この日だけの約束を地獄のプリニー教育係という仕事は閑職で、万年人手など不足しっぱなしだ。
激務に追われる中、ヴァルバトーゼはふとカレンダーに目をやった。
「……もう、こんな時期か」
「…?閣下、どうされました?」
「いや、何でもない。気にするな」
「………」
呟いた言葉に、フェンリッヒが反応するが、ヴァルバトーゼはそう言って手元の書類に目を戻した。
なんとなく、特別な感情が込められていたのは己の気のせいか、とフェンリッヒも自分の仕事へ戻って行った。
そんな出来事があった数日後、フェンリッヒはいつも通りにヴァルバトーゼを起こすべく、部屋のドアをノックした。
「閣下、失礼致します」
ドアを開けると、いつも通りの光景──に、違和感がひとつ。
主が使っている棺桶型のベッドの蓋の上に、1枚の紙が置かれていた。
「これは…?」
簡易的な地図。
さらに紙の端に『上層区』と書かれていた。
ここに居る、というメッセージは果たして来いということか、来るなということか。
だがきっと、来るなという意味なら紙など置くはずがない。
フェンリッヒはこの前の主の様子を思い浮かべ、地図の場所へと向かうことにした。
雪の降り積もる上層区。
その中に、黒く小さな背中が居た。あの頃と比べると、何もかも違う。
分かっていることなのに、そこに立つ主を見てそんな想いが浮かぶ。
シモベの気持ちを分かってか分からずか、主は足音と気配に気付いてゆっくりと振り向いた。
「来たか、フェンリッヒ。思ったより早かったな、さすが我がシモベだ」
「閣下、ここは…?」
微笑むヴァルバトーゼの足元には、少し盛り上がった土がひとつ。
そして、彼の手には何かあった。
「…昔の、戦友の墓…と言えばいいか」
「戦友、ですか?」
「ああ。お前以外に、共に肩を並べて戦ったのは、コイツだけだ」
「…初めて聞いた話ですね」
「言ったことがないからな。わざわざ言うことでもなかろう。それに、やっと約束を果たせる時になったから、それでお前にも話しておこうと思っただけだ」
「また約束ですか?今回はなにを?」
「こうして…手向け代わりのものをくれてやる、と言っただけだ」
そう言うと、ヴァルバトーゼは持っていたものに火をつける。
持っていたのは、煙草だった。
「閣下、吸われるのですか?」
「まさか。コイツが好きだっただけだ。俺は好んでこんな不味いものなど吸わん」
ふぅ、と煙と寒さの白い息が混ざる。
墓と言うにはおざなりなそれを見つめる目には、どこか悲しい色が混ざっていた。
「約束とは、そこで煙草を吸うことなのですか?」
「似たようなものだ。『落ち着いたら、お前の墓で煙草を吸って手向けてやる』とな」
「…なるほど」
「……聞きたくなければ帰るといいが、今からお前にもその時の話をしてやろう」
「帰りませんよ。お話しならば、聞かせて頂きましょう」
ふっ、と笑い、煙を再び吐いたヴァルバトーゼは、少しだけ上を向いた。
「あれは、そう。お前やアルティナとも出会う前の話だ──」
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魔界というものは、いつも血腥い場所。
あちこちで闘争や抗争が起こり、まだ歳若かった俺も力をつける程だった。
そうした日々の中、ある男を見つけた。悪魔の羽根と尻尾があり、なぜかボロボロだった。
魔界は弱肉強食の世界。弱った者など、後は朽ちるだけ。だから見捨ててきた。のに、何故か見捨てずに近寄った。
「…おい、お前。こんな場所で寝るな」
「ん……?君、は…悪魔?」
「そう言うお前も悪魔だろう」
「悪魔…?……ああ、そっか…悪魔だっけ…」
「……?」
話を聞くと、そいつは堕天使だという。
ベルと名乗ったそいつは、聞いてもいない事の経緯を話し始めた。
天界にいる頃、仲間たちに魔界の探検を持ちかけられたという。
