「明日から暫く相手出来んぞ」
ぱちん、と音を立てて腿の留具を締めた類に、ベッドメイキングを終えた司が言う。先刻までの乱れた空気はどこへやら、すっかり熱の収まった頭でああと答えながら類はネクタイに手を伸ばした。
「例の、厄介そうな仕事かい?」
「まぁそんなところだ。外泊になるかも知れないから、うちに来ても相手をしてやれないと思う」
「人をいつでも盛ってるみたいに言わないでほしいけれど、まぁ了解したよ」
僕も明日から忙しくなると思うからときっちりとネクタイを締めた類に、お前はいつでも忙しそうだと司は言う。暫く現れないかと思ったら随分と疲れた様子で現れて、休息よりも食事よりも抱かれることを望んでくる。お互いの存在がこの場にある時点で求められる行為はそのたった一つだけのはずだと言わんばかりに艷やかに誘いかける類に、抗えずその悦楽に手を伸ばし心行くまで食い尽くしてしまう自分も堪え性がなくて愚かしいと思うけれど。
ベストのボタンを止めて革の黒手袋を装着し終え、家へ訪れた時と変わらない様子に身なりを整えた類は、よもやつい先刻までここに激しい交わりが存在したとは思えないほど潔癖に見えた。あの劣情に蕩けた目は今やすっかり淡々とした色に戻っていて、相変わらず生気を感じさせないと司に憂いを覚えさせる。確かにその場に立っていて平時の調子で話してはいるのだけれど、一つ間違えれば一瞬にしてその魂が砕かれてしまうのではないかと思わされるような、そんな抑揚のない双眸をしているのだ。
(……こちらが素、だとは思いたくないがな)
司に組み敷かれている時には、あんなにも爛々と目を輝かせ恍惚に表情を染めて笑うのに。行為を終えて満たされ意識を切り替えた彼は、冗談も通じなさそうな冷徹なエージェントそのものの立ち振る舞いをする。それこそが類の生きる道だと理解はしているのに、それでも司はその目で語る類をどこか煩わしくさえ思うのだ。
「──類」
エージェントの姿に戻り、部屋を去ろうとする類を司は呼び止め、引き寄せた。生気のない目を丸くさせる彼の唇に噛みつき舌を這わせれば、ぴくりと震えた後にゆっくりと受け入れられる。柔らく肉厚なそれを味わい割り開けば、身を焼かれるような熱さの口内に迎え入れられる。逃げ場のないように彷徨う舌を捕まえて絡ませれば、淡々とした色の目が僅かに融けた。
ああ、この瞬間が堪らなく愛しいのだと、司は甘ささえ感じる舌をじゅうと吸い上げた。悪を滅することになんの躊躇もなく心を動かされることもないとでも言いたげな冷徹な表情が、司からの快楽には滅法弱くこうも容易く色香を纏ってしまうのかと思うと、言いようのない優越感に包まれる。
時間が許すのならばこのままもう一度、恐ろしいくらいに整然と着込まれた衣服を引き裂いてその白い肌に噛みついて、己だけが侵入を許された奥深くを暴き欲にまみれた獣のように抱き潰してしまいたい。抑揚のない言葉を嬌声に飲み込ませて、人形のように固まった表情を快楽に染め上げて、悦に堕ちたへらりとした笑みで告げられる減らず口と共にもっと犯してほしいと強請らせたい。
だが、互いの置かれた環境がそれを許さないのだ。最後に強く吸い付けばくぐもった喘ぎが微かに漏れて、それをなんて官能的な音なのかと浸りながら司は唇を離した。解放され肩で息をする類の目は、もう教育された犬のそれではなかった。すっかり、司に食われるための餌と化していた。それを間髪入れずに味わってやれたならどれだけ心地好いものかと悔やみながら、司は濡れた唇を指先で拭いながらすまないと告げる。
「キスがしたくなった。性急なことをしたな、悪かった」
「……別に、構わないけれど。足りなかったかい?もう一度、するかい?」
