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    saku

    太中メインで小説を書いています。

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    POIPOI 29

    saku

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    pixivの再掲

    #太中
    dazanaka

    最期のサヨナラを。 …………。
     ……何でもいい。
     些細な事で構わない。
     奴になら、必ず届く。

     中也は一度、込み上げる不快感に血を吐いた。
     安直な行動だったと後悔しても遅い。

     霞む視界の中、力が入らなくなった手で懐から携帯端末を取り出す。
     自身から溢れる血で本体の半分が汚れた端末を滑り落とさないように握り締め、薄れそうになる意識の中、浮かんだ番号を押す。
     呼び出し音を聞きながら、迷わずその番号を押した事に何の疑問も抱かなかった。

     もどかしく、数回の呼び出し音の後、

    『……はぁい?』

     呑気にもとれる太宰の声がした。
     その一言以外は何の音もしない。
     何処に居るのか知らないが、これなら中也の声も聞こえるだろう。

     応答した事に無意識に安堵し、中也は荒い呼吸に阻害されながらも声を絞り出す。

    「……だ、ざい」
    『中也?』

     自身では精一杯出したと思った声は掠れ、ほとんど音にはなっていなかった。
     こちらの異変など知らない太宰は平時と変わらない声で名を呼ぶ。
      
    「ッ……」

     その声に、助けを求めていた自分が異質な気がして、中也は言葉を止めた。
     当然のようにこの番号に架電していた事に気付いて、中也はそれ以上、何を云っていいかわからなくなった。
     
     震える喉からは荒い息だけが漏れる。
     それは、太宰にも端末を通して聞こえているはず。
     
    『中也? 何があっ……』

     太宰の言葉を待たず、中也は通話を切った。
     それで異変が起きた事は完全に知られてしまっただろう。
     だが、どのようなものかまではバレていないはず。

     通話が切れた端末を地面に投げ出し、中也は込み上げる嗚咽に血を吐いた。
     自身がつけたとはいえ、出血させる為につけた体中の傷は容赦なく体力を奪う。

    「ッ……」

     薄れゆく視界の中に、赤黒い汚れがついた端末が仄かに光っているのだけが見えた。

     暗いこの場ではその小さな明かりにすら縋りたくなり、衝動的に切ってしまった事を少しだけ悔やんだ。

     あまりにも普通に太宰が出るから、縋るつもりなど無いのに、勘違いをしてしまいたくなる。

     中也は何処にもやり場のない悔しさに地面を殴りつけた。
     血を吸った手袋は不快な音を立てるだけで何の力にもならない。
     それが、最後の抵抗だったかのように突然中也の意識は途切れた。
     
     微かに、望んだ人の声が自身を呼んだ気がした。


     







     端末を通して繋がった向こう側を注意深く聞いていたせいで、突然通信が切れた音に、太宰は端末を耳から離し眉間に皺を寄せた。
     一方的に切られた端末を無言で睨んでいたが、馬鹿馬鹿しくなり懐に仕舞う。

     自殺に良さそうな場所を探し求めてふらふらと夜道を散歩していた最中、知った番号から架電があった。

     中也からなんて、滅多に無い。
     むしろ、まだこの番号にかけてくる事に、太宰は説明のつかない妙な気持ちが湧いた。

    「……さすが、私の犬って事かな」

     その気持ちを誤魔化すように呟いて、太宰は明かりの届かない路地へ視線を向けた。

     ビルとビルの間のデッドスペース。
     都会にはこういう淀みが発生し易い。

     不自然な中也からの架電。
     背後に聞こえた音を頼りに街を歩けば、信号機が発する音、車のエンジンの加減速音、人の量と声の大きさ、全てが該当するのがこの路地付近だった。

     注意深く歩を進めれば、暗がりに人影があった。

    「中也? いきなりかけて来た挙句に切るなんて、全くいい度胸……」

     どうも様子がおかしい。
     近付くにつれて状況が判明して来た。
     暗がりにいる人物の側には、明暗のせいで濃い影が落ちているのかと思った。
     だがそれは、溢れ出た血だった。

    「ッ中也!!」

     太宰は慌てて駆け寄り、地面に伏せる中也を抱き起こす。
     僅かな呻き声に、少し安堵の息を漏らす。
     
     良かった、生きてる。

     見れば、顔面が蒼白になっている中也から溢れる血が、全身を覆う黒装束を更に不快に赤黒く染めていた。
     服の上からではどれ程の傷かはわからないが、軽いものではない事だけはわかる。
     中也ほどの実力を持つ者が、こんな状態に陥るなど考えられなかった。

     濃い闇が沈殿している周囲へ素早く視線を向けても、特に何かが気に止まる事は無い。

     此処には、何も残ってはいない。

    「ッ……」
      
     太宰の腕の中で中也は小さく呻いた。
     それに気付き中也へ視線を落とすと、蒼白の顔は苦悶に歪んでいた。

     太宰は得も云われぬ感情を押し殺すように、中也を抱く腕の力を微かに強める。
     選り好みをしている場合ではない。
     溜息にもならないほどの息を吐き、懐から取り出した端末に忌々しい番号を打ち込んだ。