なんとなく乗ったベルは、魔界にやって来た。そして魔界の様相を見た仲間たちは、さっさと逃げ帰ってしまったらしいが、ベルは目の前で悪魔の子供が殺されそうになった時に、咄嗟に庇ってしまった。
見捨てられなかったベルは、その子供の親を捜し回り、1週間ほど帰らずに子供の面倒を見ていた。
それが天界にバレて、悪魔に魂を売ったと追い出されてしまったらしい。
「…ただのアホではないか」
「あはは…返す言葉もないや…でもね、放っておけなかったんだ。その子はもう親に渡してきたしね」
「見つかったのか」
「うん。でも僕が堕天使ってバレたら大変だから、途中からは影から見てたよ」
「天使らしい、救いようのないお人好しだな。お前の仲間の者たちの方が余程悪魔に向いているぞ」
「でも君も、そう言いながら話を聞いてくれてるよね。ふふ、ありがとう」
「……」
「ねぇ、君の名前を聞いてもいいかな?」
「…ヴァルバトーゼだ」
「うわぁ、カッコイイ名前!…あ、でも、僕の本名も中々カッコイイんだよ」
「ほう、本名があるのか?」
「うん。…でも、天使っぽくないって散々揶揄われて来て、ここ100年くらい本名使ってないから、まだ内緒ね」
もうお前は悪魔だろう、という言葉を飲み込み、なぜか俺たちは行動を共にすることにした。
ベルは腰抜けの割に、案外強かった。それこそ、俺が守るほどではなく、放っておいてもなんとかなるくらいには。
俺が暴君の名を冠し始めた頃から、俺を狙う輩が増えてきた。
それにより、襲撃されることが増えてきた。
「はぁ…はぁ…っ、強いね…ヴァルバトーゼは」
「キツいなら、別に付いてくる必要などない」
「そんなこと言わないでよ。仲間でしょ、僕たち」
「…いつから、お前と“仲間”とやらになった?寝言は寝て言え。そのスカスカの頭、潰されたいか」
「ちゃんと詰まってるもんね!それにさ、仲間っていいものだよ?」
「さすが、仲間とやらに裏切られて堕天使になった奴の言葉は違うな」
「うぐっ……でも、仲間って別につるむだけが目的じゃないじゃない?お互いに気にし合って高め合えば、何者にも負けない力が得られると思うんだ!」
その言葉に、何となく引っかかった。
何者にも負けない力。
「お前と居るだけで得られると?随分安い力だな」
「酷いなぁ!きっと、ヴァルバトーゼもいつか分かる日が来るから!」
「それなら、その時は感謝の言葉のひとつでもくれてやる」
「ふふふ、言ったね?約束だからね!」
「約束、か。…良かろう、その約束、覚えておいてやるとしよう」
本当にそんな日が来るならな、と心の中でひっそりと付け足しておいたことは、奴にも内緒だった。
一緒に行動するようになってしばらく、奴はたまにフラッと消えることがあった。
それが何となく気になって追うと、何かしていた。
「…ベル、何をしている?」
「ぅわっ!!?…びっ、ビックリしたぁ…」
「何だそれは?煙草か?」
「知ってるの?」
「話には聞いたことがある。お前は吸うのか」
「…50年くらい前からかな。気晴らしに吸い始めたんだけど、思いの外ね」
「天使にしては素行の悪さが目立つな」
「かもしれないね。…っと、ごめん。煙たいよね。消すから」
「気にするな、消す必要などない。だが、次からは言ってから吸いに行け」
「…うん。ありがとう」
そこから──恐らく、10年程は行動を共にした。瞬きする間の、短い一瞬だ。
ある日、奴は急に消えた。あれ程黙って居なくなるなと言ったのに、と怒りすら募らせて捜し、ようやく見つけたその時。
──奴は、死にかけていた。
見るからにボロボロにされ、身体のあらゆる場所から血を流し、口からも血が流れていた。
「──ベルッ!!!」
「ヴァル、バ…トーゼ…?はは…困った、な…」
「お前っ…一体誰が何を…!!」