ちらりと綺麗に整ったベッドを一瞥しながら言う類に、よくもまぁこの反応で盛ってばかりいるのは司の方だなどと言えたものだと探偵はしみじみ思う。かといって司も欲が強いのは類の方だろうなどとは言えなかった。お互い様だ。類は司に抱かれることを望み、自分はその行為に娯楽性を見出し楽しんでいる。お互いにもっと悦びを得たい、楽しんでいたいと思うのは、致し方ないことなのかも知れないと思った。
「そうしたいのは山々だが、明日からの仕事のためにもお互いやめておいた方が身のためだろうな」
「……それもそうだね。フフ、そんな調子で明日から我慢していられるのかい?」
「だから、人を堪え性のない駄犬のように言うな。今ので充電しておいたとでも思っておけ」
それじゃあと色を取り戻した目が細められる。その様に妙な安心感を覚えながら、司は自身の唇をなぞる細い指先を静かに受け入れた。
「お互いの仕事が落ち着いてまた夜を共に出来るまで、大人しく我慢していてくれ。いくら君でも、そのくらいの"待て"は出来るだろう?」
「……お前こそ、オレより早く戻ったからと言って一人遊びに耽ることなどないようにしておけ。また一から駄犬の躾をしなければならないのは、大変だからな」
口の減らない、とお互いに笑った。そうして引き留めていた手を解けば類の指先も離れていって、お互い死なないようになどと宣うと手を振り部屋を出ていった。いつか渡した合鍵によってしっかりと外からも鍵のかけられた玄関扉を視認し、司は深くため息を吐いた。
「……娯楽に気を注いでばかりも、よくないな」
明日からの仕事に集中しなければと、机の書類を手に取る。浮気調査から始まったはずの対象の捜査は、彼が非合法薬の売人との関わりが深いとの調査結果を導いてしまっていた。探偵仲間の杏は、別件の捜査で手を借りられない。何しろ執念深く追っている怪盗の犯行予告が出されているのだ。今度こそ捕まえてみせると息巻いていた彼女を、わざわざその信念に水を差してまで危険な仕事に付き合わせたくはない。
(……とにかく、今後に備えて今日は眠り……明日からは取引現場と予想される箇所で張り込みだ)
街の平和を脅かすものを、知っていて放置など出来まい。この街を愛し奔走する探偵として為すべきことだと、司は未だ色香の強く残る寝室へと戻っていった。
* * *
「ふーん、つーまーりー? ボクをフェイクに使うつもりってワケだ?」
「……別段行動を指示するつもりはこちらにはない。今話したように、君が起こす騒ぎを利用して警察や組織の目が自分たちへ向かないことを目論んだ密売グループの作戦の通り、君はそのまま好きに盗みを働いてくれたらいいだけだ」
類は話しながら作戦資料を一枚怪盗へ手渡した。暗い路地裏で口を尖らせるかの怪盗は、今ばかりはあの鮮やかな衣装には身を包まず夜の暗闇と同化せんばかりの闇色のワンピースに身を包んでいた。
「要は、向こうの思惑にわざと乗るんだね。ボクは予告通りカワイイお宝を盗み出す。逃げるボクや現場に警察が集まるから、ボクの逃走経路とは逆でありながらすぐ近くにある建物で取引を済ませようってのが向こうの作戦なんだね」
「組織のスパイによる情報だから、信用性は保証する。君には予定通り逃げてもらって構わないけれど、万が一逃走経路を急遽変更するようなことをされたらこちらの戦闘に巻き込みかねない。だから──」
「無関係の被害を出さないためにも、ってことだね。オッケー、わかったよ」
手にした書類を折って紙飛行機にしてしまいながら、それにしてもエージェントさんは優しいねと怪盗は笑った。