     使っているかは不明だが、抹消もしていないだろう。
     スピーカーからは無機質な呼び出し音が鳴る。
     声すら聞きたくはないはずが、こんなにもどかしい気持ちになったのは初めてだった。
     
     抱く腕に、無意識に力が入っていた事に気付いて太宰は僅かに緩める。

    『太宰くん?』

     その時、繋がった向こう側から森の声がした。
     
    『この番号にかけて来るとは、余程の事かな』

     常に余裕を装う声に、太宰は舌打ちが出そうになる。
     だが、今はそんな事に時間を使う暇はない。
     耳は森に向けていたが、意識はずっと中也に向いていた。 

     手遅れになる前に。

    「……緊急事態ですから、貴方に恩を売るのは悪くないと思ったんですよ、森さん」
     









    *   *   *

     ……眩しい。
     そう感じて、太宰は目を開けた。

     いつの間に寝ていたのか、暗かった窓からは朝日が入り込んでいた。
     上体を起こせば、無理な姿勢で寝ていたせいで体の節々が痛んだ。
     ほぐすように腕を伸ばし立ち上がる。
     待合に使用している長椅子は寝るのには向いていない。

     肩を揉みながら診察室へ行けば、森が此方に気付いて顔を向けた。

    「おや、おはよう、太宰くん」

     全体的には寂れた診療所、という印象だった。

     太宰は既にポートマフィアでは無い。
     中也の手当てという名目とはいえポートマフィア本部を我が者顔で歩くわけにはいかない。 
     そこで連絡をとった森は昔使っていたこの診療所に中也を運ぶ事を提案した。
     使用されてはいないが手入れは怠っていない様だった。
     古いが、埃は無く黴臭くもない。

     森はいつもの首領然とした服装ではなく、町医者風なくたびれた白衣姿だった。
     懐かしいその光景に、太宰は少しだけ居心地が悪い気がした。
     太宰は誰かを探すように視線を森から逸らす。

    「……中也は」
    「挨拶をされたら挨拶を返すのが常識というものだよ」
    「中也は」

     森の言葉を無視して、太宰は森を睨む。
     やれやれというように森は椅子から立ち上がり、太宰が通れる分だけカーテンを開けた。

     中には質素な寝台が一台置かれていた。
     決して寝心地は良く無いだろうそこに、顔以外の見える範囲の皮膚を包帯に覆われた中也が寝ていた。
     寝顔は穏やかで顔色も悪くない。
     
     その様子に太宰は細く息を吐く。

    「太宰くん、中也くんを見つけた状況を教えて貰えるかね」

     背後からの森の言葉に、太宰は振り返らず中也を見つめたまま、

    「……森さんが知りたい事を私は何一つ知りませんよ。中也を見つけた時には……全てが片付いた後でしたから」

     森はその答えに納得していないのか、僅かな衣擦れと椅子に腰を下ろす音がした。

    「中也くんの傷の原因を聞いても、同じ事が云えるかね?」
    「原因? 中也を負傷させるほどの異能者でも居たと云うつもりですか?」

     太宰は訝しみ、視線を森へ向けていた。

    「体中の無数にある傷は、中也くんが自身の異能でつけたものだよ。内側から、負荷をかけて裂いている。何故、そんな事をしたのか、中也くんを保護した太宰くんなら何か知っているかと思ってね」
    「別に保護したわけじゃありません……」

     ふいっと森から視線を逸らし、再び中也を見る。
     今は安らかな寝息をたてている姿が、脳裏にある血塗れの中也と重なる。

     何故、体中に傷を作る必要があったのか。
     中也からの不自然に切られた架電を思い出し、握っていた拳に力を込める。
     だがその時、引っかかる物に気付いた。

