切羽詰まった顔で盧笙から告白されて二週間が経つ。そのあまりの気迫に負けて、簓はその申し出を許諾した。相変わらず面白いこと考える奴や、いつまで続くやろか、と。
付き合い始めてから変化したことがいくつかある。例えば前よりも連絡の頻度が多くなった。メッセージのやり取りもだが、あきらかに増えたのは電話の回数だ。数分だけ、他愛のない会話を交わすのが日課になっている。他にも、「これ好きそうやと思って」と簓が好んで食べているお菓子や酒、つまみが用意されるようになったし、「ここ行ってみたい」と店や場所が送られてくるようになった。いま簓と盧笙がいる祭もその送られてきた中の一つで、近くの商店街でちょっとした祭りがあるから、時間が合いそうなら行こう、と盧笙に誘われたのだ。
ちょっとした、と盧笙は言っていたが、規模も人だかりもかなりのものだ。目立たないように、無難なTシャツとハーフパンツ姿で、さらに帽子とマスクもつけてはいるが、念の為、少し賑わいから離れた場所で楽しんでいる。ぶらぶらと他愛のない話をしつつ歩いていると、遠くの方にベビーカステラの屋台を見つけた。
「盧笙、あれ!」と指をさすと、盧笙もその先に目線を向けた。
「人多いし、ちょっとここで待っとき」
そう言って、あっという間に人混みをかき分けて屋台の方へ姿を消していった。まだ食べたいとも、買って欲しいとも言っていないのに。商店街のアーケードに色とりどりの出店が立ち並び、たくさんの人だかりができている。ソースや揚げ物の匂い、綿菓子やチョコバナナの甘い匂い、人々のざわめき。ふぅ、と息を吐いた。一気に肩の力が抜け、自分が無意識のうちに体に力を入れていたのだと知る。ポケットからスマホを取り出すと、マネージャーから仕事の連絡が入っていたので、目を通しながら返信をしていく。一〇分ほど経っただろうか、ようやく盧笙がオレンジ色の紙袋を片手に戻ってきた。
「めっちゃ混んどったわ…」
額に汗を滲ませながら、出来立てのベビーカステラを手渡す。
「わざわざおおきになー」
マスクをずらしてから、カステラを袋から一つ取り出し、ぱくっと口へ放り込むと、ふわふわした食感と控えめな甘さが広がる。
「うまー! なんぼでも食えるわ!」とはしゃぐ簓を見た盧笙は、ふっと口元を緩ませながら「よかったな」と満足げな顔を見せた。
その不意打ちに思わず顔を背けてしまう。感情を臆面もなく顔に出すのは知っていたが、こんな顔を自分にだけ向けられる日がくるとは流石に思っていなかったので、いちいち面食らってしまう。
「お、ろしょ、あっこにくじ引きあるで!」
顔を背けた先に偶然見つけたくじ引きに助けられた、と胸を撫で下ろす。
「一等はなんやろな~」とか、微塵も興味はないが適当な言葉が口からサラサラと出てくる。奥に仰々しく飾られている目玉商品は、流行りの家庭用ゲーム機だ。他にもアニメキャラクターのグッズや、アイドルの写真、おもちゃなどが雑然と置かれている。
「ほな、せっかくやし一回だけしよかな」
おっちゃん、一回頼むわと言いながら盧笙は小銭を手渡すと、どの紐を引こうかと逡巡している。
「これとかええんちゃう?」
「えっそれにすんの?」
「ほんっまにそれでええんか?!」
と隣から簓が矢継ぎ早にふざけて茶々をいれると、「やっかましいわお前」と苦笑が返ってくる。よし、これや! とぐいっと引っ張った先には、緑色の札がついている。
「おっ! 大当たりやなー!」
とニヤニヤと笑いながら店主が差し出した景品は、おもちゃの指輪が乱雑に並べられたケースだった。派手な宝石のような形のものもあれば、ユニコーンや花、リボン、ハートの形をしたものまで、チープな可愛らしさが屋台のライトにキラキラと照らされていた。
「おっちゃん、おおきにな」
盧笙は律儀に礼を言い、ケースからひとつだけ選び取りろくに見もせず雑にポケットにしまった。
「当たらんかったなー」
「ほんまに当たり入っとるんかあれ」