「巻き込みたくないのはボクだけじゃなくて、この作戦を知らない警察の人たちや……それから、あの探偵ちゃんとかもでしょ?」
「……僕の組織は政府に変わって悪を叩き、裏から街の平和を守るためのものだ。民間人に被害がないようにするのは当然だよ」
「あはは、そっか。でもわざわざ報せに来てくれてありがとう」
表立って行動を起こせない政府に変わって暗躍するのが務めだ、礼を言われるようなことはなにもないと、類は投げ飛ばされた紙飛行機を受け取った。随分と丁寧に折り畳まれたそれを見下ろしていれば、どうしたのと怪盗が笑った。
「そんな懐かしいもの作るなんて子どもみたいーとか思った?」
「……懐かしいものなのかい、これは」
「え?」
「……僕は、紙飛行機の折り方なんて知らないなと思っただけだよ」
淡々と言葉を返し、類は先刻の飛ばし方を真似て紙飛行機を怪盗へと投げ返した。揺らいだ航路を経て地面へ落ちようとしたそれを寸でのところで拾い上げて、あのさぁエージェントさんと怪盗は目を伏せながら呟いた。
「組織に忠実だったりボクたち民間人のために頑張ったりしてくれるのは、ボクはすごく優しいなーって思うけどさ」
「……?」
「なんていうか……もうちょっと、自分の欲しいもののために頑張ってもいいっていうか、自分に一番甘くしちゃってもいいんじゃないかなーって思うんだけど」
そういうのって組織的に駄目だったりするのかなと眉を下げる怪盗に、エージェントは首を傾げながら背を向けた。紙飛行機なんて折れなくても、銃の引き金を引く覚悟さえ持っていれば任務は熟せてしまうのだ。
「特別欲しいと思うものはないし、僕は僕を生かしてくれた組織の理念に共感して従っている。君の思うような苦労はないよ」
「……そっか。"類"が、本当にそう思うなら、それでいいよ」
ひらりと手を振って、類はその場を立ち去った。よくわからないことを言われたなと、帰路を辿る道すがらで立ち止まる。
(……間違えた。こっちは司くんの家方向だったな)
自宅よりもすっかり通い慣れてしまった道に呆れながら、類は改めて帰路に戻る。腹の奥底が疼きを訴えたような気がして、今日は昂るほど激しい任務を行ったわけではないのにと訝しく思いながらも、組織から与えられた古いアパートメントの一室に辿り着き鍵を通す。彼の部屋の合鍵よりずっと見慣れない自宅のそれに違和感さえないまま、軋む音を立てて開く木製の扉の中へと入る。
狭いワンルームに広がる書類の山。閉じきったままの薄いカーテンの向こうから月明かりが射していて、明るくて今夜は寝付けなさそうだと胸元と腿の銃を外し、部屋の中央に鎮座する小さいソファーに寝転んだ。
(…………欲しいもの、か)
今宵も安眠には程遠いのだろうと、眼鏡を外し目を閉じる。明後日にはこの作戦の佳境だ、僅かばかりでも眠らないわけにはいかない。
(特別そんなものは、ないけれど……でも……)
遠い悦楽を思い出した。触れる熱に、力強く呼ぶ声。躾がなってないと宣い腰を振る、荒々しい駄犬のくれる快感が、行き場のない昂ぶりを落ち着けてくれる唯一だった。敢えて求めるものがあるとするなら、欲していると例えるならば。
(司くんの家は、よく眠れたな)
あの空間で時間も忘れて重なっていられたら、嬉しかったかも知れない。
* * *
張り込み二日目にして遠方から聞こえた騒ぎに、そういえば件の怪盗の犯行予告は今夜だったかと司は思い出した。今頃華麗に逃げ去るあの妖しくも美しい怪盗を、杏が吠えながら追いかけ回していることだろう。騒ぎの大きさからして、かなりの人数の警察が集まっているらしい。怪我人が出なければいいがと思案しながら窓の外を窺っていた司の視界に、それは映った。
(来た……!)
