞り出す声が細くなっていく。
     こんな簡単な任務に感じていた違和感の正体。
     森は、この結論を下す為だった。

    「森さんは、中也を、殺す」
    「……そうか」

     静かに、一切の無駄が無い流れるような動作で織田はホルスターから銃を抜いた。
     その銃口が、眠る中也の眉間にぴたりと向けられる。

    「織田作……?」

     その行動が示す意味を太宰は分かっていたが、なぜ織田がそんな行動に出たのか理解が出来ない。
     太宰らしくない間抜けな問いかけが口から出る前に、織田は抑揚のない静かな声で云った。

    「これが、俺が此処に来た理由だ」

     引き金にかかる指が絞られるのが見えた。
     何も考えのないまま、太宰は庇うように中也に覆い被さり抱きしめる。
     おそらく衝撃は一瞬、織田の腕は確かだから痛みもなく殺してくれる。
     太宰はぎゅっと目を閉じ、衝撃に備える。
     だが、覚悟していた衝撃は来なかった。
     代わりに包帯越しの頭部に優しく触れる感覚があった。

    「……?」

     恐る恐る目を開ければ、織田は太宰の負傷した頭部に優しく触れていた。

    「この怪我ではどれほどもつかわからないが、後悔の無いようにしろ、太宰」
    「織田作……?」
    「俺はこの場に間に合わなかった」

     立ち上がりながら、織田は銃をホルスターに仕舞う。
     その動作を呆然と見ていた太宰は、

    「……いいのかい? 森さんの、首領の命令なのだろう……?」
    「今此処に居る俺はただの太宰の友人だ」

     さらっと織田が言い放った言葉に、氷のように蒼白だった太宰の顔に僅かに笑みが浮かぶ。

    「……ただの友人なら仕方ないね」
    「そうだ、仕方ない」

     口元を微かに上げるだけの笑みを織田は返すと太宰に背を向ける。

    「だが、次に間に合えば、その時は」

     決別するかのように向けた背に、太宰は笑みを消しうなづいた。

    「ああ、私達は、裏切り者だ」

     織田が与えた猶予はあまりにも少ない。
     太宰は腕の中の中也を抱きしめ、夜の闇に消える織田の背を見送った。








    *   *   *

     汚濁の反動で眠る中也の頭部を膝に乗せ、太宰は空を仰いだ。
     汚濁で辺り一帯の明かりが一掃されたせいか、今夜はやけに星が見える。
     怪我を負った頭部は丁寧に手当がされているが痛みが引く事はない。
     怪我など日常茶飯事の為、特に何をするでもなく放っておくが痛いのは不快でならない。
     織田が回収したのか、近くにあった黒帽子を太宰は手に取り何気なく眺めた。
     中也がどのような時も常に身につけているその帽子が持つ意味を、太宰はぼんやりと思い出していた。

    「……ねぇ、中也。私は、君が幸せになって欲しいって思ってたなんて、莫迦みたいだろ……」

     無意識に握りしめていた拳に痛みが走り、爪が食い込んでいる事に気づいた。
     緩めて開けば手のひらに僅かに血が滲む。
     ポートマフィアが本気で潰しに来れば太宰の頭脳を持ってしても、中也の異能があったとしても、消される。
     開いた手のひらを握り締める。
     手段を選んでいる余裕は無い。
     痛む頭に思考を妨げられながらでも考えなければならない。
     中也を扶けるたった一つの方法を。

    「ッ……だ、ざい……?」

     意識が戻った中也がぼんやりとした瞳で太宰の影を捉えた。
     その瞳が太宰を映した瞬間。
     音がしそうな程勢いよく起き上がり、

    「手前ッ……生きてやがったのか……!」
    「残念だけどね」

     おどけて云う太宰に中也は気不味そうに視線を外す。

    「ッ……太宰」

     中也の中で葛藤があったのか、既に出ている結論を言葉にする事に躊躇いがあったのか、僅かな間を置いた後。
     硬く拳を握り締め、中也は真っ直ぐに太宰を見た。

    「俺を殺せ」
    「厭だよ」

     冷淡な声が出た。
     それをどう受け取ったのか、中也の顔がこわばる。

    「それで中也は満足かもしれないけど、私はどうなるの? 君を殺した、その事実を抱えて生きろって? 真逆、私が自殺趣味だからすぐに後を追うと思ってるの?」
    「そこまでは……」

