ユートピア「そうそう。そうやって最初ちょっと強火で表面を軽く炙って、カリッとしたらひっくり返す」
歌うように解説する獅子神の声を背景に、村雨の手元のフライパンから、ぱちぱちと音を立てて紅色の肉が焼けていく。危なっかしい手つきでようよう肉を返すその眼差しは鋭くまさに真剣そのものだ。
フライ返しの先から、ぼて、と零れた肉の断面は、しっかりとフライパンに受け止められ、じゅう、と香ばしい音を立てた。
「ん。出来たじゃん。そしたらそのまま、今度はなるべく触らずに火ぃ弱めて、そのまま蓋してちょい蒸し焼き」
「……ちょい、とはどの程度だ?」
「肉の表面がカラメル色になってから、二分から三分。火力や肉の厚さにもよるけど、この厚さなら2分半でミディアムレア、ウェルダンにしたければ3分半だな」
家用で見栄えに拘らないなら、中心に菜箸刺して肉汁が透明になったら食べ頃。火の通ってない肉は肉汁が白くなるから、そこで判断な。気ぃつけろよ、下手したら食中毒だから。
そう言って肉に菜箸を突き立てて見せた獅子神の、からかうような笑みを思い出す。
アンタ、結構食い意地張ってるからなあ。火ぃ通ってなくても食べちまいそう。
あの男はそう言って、唇をにぃ、と楽しげに釣り上げて悪戯っぽく笑っていたものだ。
村雨はその度に「なるほどわからん。やはりあなたが焼け」と一瞬で匙を投げて、獅子神にその後の全てを押し付け、肉が美味しく焼けるのを待っていれば良かった。
獅子神は「途中で投げ出すなよな」と困ったように笑いながら、それでもその空色の瞳がちっとも困ってなんかいなかったのを、よく覚えている。憎まれ口を立てながら、甘えかかる村雨をあの人は、いつも笑いながら見ていた。
何だかんだ言って、頼られることが好きな人だった。
選手交代した獅子神の手元で、慣れた手つきで仕上げられる表面にカリカリの焼き色がついた香ばしいステーキ。肉の種類や部位によって焼き時間を変えていて、村雨はそれを全て隣で見て記憶していたけれど、偶に気まぐれで村雨が実践してみても、結局彼の隣で再現なんて出来なかった。それぐらい、彼のステーキは美味かった。
村雨の手元で、肉は理想の焼き時間をとうに過ぎ、表面が焦げ付いてしまっている。
蓋をして蒸し焼きにしてみれば焦げは更にひろがり、一部はすっかり黒くなっていた。
村雨は淡々とその黒焦げた塊肉を焼き続け、途中で菜箸を突き、火が通っていることを確認してから、大きな皿を取り出し、そこに移した。黒い焦げの欠片一つ残さずフライ返しでかき集めるようにして肉をすっかり皿に移してから、ナイフとフォークを突き立てて食べ始めた。
焼きすぎた肉は硬く苦く、もともとの肉質も相まってか筋ばっていて、獅子神の焼いてくれた肉のようには食べやすくは無かった。
村雨は奥歯を使って硬い肉を噛みちぎり、すり潰すようにして、ただ食べた。
ひとつ残らず全部綺麗に食べつくしてしまうと、村雨は無言で両手を合わせてから皿を洗い、フライパンや食器を洗い、片付けをした。
部屋の隅にある巨大な冷蔵庫には、まだいっぱいに肉が詰め込まれている。その全てを村雨は自分ひとりで平らげることを決めている。全ての肉が尽きるまで、食事のメニューはずっと肉ばかりだ。獅子神はよく肉料理に合わせるソースを自作していたけれど、しかしその作り方を村雨は知らない。村雨のステーキは、塩と胡椒で何となく味をつけただけのシンプルさだった。あの男のことだから、聞けばきっと快く教えてくれたのだろうが、村雨はソースの作り方を聞くことは無かった。その必要はないと思っていた。