雑な会話を交わしながら、また色とりどりの中を二人で歩き出した。
夢中になって屋台で遊んでいたら思いのほか時間が過ぎていたようで、賑わいから離れたところにいたはずなのにいつの間にか人混みに囲まれていた。どうやら祭が終わる時間になり、皆足早に駅の方へと向かっているらしかった。手元に残った破れたポイを店主に渡し、代わりに受け取った水の入った袋にはスーパーボールが三個浮かんでいる。しゃがんだまま盧笙と目くばせし、そろそろ帰ろうかと立ち上がった。
人波に飲まれるように流れにそって歩くが、あまりにも人の数が多く、盧笙を見失いそうになる。
一人でずんずん先を進んでいくから、はぐれないようにと咄嗟に伸ばした左手は盧笙のTシャツの裾をかろうじて掴んだ。こんなことになる前なら迷わず腕を掴めたのにと、一瞬頭をよぎる。が、感傷に浸るよりも早くその簓の左手を盧笙の右手がぐいっと掴む。
意外だった。人前で手を繋ぐなど、これまで一切したことがないし、むしろそういう行為は苦手だと思っていたが、この人混みのせいだろうか。ようやく盧笙の隣まで歩幅が追いつき、チラと横目で表情を盗み見ると、耳まで真っ赤に染め上げていた。
(これまでの彼女、幸せやったやろなぁ)
こんなに真っ直ぐな好意を、こんなに捻りもなく直球に向けられて、大切にされて、ほんまに嬉しかったやろなぁ、と想像する。
簓は正直それどころでは無い。この二週間、毎日どのタイミングで終わりを切り出されるか、浮き足立った気持ちよりも、いつか来てしまう終わりへの不安が半分以上胸の内を占領していた。
「男はやっぱり無理やった」
「なんかやっぱお前とはそんなんとちゃうかった」
どんな言葉で今度は切り出されるのか、悪い想像ばかりが浮かんでは消えていく。しかし、そんな考えがよぎるのも当然といえば当然だ。どうして自分を恋人に選んだのか、その理由が全くわからないのだから。しっかりと繋がれたままの左手を見る。
またこの手を離される時が来るんやろな、と。
大きな通りから外れ、人混みからようやく解放されるや否や、簓は盧笙の右手からするりと手を引き抜いた。
「いやー、めっちゃあっつー!」
じめっとした湿度と人の熱気ですっかり汗だくになってしまった。帽子とマスクを外し、パタパタと手で顔を仰いだ。こうすれば手を離したのが不自然にはならないだろう。
ぽつ、と鼻先に何かが当たる。気のせいかと思ったが、それはどんどん確かな雨粒にかわっていった。
「うわっ降ってきた!」
「ほんまや、急ごか…!」
二人は足早に帰り道を進んだが、雨足はどんどん強くなるばかりで、とうとう本降りになってしまった。いやむしろ、土砂降りといってもいいくらいだ。とうとう観念し、廃業したコインランドリーの軒下に身を隠した。
近くのコンビニで傘を買って帰ろうと、スマホの地図アプリで探してみると、ちょっと離れたところにローソンを見つけた。
「ほな行ってくるで、簓はここで待っとって」
「は? なんでや、俺も走ってく」
「ええから、風邪ひいたら大変やろ」
「アホ、こんな濡れとったらもう同じやわ」
また特別扱いをするつもりの盧笙に、苛立ちを覚え始める。大切に、大事に扱われる。その優しさを正面から受け止める方法を簓は知らないし、なぜこんなにも苛立つのかもわからない。自分の管理下にない感情や考えがどんどん大きくなる不快感から逃げ出したいことだけは明確だ。そしてこんなことばかりに翻弄される自分にも嫌気がさしてくる。自分は一体、盧笙とどうなりたいのか。
「…大事にしてくれるんは、わかるんやけどな!」
盧笙を傷つけないように言葉を選びながらなんとか伝えようと試みる。
「これまでと同じがええわ、変えんといてほしいねん!」
とできるだけ明るい声色でカラッと伝えてみる。
しかし二人の間にできた沈黙を、雨音が通りすぎて意図せず深刻さを演出していく。
「…照れとるんか?」
「いやちゃうわ!!」