    「森さん、中也を手当てする前まで着ていた服は?」
    「服? 酷い有様だったから処分したよ」

     首を傾げる森に構わず、太宰は記憶の中の光景から思い当たる物を探る。
     その際、無意識に中也が寝ている寝台に腰を下ろした。

     当たり前にとった行動に森は困ったよう眉根を寄せ、診察に使用している椅子を差しながら、

    「太宰くん、此方の椅子に座りなさい。それでは中也くんの体の負担になる」
    「……え?」

     思考に没頭していた太宰が不快そうに森を見る。

    「また立つんですか? 面倒だから此処でいいですよ」

     森は溜息を吐き、それ以上はやめた。

    「……森さん、中也の持ち物まで処分してはいないでしょ?」

     何かを思案しながら、太宰は問う。

    「荷物はそこに纏めておいたよ。着替えも必要かと思って一緒に置いてある」

     森が指した方を見れば、眠る中也の足元付近に置かれた棚に新品の服と汚れた外套、黒帽子が置いてあった。

     太宰はそれらを無言のまま物色する。

    「何か探しているのかね?」

     森の言葉に、太宰は手を止めた。

    「……携帯ですよ」

     太宰が物色した事で乱れた中也の荷物はそのままに、太宰は森へ顔を向け、

    「私があの場に居合わせたのは、中也から架電があったからです」

     何処まで話すべきか、太宰は視線を中也に向け、

    「おそらく、犯人か、居る場所か……何かを伝えようとしたんでしょうね。けど、切られたんですよ、一方的に。だから、私は何も知らないんです」

     溜息を吐いて、太宰は頭を掻く。

     頼るなら、中途半端な事は勘弁して欲しかった。
     頼らないなら、電話などかけて来なければ良かった。
     訳も分からずイラつく太宰に、森が、

    「中也くんが持っている携帯には何も登録されていないはずだが? 履歴も残してはいないだろうね」

     答えないまま中也を見つめる太宰に、森は溜息を吐き、

    「真相はどうあれ、中也くんが襲われたというならポートマフィアに仇なすという事だからね。早急に対処をするが、太宰くんはどうする?」
    「……私?」

     意外な事のように太宰は呆けた顔を森へ向ける。
     
    「中也くんが架電した相手が君だというのなら、そこに何か意味はあったんだろうね。このままで済ますつもりかね?」

     太宰は視線を俯け、床を見つめる。
     古びたリノリウムの床は年季により少し汚れていた。
     
    「……私は、何もしませんよ。ポートマフィアの人間ではないし、まして、敵対組織の人間ですよ。そちらの事はそちらに任せますよ」
    「ならせめて、中也くんが意識を取り戻すまでは側に居てあげなさい」
    「え」

     反論をしようと顔を上げた太宰の言葉を聞く前に、森は診察室を退出してしまった。
     その背を追いかけても無駄だろう。
     敵対組織の人間に、負傷して意識の無い構成員、それも幹部を預けるなど。

     森にはわかってしまっている気がして、それが更に太宰の気持ちを掻き乱す。

     ポートマフィアとは余計な関わりを持つつもりはない。
     そう思っても、状況はそれを許さないとばかりに、太宰を古巣へと引き摺り込む。
     太宰は逃れられそうにない状況に頭を掻くと、中也へ視線を向ける。

     安らかな寝息を立てている中也の身に何が起きたのか、太宰に架電して何を望んでいるのか。

     太宰はその綺麗な白い頬に手を伸ばす。

    「……何故、私に電話なんてしたの……」

     触れた頬は温かく、その温もりに触れた時に湧いた気持ちに、太宰は奥歯を噛み締めた。








     
     何をするでもなく椅子に腰掛け、微睡み始めていた太宰の顔面を急な衝撃が襲った。

    「ッ?!」

     半分眠りこけていた為、反応が出来なかった。
     椅子ごと真横に倒れ、派手な音が響く。

     体勢を立て直す暇も無く、衝撃を受けた顔に痛みが襲って来るより早く、打撃を与えた人物は太宰に乗り上げ、首を締め上げ始める。

    「ッ……ちゅ、うや……!!」

     太宰に馬乗りになり首を締め上げているのは、先程まで安らかな寝息を立てていた中也だった。
     
     締め上げる指に抵抗しようと腕を握るが、元々筋力の差がある上に相手は容赦なく殺そうとしている。
     
    「ッ……の、バカ、ぢからがッ!!」

     圧迫されていく気道に脳が痺れていく。
     死ぬのは本望だが、中也の手で殺されるのは御免だった。

     太宰はガラ空きになっている中也の腹に、思いっきり蹴りを入れる。
     僅かな呻き声を上げ、中也の小柄な体が後方にふっ飛び、壁に激突する。

    「ガハッ……ゴホッ……」

     急に気道に入り込んで来た空気に咽せ、涙目になりながら体を起こす。

     呼吸を無理矢理整え立ち上がると、床に突っ伏したままの中也を見る。
     何故急に襲って来たのか、理由が判明せず警戒しながら中也との距離を詰める。
     先程の取っ組み合いのせいで中也の体に巻かれた包帯は所々ほつれ、床に広がっていた。

    「……中也」

     確認するように名を呼べば、反応するように僅かに身動いだ。

    「ッ……いってぇ……」

     蹴られた腹が痛むのか、体中の傷に触るのか、顔を顰めながら中也はむくりと起き上がる。
     そして、真っ先に目の前にいる人物に気付いた。

    「……あ? 何だよ、何で手前が……」
     
     云いかけて、何かが思い当たったのか中也は一度言葉を止めた。

    「……否、何でもねぇ」
    「何でもなくないでしょ」

     壁に当たった衝撃で傷口が開いたのか、中也の体を覆う包帯が僅かに赤く滲み出す。
     側まで来た太宰に少し驚きながら、顔を上げる。

    「……何だよ」
    「それ、こっちの台詞なのだけど」

     中也の側にしゃがみ込み、腕を伸ばすと自然な動作で中也に肩を貸し、立ち上がる。

    「ッ?!」
    「怪我人がいつまでも床の上に座っててどうするの?」

     咄嗟に抵抗しようとしたが、体中の傷が発する痛みに呻くと諦め、体を太宰に預けた。
     乱雑な状態になった寝台に中也を座らせ、棚から包帯とガーゼを取り出し、無造作に寝台に放った。