     自分の云った言葉の重さに中也は視線を逸らしかけた。

    「……捨てる命なら私に頂戴」

     太宰は衝動的に中也を抱きしめていた。

    「は……?! おい、手前、何を……!」
    「……五月蝿いよ、君のせいで頭痛いのだからね」
    「わ、りぃ……」

     太宰の頭部の包帯に気付いていた中也は起こってしまった事実から目を逸らす事は出来なかった。
     綺麗に巻かれた包帯の下がどれ程の傷なのか、外見からではわからない。
     中也の背中に回した腕に、太宰は力を込める。
     肩にかかる太宰の重みに泣きそうな気配が滲む。
     そのただならぬ様子に流石の中也にも焦りが浮かぶ。
     何を云っていいものかわからないまま、中也も太宰の背中に腕を回していた。

    「……なぁ、太宰」

     太宰の低い体温を感じながら、中也は闇に浮かぶ星へ視線を向ける。

    「俺の命は既に手前のもんなンだよ」

     その言葉を中也は当たり前のように零した。







    *   *   *

     微かに瓦礫が跳ねる音に太宰は腰に差していた銃を抜いた。
     その行動に釣られて中也も警戒し背後を振り返る。

    「姐さん……ッ?!」

     太宰の銃口の先には尾崎紅葉がたたずみ、紅色の番傘の柄を不自然な仕草で握っていた。

    「何故、姐さんが……?」

     臨戦態勢を取った中也はその姿に警戒を解く。
     だが、太宰の銃口が下される事はない。

    「首領の命令が、紅葉の姐さんにまで及んだって事かな」

     太宰は軽口に云うが、緊張感が充満しやけに空気が薄く感じる。
     まるで敵の腹の中に飛び込んだ様な緊迫感。
     太宰の言葉に中也は訝しむ様に紅葉へ視線を向ける。

    「首領の、命令……?」

     柄を握る不自然な仕草は仕込み刀を抜く為の無駄のない構え。
     一度それが抜かれれば、後には一刀の元に斬首された死体が残されるだけ。

    「中也、私もそなたもマフィア故、首領の命令は絶対」

     空気が刃物の様に硬質化した。
     光の無い夜の闇の中、研ぎ澄まされた鈍い光が閃く。
     だが、物理攻撃では中也に致命傷を負わせる事は不可能。
     ただの銃弾では紅葉の異能相手には豆鉄砲にすらならない。
     拮抗する力と異能のせいでとっさに動けずにいると、最初に動いた紅葉が中也に鈍く光を反射する物を放り投げた。
     質量的に爆発物の類いでは無い事はすぐに分かった。
     それは正確に中也の元に飛び、広げた手のひらの上に落ちた。

    「……鍵?」

     何の変哲もない、何処にでもある南京錠の鍵だった、ただ、意味ありげに謎の数字が彫られている。
     何故鍵が渡されたのかわからず、中也はひっくり返したり振ってみたりした。
     だが、やはりただの鍵だった。

    「中也、何してるの?」

     隣で見ていた太宰が若干引き気味に云う。

    「どう見ても鍵だよな……?」

     太宰へ見えるように差し出すと、確認した太宰の顔色が一瞬で変わる。
     紅葉へ視線を向け、

    「何故、この鍵を?」
    「さてのぅ、散歩には目的地があった方が張り合いがあるというものじゃ」

     優美な所作で口元を隠し、紅葉はとぼけた様に笑う。
     中也はその鍵を握り締め、

    「姐さん、どういう事ですか、首領の命令って……」

     とぼけた笑いを引っ込め紅葉は一度目を伏せた。
     事実を全て明かす事は必ずしも得策というわけではない。
     だが、今は、優しい嘘は必要ない。
     目を開いた紅葉は真っ直ぐに中也を見つめ、告げた。

