【鈍感】 比較的静かな土曜の夜の初め。夕方から続けていた中間テストの採点も佳境に入った頃、玄関の方から間延びした声が聞こえてきた。
「ただいまぁ〜」
その声に集中が切れる。後もう少しで終わるところだったのに、と一息吐くと、玄関から無遠慮な足音が近づいてきた。
「帰る家間違えてんで」
声の主が現れると同時に、顔も見ずにさらりと伝えるが、もうついに何の反応もされなくなった。というかもういい加減、こちらも律儀に言い続けるのに飽きた。
「今日なぁ、氷筋さんの楽屋に挨拶に行ったらな〜、」
いつもの定位置に荷物を置き、上着やら帽子やらを次々剥ぎ取りながら勝手にトークを繰り広げ始めつつ、ちゃっかり手土産も冷蔵庫に勝手に入れている。盧笙も解答用紙を手早くまとめ、机の上を片付け始めた。
「なぁろしょー!聞いとる?!」
「聞いてへん」
「なんやねん!もー、ほな先風呂入るわ!」
「いや、ちょっとは遠慮せぇ!!」
「シュールストレミングの臭いがとれへんねん」
「やっぱさっさと入れ」
あっという間にシャワーの音が聞こえ始める。そろそろ本当に家賃光熱費を請求したほうが良いのかもしれない、と頭をよぎるが、簓が風呂に入ってる間に夕飯を作っておくかと台所に向かっているのはこれが嫌ではないということの表れでもあり、甘さでもあり、つまりは「惚れた弱み」というやつだ。
具材に火が通り、焼きそばの麺をフライパンに入れた辺りで簓が風呂から出てきた。「うわー!美味そうやなぁ〜」と通り過ぎるついでに盧笙の肩越しに手元を覗き込み、そのまま流れるようにエアコンをつけ始めた。
「おいやめろ!もったいない!」
「えーーー、今日なんか暑ない?もう湿気の気配するやん〜」
確かに、今夜は微妙に湿気を感じるような暑さがあった。沖縄のほうは梅雨入りをしたというし、数週間もすれば関西も梅雨入りするのだろう。
「扇風機で我慢せえ」
付属の焼きそばソースを入れると一気に食欲をそそる匂いが鼻を抜けた。
「盧笙のケチー、いじわる〜」
「はぁ?そんなこと言うなら飯食わさへんぞ」
「うそうそ!風呂も飯も世話んなって、ホンマ神様仏様やぁ〜!」
そう言うと、そそくさとエアコンを切り簓は扇風機の前を陣取った。弱風を浴びながらスマホの画面に目を落としている。そよぐ緑の髪が、盧笙をくすぐったい気持ちにさせるのだった。
焼きそばが完成し、二人で適当なバラエティ番組を見ながら食べる。いつもこれくらいの時間に零もしれっと合流するのだが、どうやら今日は音沙汰がないようだ。簓はバラエティを見ながらも、さっき盧笙が聞き流したトークを皮切りに相変わらずしょうも無い駄洒落や小咄を次から次へと繰り出す。
(さっきまで暑い言うてた癖に、なんやねんこの距離)
すぐ隣に座り、けたけた笑うその顔に、声に、特別な色は何も無い。いつものように盧笙だけが内心少しだけ舞い上がり、それをすぐに押さえつけてビールの炭酸で蓋をするのだった。
「風呂入るわ」
見ていたバラエティも終わり、見飽きたCMが流れているタイミングで立ち上がって空き缶をいくつかまとめて台所に持っていくと、簓も両手に皿や缶を持って後を追ってきた。そのまま置いといてええからな、と一言残し風呂へと向かう。
シャワーを浴びながら、鼻先を伝う雫の行方を目でぼぅっと追った。この距離に特別な意味など、きっと無い。無いとわかっているのに、この近すぎる距離にどうしても勝手に、意味を持たせようとしてしまう。
数ヶ月前、冬の1番寒さの厳しい時期のことだった。明け方、寝返りをうまく打てずに目が覚め、その原因を探ろうと浮上したばかりのぼんやりとした意識を働かせると、背中に何かが当たる暖かい感触がした。
背中合わせの形で小さく丸まって眠る簓だった。
いつも勝手に入ってくるが、盧笙が寝ている間に侵入し、布団に潜り込んでくることなんて一度もなく、心底驚いた。しかも成人男性が二人並んで収まる大きさの布団ではない為、簓の体が半分出てしまっていた。冷えて風邪をひいてはいけない、と予備の毛布を引っ張りだしてかけてやったが、そんな状況でもう一度寝付けるはずもなく、観念して朝のランニングに向かったのだった。
簓が起きた後問いただすと「ホンマにすまん!いやぁ〜ちょーっと飲みすぎてなぁ〜堪忍したって!」と平謝りされたのだ。曰く、何も覚えていない、と。
呑みすぎて忘れた、と無かったことにされたのは、盧笙が成人して初めて二人で酒を飲んだ夜にノリでしたキス以来2度目だった。
その2つとも、こうして記憶の中でなぞるくらい盧笙にとっては無かったことにはできないのだ。自分だけが手放せずにいる事実にため息が漏れる。いつになったらこのこびり付くような感情を剥がせるのか、と自問しながらシャンプーをする手に力が籠るのだった。
簡単な風呂掃除まで終わらせてリビングに戻ると、簓は床の上に仰向けになって転がっていた。
「…おい簓、そこで寝んな」
やはり疲れていたのだろう。今朝は東都の局から生放送に出演したとさっき話していたし、昼過ぎにはオオサカの劇場で出番もあったはずだ。無防備な寝顔にはうっすらとクマが浮かんでいるように見える。顔にも態度にも出さないが、相当忙しいスケジュールをこなしているはずだ。その目まぐるしい日々の中、どうしてわざわざ立地的にアクセスがいいわけでもないこの部屋に。
きっと盧笙が望むような特別な意味はないのだろう。盧笙が「食べてみたい」と何気なく言った商品を手土産に選んでくるのも。合鍵を何年も持ち続けていたのも。盧笙が無意識にこじ付けてしまいそうになるだけで、恐らく簓からすればいたって普通の事。
冷蔵庫に冷やしてある炭酸水を取りに行くと、さっき簓が仕舞っていた手土産のチーズケーキが鎮座していた。簓の食レポを見て食べてみたくなった、と言った店のものだ。すぐ隣の水切りカゴには綺麗になった食器が並ぶ。プシッと強炭酸水の蓋を開け、喉を鳴らし飲み込んだあと、簓の脇にある机を端にどかして客用の布団を取ってくる。いつの間にか夜は深くなり、遠くで救急車のサイレンが響く。
わずかな寝息すら立てない静かすぎる簓の寝顔をつい、眺めてしまう。少しだけ捲れたTシャツの裾から、白く薄い腹が覗き、ゆったりと上下している。先ほど扇風機でそよいでいた前髪に指の腹でそっと触れ、ひと撫でした。簓を見つめる視線がじわじわと熱を帯びる。
こんだけ振り回しといて、どっちが意地悪やねん。
「いい加減気づけや、あほ」