    「手当てくらい出来るでしょ」
    「鋏は」

     引き出しから医療用の鋏を取り出し、手渡す。
     中也はそれを受け取りながら、

    「……此処、手前の息が掛かった診療所か?」
    「は? あのねぇ、零細企業の一社員がそんな真似出来ると思うかい?」

     呆れながら中也に目をやると、片手で包帯を巻く事に苦戦していた。
     腕に当ててはするりと落ち、また当ててはするりと落ちる。
     流石に苛ついた。

    「もう、貸して!」
    「あ?! 何しやがる」
    「いつまでも進まないのだよ!」

     慣れた手付きで中也の細いが筋肉のついた腕に包帯を巻いていく。
     
    「此処は森さんの診療所だよ」
    「首領の……?」

     太宰の言葉に、中也は太宰の手元から視線を上げ、あまり広くも綺麗でもない診察室を眺める。
     全体的に古臭く、打ち捨てられたような空気が漂っている。

    「今は使われていないよ」

     包帯を巻く手を止めないまま太宰は云う。

    「私はもうマフィアではないし、ちびっこ幹部の手当てとはいえ、部外者が本部をうろつくわけにはいかないでしょ。だから、森さんの提案で仕方なく此処に運んだのだよ」

     はい、終わり。と太宰は巻き終わった中也の腕を叩く。
     緩くもきつくもない感覚に、中也は素直に感心する。
     包帯とは無縁の中也なら兎に角ガチガチに巻いていた。

    「……手前が、運んだのか」
    「誰かさんが泣きながら電話して来るからねぇ」

     寝台の上に鋏を放り、太宰は云う。

    「ッ……泣いてねぇだろ」

     一瞬、太宰を睨むが、直ぐに視線を逸らし、

    「……何であの場所がわかった……否、手前にそんな事を聞くのは無駄だな」

     太宰なら何の手掛かりも無い処でも突き止めるだろう。
     自身の問いかけに中也は頭を掻く。
     その腕を、太宰は掴んだ。
     驚きに顔を上げれば、暗く真っ直ぐな太宰の瞳とかち合う。
     纏う空気が張り詰め、あり得ないはずなのに吸う空気が重い。

     先程までの飄々とした雰囲気を消した太宰が、

    「中也、森さんは既に動いてる。昨夜の事だ、何があった?」
    「首領が、動いてるって……」
    「幹部への襲撃だよ? ポートマフィアに喧嘩を売ったも同然だ」

     太宰の言葉に、中也は素直に自白する気にはなれず視線を外す。 
     掴まれる腕を緩く払うと、思いの外太宰はあっさりと離した。

     寝台から立ち上がる中也を、太宰は視線で追い掛ける。
     その視線を意識しながらも、中也は棚の上にある新品の服と何故かひっくり返したような状態の薄汚れた外套を手に取ろうとした。
     それを太宰は上から押さえつけた。

    「ッおい!」
    「君が大怪我するのなんてどうでもいいよ。ただね、君に殺されるのは勘弁して欲しくてね」
    「あ? どういう意味だ」

     中也が向けた視線の先には、いつものように太宰の首に巻かれた包帯があった。
     だがそれは、不恰好に緩んでいた。

    「中也が意識を取り戻した時、何かおかしいと思わなかった?」
    「……ッ」

     確かに不自然だとわかっていた。
     だが、何かを問えばボロが出てしまう気がして避けていた。
     言葉に詰まる中也の代わりのよりに、太宰は話す。

    「私、君に襲われたのだよ。中也は、本気で私を殺そうとしていた」

     太宰は中也の包帯が巻かれた両腕をとり、その手を自身の首に回す。

    「こうやって、ね」

     悪ふざけのような冗談には受け取れなかった。
     太宰の首を絞めた記憶などない。
     なのに、その感触は鮮明に手に残っている。

    「ッ……やめろ」

     中也は振り解くようにその手を離す。

    「おや、君は私を殺したいのでしょ?」

     人を嘲笑うかのような笑みを貼り付けた太宰を、中也は睨む。 
     その笑みのせいで、本気なのか嫌がらせなのかわからなくなる。
     中也は視線を逸らし、

    「……着替える」
    「どうぞ」
    「着替えるって云ってンだよ」
    「だから、どうぞって」
    「出て行けって意味だよ!! 放浪者バカボンド!!」

