〈今夜僕の部屋に来ていただけますか?〉
作業エリアの外、壁に寄りかかりプライベート用の小型デバイスに指を滑らせる。予定では今日の仕事は午前中だけだったのだが早朝にエラーを吐いたプログラムのせいで全て吹っ飛んだ。夕方近くの今になってあとは担当者がチェックして自分が最終確認をすればいいという段階までこぎつけ、本来なら今頃共に街を歩いていたはずの相手にようやくメッセージを送る余裕ができた。
一応トラブルが起こった段階で説明と謝罪のメッセージは送ったのだが〈分かった〉の一言しか返ってこなかったので機嫌を損ねてしまったのかもしれない。現に今も既読にはなったがなかなか返事が来ない。
―どうするべきか―
デバイスを伏せて腕を組む。
―当然改めて謝罪はするが本気で怒っていたらそもそも顔も見せてくれないだろうし―
今ももしかしたら知り合いに連絡を取って外に出掛けているかもしれない。同僚や後輩達から大いに慕われている彼である。急な誘いでも応じる相手はいるだろう。
当日になってのキャンセルだ、全面的に自分が悪い。どうやって許しを乞うか頭を悩ませているとデバイスが振動した。急いで確認すると一言。〈もういる〉と。
「……なあ、ハインライン大尉何か機嫌良さそうじゃないか?」
「あー、あの人だろ?例の」
「あぁ。……まぁ、それしかないか」
「無駄口を叩いているということはチェックは終わったんだな?」
作業に関係ない囁きが聞こえてきたのでデバイスをしまって足を動かす。
「今終了しました!ご確認お願いいたします!」
敬礼して下がった担当者と入れ替わりディスプレイに視線を走らせる。
ミスなく正確に。かつ、さっさと終わらせなくては。
普段より長いと感じる廊下を何とか歩ききって扉のロックを解除する。開いた先にはベッドをソファ代わりにして本を読んでいるアーノルドがいた。すぐにこちらに気が付いて本を閉じ、立ち上がる。
「お帰り、アルバート」
「ただいま戻りました、アーノルド」
いつものやりとりをしたことで肩から力が抜け、深く息を吐いた。
「お疲れ様」
アーノルドは寛ぐための格好をしていて表情も穏やかである。
「怒っていないのですか?」
「お前に怒るわけないだろ?そりゃ腹は立ったけどさ。“よりによって今日かよ!”って意味だし。むしろお前は被害者だろ」
なんと理解のある恋人か。安堵が広がって思わず抱き締めれば楽しそうに笑っている。しばらくそのまま堪能していたが、ふと身じろいだと思うとこちらを見上げてきた。
「お願いしても?」
「……分かった」
了承が得られたので手を離し、椅子に座る。この部屋の椅子は長時間の作業にも耐えられるよう頭部まで背もたれがあり、また耐荷重の大きい特別な物を入れてある。細工を施した肘掛けを外すとアーノルドが膝に乗ってきて向かい合う形になった。その腰の後ろに両手を回して身体を支える。
「……やっぱこれ重くないか?」
「重量があるかという意味でしたら相応に。負担ではないかという意味でしたら問題ありません」
「軽いとは言わないのな」
「筋力トレーニングをしている軍人に対して軽いは失礼では?」
「そうだけどさぁ」
触れ合いが好きな割にこの体勢をあまりやりたがらないのは体重を気にしてのことらしい。居心地悪そうに視線が床をさまよっている。そのきちんと鍛えられた身体のしっかりとした重みこそが彼の存在を感じられていいと思っているのだがなかなか伝わらない。
「顔を見せてください」
右手を頬に添えて促せばようやく視線が戻ってきた。親指で目元をなぞると擽ったそうに目を細める。手の平に感じる頬の柔らかさが心地いい。皮膚の厚さかそれとも水分量か、ともかくアーノルドの肌は滑らかで柔らかく、かつ力を入れれば弾力を感じる極上の肌だ。特に筋肉の少ない頬は素晴らしい。そっと顔を引き寄せて反対側の頬に触れるだけの口付けをする。
「今回は何だったんだ?」
「そうですね。例えるなら回り道、ですか」
「回り道?」
「えぇ。周回コースで大回りをした結果、周数がかさむごとに少しずつ無駄が積み重なって予め用意しておいた燃料が足りなくなる、と言うような」
「なるほど?」
右手を伸ばして今度は髪に触れる。髪も好きだ。自分のものと違ってこしがあって指通りがよく、さらさらと流れる真っ直ぐな濃紺はつい触りたくなってしまう。
「実際にはプログラムの記述に無駄がありました。ミスと言えるほどのものではなく最適な記述の場合と結果はほぼ変わらないのですが、やり方が回りくどいため繰り返すうちに少しずつ負荷が増え、処理が重くなり、最終的にエラー表示が出たわけです」
「何か面倒くさそうだな」
「そうですね。数度の実行ではエラーが出ませんし、見た目として解りやすく間違っている訳ではありませんから原因の特定に時間が掛かりました」
「大変だったな」
もう一度手を腰に回して抱き寄せる。呼吸に合わせて膨張と収縮を繰り返す胸部、じんわりと伝わるあたたかな体温に酷く安心する。普段硬い無機物を相手にすることが多いのでこうしてアーノルドに触れることは何よりの癒しなのだ。
話している内に全力で回転していた頭の一部が落ち着いてきた。今日はとにかく急いでいたので最低限の指示だけ出して戻ってきてしまったのだが、これなら明日怒鳴り散らすこともないだろう。
「えぇ。……あれを書いた者にはもう一度プログラミングを学び直させた方がいいかもしれません」
「まーまー。多分ほっといても勝手に復習するぞ」
「そうでしょうか」
「だってお前同じミスの繰り返しには数倍厳しいだろ」
「当然です。不測の事態や未知の事象ならまだしも経験しておいて学ばないのは愚の骨頂ですので」
「お前がそういう考えだってことくらい分かってるって」
今度はアーノルドに頬を包まれた。他の部位より厚く固い皮膚が表面を撫で、優しく揉まれる。彼の生き様が感じられるこの手も好きだ。
「だからまあ、今は今晩何食べるかでも考えとけ」
「……残念です。せっかく貴方と二人で出掛けられると思ったのに」
「それはまた今度な」
新造艦建造の協力者として長期滞在中の自分は行動範囲に制限がある。具体的にはオーブ軍とモルゲンレーテの関連施設以外に行くには事前に申請しなければならないのだ。今日は街へ出て散策したあと早めに夕食を済ませて帰ってくるつもりだったので今から出たのでは申請した時間内に戻ってこられない。必然的に夕食も食堂で食べるしかなく、これでは普段と大して変わらない。
仕方がないこととはいえ気持ちが沈んでしまいため息をつくと、ぐっと顔が近付いてきた。
「その代わり俺の部屋来ていいから」
囁かれた内容に目を見張る。
「貴方、明日は朝から仕事では?」
だから今日は早めに戻ってくる予定だったのだ。尋ねればさらに小さな声で。
「午前の勤務代わってもらった」
耳の端が赤く染まっている。頼まれることはあっても自分から頼むことはほとんどない彼が“代わってもらった”と。
「アーニー」
「俺だって楽しみにしてたんだ」
耐えきれなくなったのか視線を外しくぐもった声を漏らすがこの距離だ、ちゃんと聞こえた。
「ありがとうございます」
「ん」
首を伸ばして鼻先に口付ける。
あぁ、なんて幸せな日だろうか。