向かいのレンガ造りのアパートメントは、古い建物である故か最早誰が管理しているかもわからない廃墟だった。街中にぽつんとあるそこに時折ホームレスが彷徨いているのを目にしたことがあるほど人の寄り付かない建物。そこに、それなりに身綺麗な男たちが数人入っていく。
その中に確かに自分が浮気調査の対象としていた人物がいて、かの依頼主もとんだ悪党と結婚をしてしまったのだなと僅かながらに同情した。捜査が間違いであれば、あなたの旦那さんに浮気相手などいなかった安心してほしいと報告出来たのに。
司は護身用のスタンガンだけを忍ばせて、張り込み用の借家から静かに飛び出した。遠くの喧騒にどうかこちらへ火種を巻き込んでこないようにと願いながら、足音を殺し慎重にその古い扉をくぐった。
(……近くに物音はない。階上か?)
崩れ落ちそうな階段を上がれば、微かに人の声が聞こえてくる。司は懐のレコーダーの録音スイッチを押して忍び足に進む。現場写真も抑えてしまいたかったが、さすがにシャッター音を誤魔化すための用意はない。音声記録とこれまでの調査記録があれば十分な証拠になるだろうと、声の聞こえる奥の部屋へと近寄る。
「──……れが、例の……」
「ああ、間違いないな。代金だ、確認しろ」
確かに聞こえた会話に確信を抱きながらそっと覗き込む。そこには今まさに、非合法の薬品と大量の札束が交換される瞬間があった。逃れられない決定的瞬間だと唾を飲み込む。あとはその会話が一段落するまで待って、見つからないように奴らが去るのを隠れてやり過ごせばいい。
「──誰かいるのか?」
「……ッ!?」
こちらに向かって声がかけられて、司は息を飲んだ。物音は立てていなかったはずだ。それがどうして。咄嗟にスタンガンに手を伸ばすが、その場にいる全員を相手に出来るだろうか。多少の護身術は身につけているが、相手はおそらく銃やナイフ等を所持しているだろう。さすがに弾丸を避けられる自信はなかった。それでも、やるしかない。一つ深呼吸をして汗の滲む手のひらにスタンガンを握り込んだ瞬間、バキリと何かの壊れる音と短い悲鳴、それから焦りを含んだ怒号が聞こえた。
「ッ、お前いつから……ぐっ!」
「……!?」
響く銃声に反射的に肩が跳ねて、勢いよく室内を覗き込んだ司の目に、見慣れた姿が映った。佇まいはすらりと美しく、しかし生気のない機械のような冷たい瞳で手にした銃の引き金を引く彼は、紛れもなく自分が飼い慣らし続けた猛犬の、類であった。
「類……ッ!?」
「……? 司くん。奇遇だね。危ないよ」
任務中だからなのか淡々と返した類にまるで別人のようだと一歩後退すれば、類は躊躇いもなく襲ってくる男たちへ弾丸を撃ち込む。飛び散る鮮血も苦悶に満ちた悲鳴にも何一つ感じることはないと言わんばかりに次の行動へ移る類は、まさに冷徹なエージェントそのものだった。自分の家で、熱いものが欲しいと腰を振る姿とは似ても似つかないと言葉を失う司の前へ、現場から逃げ出した男がナイフ片手に迫っていた。
「ッ、司くん……!」
瞬間、弾切れを起こしたらしい片手の銃に舌打ちを零した類の顔が一瞬にして色を取り戻して、強請る時と同じように名を呼んで吠えるものだから、司は心底安堵してしまった。ああなんだ、そこにいるのはちゃんと神代類だったのだと。安心感に自然と体は動き、突き出されたナイフを腕ごと抱えるように避けて司は自分よりも体格のある男をがばりと持ち上げ、床へ叩きつけた。護身術もそれなりに役に立つものだと、スタンガンを振り上げる。
「──クソが……ッ!」
「なっ……!」
