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    ichizero_tkri

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    ichizero_tkri

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    🌟🎈 🍂💀のまとめ②

    保護ターンしかなかった

    「……む、雨か」

    帰路の途中、ぽつりぽつりと降り出した雨に司は眉をひそめる。今日は雨の予報ではなかったはずだがとため息を吐けば、てん、てんと前方から跳ねるように駆け寄る姿が見えた。

    「はは、来てくれたか唐傘」

    司に懐いてくれているのか、予防外れの雨が降ると唐傘はどこからともなく現れ雨避けにされることを望んだ。司が応じれば、どこにでもあるなんの変哲もない唐傘へと姿が変わる。これが唐傘自身の力なのか狐狸がなにかをしているのかは司にはわからなかったが、ありがとうと笑って柄を手に取ればばさりと傘が音を立てて喜ぶので深く考えないようにしている。

    穴や傷ばかりのそれはしかし、雨を一時的に凌ぐには十分で、通り雨に慌てる人々を横目に司は帰路を辿る。その途中、走り抜ける人間に懸命に声をかけては無視されている獣の姿を視認した。一目でそれが妖怪だとわかって、その姿が見えない人々に無視されるのは仕方がないなと司はそれに駆け寄り唐傘を傾けた。

    「……九尾か?珍しいな……何があった?」

    濡れてしまった毛をハンカチで軽く拭いてやれば、ぱくりと袖口を咥えられて引っ張られる。どうやらついてきてほしいらしいと、濡れるから落ち着けと紫がかった毛並みの九尾を嗜めながら司は歩く。
    どこかで見たことのある子だけれど、はてどこで出会ったのだったか。考える内に進む先はどんどんと人通りがなくなって、辿り着いたのは滅多に足を運ばない林の中。こういう場所は悪しき妖怪が住み着くこともあるからと、あまり近付かないように言われていたのだったか。

    「ここに何かあるのか?……ああ、わかった。オレも行こう」

    問い掛けてみても忙しなく袖を引くばかりの狐に肩を竦めて、司は木々の間を歩いていく。ふわりふわりと周囲に感じるのは不浄の残滓。既に浄化されたものだと推測出来るが、では誰が。考えて、この九尾が類の足元に集まる妖の一つだったことを司は思い出した。

    「類が、いるのか?」

    九尾は返事もせず、袖から口を離すと全速力で駆け出す。着いてこいと言われているとわかり、司は木々の隙間を唐傘を傷つけないよう、しかし全力で追いかける。勢いのせいで制服に雨が飛ぶが、そんなことを気にしていられる状況ではなかった。

    そうして息を切らした先で、九尾は立ち止まり高く鳴いた。その側の大きな木の幹の影に、くたりと落ちた腕が見えた。

    「…!類ッ!?」

    そこには予想通り、あの餓者髑髏を従える男がいた。木に背を預け、雨に濡れる体を気にすることもなくぴくりとも動かず、ぐったりと俯いたまま目も開かない。その足元には小さな妖たちが何体も集まっていた。

    しっかりしろと司がその身を揺さぶるが、眠っているかのように返事はない。口元に手をやれば、微かに呼吸を感じる。気を失っているだけのようだと、司は一先ず胸を撫で下ろす。
    ギシギシと音がして見上げれば、不安そうに骨を震わせる餓者髑髏がそこにいた。不浄を食った直後だというのが経験則から伝わって、司は唇を噛む。だから何度も言っただろうと睨むも、彼はカタカタと骨を鳴らすばかりだった。餓者髑髏に当たっても仕方あるまい。類に知られればまた友を悪く言うなと敵意を向けられてしまうかも知れない。

    呼び掛けても起きはしないが、かと言って雨の中ここに放置するわけにもいかない。唐傘にすまないと声をかけて地面に下ろすと、彼は元の姿に戻ってぴょこぴょこと飛び跳ねる。

    「失礼するぞ、類」

    念のために呼び掛け、司はその腕に類を抱え上げる。見てくれ以上に重さはあるが、抱えられない程ではない。一先ずこのまま自分の家まで連れて行ってしまおうと歩き出そうとすれば、その足に無数の妖が飛びついた。

    「っな、こら!?なんだ、歩けないだろう」

    反射的に叱責を飛ばすが、悪意のある行動でないことはわかった。司は小さな彼らがみな一度は類と共にいるところを見たことがあるのを覚えていた。恐らくは、司が類を連れ去ろうとしているようにも見えたのだろう。虐めるな連れて行くなとでも吠えるように暴れる彼らの元へ、鞄から飛び出し司の姿に化けた狐狸が一つ一つ摘んで剥がしていく。

    「待て、聞いてくれ、類を害するつもりはない。このままでは危ないから家に連れて行くだけだ、お前たちだって死なせたくはないだろう……!」

    濡れた体は段々と温度を失っていく。このままでは本当に危ない。急がなければならないんだと司が声を上げた瞬間、その身がふわりと浮いた。

    「……へ?」

    そのまま視界はぐんぐんと上がって、遥か上空に自分たちが存在することを自覚させる。白く冷たい土台の上に乗せられていると視認して司は振り返る。間近に見えた頭蓋骨に、二人纏めて餓者髑髏に抱えられたのだとわかった。戸惑っている司をよそに、餓者髑髏は狐狸や九尾、他の妖怪たちを拾い上げると司がいるのと同じ手のひらへ乗せる。そうして全てを手のひらに集めると、司をじっと見つめて待つ。