    「首領から、中原中也処分命令がポートマフィア全部隊に通達された」

     告げられた大き過ぎる事態に、中也は体が硬直したような感覚に襲われ、言葉が出なかった。

    「一晩。私が稼げる時間はそれだけじゃ」

     中也の手のひらの中の鍵を指し、紅葉は続ける。

    「私はマフィア故、首領の命令は絶対。じゃが、私とて失いたくないものがある」

     考えが纏まらず硬直している中也に紅葉は近づくと、腰を屈め抱きしめる。
     その優しい匂いはずっと中也を見守ってくれていたもの。

    「中也、死を選ぶな」

     抱きしめる腕は震えていた。
     どれだけ手を伸ばしてもどれだけ腕に力を込めても、命は簡単に溢れていく。
     紅葉はそれを知っている。

    「そなたが死んで、何かが為す事などない。どのような形でもよい、必ず生きよ」
    「姐さん……」

     離れていく温もりに中也の喉に熱い塊が込み上げる。
     込み上げるものが瞳から溢れ出しそうになった時、紅葉はぐりん!と勢いよく太宰へ顔を向ける。

    「太宰!! よいな、必ず中也を守るのじゃぞ!!」

     その勢いに思わず中也の涙が引っ込む。
     太宰はおどけたように、

    「最強の追手が味方になったのに?」
    「本当の最強はまだ間に合っておらんようじゃな」

     含みを持たせたその言葉に、太宰の片眉がわずかに反応した。

    「……姐さんが用意してくれた別荘ならさぞ居心地が良いだろうねぇ、行こう中也」

     誤魔化すように太宰は背を向け歩き出す。

    「あ、おい、太宰!」

     置いていかれまいと焦る中也は紅葉にぺこっとお辞儀をする。

    「いってきます、姐さん」

     紅葉から遠ざかり、追いついた中也に太宰は持っていた帽子を被せた。
     その光景は、明日には失われるものかもしれない。
     ポートマフィアという組織には当たり前の事を、紅葉は願いたくはなかった。
     きっともう二度と見る事は叶わない光景に、紅葉はふわりと笑った。

    「さよならじゃな、中也」








    *   *   *

     果ての無い闇の中、二つの影は歩く。

    「ひとまず姐さんが用意してくれた隠れ家に行こう、それまでに何か対策を……」

     前を歩く太宰の背中を見ながら、中也の脳内にひしめくのは首領の命令だった。
     いつか、こんな日が来る気はしていた。
     中也の異能はあまりにも強い。
     当人すら持て余すその神のような力は、存在しているだけで周囲を損なう。
     先を歩く太宰と今此処に居る事ですら、きっと赦されない。

    「ねぇ中也、聞いてる?」
    「うわぁ?!」

     突然現れた太宰の顔に心臓が飛び出そうになる。

    「その様子だと全く聞いていないようだね、まずは中也の悪趣味なバイクを回収しに行くよ」
    「悪趣味って云うんじゃねぇよ!! 気に入ってンだよ!!」
    「悪趣味以外の何者でもないよ、全く帽子といいバイクといい本当に中也のセンスは悪いねぇ」
    「いいだろ別に!!」

     飄々した態度はいつもと変わらず、太宰の真意が見えない。
     太宰とて、ポートマフィアが一隅。
     首領の命令を、無視出来るはずが無い。

    「……なぁ、太宰」
    「何? バイクが気に入ってるのはもう分かったよ」
    「ちげぇよ! ……何で首領の命令に従わねぇンだ」

     こちらを振り向き、足を止めた太宰は肩をすくめる。

    「中也こそ、首領の命令だからって大人しく死ぬの?」
    「だがもし……俺が手前を、汚濁を止める前に殺したらどうする? 誰も俺を止められねぇ……俺は、死ぬまで暴れる」

     汚濁の余波のせいか、バイクは地面に転がっている状態で見つかった。
     瓦礫の山の中では目立つ色が功を奏したのかもしれない。
     小柄な体躯で大型バイクを起こす中也に太宰は当たり前のように云った。