だがそれが、倒れた男の足に蹴上げられて手のひらから零れ落ちる。しまったとそちらに目をやり力が抜けた一瞬で突き飛ばされて、その場に尻餅をつく。司がハッと顔を上げた瞬間には奴のその切っ先が目前に迫っていて、失態を冒したと司は訪れる痛みを覚悟して目を閉じた。
どすん、と音がした。刃が肉を断つ音だった。けれど痛みはない。代わりに、自分を遮る体温があった。恐怖にゆるりと持ち上げられた視界に、頭上からぽたりと一粒汗が滴る。
司はその一瞬で全てを理解した。類に、守られていた。
「──類ッ!?」
「……ッ!」
刺さったナイフを握り込んだままだった男の手を後ろ手に捕まえるが、生憎傷が痛むのかろくに力が入らず振り払われる。埃の積もった床にからんと音を立ててナイフが落ちて、その場に小さな血溜まりを生んだ。そのまま逃げ出す男に、類は赤く染まる脇腹を手のひらで押さえて追わなければと立ち上がるが、あろうことかそれを背後に匿った探偵に遮られた。
「類、待て! 走ったりなどしたら傷が……!」
「……民間人は避難しろ」
「類!」
「安全な場所に逃げて。じきに警察も来る。僕には僕の仕事がある。二度は言わない、撤退しろ」
「っ……!」
力の緩んだ手を振り払って、類は駆けた。点々と続く赤をただ無力に眺めながら、今自分を庇ってくれた男は間違いなく類であったのに、その場にいたのは組織に属するエージェントでしかなかった。
「…………類……」
遠くから警察らしき者たちの慌ただしい足音が聞こえてきて、漸く司は立ち上がった。
* * *
弾を入れ替える余裕はない。追い詰めた屋上で、向こうも手札がないのか粗雑に拳を振り上げてきた男を難なく躱して、類はその腹を蹴り上げる。ぐっと呻いた男の口から零れる胃液に汚らしいと舌打ちをして、熱を持ったまま血を流す脇腹の痛みなど気にもならないとばかりに踵を上げた。
横振りにその首を蹴り飛ばせば、男はとうとうその場に倒れ伏した。まだ立ち上がるかも知れないと警戒するが痙攣する体からは意識を感じない。終わった。緊張感がぷつりと切れて類は自身の膝に手をついた。
らしくもない安堵感に、どうして任務中に予定外の行動を取ってしまったのかわからないと再度傷を服の上から押さえた。額に滲む汗が気持ち悪い。耳元の無線に手を伸ばして、任務達成、警察に引き渡した後帰還するとだけ伝えれば短い了承の返事。眩む視界に辟易しながら近付いてくる足音に振り返れば、重装備の男たちが数人。両手を上げて無抵抗の意を示せば、その中でもとりわけ若そうな男が類の前へ歩み寄る。
「……話は聞いてます。組織から派遣されたエージェント、ってのがあんたか?」
「ああ。対象はこれと、二階に五人。後は頼んでもいいかな」
「……ッス」
「……民間人が一人、いたはずなのだけれど」
警戒心が解かれたことに応じて上げていた手を降ろせば、ああと彼は顎を撫でた。
「あの、いつも喧しい噂の探偵のことか? 向かいの借家に車を停めてるから類を待つ、とかなんとか言ってたけど……あんたのことか」
「……そう、帰っていないのか。ありがとう。それじゃあ」
「いや待てって、あんた怪我してるだろ。ドクター手配するから」
「……構わないよ。必要ならば組織の医師を呼ぶ。行かなければならないから、すまないね」
引き留める手をぞんざいに振り払って、類は屋上を去る。騒がしい警察の横を抜けて、嫌な汗ばかりが溢れるのを拭いもせず、今にも崩れ落ちそうな階段を下っていく。
(…………帰らなきゃ)
任務は終わった。昂ぶりが残っている。いつものように帰路について、彼の元を訪れて、それからその声で、温度で、融かしてもらわなければならない。じくじくと傷が痛む。けれど、どうでもいいとさえ思えた。全部、彼が、治めてくれる。