    「あ……向こうだ、南の方。オレの家がある、頼めるか?」

    餓者髑髏はギシリと音を立てて頷くと、ひょいひょいと大股に道を進んでいく。類が餓者髑髏を友と呼んだように、彼にとってもこの男は助けたい相手らしい。何も言わず自分たちを運ぶ餓者髑髏にどこか安心感を持って、司はそのまま妖怪へ道案内を続けた。


    ***


    「……?」

    緩やかに覚醒して目に入った天井に、類は寝転がったまま首を傾げた。眠っていたのだろうかと身を起こせば、覚えのない部屋に見慣れない衣服。自宅にはないはずの和室に一人で寝ていたというのはどうにも気味が悪い。平時なら頼まずとも周囲に集まっている妖の姿も、今は一体すら見当たらない。餓者髑髏までもが傍にいないのはどういうことなのかと考えていたら、部屋の引き戸がガラリと音を立てた。

    「あら、起きていらしたんですねぇ。よかったわぁ」
    「……えっと」

    見慣れないセーラー服はどこの学校のものだったか。悩みながら室内に入ってきた美少女は、よかったらどうぞと笑いながら白湯を差し出した。頭を下げて受け取りそれに口をつければ、戸惑っていた気分が幾分か落ち着いた気がして類はホッと息を吐いた。

    「……ありがとうございます。あなたが僕を助けてくださったんですか?」
    「いいえ、私じゃないの。あなたを連れてきたのは司くんよ。このおうちも、司くんのご実家ですもの」
    「……司くんが?」

    そもそもいつ気を失ったのかさえ覚えていないと、類は眉間に皺を寄せる。不浄の気配を捉えて餓者髑髏と共に向かおうとしたところまでは覚えている。結局どこへ辿り着いたのか、不浄を食らいきれたのかさえ思い出せない。
    だが司に助けられたという事実から察するに、恐らくは力を使いすぎたのだろう。顔を合わせる度にそのままでは危ないと憤っていた彼の声を思い出して、類は浮上した嫌悪感を白湯で腹の底へ流し込んだ。

    「それで、彼は?」
    「司くんは所用で外しているんです。でも、もうすぐ帰ってくるはず……あら?」

    遠くからしずくー!と呼ぶ大声がして、二人は顔を見合わせた。帰ってきたみたいねと彼女が笑うと、類もその華やかな笑みにつられるようにして微笑みながらそのようですねと返した。

    「司くーん、こっちよー!神代さん、お目覚めになったわ!」
    「なに!そうか!ありがとう雫!おい類!!!」
    「随分元気だね、近所迷惑じゃないかい?」

    部屋に飛び込むなり呆れた顔で怒鳴る司に、類は肩を竦めて返した。微かに雨音が聞こえる中雫と呼ばれた少女と話していた静かな空間と、司の大声で埋め尽くされた和室が同じ空間とは思えないくらいだった。

    「そんなことより、体調は!」
    「体調?なんともないけれど」
    「そんなわけがあるか!妖力を空っぽにして気を失っていたんだぞ、起きているのもそれなりに辛いだろう」
    「ああ、やっぱり倒れてたんだね。司くん、餓者髑髏がどこか知らないかい?」
    「玄関前に待機させている!!」

    怒りながらも律儀に答えてくれた司にそう、ありがとうと返して類は布団から這い出て立ち上がろうとする。ぐっと足に力を込めた瞬間、あまりにも自然に体が揺らいで類は視界を揺らしながら驚いた。なるほど、これが力を使いすぎたという状態か。まさか立つことすらままならないとは。再三の忠告を甘く見ていたことを実感しながら倒れる類を、飛び込んだ司がギリギリで受け止めた。

    「あ、っぶな……!」
    「司くん、ナイスキャッチね……!神代さん、大丈夫?」
    「ああ、平気です。司くんもすまな」
    「馬鹿者!!力を使いすぎて倒れたのに急に立つなーーー!!」
    「うわ、うるさ………」

    感謝の一つでもしてやろうと思ったのにと反射的に耳を塞いで類はため息を吐く。反省の色もない顔で、立てると思ったから立っただけじゃないかと返した。事実、自覚がないだけで類は自身の調子をすっかりいつも通りのものだと思い込んでいたのだ。

    「寝ていろまったく!!腹は減っているか!?」
    「あんまり。でも彼女が持ってきてくれた白湯は飲んだよ」
    「ええ、全部飲んでくれたのよ〜」
    「ううむ、白湯だけで腹を満たすのもどうかとは思うが……」

    布団へ戻され、類は大人しく横になる。ほんの少し体が楽になった気がして、なるほど確かに起きているだけで消耗していたらしいと漸く実感した。自覚すると段々と疲れが表に出てきたような気がして、司の問いかけに答えるのも億劫に感じてくる。元より、まともに返答していた記憶も少ないのだけれど。

    「類?」
    「……悪いんだけれど、もう少し寝させてもらってもいいかな」
    「……構わん、元よりそのつもりだ。まだ暫く寝ているがいい」
    「神代さん、お大事にしてくださいね。司くん、咲希ちゃんとしぃちゃんとまたたくさんお団子作ったから、良かったら二人で食べてね」

    自分はそろそろ帰るからと立ち上がった雫に、司は有り難く頂こうと笑った。いつだったか聞いた、司が狐狸と出逢ったきっかけの話に出てきた少女は彼女のことだったかと類はぼんやりと考えた。無意識の意地を解いて眠る体制に入ると、途端に瞼が重くなった。思った以上に、この体は不浄の悪影響を受け止めていたらしい。