    「君に私は殺せない」

     その言葉に中也の動きが止まる。
     太宰は中也が支えているのも構わずにバイクの後部に乗る。

    「はぁ……不足の事態とはいえ、私がこんな悪趣味なバイクに乗る日が来るとは……」

     太宰の悪態には付き合わずにバイクに跨るとエンジンを始動させる。

    「適当に掴まれ、落ちるぞ」
    「あ、じゃあ此処にしよう」

     太宰は中也の両目を覆うように顔に手をかける。

    「見えねぇだろうが! いい加減にしやがれ!」

     中也はその手をひっぺがす。

    「全く、場を和ませようという私の心遣いを理解しないのだから」
    「余計な気を回す余裕があるなら結構だなぁ」

     中也はひっぺがした太宰の手を自身の胴体に回し、前でしっかり握らせる。

    「飛ばすぜ、しっかり掴まってろ」

     中也はハンドルを握りしめ、喧しいエンジン音を上げる。
     まるで抱きしめるように回された腕に、太宰は緩めるように口元に笑みを浮かべる。

    「厭だよ」

     腕の中にある小柄な体躯を守るように、太宰は回した腕に力を込めた。










    *   *   *

     鍵の数字を頼りに辿り着いた場所。
     そこはあらゆる法律も権力も不干渉な無法地帯、所謂塵捨て場と云われる所だった。
     その名が示す通りの場所なのだが、足を踏み入れても塵は見当たらず、それどころか動物の鳴き声すら聞こえる平凡な山。
     此処に捨てられた塵は長い年月を経て、勝手に土へと還る。
     整備されていない山道をエンジン音を響かせながら分け入って行くと、一軒の屋敷があった。
     閑静な住宅街にあれば違和感なく収まる程度の大きさなのだが、山中でその屋敷はかなり異彩を放っていた。
     玄関へと乗り付けた中也はそこでエンジンを切る。

    「太宰、此処で合って……」

     後部の太宰を振り返ろうとした時、掴まる為に握られていた手から力が抜ける気配がした。
     同時にどさりと、重量のある物体が落ちる音。

    「太宰!!」

     バイクから崩れるように地面に落ちた太宰を抱き起すと、その様相は出発した時とは一変していた。
     綺麗に巻かれていた頭部の包帯は傷口から溢れた血で赤く染まり、白いシャツまでも所々染めている。
     包帯に隠される事なく露出している顔面からは血の気が失せ、蒼白になっていた。
     その状態を見て、中也は初めて太宰の怪我の程度を知った。
     頭部からのこの出血量では太宰の命が危ない。

    「ッ……太宰、手前……ッ死ぬンじゃねぇ!!」

     屋敷に何か止血が出来る道具があればいいのだが、探してる間も血は流れ続ける。

    「太宰!! 糞ッ!!」

     此処で叫んでいても状況は好転しない。
     太宰を抱き上げると、生きている人のものとは思えない体温に足元から恐怖が迫り上がってくる。
     豪奢な玄関ノブは無骨な鎖で雁字搦めにされ、ちゃちな南京錠が申し訳程度に付いていた。
     中也相手では紅葉の渡した鍵はその意味を成していなかった。
     異能を使うまでもない、ただの蹴りで玄関ドアは鎖ごと破壊され、招かれざる客に来訪を許した。

     埃が舞う屋敷内はしんと静まり返り何の気配もない。
     手入れも掃除もしていないのか、部屋中に埃が溜まり空気が黴臭い。
     屋敷内の惨状には見向きもせず、中也は一番近くにあった部屋のドアを開けた。
     そこは居間として使用する為に設計したのか、壁には暖炉と明かり取りの大きな窓があるだけだった。
     埃が溜まる床に太宰を寝かせるわけにもいかず、何か無いかと周囲を見渡す。
     だが、調度品の類いは一切取り払わていた。
     仕方なく上着を脱ぎ、床に広げると太宰をその上に横たえる。
     上も下もかなりはみ出してしまうが他にない。
     溢れ続ける赤い染みが、広がっていくのを止めようと中也が包帯に手をかけた時、

    「ッ……放っておいて、いいよ」
    「太宰! 着いたぜ!」
    「今それ云うの? 分かってるよ……」

     失血の為か、太宰の口調は緩慢で動作は鈍い。
     太宰は露出している片方だけの目を動かし、確認出来る範囲だけで部屋中を眺める。
     暖炉が占める割合に対して、調度品が一切無い殺風景な部屋は退廃的で物悲しい。
     その部屋を唯一照らすのは大きな窓から入り込む月明かりだけ。
     弱い月光に照らされ舞う埃を眺めていると、窓に一瞬、小さな影が過った。
     見落としてしまいそうな数秒、だが、太宰の目は確かにそれを捉えた。
     思わず、ふふっと笑みが出てしまう。
     太宰の様子には気づかず、じわりと床に広がっていく血に、中也は傷の状態ばかり気にしていた。