     太宰の手の下になっている服を取り上げると、追い出すように太宰をカーテンの外へ蹴り出した。
     壊れそうな勢いで締められたカーテンに、太宰は溜息を吐いた。

    「やれやれ、扶けてあげたというのに礼もないなんて……」

     僅かの躊躇もなく開けたカーテンの向こうはもぬけの殻になっていた。
     開け放たれたままになっている窓から、少しだけ冷えた風が入り込み太宰の蓬髪を揺らす。

    「……ほんっと、あの蛞蝓は」

     いつだって一人で背負い、一人で解決しようとする。
     どれだけ手を差し伸べても、それを握る処か、気付きもしない。

     太宰は掴んだままのカーテンを握り締め、既に姿が無い人物を睨んだ。

    「……だから、大嫌いなんだよ」











     
    *   *   *

     じんわりと包帯に滲む血と体中に広がる痛みに、中也は忌々し気に舌打ちをする。

     新品のはずの服には既に所々赤い染みが浮き上がり、それを隠すように外套を握り締める。
     明る過ぎる日差しも、中也の状態が普通じゃない事を照らし出してしまう。
     黒帽子を目深に被り、ふらつきそうになる脚に鞭打って出来るだけ平静を装う。

     歩く街はまだ然程人出は無かった。
     曜日感覚がいまいちはっきりしない日常の為、失念していたが世間は休日なのだろう。

     明るい街並みとは真逆の、闇に沈んだ昨夜の事が中也の脳裏にこびりついていた。
     自身の失態が招いた事態は自身で片をつける。

     静かな街並みを眺めながら、太宰に架電した事を少しだけ悔いた。

     失血による判断の低下のせいなのか、どんな状況に陥ろうとも太宰なら現状を覆してくれると信じているのか。

     痛みに歯を食いしばりながら、そんな事を考えた自身に腹が立つ。
     太宰はもうポートマフィアでも、まして相棒でも無い。
     中也を助ける理由などない。

     昨夜の対峙した異能力者に対して、此方はほとんど何の手掛かりも情報もない。
     望みは薄いが、襲撃を受けた路地へ中也は向かう。
     
     その間、太宰が云っていた不可解な事を反芻していた。
     中也が太宰の首を絞め本気で殺そうとした、らしい。
     生憎、本気で死ねと思うが首を絞めた記憶は無い。
     だが、手には何故かその感触が残っている気がして気持ちが悪い。

     中也の意志を無視して、この体は勝手に太宰を襲ったという事になるなら。

    「……ックソ忌々しい」

     何もかもに苛ついた。
     腹いせに壁を殴れば、ぶつけた腕の傷口が開き、赤い汚れが増えただけだった。

     その赤を見て、中也は押しやられていた映像が脳裏に蘇り、目を見開く。

     中也が血を抜くために自身の異能で内側から体中の皮膚を裂いた瞬間、その場に飛び散った血は二人分だった。
     痛みと失血に判然としなかったが、間違いない。
     対峙した敵の異能者も、中也と同じ傷を負っている。

     急に蘇ってきた映像のせいで、繋がった。

     目的の路地に足を踏み入れても、そこには何も残ってはいなかった。

     その事実に、中也は口元だけを笑みに歪める。
     此れで、奴に辿り着ける。

     路地に背を向けると、通りに面した歩道に忘れられたようにぽつりと立つ電話ボックスがあった。
     中也は中に入り、受話器を取り上げる。
     数枚の硬貨を入れ、よく知った番号を迷いなく押す。

     数回の呼び出し音が途切れた事に、向こうが応答したとわかった。
     だが、何も返答はない。
     背後には街の雑踏がスピーカーを通して聞こえて来る。

     返答は無いが、相手は聞いている。
     
     中也は口元の笑みを更に深め、戦線布告するように告げた。

    「よぉ、調子はどうよ、中原中也さん?」










     

    *   *   *
     
     もぬけの殻になったベッドには何の意味もない。
     太宰は苛つきに乱暴にカーテンを閉めた。

     中也が何をしようとしているのは簡単に予想がつく。
     一人で片をつけようとしている。

     寝台に背を向けると、懐から取り出した端末に番号を打ち込む。
     キッチリ2回鳴った呼び出し音の後、向こうで受話器を取った人物の声が答えた。
     太宰は額面通りの言葉を鵜呑みにしてくれる同僚に、此れでもかと云うくらい都合のいい嘘を盛り込み、電話口に目的の人を呼んだ。
     
     しばらくして、低く落ち着いた声が応答する。
     流石の太宰も、その人にだけは巫山戯た態度を取る事などせず、事の真実のみを告げる。
     その上で、何を要求したいのか伝えようとして、一瞬、言葉に詰まった。

     私情で必死になっている自身に気がついて、それ以上は、弁舌を振るえなかった。
     込み上げそうになる何かに声が詰まりそうになり、浮かんだのは、ただの一言。

    「……扶けたい人が、居るんです」

     それだけしか言葉にならなかった。

     その言葉の重みを、武装探偵社が何を目的として結成された組織なのかを、確認するまでもなく電話口の人物は是と返答した。

     こんな自身を受け入れてくれた器量と、何を優先するべきかを直ぐに判断出来る決断力に、太宰は震えそうになる声を抑え、

    「……有難う御座います、社長」

     心からの誠意を込めて伝え、通話を終えた。

     要件を終えれば、懐に端末を仕舞う暇すら惜しく、太宰は手に握ったまま走り出す。

     中也が倒れていた路地には、犯人に繋がるような手掛かりは無かった。
     不気味な程に、何も存在してはいなかった。
     だが、僅かな可能性を求めて中也は襲撃された路地に向かっただろう。
     