    「類?」

    雫は帰ったのだろうか、声はもう聞こえない。外から聞こえる雨音を遮るように司が自分を呼ぶ声が聞こえた。なんだいと返したいのに、いつの間にか閉じた瞼につられてか口も開こうとはせず静かに沈黙を返す。
    眠ったのか、と司の声が問う。平時よりも穏やかで控えめな、大人しい声。君、そんな風にも話せるんだね。そう笑ってやりたいのに、意識にさえ力が入らない。空腹とは違う虚無感が胸を襲って、一刻も早くこの睡魔に身を預けたかった。

    「……おやすみ」

    囁く声と共に頭を撫でられる。類はその感触を最後に眠りに落ちた。


    ***


    「──類、……類」

    起きてくれと揺すられて、類は眉をひそめて目を覚ます。辺りはすっかり暗く、室内には控えめな電気が点っていた。すぐ近くでこちらを覗き込んでいた司が寝ているのに起こしてすまないと眉を下げるので、類はそれに反発するように目を閉じた。まだ、まだ全然寝足りない感覚がするのだ。

    「こら、待て寝るな、いや寝てはほしいんだが」
    「……なにか用かい……」
    「用というか、もう夜になるからな。このまま泊めてやりたいんだが、ご両親に連絡を入れなくてはならんだろう」

    勝手に荷物を漁ってスマホを操作するのは流石に憚られると司が言うので、類は漸く目を開けた。

    「別に連絡しなくてもよかったんだけどねぇ」
    「そうはいかんだろう。我が子が突然連絡もなしに帰らないとなれば、親というのは心配するものだ」
    「そうじゃなくて」

    類は幾分かまともになった体を起こして息を吐く。暗がりで見る司の顔は平時のそれより優しく見えて、回復した体力とそこに至るよう休ませてくれた彼への恩義が僅かに浮かんで、類は着慣れない服の裾を弄くりながら話した。

    「家に、誰もいないから」
    「……なに?」
    「僕の両親は、それぞれ分野は違うけれどとても忙しくしている専門家でね。一ヶ月に一度帰ってくればいい方だから、基本家には誰もいないのさ」

    だから連絡する必要があるほど自分の帰りを待つ者はいないよと類が笑う。司は、どう返したらいいのかわからず組んでいた胡座を解いて膝を折った。慣れない正座に足が文句を訴えてきそうだったが、今はそれはどうでもよかった。

    「すまない。何も知らずに、余計なことを……」
    「勘違いしないでほしいんだけれど、仲が悪いわけじゃないよ。僕は両親のことが好きだし、二人も僕が一人で苦労してないかとても心配してくれている。帰れなくても、連絡はこまめにくれるしね」
    「だが……子どもというのは、親に何よりも自分を優先してほしいものだろう」
    「一般論はそうかもね。ただまぁ、僕は僕よりも両親の好きなことを優先してほしかったから」

    それに、と類は目を細めた。

    「僕は手のかかる子だったしねぇ」
    「それは今もじゃないか?」
    「君はたまに礼儀を欠くよね」
    「安心しろ、お前相手の時だけだ」

    嬉しくない特別だ。類は側に用意されていた飲み水に口をつけた。長く眠っていたからか、無意識の内に涸れていた喉に潤いが戻ると不思議と安心した。

    「それで?」
    「ん?」
    「手がかかる、というのは?」

    よっぽどのことだったんだろうと問う司に類は苦笑した。出過ぎたことをしたと謝罪したばかりなのに、それでもこちらのことを気にかけるのは止められない性分らしい。お転婆な妹やマイペースな昔馴染みがいたというし、兄というのはこういうものなのかも知れない。一人っ子の類はそう思案して、そうだねぇと平時よりは穏やかに口角を上げた。

    「見えもしないものを見えたと繰り返す子どもには、手を焼くに決まっているからね」
    「……妖怪か」
    「ああ、おまけにお話までしてしまうからね。困ったものだろう?」

    それは司にも思い当たる節のあるものだった。まだ妖怪と人間の境界も、常人にはその存在を視認出来ないことも理解しきれていない幼少期。なにかと彼らと関わり合っては怖いと指をさされた記憶は、苦々しいものに違いない。
    司がそれを堪え胸を張っていられるのは、ひとえに司自身が天馬の一族だったからだ。家族は勿論、遠方の親戚も自分と同じ妖を知覚する人間。日野森家の存在も大きかった。彼女たちの屋敷には、妖怪や怪異に纏わる曰くつきの品々が幾つも保管されており、周囲よりはそういったものへの理解を持っていた。おかげで妹も孤立せずに済んでいたのだと、咲希と同い年である雫の妹を思い浮かべて司は思う。

    では、類は?

    両親は妖怪のことを視認出来ないと彼は言った。恐らくだが、親族の誰一人浄化師の血を引く者はいないのだ。一般人であっても突然変異的に妖怪が見えてしまう子が生まれることがあることを、司は励んだ勉学の中で知っていた。
    思い返せば、類が友人の名を出した記憶もない。彼が友と呼んだのは、周囲に集う妖ばかりだ。不浄を追って出くわした時も、学校からの帰り道で偶然鉢合わせた時も、彼は常に一人だった。

    神代類は、自分と同じ苦しみを一人で飲み込む他なかったというのだろうか。

    「──それは、……辛かったろう」

    自分が感じていた痛みよりも、遥か深く、辛かったことだろう。両手を握りしめて言う司に、類はため息を吐いた。空気に流されただろうか、余計なことまで話してしまった。

    「……まぁ、そんなわけだから僕は大好きな両親にこれ以上迷惑をかけたくはなくてね。仕事を優先するようお願いしているんだよ」
    「……では、今日もご両親は在宅ではないのだな?帰ってくる予定は?」
    「ないよ。母さんが来月の初めには戻る予定だったけれど」

