帯化(仮) 嵐の音がする。締まり切った窓ガラスがガタガタと揺れ、屋根や地面を無数に叩きつける夥しい量の水の音が、引っ切り無しに耳に届いた。時折ビカビカと光る雷が、部屋の中をまばらに照らす。
耳障りなほどうるさいのに、ゾッとするほど静かな夜だった。ヒースクリフはそれが、嵐の前の静けさだと知っていた。もうすでに嵐の中にいるのに、そう思っていた。
大切なことをふたつ忘れた。
ひとつは、自分が証明できるもの。復讐を誓った武器の、塗り替えた言葉の意味が、自分の寄る辺だった。
もうひとつ。
もうひとつ、あったはずだ。
本棚の中で本がひとつ抜き去られていたとする。自分はその本棚を初めて見た。そして、そこに一冊分の間がある。そこにある本の名前を、果たして当てられる人はいるのだろうか。そういうものだった。“無い”と言うことがわかっても、それが何なのかはわからないのだろう。
大切なものがひとつでいいと言えるほど、潔くないつもりだ。なのに、今はそれでもいいかと思っている自分がいた。無くしたものは本だったのだろうか。それとも落丁だったのか。
ひどく収まりの悪い気持ちになって、ヒースクリフはひとつ息を吐いた。風と雨の音がする。窓が揺れる。稲妻が薄いガラス一枚を裂いて、部屋の中を照らす。
嵐の最中に邸宅を思い出した。薄暗い室内と、色を照らすランプの灯。稲光のように激しさがないそれは、忘れたものに近い気がした。
赤い炎と時計の音。暖炉の前に立った小汚い浮浪児の惨めな気持ち。それとは別の安心感を覚えるそれ。
本当は今すぐベッドから飛び起きて、部屋を荒らしまわって、それでも無理ならここから出て探し回りたいぐらい、居ても立っても居られない気持ちだった。焦っていた。大切なものが手からこぼれ落ちていく感覚は、本当に心の底から不快だったから。
それでも、そう。飛び出してしまったら、すれ違って出会えなくなってしまう。そう思うと動けない。
それは確かに大切で、必要で、無いといけないものだった。赤い炎とチクタクなる時計。赤い──
無くしたのはなんだったのか。いつか、無くしたことさえ思い出せなくなる。だとしたら、それは“それだけ”のことになってしまうのだろうか。
嵐がやってきていた。
ごく自然に瞼が開く、静かで穏やかな目覚めだった。
ゾッとして、心臓が跳ねる。飛び起きて、走り回りたい気持ちを抑える。枕元のバットには、刻み直した言葉がちゃんと書かれていた。
「──ダンテ」
ああ、なぜ忘れたのだろう。名前を言えたことに安堵して、夢が夢じゃない保証がどこにも無いことに気がついた。
同時に、絶対夢だとも思う。少なくともあの管理人は、囚人を見捨てることはしないから。まだキャサリンを取り戻せていないヒースクリフを置いていくわけがない。それは、他の囚人にも言えることだが。
ベッドから起き上がり、バットを持つ。ずしりとした重さがある。慣れ親しんだ重さだ。
今日の不寝番もダンテだったはず。会いに行こうと思えたから、迷いなく部屋を出た。
無性に時計の音が恋しかった。