極性反転の夢 ギィィ、ギィィ──。
そんな悲鳴にも似た音が、静謐な室内を満たしている。どこまでも響く鯨の鳴き声みたいに、あるいは棺桶を運ぶ渡船のように。
ここは海の上だ。ひとつ、またひとつと波に揺られるたび、自身を粉々にするほどの衝撃が襲ってくる、大湖の。だから部屋はギィギィと耳障りな音を立てている。そうじゃないと、ここでは自分を保てないから。
自分の長い、でもあまり手入れはされていない髪が、白いシーツの上に広がっていくのが見える。
夕焼けのようだ、と称されたそれは、この薄暗い部屋では、元の明るさは見る影もない。でも一部だけ、それこそ眩いばかりに輝いているのは、何もイシュメールの髪が光っているわけじゃない。
自身が組み敷いた管理人の時計から漏れた炎が、煌々と辺りを照らしている。灯台みたいだ。
どうしてそんなことをしているのか。イシュメールはどこか朧げな意識のまま、自身への問いかけを反駁した。答えは見つからない。ただ、漠然とした“そうしなければならない”と言う意識に突き動かされている。
窓の外から波の音がする。ひとつ、またひとつとそれが積み重なるたび、流し込まれる不安感に気が狂いそうだった。
ダンテは自身の上に乗った女を、無言のままじっと見つめている。イシュメールはダンテの目がどこにあるかはわからなかったが──何しろ時計頭なので──それでも、この人が自分を見つめているだろうことだけは理解していた。
だっていつもそうだったでしょう。イシュメールの衝動の前に立ちはだかって、それでいいのかと問いかけるのは、この記憶喪失で時計頭の管理人だ。
はっ。得体の知れない緊張感のようなものが喉に張り付いて息が詰まる感覚に、息を短く吐く。その音が嘲笑のようにも部屋に響いて、耳の内側をぐわんと揺らした。
苛立ちに似た焦燥が、ずっと続いている。バクバク響く心音は、きっと誰にも聞こえていない。押し込むようにして寝台に倒れ込み、自身の下へ伏せているダンテにもわからないだろう。きっと。
管理人の肩に左手を添える。
相手が動かないようにするために。でも、体重はかけないように、膝立ちのまま。ギィギィと軋む木材の音は、部屋からではなく寝台からしている。
死体を乗せた船のような音だ。
波に打ち据えられるような感覚。明滅。眩暈。
あるいは白昼夢のような、薄ぼんやりとした靄が頭の中を覆っている心地が、ずっと続いている。いつからかは、わからない。
ダンテはきっと、こんなイシュメールにおとなしく身を預けるような人じゃない。わかっているのに、なぜ自分はこんなことを?
右手に持った銛の先が震える。
突き刺せば終わるぞ。そう、ずっと誰かに囁かれている。
だってイシュメールはそのために、こうして管理人の部屋を訪れたはずなのに。抵抗しなければ殺せるのに、抵抗しろと強く思っている。その矛盾に頭痛すらしてきた。
「──いいんですか、ダンテ、」
私は、あなたの胸を貫けてしまうのだぞ。
動けないように抑えつけているのに、なぜ今更そんなことを情けなくも吐くのだろう。
わずかに震えた声が、自分の抵抗感を表しているようだ。
徐々に息が荒くなる。酸素が滞って、脳に靄がかかって、きゅぅと視界が狭まる。動悸が耳元で鳴り続けている。鯨の心臓を貫く前を思い出した。
なぜ自分はこんなことをしているのだろう。ダンテが抵抗してくれればいいのに。無駄だとしても、わずかに身じろぎをして、またいつかみたいに自分を止めてくれれば──
左手が押さえつけている人物の抵抗を伝えてきた。抵抗と言うには弱々しい身じろぎだったけれど、それは目の前に垂らされた糸のようにすら感じて、イシュメールは表情の読めない時計の頭を見る。
「は──」
右手に感じる誰かの肉体の感覚が、これほどまでに不快に感じたことはない。
手袋越しの、温もりすら感じられないそれ。目の前の管理人の左手は、たしかにイシュメールの右手に重ねられ、ブレブレだった銛の先をひとつに定めた。
まるで、いつもの戦闘時の指示みたいに。
まるで、イシュメールの羅針盤みたいに。
いつもはおしゃべりな時計頭は、今に限って何も言わない。さざめきのような針の音ひとつ。
息を吐く。ひとつ、沈んでいく。
いや、沈めているのだ。鋭く尖った銛の先端が、迷うことなく導かれ、ダンテの心臓へ向かって──
そして、いつか幻視した最悪の光景みたいに、心臓から血が吹き出した。
悲鳴に似た呼吸音と、強烈な拒否感で目が覚める。
やっと終わるぞ。そう囁く誰かの声と、胸の内から湧き出る筆舌しがたい歓喜の感情。吐き気がする。先ほどまで見ていた生々しい光景の、延長線上に自分が立っているみたいだ。
反射的に身体を起こして、思わず自身の手を見た。わずかに震える指先に、銛は握られていないし、血液も付着してはない。
喉の奥の引き攣れたような違和感と、いつまでも整い切らない息に嫌気がさして、そのまま立てた膝に顔を埋める。
紛うことなき悪夢だった。そして、幸運なことに、イシュメールはあれが現実ではないと断言できた。
そう。あれが現実なわけがない。そして、ダンテがあんなことを許容するはずがない。わかっている。わかりきっていることを、脳内で何度も何度も言い募るのは、自分の確信を疑念だと思っているようで、どこか気分が悪かった。
ふらり。足に力を入れて立ち上がる。遠く波の音がする個室から出て、イシュメールの足は迷いなくバスの車内──今は船室と言った方がいいのか──へ向かった。
それは、確信に満ちた足取りだったけど、同時に少し焦りを感じさせる速さでもあった。この扉の先に、不寝番の管理人が居るはずだ。いつも通り、赤い時計を燃え上がらさせて。
悪い考えを振り払うように、短く息を吐き、扉に手をかけた。