    そうか、と頷いて司は無意識に手を伸ばす。柔らかそうな見た目の髪は、触れてみると案外固かった。いつか妹にしていたように撫でれば、類の細い目が珍しく丸くなった。

    「ではやはり、今日は泊まっていくといい」
    「いや、帰るよ」
    「いやなんでだ!?」
    「夜道を案じてくれているのなら、その心配はないよ。餓者髑髏に頼めばすぐだろうしね」

    そうじゃないだろう、と歯軋りをしながら司は立ち上がり部屋を飛び出す。思いの外怒らせてしまったのだろうかと見送った類がそのまま待っていると、五分足らずで司は走り戻ってきた。

    「ははっ、安心しろ類。餓者髑髏に話を通してきたぞ、類はまだ回復していないから今夜は我が家に泊まらせるとな!」
    「……妖怪相手とはいえ、嘘はよくないんじゃないかな、司くん」
    「嘘なものか、実際顔色はまだよくない。全快していないことは自分でもわかっているだろう、類。……どうせだから、ここできちんと休んでいけ。構わないだろう?」

    隣へ戻ってきて胡座を組む司に、類は平時の表情を取り戻して睨みを寄越した。

    「同情かなにか、かな」
    「お前がそう思うならば、それでもいい。オレはオレがそうしたいからする。……頼むから、もう暫くここで休んでいけ」

    せめて今夜一晩くらいは。縋るように見つめられ、類は視線を逸らす。両親が家にいないから自宅へ帰ると頑なに固執する理由もない。寧ろ一人ならば尚更と引き留められてしまう。餓者髑髏も言いくるめられ、万全でない体で安全に帰る方法も奪われた。
    存外、卑怯な男だ。その単語とは釣り合わないようなまっすぐで純粋な目に呆れて、類はごろりと寝転がった。

    「──ひとまず、今夜はお世話になるよ」
    「……!ああ、わかった。少ししたら夕食になるが、食べられそうか?歩けなさそうなら、ここへ持ってこようか」
    「たぶん、食べられるかな。あと歩けると思うから、そこまで気を回さないで構わないよ」
    「そうか。では後で呼びに来よう。大人しく寝ているんだぞ、類」

    こちらに背を向けて寝転んでいる類の頭を一撫でして、司は慌ただしく部屋を出ていく。少しすると遠くから母と妹を呼ぶ大声が聞こえてきて、夕食に自分が参加することを報告しているのだろうと類は察した。
    あれだけ寝たのに、どうしてかまだ眠い。起きていようかとも思ったが、一度横になるとなかなか力が入らない。短い時間だろうが、どうせ司が起こしに来るのだ。欲に抗うことはせず休んでしまおうと、類はそっと目を閉じた。


    ***


    くったりと眠っていれば、再度司に起こされた。夕食の準備が出来たと手を引いて起こされ、少し寝ぼけていればくしゃくしゃに乱れた髪を整えられる。正気を段々と取り戻した類はそれを乱雑に振り払って、食事の前に餓者髑髏の様子を見たいと呟いた。未だ不調が改善されていないであろう類の頼みを断る選択肢は司にはなく、いいだろうと大きく頷いて玄関まで連れて行った。少し古い引き戸を開けば、何体もの小さな妖怪が途端に中へ流れ込んできた。

    「あっ、こら!類はまだ元気ではないんだぞ!」
    「ふふ、待っててくれたのかい?いい子たちだね」

    足元に集ったそれらを一つ一つ頭を撫でてやりながら、類はふらりと玄関を出る。見上げた先に夜空はなく、代わりに月明かりに照らされた巨大な骨がぬらりと光る。ああ、雨は上がっていたのか。頭の端でぼんやりとそんなことを考えながら類がそちらへ手を伸ばせば、餓者髑髏はギシギシと音を立てながら類へ甘えるように身を寄せた。

    「すまないね、心配をかけてしまった。僕なら大丈夫、すぐに良くなるさ」

    類に撫でられ、その言葉に安堵したのか餓者髑髏は再度身を離すと静かに夜空を見上げる姿勢に戻った。まるで飼い主の帰還を待つ忠犬だ。それにしては巨体が過ぎるけれど。
    君たちも心配しないでくれと類が笑えば、小さな彼らは納得したように餓者髑髏の側へと戻っていく。類にまだ休養が必要であることを理解しているらしい。

    「……おまたせ司くん。行こうか」

    引き戸を閉めて振り返り言う類に、司は少し戸惑った様子でああと頷き類の背を支えて廊下を進む。その怪訝な表情にどうかしたかいと類は首を傾げた。

    「ああ、いや……お前、そんな風に話せたんだなと思って」
    「そんな風に、とは?」
    「……年下の子の面倒を見るような、優しい声を出すとは思わなくてな」
    「……彼らは友だちだからね」

    先刻より幾分か低い声に苦笑しつつ、ああだけどと司は思案する。
    出逢ったばかりの、互いに警戒心を剥き出しにして睨み合い言葉を交わしていた頃よりも、随分類の話し方は柔らかくなったように司には思えた。心を許された、というわけではないにしろ、どこか敵のように認識されていたのは払拭されているらしい。
    それがなんだか嬉しく思うと同時に、彼らへ向けたのと同じ声色がいつか自分のことも呼んでくれたならなどと司は思い、そしてなぜそんなことを思ったのかと自らの思考に首を傾げた。