「君は、知らなくて…いいこと、だよ…僕は、満足だから…」
「満足だと…!?何をほざく!!」
「満足だよ…こんな、僕にも…仲間が、出来た、んだ…」
そう言う、奴の顔は確かに笑っていた。
こんなにボロボロにされた顔とは思えないほど。
「ねぇ、ヴァル、バトーゼ…お願いが、あるんだ」
「……なんだ」
「この…ことを、何も…考えないで、何もしないで、欲しいんだ…僕は、君に…手を汚して欲しくない…」
「お前はこんな風にされたのに、その相手を庇い立てするのか!?俺たちが仲間だと言ったのはお前だろう!!」
「ふふ…ようやく、認めたね…仲間だ、って…」
「お前……」
「ヴァルバトーゼ…僕のね、お墓を作って、欲しい…もしくは、僕を埋めた場所を…覚えていて、欲しい…それで、約束を…果たして…」
約束。
それは、『仲間というものの素晴らしさが分かったら、感謝の言葉を投げる』ということ。
もうどうにも出来ない程にボロボロにされた奴の、願いがそれだった。
「……分かった。その時は、言葉と煙草でも手向けてやる」
「本当?ヴァルバトーゼが、吸うって…想像、つかないなぁ…はは…でも、守ってくれ、るなら…安心して…逝けるや…君と一緒に居た時間、僕には…悪いものじゃ、なかったよ」
「そうか」
「あ…後、最期に…僕の名前、ね…ベルフェーゴス…って言うんだ…」
「ふ…俺より悪魔らしい名前だな」
「揶揄われるから…黙ってたんだよ…でも、君なら…いいかな…はは…あり、がとう……」
「……ベル?」
「……」
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「──そして俺は、奴をここに埋めた」
「……」
「…正直、アルティナの時に…ベルを思い出した。深く関わった者を、同じ死に方をさせてしまった。ベルのことがあった後で…今度こそ守ってみせる、と約束したのにも関わらずな」
煙草は、とうに無くなった。
何も持っていない彼の手は、今はキツく握り締められていた。
「…ヴァル様」
顔の見えない主の名を呼び、シモベは傅いて顔を下に向けて言葉を放つ。
「わたくしには、ヴァル様の心情について何も言及することは出来ません。…ですが、貴方とお約束した通り、わたくしは月が輝き続ける限り、お仕えし続けます」
「……フフッ。ベルよ、お前には感謝する。こんな風に、ようやく“仲間”が見つかったのだ。そして、お前にもな──フェンリッヒ」
傅くフェンリッヒの前に、ヴァルバトーゼは手を差し出す。
短く「手を」と言われ、フェンリッヒは恐れ多くも手を重ねた。
その手を掬われ、短い口付けが落とされる。
「なっ……」
「こんな場所の、ただの戯れだ。お前にも感謝しているからな、フェンリッヒ」
そう言って微笑み、手を放したヴァルバトーゼは、再び墓へ向き合った。
「あの後はあれこれと忙しくて来ることが叶わなかったが……来年からは、毎年ここに来て手向けてやる。約束だ」
「またお気軽に約束を…」
「ククッ、良いではないか。旧友相手だ、許せ」
満足そうに笑ったヴァルバトーゼは、そのまま踵を返す。
「戻るぞ、フェンリッヒ」
「もう宜しいので?」
「用は済んだ。…今日も忙しかろう?」
「…ええ、そうですね」
「しばしの別れだ。また来年来るから待っていろ、ベル──いや、ベルフェーゴスよ」
上層区から地獄へ戻り、拠点まで帰って来たふたりに、元気な声が響く。
「おはよー!ヴァルっち、フェンリっち!…あれ?こんな朝からどっか行ってたの?」
「ふむ、そんなところだな」
「え、なになに?どこ行ってたの?」
「それは──」
言いかけたヴァルバトーゼとフェンリッヒの目が、自然に合う。
ふたりは一間置いて、フフッ、と笑うと、フーカに目線を戻して同じ言葉を言う。
「「──秘密だ」」
この思い出と約束は、ふたり──いや、3人の胸の中に。