本当は恥ずかしくてたまらない。
成人男性がこんな風に扱われて、しかもずっと隣にいた、ただの友人とも言い表し辛い存在の相手に突然、恋人扱いをされるのだ。
恥ずかしくてたまらない。
「いやぁ~…その、なんか気ぃ使われとるみたいで、逆に気ぃつかうし、いきなり変な感じがするっていうか……お前かてやりにくいんとちゃう?」
これは本音だ。盧笙にとっての「何か」にはなりたかったけど、こんな風に特別扱いをして欲しかったわけではない。むしろ…
(これまでの彼女と同じになってまうやん、アホ)
特別扱いすんな。そんなん無くても、お前の隣に当たり前の顔でおれるんが、特別やったのに。
「えぇーっと…とにかくや! これまでと同じでええから! 頼むから普通にしてくれ普通に! なっ?」
雨音を少しでもかき消したくて、わざと明るく、大きな声で話す。
盧笙の方をまともに見ることができないが、ひしひしと視線が簓の横顔を確かに刺している。
「こんなとこにずっとおってもしゃーないし、さっさと傘買いにいこや!」
軒下からまた雨の中へと向かおうとする簓の腕が強い力で掴まれ、引き戻された。
「正直に言え、簓」
真っ直ぐな声色で責められる。
「なんか、ようわからんけど何かはぐらかしとるやろ」
「そんなことないわ!」
「いや、嘘やな」
「いやほんまに、お互い無理せんとこってそれだけのことやん」
「無理なんかしてへんわ」
じぃっとレンズ越しの目に睨みつけられ、ギリギリと腕を掴む力が強くなっていく。これは、下手にはぐらかすとさらに食い下がって面倒なことになるパターンだ。どこまで、どう伝えるべきか、事実ではなく盧笙が納得する返答を考えなければ。
「…嫌やわ、彼女扱いされるん」
こう言えば引き下がってくれるだろうか。
いや、少しは思い至って欲しい。
「…? 彼女扱いって、そんなこと…」
最初は訝しむようにしかめていた表情が、みるみるうちに強張っていく。どうやら無自覚の行動だったらしい。
「す、すまん…! また一人で突っ走ってしもてた」
慌てて謝り始めた盧笙を横目にホッとする。どうやらこれ以上の詮索はされずに済みそうだ。しかしそれも束の間のことだった。
せやけど、と前置きを置いてから盧笙はとんでもないことを簓に伝える。
「…俺のこと、好きやから付き合ってくれとるわけとちゃうやろ?」
ガンっと頭を殴られた時のような衝撃のあと、心臓や肺を直接何者かに握りつぶされたくらいの息苦しさが襲ってくる。
思わず口籠ってしまい、一瞬反応が遅れてしまった。
「俺はお前に、好かれたいんや」
ザァザァと雨音がうるさい。
しかし、いまの言葉を聞かなかったことにはできそうになかった。どんどん顔に熱が集まっていくのが分かる。顔から火が出そうとは、まさにいまこの瞬間の簓の反応のことだろう。
「……おっまえ顔」
「言うな!!」
「真っ赤っかやで」
「うっさいわボケ! 言うな言うたやろ!」
慌てて腕で顔を隠すが、もう遅い。その腕ごと、雨で濡れて冷えた身体ごと、強く抱きしめられる。
「かわええな」
「…ほんっまに黙って」
盧笙はくつくつと笑いを噛み殺しながら、肩を揺らす。
何をわろてんねんボケ、と照れ隠しの悪態を心の中で吐いた。
抱きしめていた腕をほどき、そのまま優しく簓の左手を取る。
「これやるわ」
ポケットから取り出されたのはおもちゃの指輪。宝石を模った偽物のそれは、暗い街灯の灯りでキラキラと薄い黄色に輝いていた。
「いらんわ」
「じゃあ捨ててもええわ」
子供用のサイズなので、薬指はおろか小指の先にしか嵌まらない。
この指にも見えないはずの色が巻かれているのだろうか。
「いつか、お揃いのつけれたらええな」
お互いの好きが揃わんくても、一緒におることはできるやろ。
そんな風に盧笙が言うものだから、鼻の奥がツンと痛み始める。溢れそうになる雫を必死で堪えながら、小さく鼻をすすった。どうか雨音がかき消してくれますように。