    「太宰、とりあえず止血しねぇと」
    「止血するにも道具がないもの、無理だよ。それより見つけないと」
    「何を……」

     太宰は頭部の痛みを堪えながら体を起こす。

    「中也を扶ける方法をだよ」

     包帯が吸いきれなくなった血が、太宰の白いシャツに溢れる。
     まるで太宰の命が溢れているような色をしていた。
     そんな姿の太宰を見ていられず、中也は苦しみに顔を歪める。

    「俺の事はいいンだよ!! 手前が扶かる方法を考えやがれ!!」

     自分の命を顧みない、その辺の石ころと同等とでもいうかの太宰の態度が気に入らない。

    「俺の命をくれってンなら、手前の命も守りやがれ!! 糞太宰!!」

     感情のままに叫ぶと、目からぼろっと熱いものがあふれ、溢れ落ちた。
     一度溢れればもう止められなかった。
     次々にボロボロと流れ出し、床の埃と混ざる。

    「何とか云え、糞ッ!!」

     呆然としている太宰は意外なものを見たように驚きに目を丸くし、中途半端に中也に手を伸ばす。
     何故泣くのか、理解が出来ない。

    「中也は、私に死んで欲しくないの……?」
    「あぁ?! そういう話をしてンじゃねぇのかよ?!」

     服の袖で乱暴に涙を拭う中也に、太宰は何処かむず痒いような感情が込み上げてきた。
     中也は、こんな時ですら太宰の身を案じてくれている、その事実に口元が笑みに緩む。

    「……なら仕方ない、どうやら、私は生きないといけないようだね」

     血に染まり、染み付いた包帯を太宰は解いていく。

    「あぁ? 当然だろ、今死なれちゃ寝覚めがわりぃンだよ、て何してんだ」
    「止血だよ、このままでは死んでしまうからね」

     包帯を取り去った頭部には血で髪の毛が張り付き、傷口はよくわからない。

    「ガーゼの代わりになるようなもの……」

     周辺を見渡さずとも、この部屋には最初から何も無い。
     突然、中也は服の裾を勢いよく裂いた。

    「これでどうだ」
    「君って偶にワイルドだよね……」
    「つべこべ云ってねぇで押さえやがれ」

     荒い口調とは対照的に労わる手つきで中也は傷口に布を当てる。
     不思議と痛みが和らいだ気がして、太宰の目が少しだけ見開かれる。

    「こんなんでいいのかよ」

     心配そうに顔を覗く中也に太宰はぽつりと云った。

    「……最高の応急処置かもしれないね」

     しばらく患部を押さえていると、出血は抑えらているようだった。
     体力を酷く消耗したせいか、太宰は中也によりかかり目を閉じている。
     呼吸をする音は静かな為、寝入ってしまったのかもしれない。
     中也は一つ、息を吐き出した。
     窓から見える月に目を向けると少しだけ一人になりたくなる。
     患部から手を離しても出血をしない事を確認して、中也は太宰を横たえる。
     安らかに寝息をたてている姿に中也は顔を歪める。
     生きている体温を確認したくて太宰の青白い頬に触れる。

    「太宰……」

     常から死ねと思っていたのに、今は生きて欲しいと切実に願う。
     溢れそうに込み上げる気持ちの名前がわからず、中也は触れていた頬からそっと手を離す。
     続く言葉は何も云わず、部屋を後にした。






    *   *   *

     遠ざかる靴音に、太宰は閉じていた目をゆっくりと開き、上体を起こす。
     さっき中也が触れた頬に手をあてる。
     氷のように冷たいそこに僅かに温もりが残っている気がして、拳を握り締める。
     絶対に、失わない。

     太宰は弱い月明かりが入り込む大きな窓を見上げた。
     先程確かに見た小さな影。
     そのしなやかな体躯は何処へでも登り、何処へでも入り込む。
     そして、その知恵は遥か先の未来すら見通す。
     月光を背に受けて、その影は太宰を見ていた。
     彼が動く時、それはこれから先を大きく左右する転換期。
     此処にいるのは偶然などでは無い。
     なら、たった一つの可能性に縋るしかない。
     他の何を差し出しても構わない。
     唯一のものを失わない為なら。