    「お兄ちゃーん?ご飯冷めちゃうよー?」
    「はっ、咲希!すぐに行く!さぁ類、行くぞ」
    「ああ、御相反に預からせてもらうよ」


    * * *


    天馬家の食卓は賑やかである。元々一般家庭より活気のある母に妹、そして司の三人に加え、彼が従える狐狸を初めとした幾つかの妖怪が一同に介する。その中の一席に案内され、類は落ち着かない様子で辺りを見回した。妹の咲希はお兄ちゃんが友だちを連れてくるなんてと嬉しそうに挨拶をしてくれたが、友だちではないのでどう反応をするのが正しいか類には分からなかった。とりあえず、否定をしない方が丸く収まるだろうと思い大人しくすることにした。

    「えっと、神代さん、でしたっけ?妖力空っぽになっちゃったって聞いたから、心配だったんです!たくさん食べてくださいね!」
    「……類、で構いませんよ。有り難く頂きます」
    「こら咲希、類は体調がまだ優れないんだ、無理はさせるなよ。類、無理せず食べられる分だけで構わないからな。あまり食欲もないだろう」
    「そうだね……ありがとう」

    今日の夕食のメインは、寿司桶いっぱいに敷き詰められたいなり寿司だった。なんでも狐狸が前々からリクエストしていた品を用意したのが今日だったらしい。司は当然のように類の分の皿を手に取ると、いなり寿司を二つとレンコンの挟み揚げ、それから菜の花のおひたしを盛り付けて彼の前に置く。傍らには、麩のお吸い物も待ち構えている。ふわりと香る食事の香りは優しく、食欲を刺激するものに違いなかった。

    「では、いただきます!!」
    「いただきまーす!」
    「…………いただきます」

    大きな挨拶を皮切りに始まった賑やかな食事に、類も小さく手を合わせ彼らに倣う。わざと司の皿からいなり寿司を奪う狐狸や、笑いながらも上品に食事をする咲希にお吸い物の出来に満足してそうな母親。司は食事中ということで礼儀正しくありたいのだろうが、狐狸の悪戯を悔しそうに声を張り上げていた。
    それらを眺めながら、類はいなり寿司をそろりと口に運ぶ。よそってもらっておいてなんだが、そもそもレンコンも菜の花も嗜好として食べられそうにない。

    (………おいしい)

    じゅわりと広がる旨味に目を細めて類はそれを咀嚼する。誰かの手料理は久々だった。母や父がたまに帰ってきた時も、殆どが出来合いのものや出前を頼むことが多かった。類はそれを気にしたことはなかったし、親と共に食卓につくのが嬉しかったので食べるもの自体は嫌いなものでなければなんでもよかったのだ。

    (けれど、あまりにも……違いを感じる、かな)

    目の前で繰り広げられるやり取りに、人間と妖怪の境界はなかった。正に共存と呼べる光景。わざわざ妖には必要のない食事を用意して、共に食卓を囲んで当然のように笑っている。

    それは、類が幼い頃に夢見た光景だった。
    両親にも彼らの姿が見えたらどれだけ楽しいだろうと思った。自分の感じる美味しさや楽しさを彼らと共有出来たらと思った。誰に何を言われても諦められなくて、彼らを友と呼んで家へ連れて行ったり遠くまで遊びに行ったり、なんでもした。
    それでも、この光景に届くことはなかった。

    共感する人間はおらず、感覚の異なる妖だけが心の拠り所だった。歳を重ねるにつれ、おかしな行動ばかりで親を困らせていたことが申し訳なくなって迷惑をかけないように仕事を優先していいと大人ぶった。市販の弁当は美味しいし、妖怪を友と呼ぶ日々も充実はしていた。
    だけど、自分はもしかしたら。

    「──類?」

    翳る思考を声が遮る。ふっと顔を上げれば、狐狸から取り戻したいなり寿司を飲み込んだ司が類を見ていた。

    「あまり箸が進んでいないようだが、大丈夫か?」
    「あ……うん、やっぱり、あまりお腹が空いていなくてね」

    かろうじて食べきったいなり寿司一つに息を吐いて、類は箸を下ろす。

    「すまない、司くん。もう少し、部屋で休ませてもらってもいいかな」
    「ああ、構わんぞ。ほら、立てるか?」
    「そこまでじゃないよ、大丈夫」

    一人で部屋に戻ろうとした類を、司は箸を置いて手を引いた。食事中に席を立たせるなんて悪いことをしたな、なんて他人事のように思いながら、類は司の家族にすみませんと頭を下げると食卓を後にする。咲希も母親も、気にせずゆっくり休むようにその背に声をかけてくれた。類の代わりに司が任せろと返事をして、頼んでもいないのに体を支えて部屋まで付き添ってくれた。

    「類、着いたぞ」

    類に自覚はなかったが、その顔は夕食の前よりもひどく青白いものになっていた。万全でないのに無理を通したからだろうなと推察して、司はそれも少し違うなと息を吐いた。無理を通す前に、無理をしている自覚すらないのが問題なのだ。

    「さぁ、横になれ。頭痛とかはないか?」
    「……大丈夫。気にしないで、君は食事に戻るといい。僕は、寝ていれば楽になるから」
    「そうは言ってもな、心配するなという方が難しい容態なのを自覚してくれ」
    「……ふふ、そもそも、君が僕を心配する義理なんて、ないだろうに、」

    奇特な性格をしてるよね、と類が眠そうに瞬きを繰り返しながら言う。こっちの台詞だと司は肩を竦めた。

    「……まぁ、眠れそうならそのまま休んでいろ。後でお吸い物の残りか、頂き物だがゼリーがあるから持ってこよう。それくらいなら食べられるか?」
    「どうだろう、でも、いただくよ」