視界が揺らぐ。体が重い。それでも足は前に進んでくれた。庇ったけれど、他に怪我はなかっただろうか。己の痛みなどさほど気にはならないのに、彼が傷を負っていないかがひどく不安に思えた。自分に他者を憂う気持ちがあるなんて思わなかったと扉を開けて、警察車両の眩しいライトの中を抜けていく。
(……いや、ちがう、か。僕は、僕のために、司くんに傷ついてほしくないのか)
彼がもしも痛みにより失われてしまえば、辛いのは自分なのだと気がついた。躾けられた帰路も、持て余した劣情も、この体内で無意味に蹲るだけになってしまう。この煩わしいものの捌け口が失くなってしまう。与えられたいものを、どこへ行っても手に入れられなくなってしまうから。
(…………ああ、そうか……僕は…………)
「──類!!」
濁った視界に唯一、その黄金色が鮮明に映る。不安に濡れた蜜色の瞳。大股に駆けてくる体躯。痩躯にも見える体が、案外と逞しく筋肉質だと類は知っていた。
その腕に、抱かれてしまいたいと思った。
「──司くん」
名を呼んだ声は柔らかく、目には大層な輝きを取り戻して、類は笑った。傾いた肢体など自覚もせず、その腕に抱き留められたことだけを実感して類は全身から力を抜いた。
欲しい、欲しい、君が欲しい。触れられるほどに近付いたのなら、後は身を任せてしまえばいい。組み敷かれて、暴かれて、躾の守れない駄犬だと嘲りながら、互いの欲望のままに乱れていけばいい。何も繕わず、気を張ることもなく、ただ本能のままに委ねれば、それだけで類は満たされていたのだ。
「ただい、ま」
だからほら、ちゃんと帰ってきた僕を、素晴らしい忠犬だと褒めてはくれないか。
* * *
気を失い腕の中に倒れ込んできた類を抱き留めて、司は急いで車に乗せ自宅へ戻っていた。
本来は医師に診てもらうべきなのだろうが、組織の立場上表の病院に世話になるのは手間なのだと、以前に類が話していたことを思い返すと素直に病院には向かえなかった。正直そうも言ってられないだろう、と思わないでもないが、自分の勝手な判断で類が心を擦り減らすことになるのは避けたかった。
荒々しくベッドに転がしても起きる気配はなく、元々白い肌はどんどんと青くなっていく。持ち出した清潔なタオルを何枚も使って必死に傷口を圧迫し止血した。傷を塞いでやるだけの手立ては司にはなかった。縫合も火傷による止血も、知識にはあったがいざ実践して余計に症状を悪化させてしまったらと思うとなにも出来なかった。ただひたすらに助かってくれと願いながら血を止めて、気休め程度の消毒を済ませて丁寧に包帯を巻き休ませてやるしか出来なかった。なにが平和のための探偵だ、と唇を噛んだ。親しい人一人まともに助けてやれないのかと悔しかった。
司は寝ずに類の様子を見守っていた。夜明けが訪れる頃に一度疲れから眠ってしまったが、荒い呼吸に耳を擽られ目を覚ました。青白く消えてしまいそうだった肌は赤みを帯びていて、傷のせいで発熱したのだとわかった。解熱剤はあるが、飲ませたくても類は目を覚ましてくれることはなかった。水差しを口に宛てがえばかろうじて無意識に少量を啜ってくれたので、細かくそれを繰り返しながら汗を拭いて体を温め、見守ることしか叶わなかった。
そうして明けた空がすっかり昼下がりのものになってしまうまで付きっきりで看病をしていた成果なのか、類は微熱こそ残るもののどうにか落ち着いたようだった。ついでに包帯を替えてやれば、生々しい傷に心が痛んだ。自分を庇ったせいで出来た傷。自分がつけさせてしまったと同義だと、司は自省に涙を浮かべた。けれど泣いて類の容態がよくなるわけでもないと、自らを鼓舞して懸命に世話を続けた。
その夜になっても、次の朝も、その更に次の日も、類は目覚めなかった。
* * *