    「こんばんわ、“先生”」

     太宰の言葉に小さな影はその愛らしい大きな丸い瞳を、老獪に細めた。

     





    *   *   *

     中也が屋敷から外に出た時、世界はまだ闇の中にあった。
     このまま永遠に朝など来ないのではないかと、都合のいい勘違いをしてしまいたいくらいの、深い闇の中。
     忘れられたようにひっそりと立つ墓標があった。
     この山に捨てられたものに墓は無いはず、と近づくと石碑に刻まれた名は削れ朽ちて判別出来なくなっていた。
     相当な年月が経った事がわかる墓にはもう、見舞う者は誰も居ないのだろう。
     名も知らぬその墓の前にしゃがみ、独り手を合わせる。

    「わりぃな、何も持ってねぇンだ」

     埃と血に塗れ、破れた服を纏う自分の姿に笑いが込み上げる。

    「行く処も宛てもねぇ……まるで本当の迷い犬だな……」

     聞く者がいない独白に心の内の言葉が溢れた。

    「なぁ……俺はどうすればいい、何が正解なんだ……」

     呼ぶ名を持たない、静寂なる者へ独り問い掛ける。

    「どうすれば太宰を扶けられる……」

     その言葉を溢した時、一つの閃きに戦慄が走った。
     何も難しい事はない、単純だった。
     ポートマフィアに戻る、それだけでいい。
     逃げる必要も隠れる必要もない。
     中原中也を処分する。
     それが首領の命令だと云うなら正面切って乗り込めばいい。
     早くしなければ太宰の命がもたない。
     急いで転がったままだったバイクの所まで行くと、世界は迎える朝に薄く染まりかけていた。
     夜明け前独特の静謐な空気が広がっていく。
     紅葉がくれた一晩の終わりが近い。
     
     転がっていたバイクを起こすと、側には太宰から溢れた血が地面に赤黒い染みを残していた。
     ポートマフィアに戻った中也に待ち受けるもの。
     それは、手厚い歓迎ではないだろう。
     鉛玉一発で楽になれるとも限らない。
     自らが居たからこそ、骨身に染み付いている。
     どれほど非道で残虐な事を厭わない組織かを。
     それでも、逃げるという選択肢は無い。
     世界中の苦痛と後悔を集めても、太宰の命を失うという現実に敵うものはない。
     
    「手前がいねぇ世界なんざ、糞くらえなンだよ」
     
     ポートマフィアへ戻る為に足を踏み出しかけた
    時、枝を踏み締めた音が静かな空気に響いた。
     殺しのプロがそんなヘマをするはずがない。
     気付かせる為にわざと出した。
     だが、その目的がわからず、中也はバイクから手を離し、音がした方へ向くと臨戦態勢をとる。

    「時間だ、中原中也」

     上りかけた太陽を背に、織田は死者を迎える先導のように静かに立っていた。







    *   *   *

    「そう、時間だ」

     屋敷の玄関口から静かな声がした。
     その声に中也と織田は同時に顔を向ける。
     明るくなり始めた世界。
     そのせいで夜の影に隠れていた太宰の姿がはっきりと映し出される。
     半身を赤黒く染め、人形のように色を失った肌の太宰は、壁に体を預け、かろうじて立っていた。
     足元の床にはぽつぽつと赤いまだら模様が作られている。
     血は、止まってなどいなかった。
     痛々しい姿に中也は泣きそうに顔を歪める。

    「太宰……」

     名を呼ばれ、太宰はちらりと中也へ視線を向ける。
     血で汚れた蓬髪のせいで隠れてしまっている顔に、太宰は微かな笑みを浮かべた。
     何処か、諦めたようなその笑みに中也の瞳が揺れる。
     駄目だ。
     太宰が本当に死んでしまうと直感が告げる。