    完全に眠りに落ちるまでは戻らず見守っておこうと、司はるの頭を撫でる。幼い頃、咲希が眠れないとぐずった時もよくこうしていた。類は歳も同じで背も自分より高いけれど、今は弱っているからだろうか、妹ほどではないにせよひどく小さく、幼くも見えた。

    「……司くん」
    「うん?どうした、類?」
    「きみの家は……素敵だね」
    「そうか?……そう褒められるのは、悪い気はしないな」
    「僕は……ぼくも、こんなふうに………」
    「……類?」

    すとん、と瞼が閉じて、数秒後には穏やかな寝息が聞こえ始める。途切れた言葉の続きがいつか聞けたらいいなと思いながら、司は音を立てないよう静かに部屋を後にした。


    ***


    ズキン、ズキンと音がしたような気がして類は瞼を開く。暫くぼんやりと天井を見つめて、それが音ではなく頭痛だと理解すると目覚めなければよかったとひどく後悔した。無理にでも眠って痛みを誤魔化してしまおうかと思ったが目を閉じてみても睡魔は痛みに遮られる。
    諦めて助けを求めようかと再度目を開けたところで、隣にずっと司がいたらしいことに気がついた。床に教科書を置いて、膝に抱えたノートになにかを書いている。宿題でもこなしているのだろうか。随分と集中しているらしく、それを邪魔するのは気が引けたが頭全体を襲うような痛みを類は堪えられそうになかった。

    「……司くん……」
    「む、起きたか類。……どうした?どこか痛むか?」

    険しい表情から察したらしい司の手が気遣うように背を撫でる。頭が痛いと弱々しく類が告げれば、司は黙って彼の額に手をやった。

    「熱はないな。手足に痺れはあるか?吐き気は?」
    「ない……頭痛だけ、だね……」
    「そうか、案ずるな、妖力欠乏の典型例だ。薬を持ってこよう、なにか腹に入れるものもな」

    つらつらと半ば一方的に話した司は手慣れた様子で頷き部屋を出ていった。よくわからないが、この痛みが緩和されるならなんでもいいかと類は頭まで布団を被った。少しの間そうして頭痛に堪えていると、足元でもぞもぞと何かが動く。なんだろうと不思議に思ったがわざわざ正体を探る気力もなくて放置していれば、それは次第に位置を変え遂に類の顔の側まで登ってきた。

    「……ふふ、なんだ、君たちか」

    そこには小さな獣の姿でころころと笑い転げる狐狸がいた。類が安心したように呟けば、狐狸はそれぞれ頭や肩に飛びついて小さな手で類を撫でてきた。痛みを和らげようとしてくれているのだろうか。彼らも彼らで凄まじい妖力を放つ強者なのを身を持って知ってはいるのだけれど、こうもぬいぐるみのような姿でいじらしい行動をされるとそれと同一の存在とは思えなかった。

    「待たせたな類、……こら、狐狸。こんな時に悪戯をするんじゃあない」

    いつの間にか戻ってきた司が布団をめくると、バレてしまったとばかりに二匹は部屋を抜け出していった。困った奴らだと嘆息をする司に支えられて類は体を起こす。ちらりと盗み見れば彼が持ってきた盆の上には薬と水の他に、高そうな甘味がちょこんと小皿に乗せられて待っていた。

    「……ゼリー」
    「ああ、夕食の時お吸い物には手を付けてなかったようだったからな。これなら食えるか?」
    「……うん、甘いのは好きだよ、ありがとう」
    「そうか、それはよかっ……ん?好き嫌いで食べてなかっただけかお前」

    疑わしげにこちらを見る司に、類はお吸い物に浮かんでいた人参の姿を思い出しながらゼリーをスプーンに掬った。食欲がなかったのも事実だが、食べられる分だけでいいと言ったのも司だ。
    咀嚼するのも面倒だが、少なめに掬ったゼリーはするんと喉を通ってくれる。それにどこか安心しながら、類は優しい甘さのそれを思っていたよりも順調に食べ進められた。司は呆れ顔をしながらも類がそれを食べきるのを待って、空になった皿と薬を交換した。手渡された水でそれを飲み干すと、漸くの安心感で頭痛がほんの少し引いた気がした。

    「よし、飲んだな。横になってるといい、じきに薬が効いてくる」
    「んん……目が冴えてしまったよ」

    頭痛と食事ですっかり閉じなくなってしまった目に類がため息を吐くと、そんなに酷いのかと司の手が額を撫でた。少しでも痛みが和らげばという心遣いなのだろう。それを有り難く受け取りながら、類は目を細めて口を開く。

    「君は……本当になんというか、世話好きだね」
    「……そうでもない。エゴのようなものだ。しつこすぎてお前には嫌われていたようだしな?」
    「本当にね」
    「お前は少しは遠慮とか気遣いを覚えろ」
    「安心してくれたまえ、君限定だよ」

    どこかで聞いた台詞だ、と司は類から手を離した。

    「……初めてじゃないんだ」
    「え?」
    「妖力のせいで、倒れた人を看るのは、初めてじゃないんだ」

    いつの間にか戻ってきていたらしい狐狸が、ぽんと音を立てて姿を変える。そこには年端も行かぬ幼い少女と、司によく似た幼子がいた。少女の髪色は少年によく似ていた。ならば、この子達は。