     あの怪我だ、走れば追いつけるはず。
     
     危惧する事があるとすれば、中也にだけ知り得る何かがあり、それにより太宰の知らぬ処で犯人に接触される事だ。

    「ッ……あの、莫迦……!」

     考えうる全てを纏めても、犯人像が結びつかない。
     何か、たった一つの何かが欠けている。

     目前に、昨夜中也を見つけた路地が見えた。

    「中也ッ!」

     もし、最悪の事態になっているのなら、身を盾にしても止めるつもりだった。
     どうせ異能は自身の異能で無効化される。

     だが、飛び込んだ路地には人の姿は無く、暗く澱んだ空気が停滞しているだけだった。

     他に中也が向かいそうな場所など考えられなかった。
     やはり、欠けた何かは中也だけが知っている。
     
     込み上げる不快感に奥歯を噛み締めた時、手の中の端末が鳴った。

     探偵社の誰かが連絡をつけようとしたのか、と当たりをつけ画面を見た太宰は目を見開いた。

     その番号は昨夜、太宰の端末を鳴らした番号だった。
     診療所で中也の外套をひっくり返しても出て来なかった携帯端末。
     そこからの架電。
     
     もし今、この端末を持つ者がこの電波の先に居るのなら、そいつが、そいつこそが。
     
     太宰は誘われるように、通話釦を押した。












    *   *   *

    「いい処だろ」

     潮風に赭色の髪を揺らす人物へ、中也は気軽に声を掛けた。

     東京湾を眺める港に、双子かと見紛うほどに同じ容姿をした人物が対峙する。
     他に人の姿は無く、波の音だけが辺りを包む静けさがある。

     一方は黒帽子に黒外套。闇を纏っているかのような人物。
     もう一方は、明るい髪色を覆う帽子は無く、服もごくありふれた特徴のない物を身に纏っている人物。
     共通しているのは、所々斑らに染まる赤だった。

     対峙した人物は何を云うでもなく、同じ色の瞳で中也を見返す。
     それに中也は複雑そうな表情で頭を掻く。

    「にしても、自分と全く同じ奴が居るってのも変な感じだな」

     一定の距離を保ち、二人は向かい合う。
     まるで、鏡を見ているようだった。

    「呼び出して悪かったな、一応、ポートマフィアの幹部なんでね、やられっぱなしってわけにもいかねぇンだよ」

     中也と瓜二つの人物は中也の足元に何かを放った。 
     見ればそれは本体が赤黒く汚れた、無くしたはずの端末だった。

     一目見てわかるほどに破壊され、何を確かめようとしても無駄な状態だった。
     元々何も入っていない端末に、未練はない。
     中也はそれを重力を乗せた脚で踏み付け、粉々にした。

    「……手前の目的は、太宰を殺す事、だったな?」

     手に残る、太宰の首を絞めた時の感触に中也は拳を握る。
     その僅かな動きで痛みが走る。
     平静を装うようにしているが、服を染める血までは誤魔化しが出来ない。
     誤魔化すまでもなく、対峙する互いの怪我は同じだった。

    「寝込みを襲おうとでもしたみたいだが残念だったな」

     話している間にも、開いた傷口から溢れた血が雨粒が地面を濡らすように互いの足元にのみ落ちる。
     何も云わずただ中也を見返す人物に、中也は皮肉気に笑う。
     中也の体力が底を尽きれば、それはそのまま自身に跳ね返る。
     此処で長話に付き合う理由が、何かあるとでも云うように。

    「相手を殴れば自身が傷つき、自身が怪我をすれば相手の傷になる。便利なようで、厄介な異能だな」

     地面を染める赤は増えていく一方だが、まだ動きは無い。

    「此処で手前を殺して片をつけても、それはそのまま自身の死ってわけだ。太宰の無効化を知った上で俺を狙ったってわけかよ」
    「……“双黒”」
    「あ? 声まで同じとは」

     中也ほどの抑揚はなくとも、発せられる声はよく知ったそれだった。

    「何から何まで写し取ってるなンざ、気味悪ぃな」

     昨夜、死角から近付いた知った顔に油断し、中也は小さな傷を負った。
     それが、今対峙する人物が中也の姿を写しとる前に成り変わっていた部下だと知らずに。
     傷事態は小さなものだったが、相手の狙いは負傷させる事ではなく、自身の血を中也の体内に入れる事だった。
     
     血を媒介に、相手の姿を写し取る。
     咄嗟に血を抜こうと自身の異能で傷を作ったが、それにより、異能力者本人にもその傷が出来てしまった。
     地面に増えていく血は、二人分だった。

    「……僕の狙いは、かつて、そう、呼ばれていた、二人だ。……太宰治、中原中也」

     全身の傷口による失血と痛みを堪えているのか、言葉は途切れ途切れだった。
     中也の姿をした人物は腰に差していた銃を抜き、自身の米神に突きつける。
     ゴツ、と固い鉄が当たる感触が中也にも伝わる。
     それだけで、本物だとわかった。