ふ、と瞼が開いた。ほとんど無意識に行われたそれに、今自分は目覚めたのか、と類は認識した。まるで再起動をかけられた機械だと自嘲しながら、視界に入る見慣れた天井に疑問を抱く。彼の、司の家だ。なにがどうなって、ここに寝ているのだったか。意識がぼんやりとして思い出せないと辺りを見渡せば、すぐそこに家主はいた。
「……、っ……」
司くん、といつものように呼ぼうとして、掠れた息を漏らすだけの喉に嫌気が差した。火照る頭とじくじくと痛む脇腹に、どうやら情けのないことに重傷を負ったらしいと察した。恐らくは、彼が手当をしてここに匿ってくれたのだ。血に汚れた疎ましい裏の世界からは程遠い、仰々しいほどに優しい表社会の探偵に、関わらせてしまった。
なんと詫びれば良いのかと悩む思考は、襲い来る痛みに食われて潰えていく。代わりに残るのは、今自分が寝かされている空間が、ひどく安心出来る場所だと感じる心だった。
(…………そっか、やすんで、いいのか)
この場所にいる限りは、眠っていても許されるのか。
彼に蹂躙され食い尽くされる時間のように、欲するもの以外のことはなにも考えず。この場所では、ただ己が心の命じるままに、休んでいていいのだ。
(……なら、もうすこし、だけ)
心の望むまま、彼の傍で、眠っていよう。
* * *
類が一時眠りから目覚めたことなど露知らず、司は今日もひたすら彼の傍についていた。あの浮気調査以外に依頼が舞い込んでいなかった現状に感謝しながら、依頼主の女性の元にも関係者疑いとしてそろそろ警察の捜査が入っている頃だろうかと半ば逃避のように司は思案する。
湯で濡らしたタオルで類の肌を拭き、負担にならないように気を配りながらゆっくりと包帯を替える。あの粗雑な手当でも傷は無事に塞がったらしく、見た目こそ燦々たるものだがこまめに状態を確認していたおかげか化膿している様子はない。
自分にもっと医学知識があれば、こんな傷跡も残さずに済んだかも知れない。否、そもそも調査のためなんて名目で出しゃばって裏社会の取引現場に足を運ばなければ、或いはもっと戦闘能力を有していれば。
今は後悔しか浮かばないと、普段彼へぶつける密かな凶暴性をもって自身の手に爪を立てるように握り込み、司は首を横に振る。悔やむ暇があるくらいなら、少しでも類の状態が良くなるよう努めなければ。包帯を巻き終え、シャツをしっかりと着せ直してから布団を肩まで引き上げる。どうや安らかに休んでいてくれとぽんとその膨らみを撫でた時、その口から微かに呻くような声が聞こえた気がした。
「っ、類……?」
「…………、ぅ、……?」
「類! 目が覚めたか、よかった……!」
「………」
はく、と力なく動く唇にまだ無理をするなと司はその頭を撫でた。割ってしまってはいけないからと許可も取らずに外した眼鏡を通さずに見る瞳は、趣さえ感じる月夜のそれとよく似ていた。美しいな、と直感的に感じたのを遠ざけて、司はうっすらとした僅かな光を携えるばかりの弱々しい双眸に安心したぞと微笑みかけた。
「類、どういう状況かわかるか?」
「…………つ、か…、っ……!」
「ッ、痛むか、すまん。鎮痛剤はあるんだが飲ませてやれなくて。何か腹に入れて、水も飲まなくてはな。食べられそうか?」
問うが、類はぼんやりと虚ろな目をしたまま頷くことさえしない。偶然覚醒しただけで未だ意識は朦朧としているのか、今すぐにでも眠ってしまいたいと訴えるように目は何度もゆったりと瞬きを繰り返していた。
「……眠いか? すまない、水だけでも飲んでくれ、類」
「………ぁ……」
「ああ、よし、偉いぞ」