    「……昔の、君たち兄妹、かな?」
    「……そうだな。オレは昔、オレのせいで咲希を傷つけたんだ」

    意外だと類は思った。過保護なくらいに類に力を使い過ぎるなと口を酸っぱくする司が、それを用いて誰よりも愛するだろう妹を傷つけた過去があったなんて。そう考えて、おそらくは事故なのだろうなと類は行き着いた。年端の行かない、考えの及ばない子どもの頃の話だとしても、天馬司という男が故意に他者を傷つけようとする人間には思えなかった。そんな人が、妖と信頼を築き従えられるとも思わない。

    「事故、だったんじゃないかい」
    「よくわかるな。……そうだな、事故だ。でも、オレが傷つけてしまった事実は変わらない」

    聞かせてほしいな、と類は呟いた。彼のことを知ろうとしたことはこれまでなかった。でも、司が珍しく泣きそうな顔をしていたから。ああそうかい僕には関係のない話だと放り出すのは簡単だったのに、どうしてもそれが出来なかった。泣きたければ、自分の前でなら許されるんじゃないかと思った。守るべき妹や見栄を崩せない友の前ではない、何者でもない関係性の自分の前でなら。だから吐き出してみなよと、不器用に促してみせた。

    「狐狸と契約して間もない頃のことだ。オレは幼いながらに妖怪との主従契約を結んだために座学が追いついていなくてな。すぐに猛勉強が始まった。それ自体は実に充実した毎日だった。だがオレは、まだ考えも幼かった。早く一人前になって不浄を救い、みんなの笑顔を守れる人になりたいと気持ちばかりが前に出ていた」
    「……司くん、らしいね」
    「馬鹿にしていないか?」
    「まさか。純粋な、評価さ。君らしい、まっすぐな、優しい希望じゃないか」
    「……ありがとう」

    司は少しだけ照れたようにはにかんだ。

    「だがオレは、本当に未熟で……まだまともに扱えもしない妖力を行使して、暴発させた。それを咲希が思い切り浴びてしまってな」

    咲希は生まれつき体も弱く、天馬の一族でありながら妖力もさほど強くない少女だった。そこへ狐狸の強大な妖力を、司という才ある少年を通して受け取ってしまった。妖力は、枯らすのも良くないが容量以上に溜め込むのも危険である。本来は妖同士が力比べに用いるか、人間を介して不浄を食らうために扱われる力だ。存在自体が人体に適していない。だからこそ個人に合わせ、適宜力の扱い方を見極め限度を定める必要がある。それを、か弱い少女が何事もなく受け止められるわけがなかったのだ。

    「咲希はそれから一週間寝込んだ。ひどい頭痛に魘され、食事も摂れないのに何度も吐いた。体の痛みで眠ることも出来ない日は、辛い苦しいと泣いていた。……オレが、そうさせたんだ」
    「司くん……」

    司が膝の上で、ぎゅうと力強く手を握り込むのが類の視界に映った。そんなに強く握っては、肌に爪が食い込んでしまう。折角、優しい手のひらなのに。傷がついてはもったいない。そんなことを言ったら笑われるだろうかと、悩みながらも類はその手に自身のそれを伸ばし重ねた。うっすらと涙を抱えていた目がはっと見開かれた。

    「君の苦しみは、尤もだけれど。それで君が自らを責めては、咲希くんは、もっと苦しいだろう。……尊敬する兄を泣かせたと、思ってしまうよ。君が、愛する妹を泣かせたと、自責するように」
    「……類……」
    「それに──少なくとも僕は、そんな過ちを犯した君に、助けられてしまってるんだよ」

    薬が効いてきたのか、あれほど騒がしかった頭痛が静かになっていた。それと共にゆらりとした眠気が漂ってきて、類の言葉尻が曖昧になる。それでも、出来れば、伝えなくては。もう誰かに言葉を、想いを伝えるのはやめたはずなのに。頑張っても届かないこともあると知っているのに。
    なのにどうして、司に届けようとすることを、やめられないんだろう。

    「君が僕に、しつこく声をかけていなかったら、僕は君のことを知らないまま、だったし……こうやって、君の家で休もうなんて、おもわなかった」
    「……うん」
    「君が僕を、見つけてくれなければ、今も外で、ねむっていた……きみがぼくを、気にかけるから、それに寄りかかってみてもいいかなと、おもったよ」
    「うん……っ」
    「……ねぇ、司くん」

    類は笑った。施しを意識するように、けれど無意識に優しく。まるで、親しい友に見せるそれのように。

    「少なくとも、今ここにいる僕は、司くんに命を救われたから、ここにいるんだ」

    だから、ちょっとくらい誇りなよ。子どもの頃よりもたくさん学んで、強くなって、過ちを繰り返さないように手を伸ばせた自分のことをさ。

    その台詞は言葉にはならなかった。ただ、落ちた雫が重ねた手の甲を滑り落ちて、力の解けた手が類の頭を撫でるから。たぶん、伝わったんだ。単純なその答えが、類をひどく安堵させた。人と人の間にも、届くものがあるらしい。それを初めて叶えられた達成感からか、とろりと瞼が落ちた。なんだか、いやにどろりとした眠気がある。心地好いというよりは、半ば強引に寝かされているような、けれど抗おうとも思えない睡魔だった。

    「類……?ああ、薬が効いてきたのか……構わん、そのまま眠るといい」
    「……司くん、……ねぇ、ちゃんと…伝わってる、かい………?」
    「伝わってる、伝わったとも。……ありがとう、類。……おやすみ」