獅子神敬一は、もうここにはいない。
幸福のチケットを求めて、一昨日ワンヘッドに行ってしまった。村雨は獅子神と愛し合う仲だったけれど、村雨の愛情は彼を繋ぎ止めはしなかった。
愛しても愛しても、いつも何処か途方に暮れて困り果てているような、優しいひとだった。村雨は誰かを幸福にする術に長けていない。村雨は化け物だから、幸福の意味も愛情の意味も、つい最近学びはじめたばかりだ。村雨とともに生きる未来は、彼を満たさなかった。
獅子神は彼自身の幸福をずっと追い求め続けていた。その心の寂しさを、ひとりで埋められないままで。
ふと、二回目のお好み焼きパーティをした日の獅子神を思い出した。仲間たちに強請られて、彼は追加の品を拵えていた。村雨はいつものように獅子神の隣で出来たての品をひとつふたつぱく付き、その対価に品を運ぶ手伝いをした。
追加の料理を盛った皿を手に仲間たちのいるリビングに向かう途中、馬鹿どもが意味もない大騒ぎをしている声が響いていた。
日差しが底抜けに明るく、特に空調を効かせなくても暖かく、暑くもない日だった。リビングには青い空がいっぱいに覗いていた。
それを見ていた獅子神は一瞬足をとめ、唐突に目を大きく見開いた。「……何だよ、こういうことかよ」と、あの日彼はひとりでそう呟いて、そうして少し泣きそうな顔をし、結局泣きだすこともなく、照れたように笑っていた。少しばつが悪そうで、晴れやかな顔だった。
その顔を見て、ああ彼は幸福のチケットの行先に辿り着いたのだなと思った。
彼の求める幸せは、この場所にちゃんとあるのだと。そう思っていた。
幸福の場所を見つけた後も、獅子神の歩みは止まらなかった。
けれど彼はその先に辿り着いたはずだ。あんなにも必死で獅子神が歩き続けたその先が、彼の一番の幸福に繋がっていないわけがない。間違いなく、獅子神は幸福になるためにあそこに行ったのだ。
幸福のチケットの向こう側で、彼は笑っているに違いない。
村雨は、肉を食べた。
彼は化け物だったから、獅子神のただひとつ遺していったそれを、腹におさめて自身の糧とすることに躊躇いを持たなかった。筋張った肉を食み、飲み下し、獅子神の細胞を自身の中に取り込み、これから先の一生を一緒に生きる。
村雨は化け物だから、獅子神敬一のいない世界で、もはやひとりで生きることなど出来なかった。
冷蔵庫には、肉がいっぱいに詰め込まれている。
村雨はそれを全部ひとりで平らげて、その後は旅にでも出るつもりだ。
村雨の家はがらんとしていた。
来月には立ち退きを決めている。
村雨礼二を世間の常識から守り庇護していた家は、がらんどうになってからも村雨が夜毎あげる苦悶の声を外に漏らしはしなかった。
しかしそれも、もう終わりだ。
獅子神を連れて、旅に出よう。
何処か、世界中を適当に回って、結局行くことは無かった新婚旅行と洒落こもう。
その内獅子神の探していたチケットの行き先に、辿り着いたりもするかもしれない。
獅子神は南にご執心だったけれど、彼の読みは甘いところがあるから、案外身近な東か、それとも西や北の方にあったりするかもしれない。
一緒にゆっくり世界を周り、旅をして。
そうしたらその果てで、いつか幸福の場所で笑う彼の面影を見つけることもあるかもしれない。
そして、いつかそこに辿り着いたら、その時はもう、何も考えずにゆっくりと眠るのだ。その日がただ、待ち遠しい。
冷蔵庫には、まだ肉が詰まっている。
明日も明後日も、村雨は肉を食べるだろう。
いつか気まぐれで獅子神に教わった、あまり上手くはない焼き方で。