    「あ? それで上手くいかなかったから今度は自殺ってわけかよ」
    「……僕の頭を、撃ち抜いたら、あんたも死ぬ。心中、の、間違いだろ」

     引き金に掛かる指に力が加わっていく。
     中也の姿を写し取っている以上、頭を撃ち抜けば、それはそのまま中也にも返って来る。

    「……くだらねぇな、こっちは手前勝手な理由に巻き込まれて苛ついてンだ、それで片がつくってンなら、頭なんかいっそ吹っ飛ばせよ」

     冗談のような中也の言葉だったが、その瞳は真剣だった。
     本気で、頭を撃ち抜く事を覚悟している。
     
     その気配に、銃を持つ人物は一瞬たじろぐ。
     だが、何を敵にしようとしていたのか。
     覚悟が出来ているだろう相手も怯まずに、引き金に当てる指に力を込める。

    「……わかった」

     中也と同じ顔に、中也なら浮かべる事の無い笑みを貼り付け、

    「サヨナラだ、中原中也」

     掛かる指が引き金を引くのを、中也は目を逸らす事なく見つめていた。

     響いた発砲音の後、その手にある銃が何かの衝撃を受けて吹っ飛んで行く様まで、しっかり見ていた。

    「ッ?!」
    「いって!」

     銃を吹っ飛ばされた人物は何が起きたのか分からず、銃の行方を視線で追った。
     同じだけの衝撃を受けた中也は銃を吹っ飛ばした原因が居る先へ視線を向ける。

    「ッの、いてぇだろが!! 下手糞!!」
    「あのねぇ、銃なんて四年ぶりに使ったのだよ? 上手い方でしょ」

     そこには、硝煙を上げる銃を携えた太宰が立っていた。

    「ッ太宰、治……!」
    「おや、本当に中也にそっくり。というか、最早本物だね、態々異能を使ってちびっこになるなんて、君も物好きだねぇ」

     銃口を向けたまま、太宰は云う。
     その飄々とした態度に手にある銃は浮いていた。

    「お招き有難う、と云っておこうかな」

     太宰は銃を持つ手とは反対側の手で端末を掲げる。

    「中也の携帯で最後に架電したのが私なら、履歴に残っていたのは私の番号だけだったろうね。それで? 私を呼び出して、中也と殺し合いでもさせるつもりかい?」

     太宰の銃口を真っ直ぐに受け、そいつは笑った。

    「……そうだな……そうして、貰おう」

     笑いながら、自身の首に自身の手を回す。

    「中原中也……太宰治を、殺せ。出来なければ、このまま、僕の首を……絞める」

     その言葉が脅しであるかは確認するまでもなく、中也の首には締まる感覚が確かに伝わる。
     気を失う程では無いが、締まる気道のせいで息がしづらい。

    「ッ……巫山戯、やがって……」

     吐きそうな眩暈に耐えながら、中也は自身と同じ姿の人物を睨む。
     先程から足元に落ちる失血もそろそろ限界だった。

     そこへ、太宰が銃を持ったまま中也に歩み寄った。
     
    「はい」

     グリップを中也に向ける。

    「……あ?」
    「しつこいくらいに云ってたものねぇ、死なすって。今なら殺されてあげるよ」

     締まる気道に脳が酸欠状態になる。
     太宰が云っている意味を、正しく把握出来ているのかわからない。
     
     例え、今この瞬間、太宰の無効化を相手に使おうとしても、中也の首がへし折られる方が先だろう。
     
     中也は荒い呼吸を必死に止めないように繰り返し、太宰の手にある銃のグリップを握った。

    「まぁ、死ぬにはいい日なんじゃない?」

     晴天の元、爽やかな風が流れる。
     その風に揺れる蓬髪を眺め、中也は笑った。

    「確かに、悪かねぇな」

     太宰から銃を受け取る。
     よく知った重みに一瞬だけ、眉間に皺を寄せる。
     数グラムの銃など、中也にとってはさしたる重さではない筈だが、手の中の物はやたら重く感じた。

     自身よりも二十センチは高い人物の眉間に、その銃口を当てる。

     太宰は薄ら笑いを浮かべたまま何も云わない。
     引き金を引くだけで、簡単に死ぬ。
     それなのに……。

     引き金にかける指が、微かに震えていた。
     失血で力が入らないのか、酸欠で意識が朦朧としているせいなのか。
     それでも、中也は引き金にかける指に力を込める。

    「……サヨナラだ、太宰」
    「最後のお別れだね、中也」

     にこり、と太宰は笑った。

     引き金を握る指が押し込まれる。
     発砲音が耳を裂く未来を予想した。
     
     だが、

     グチャ、と臓器を潰したような不気味な音がした。

     同時に、中也の口から多量の血が溢れる。
     首から締まる感覚が消えるのを感じ、中也は口元に笑みを作った。

    「……此れで、終いだ」

     手の中の銃が玩具の様に地面にころがる音がする。

     心臓を潰してから、脳が死ぬまで数分。
     その間に中也が感じたのは、誰かに抱き止められる感覚だけだった。



     