こうも素直に言うことを聞いてくれる姿は初めて見たかも知れないと、差し出した水差しから水分補給を終えてくれた類に、司もまた珍しくその様を褒め称えた。駄犬だと嘲て躾てばかりだけれど、そういえばよく出来ましたなんて従順な犬にするそれはしたことがなかった気がするなと、未だ血色の悪い頬を撫でれば類の瞼が閉じていく。限界なのだろう、よく頑張って起きてくれた。
「……眠れそうなら、無理に起きていることもない。そのまま休んでいろ、いいな?」
一度目を覚ましてくれたのならきっともう大丈夫だろうと、半ば慢心に思考を預けたのは司とて随分と疲労が溜まっていたからだ。ほとんど眠らず類の傍に付き、細かに様子を見ていた。休みたいのは司とて同じだった。二人とも睡眠を取って、次に目が覚めたら改めて食事と鎮痛剤を与えよう。
「……類? ……寝たか」
時間にして十分にも満たない程度の、短い再会だった。それでも目覚めてくれたことに安堵してため息を吐けば、どっと疲労感が溢れた。このままソファーで休んでしまおうと立ち上がれば、寝室の隅に律儀に畳んで置いておいた類の衣類から着信を知らせる音が鳴った。
ああまたか、と司は彼の安眠を邪魔しないようにと端末を手に取り通話に応じる。類が眠り続けたこの数日の間にも、二度ほどかかってきた連絡だった。もしもしと応じれば、低いが女性のものらしい声がまたお前か?とため息を吐いた。
「神代は」
「……まだ目覚めません。前に話した通り、このままオレの家で休ませます」
「……奴に任せたい仕事が溜まっているんだ」
「……だから、なんだというんだ」
「……よろしい。また連絡しよう。必要なら医師の手配も済ませる。それでは」
「だから要らなっ……切れたか、くそ……」
初めに連絡があった時、司は今よりもずっと理性的に応じていた。それでもその言葉の圧から感じる辛辣さや、類の身を慮る想いが一切ないことに不信感は募り、居場所を教えろ、仕事をさせなければならない、医師なら手配出来ると散々に言われてもどうしても司は頷いてやれなかった。
端末を放り、類の眠るベッドへ戻る。あの減らず口の駄犬が、言葉一つ吐き出せないほどに弱り、民間人である自分を頼って眠っている。本来ならば、組織のツテであるという医師に任せるのが道理だろう。探偵といえど裏社会の仕組みなど詳しくもない司が、いつまでも傲慢に足を突っ込んでいていい話でないことくらいはわかる。
けれど積み上げた不安が拭えない。思えば類は自らが組織に属するエージェントであることは話してくれていたが、その組織自体がどんな体制であるかなどは聞いたことがなかった。司は、類の組織が構成員を捨て駒のように扱っている可能性を捨てきれなかったのだ。類の怪我を憂う様子もなく、仕事があると言う。必死に匿う自分に、居場所を割るのは容易いと宣う。それに頷いて動けない類を受け渡して、本当に類は無事でいるだろうか。不要なものを躊躇いなく処分する闇組織など、ごまんといる。
もし、類の組織がそうであったら。自分が手離したら、この犬の命は。
「……類」
この哀れな駄犬が、もしも与えられた毒を餌と誤認して従っているとしたら。司はそれを全て取り除いて、自分だけを求めてほしいと思った。自分ならば、この駄犬の求めるものを全て与えてやれるのにと。
「……早くいつも通りになってくれ、類。……気が滅入って、おかしくなりそうだ」
これが単なる過干渉であれば、思い違いであればそれでもいい。だがそれを判断するにも、類が癒えないことには始まらない。ゆっくり休んでほしいが、早くまた目覚めて安心させてほしい。心配ないと、からかうように鳴き真似でもなんでもいいから癪に障るその表情を見せてほしい。
「──お前の指示通り"待て"をしているんだ。……早く、解いてしまってくれ」
安堵する権利を早く寄越してくれと、司はそのままベッドに頭を預けて目を閉じた。