    想いが伝わったなら、それならよかった。安心感に意識を預けて、類は何度目かの眠りに落ちた。


    ***


    静かに注がれ続けた水が桶から溢れるように、あるいは枯れた葉が枝からほつりと落ちるように、類は不意に目を覚ました。
    先刻まで感じていた頭痛はおろか、全身の怠さよ随分と引いている。全快とは言えないにしても、充分動ける程度だろうか。身を起こしながら、司にそう言えば念のためにもう少し休めとか大事を取ってもう一晩泊まっていけとか、大袈裟なことを言われかねないなと類は笑った。

    「……ん、これ……司くん?」

    起こした体をぐっと伸ばして意識を落ち着けると、枕元に一枚の置き手紙が添えられているのに気がついた。丁寧で綺麗だが、どこか大仰な彼の動作を思い起こさせる字だった。そこには、部屋にいるから何かあったら声をかけるようにと記されている。その下には家の中の地図まで書き足されていて、彼の部屋がここからそう遠くないこともわかった。気にせず眠っていればいいものを、まったく律儀なお人好しだ。類は肩を竦めて立ち上がる。一瞬ふらついたが、寝起きの立ち眩み程度のものだ、問題はないだろう。

    司が起きてきたら、きっと真っ先に様子を見に来るだろう。それが簡単に予想出来てしまうのが愉快だった。けれど笑い飛ばすことはせずに、出来るだけ真摯に礼を言わなくてはならない。彼と自分の確執を感じずにはいられない。住む世界が違うことを充分理解はしたが、それでもこうして平時の通りに歩けるのは彼が手を尽くしてくれたおかげだ。食事だって世話になった。義には報いるべきだろう。

    そうして真面目に告げた礼に、司は驚くだろうか。まだ体調が悪いんじゃないかと失礼なことを宣うかも知れない。そんな様子を想像して無自覚に口角を上げる類の脳に、ぴりりと電流が走る。

    ──不浄だ。そう遠くない位置。だがまだ早い時分、天馬家の者はみな眠りこけ、その気配に気付いていなかった。

    「……そう、だね。僕の役目は……これだったね」

    一人言葉を零し、類は司の置き手紙の裏に文字を綴る。お世話になりました、と。きちんと礼が出来ないのは申し訳ないが、それも仕方ないことかと納得した。だってさっきも思ったけれど、所詮彼と自分は住む世界が違うのだから。
    環境に恵まれ自らの力を信じ手を伸ばせる彼と、届けることを諦めてしまった無力な夢想家とじゃあ、なにもかもが違いすぎたのだから。

    乾かされた服は部屋に置いてあった。それに着替え、まだ覚束ない足取りで、類は司の地図を頼りに玄関へ向かう。きっちりと靴の揃えられた玄関の隅には、場違いだと言わんばかりに収まる自分の靴もあった。それを躊躇いなく履いて、類は扉を開く。ガラガラと響いた音が思いの外大きくて焦ったが、それよりも妖たちが嬉しそうに飛びついてくる安心感が勝った。そうしてやはり、自分の居場所はこちら側なのだと認識する。彼らの、人間の側にはそれはなかったのだと。

    「餓者髑髏」

    ゆらりとこちらを覗き込む骸骨に、類は微笑む。もう大丈夫と伝えるように、そして為すべきことはわかっているねと訴えるように。餓者髑髏は静かに頷くと、早朝の控えめな日をその背に浴びながらそっと類をその手に担ぎ上げた。

    「──行こうか、餓者髑髏」

    全身に朝日を浴びると、途端に呼吸が乱れた気がした。あの穏やかでゆっくりと流れる時間の中で眠ったことさえ、溶かされて忘れてしまいそうなほど眩しい光だった。
    手を伸ばしたら、この身さえ溶かされそうな、そんな。

    「……じゃあね、司くん」


    ──彼と自分との間に、届くものがあったのだとして。
    彼の周りに在る理想郷に僕も入れておくれなんて、類には望めもしない言葉だったのだ。

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    ichizero_tkri

    DONE12/12頒布の将参(🌟🎈)同人誌の書き下ろし分の、🔞シーンをカットしたものをこちらに再録します。
    行為を匂わせる描写はありますが、18歳以下の方もお読みになれる全年齢対応編集版になっています。
    ◆それから愛は未来を唄う


    「──うむ、良い報告書だ。ありがとう、下がっていいぞ」

    部下の一人から差し出された報告書に、ツカサは微笑を携えて頷く。ありがとうございます、と返した部下は深々と頭を下げ、その傍に控える元参謀にも和やかに会釈をして執務室を去っていく。未だ慣れないながらも、ルイも小さく頭を下げる。

    かつて──大臣に道具として飼われていた頃は、こうも心穏やかに職務に励むことなどあっただろうか。それを労わるように頭を下げられることなど。ツカサにこの心身を捧げ、仕えるようになってからもう随分と経つが未だ、慣れない。──というよりは、落ち着かない、気恥ずかしいという言葉の方が相応しいのかも知れない。

    一人静かに戸惑うルイを横目に、ツカサは先刻受け取った報告書に再度視線を落とす。黒い油の研究経過報告書。あの大臣が、ルイを遣わしてまで奪おうとした理由もわからないでもない。どうやらルイは、現存する大臣の部下の中でもとりわけ実力のある人物であったらしい。それだけ早々に心を殺して操り人形になることを選択した結果なのだろうと思うと、手離しに褒めてやれる気分にはなれない。いつか見た夢の、幼い姿の彼を思い返す。あんなに小さな頃から、家族という拠り所を失い一人苦悶の中生きてきたのだろう。ツカサはその顔に痛みを浮かべる。この幼子の道筋に思いを馳せる度、同等と呼ぶには傲慢な感情に胸が痛むのだ。
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