     中也に向けた笑みを消し、太宰は織田に向き直る。
     
    「やぁ、織田作」

     壁によりかかる姿から、もう扶かる見込みは無いとはっきりわかる。
     臓器から迫り上がる血を口元に流しながら、太宰はそれでも声を出す。

    「君のお陰で、私は後悔せずに済みそうだ」
    「太宰……」

     織田が与えた猶予はあまりにも短かった。
     だが、それ以上に太宰の命はもう、もちそうになかった。

    「ありがとう、織田作。ただの友人で居てくれて」

     ニコッと笑った太宰の気配に中也は心臓を鷲掴みにされたような恐怖に襲われた。

    「ッ太宰!! 駄目だ!!」
    「さよならだ、中也」

     腰に差した銃を太宰が抜くのと、コンマ一秒の差もなく織田がホルスターから銃を抜き、太宰に向ける音が重なる。
     発砲音は一発、静かな森に響いた。
     





    「ッ……!」

     胸部に受けた衝撃に、痛みが来るより先に喉から込み上げ、中也は血を吐いた。
     硝煙を上げるのは一発の発砲音を発した太宰の銃口。
     太宰の銃弾は正確に致命傷を撃ち抜き、中也はくず折れるように地面に倒れた。
     何が起きたのか、理解が出来ない織田は太宰に向けた銃を下ろす事も忘れ目を見開く。

    「何故……」

     太宰は役目を終えた銃から手を離す。
     その重さが床に転がる音が響く。
     ようやく、銃を下ろした織田へ太宰は笑みを張り付けたまま答えた。

    「だって、中也の命は私のものだもの」

     重症を負った体に限界がきた太宰は、最早壁に寄りかかってすら立っていられず地面に倒れる。
     その光景は中也の霞んでいく視界にはっきりと映った。
     最初から、誰も扶ける事なんて出来なかった。
     神と見紛う程の力を持っていても、唯一の命ですら失う。
     失いたくなくて、動かない手を伸ばして名を口にしようとする。
     ゴボッ……と血の泡が込み上げ、微かな音にすらならない。
     塗りつぶされていくように狭まっていく視界が最期に映したのは、
     
     





    *   *   *

    「此方織田。首領、任務完了しました」

     夢から覚めるように、闇に沈んでいた森がゆっくりと白日に晒されていく。

     携帯を仕舞い、その光景をしばらく眺めていた織田は再び夜の世界に戻る為に山に背を向け歩き出した。

     塵捨て場。
     その山に二体の塵が増えた日。
     いつもと変わらない日常を迎えるように、夜が明ける。


     











    「はい、此方武装探偵社」

     電話応対をした国木田独歩は丁寧な云い回しで相手の要件を伺った。
     いつもと変わらない一見穏やかに感じる空気が流れる事務所内。
     皆が仕事の為にパソコンに齧り付いている中で一人、江戸川乱歩は特等席で駄菓子を頬張り続けている。

    「はい、では、失礼します」

     受話器を置いた国木田に、医学書を読んでいた与謝野晶子が視線を上げる。

    「電話の内容、何だって?」

     国木田が云うより先に、乱歩が一息早く答える。

    「人喰い虎探しでも依頼されたんじゃないのー」
    「そう、ですが。乱歩さん、ご存知でしたか」
    「だって、ここ最近人喰い虎の目撃情報が五月蝿い程飛び交っているんだもの、そろそろうちに来る頃なんじゃないって思っただぁけ」

     大きな飴玉を一口で頬張る。
     医学書から仕事の依頼へ興味が移った与謝野は開いていたページに栞を挟み、机に置く。

    「人喰い虎? また物騒な話だねぇ、食われない程度に怪我して来な、妾が治してやるよ」

     医務室を親指でくいっと指す与謝野に国木田の顔が若干青ざめる。
     これまでの治療が走馬灯のように駆け巡るのを振り払うように、国木田は話を逸らす。

    「それが、中々厄介な相手らしく軍警も手に負えないと……我が社としてもなんとかしたい所なのですが……」
    「あの二人に任せればいいんじゃない」

     お気に入りのスナック菓子を開封し、乱歩は云う。
     机の上は駄菓子の塵で散乱し放題と化している。
     乱歩の云うあの二人、とはどの二人の事か察しがついた与謝野は、残念と云うようにため息を零した。