    *   *   *

     目を開ければ、まるで時間が戻ったかのような錯覚を覚える場所だった。
     微かに薬品の匂いが漂い、辺りを照らすのは蛍光灯の優しい灯り。
     それだけが記憶と違った。
     
     カーテンが開け放たれたままの窓の外は闇に沈み、小さな明かりだけが点在していた。
     
    「おや、お目覚めかい?」

     その声に、中也は体を起こす。
     窓の反対側には森が、町医者風な佇まいで椅子に腰掛けていた。

    「首領……すみません、俺の不始末で……」
    「否、私自身の責任でもあるよ」

     頭を下げる中也を気遣うように、森は首を振る。
     組織内に敵が入り込んでいたのに、のさばらせた挙句に、今回の事が起きてしまった。

     森は掛けていた椅子から立ち上がり、

    「怪我は太宰くんの配慮で治してある。だが、しばらく休むといい、今回の事を踏まえてこれから忙しくなるからね」
    「はい……」

     あまり長話をする事なく、森は早々に退室した。
     本格的な事は此処を出てからという事だろう。

     退室する森に頭を下げ、中也は見送った。

     その背がドアの向こうに消えると、中也は再び視線を外へ向ける。

     その闇は、自身に起きた事を彷彿とさせる。
     する筈のない血の味が口内に広がる気がして、異能で潰した心臓付近の服を握り締める。
     あの瞬間の感覚がまだ鮮明に残り、僅かに不快感があった。

     その時、静かな診療所の診察室に、壁を通して声が聞こえた。
     相手の言葉は判別出来ないが、大声で不満を云ってるのは太宰だろう。
     
    「あ! ちょっと、中也!!」
    「あ? 何だよ喧しい」

     無遠慮にドアを開けて太宰が叫ぶ。

    「今回の一番の功労者は私なのだよ?! だのに、森さんが一番美味しい処を持っていくなんて! 全く、私がどれだけの苦労をしたと……」

     ずかずかと中也が座る寝台に近付き、さも当然のようにそこに腰掛ける。
     太宰の重みに寝台がそちら側に沈む。

    「私が社に戻ってあれやこれやの理由を捏造して報告している間に、君ってば目を覚ましてしまうんだもの!! この体力莫迦!」
    「凄い難癖つけるな手前……」

     ぷりぷりと腕を組んで怒る太宰に、中也は口にしようとした言葉をどう発したらいいのか迷い、視線を俯ける。

     そんな中也の様子に気付いたのか、太宰は腕は組んだまま首を傾げ中也を窺う。

     しばし生まれた沈黙に、中也は伝えようとした言葉を口にした。

    「……悪かったな、扶かった」

     呟く程の声だったが、静かな診察室に他は音は無く、その声は確かに太宰の耳に届いた。

     どうせ揶揄われるだろうと、すぐに誤魔化そうと顔を上げれば、太宰は少しだけ目を見開き意外そうな顔をしていた。

     変に揶揄われないのが気不味くなり、中也は太宰から視線を逸らす。

    「……殺しそこねたな、手前の事」

     何も云い返さない太宰に、その場の空気に耐えられなくなり中也が零すと、正面から体を包まれるように抱き締められた。

    「ッ?!?! な、なン……」

     驚きに咄嗟に太宰の体を離そうとした時、

    「いいよ」

     太宰の声がすぐ近く、耳元で聞こえた。
     
     抱き締められる腕は痛いくらいの力が込められていたが、その腕の中の感覚に中也は引き剥がそうとしていた手を止めた。

     はっきりと意識がある時にその温もりを感じたのは久しぶりだった。
     
    「一番最初に頼ったのが私だったから、許してあげる」

     その言葉に、迷わず太宰に架電した時の事を思い出した。

     体中の痛みと失血で朦朧とし、突然の事態で混乱する頭の中に、真っ先に浮かんだ番号。

     きっと、頼れる処も扶けてくれる人も他に居た。
     だが、あの瞬間、太宰なら必ずわかってくれると直感が告げた。

     中也は太宰を引き剥がそうとして止めたままでいた手で、代わりに砂色の外套を握った。
     どれだけ絶望的な状況に陥ろうとも、こいつなら必ず、と信じて間違いは無かった。

     中也は喉に込み上げそうになる塊に、目元が熱くなり、それが溢れてしまわないように太宰の胸に頭を預ける。

     その後頭部を、大きな手が触れる。

     礼を、云わなければいけないのはわかっていた。
     中也を救う為に、かなりの無茶をした筈だ。
     現に、心臓を潰した人間が全快するなど、方法は一つしかない。

     それでも、それを告げてしまえば堪えたものが溢れてしまいそうで。
     太宰の胸に頭を預けたまま云えた言葉は一言だけだった。

    「……莫迦野郎」
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