    「ああ、あの二人かい。まぁ、荒事は得意だからねぇ、なら今回は妾の出番は無しかねぇ」

     興味は再び医学書に戻り、栞を挟んだページを開く。

    「なら直ぐに向かってくれ……と、太宰と中原はどうした」

     国木田は件の二人の姿を探して事務所を見渡すが、何処にも見当たらない。
     お菓子のフルコースの〆にラムネを開けた乱歩はいい飲みっぷりの後、

    「ぷはぁ、こっそり出掛けた太宰に呼び出されてたよ、中也君」
    「ッ……!! また太宰のせいか、あの唐変木が!!」

     キレながら電話の釦を国木田は押す。
     どうせ太宰は川を流れていて、携帯も財布も流されただろう。
     迷う事なく中也の携帯の番号へかけた。






     先程までは隣を歩いていた。
     今は川へ真っ逆さまに落ちた相棒にブチギレた状態で、懐から鳴り出した携帯へ応答する。

    「はい、此方中原!!」

     電話の向こうの国木田もキレ気味な事に若干冷静になる。
     よくわからないが、向こうでも太宰にキレているらしい。
     苦労するなお互い、と労いの気持ちで仕事の連絡を聞いていた。

    「人喰い虎だぁ? なンだよ、動物の躾なら任せておけよ」

     久しぶりの荒事に中也は物騒な笑みを浮かべる。
     云っておくが、殺すなよ!! と忠告を受け、通話は一方的に切れた。

    「ったく、心配性なんだよ国木田は。もうマフィアじゃねぇンだから……て、あ! 糞太宰!!」

     気の向くまま川を流れていく太宰の両足を見つけた中也は今度こそ見失ってたまるか、と走り出す。
     早いとこ人喰い虎を捉える仕事に向かわなければ、国木田のやかましい説教をくらう羽目になる。

    「何で自殺趣味は治んねぇンだよ!!」

     叫びながら、流れる両足を掴まえる為に川に飛び込む。
     溺れているのかどういう状態なのか、不明な太宰の首根っこを掴んでなんとか岸に辿り着く。
     ずぶ濡れになったせいで蓬髪が顔に張り付きちょっとしたホラー映像になっている。

    「おい、太宰。仕事だ」

     ぐりっと勢いよくこちらに動いた首に、中也はびくっと驚く。

    「君はいつもいつも自殺の邪魔をしてくれるねぇ、全く何の恨みがあって……」
    「残念だったな、俺は手前を死なせねぇって決めてんだよ」

     にやりと笑う中也に太宰はああ、そう。と頭を掻いて視線を背ける。

    「全く、君も大概物好きだよねぇ」

     太宰はよいしょ、と立ち上がる。

    「それで、仕事って?」
    「人喰い虎を捉えよ、だとよ。此処らで目撃情報があったらしい」
    「ふぅん……」

     全くやる気が無いのか、空を見上げた太宰は急に何かを思いつき、中也へ顔を向ける。

    「ねぇ、中也」
    「あ? 何だよ」

     周囲を見渡していた中也は呼ばれて振り向く。
     その身に纏う服に黒は無い。

    「何であの時、撃たれたの?」

     あれから四年が経っていた。
     互いに、元マフィアというのは探偵社には伏せていた。
     自然とマフィアだった時の事を話す機会も無かったし、話したい事などなかった。
     ポートマフィアだった二人は、あの日確かに死んだ。

     だがあの日、蜘蛛の糸のように細い可能性に賭けて、太宰は中也を撃った。
     事前に打ち合わせがあった訳では無い、確実に太宰は致命傷を狙い、中也は抵抗せずに撃たれた。
     本気で、中也を殺そうとした。

     振り向いた中也は一瞬、何の事かわからず、ぽかんとした後、すぐに口元を笑みに歪めた。

     意識が途切れる寸前に見えたのは、必死の形相で駆け付けた与謝野の姿だった。
     そのお陰で、重体になりながらも死にはしなかった。
     現に、中也の胸部にその時の銃痕は無い。
     だが、そうなる事を中也は扶かるまで知るよしもなかった。
     本当に、死んでしまったかもしれないのに。
     
     太宰の側まで歩いて来た中也は両手で太宰の頬を包む。
     あの日触れた時とは違う、生きている温もりに、中也はこの決断が正解だったと確信出来る。

    「云っただろ」

     頬を挟まれたまま、眉根を寄せて首を傾げる太宰に、中也は、心の底からの笑みを向ける。

    「俺の命は既に手前のものだってな」
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