ガタタン!と大きな音がして、司は手にしていた箒を放り出して階段へと駆け込む。そこにはひっくり返った屋敷の主がいて、焦った様子で手すりを探して手を振り回していた。
「類さん! 大丈夫ですか!?」
「あ、ぁ……司くん、えと、ごめん……大丈夫だよ」
目線も合わないまま、大きな音を立ててごめんなさいと彼は頭を下げた。そんなことは気にしないでくださいと微笑むが、その表情は彼には届かない。お怪我はありませんかと司が肩へ手をかければ、類はびくりと肩を震わせて笑った。
「へ、平気だよ……ちょっと踏み外しちゃって。どこも、痛くないよ、大丈夫」
「……立てますか?」
「う、うん、立てる。えと、手すり、えと……」
困った様子で手を彷徨わせる姿を、不謹慎にも可愛らしいと思いながら自分の手で掬い上げた。
「オレの手をお使いください。エスコートしますからどうぞ。リビングでいいですか?」
「あ、ぅ、うん……ありがとう……」
景色を映さない目が、緩やかに細められる。片目を隠す長い藤色の髪が揺れて、薄暗い衣服に身を包んだ彼を華やかに照らす。ああ美しいと見惚れながら、司はゆっくりとその手を引いてソファーへと導いた。
「ちょうど良い頃合いの時間です。ティータイムはいかがですか?」
「ん、うん……あ、貰い物の紅茶があるから……」
「転んだばかりなんですから、座っててください。どこにあるかオレも分かりますから、そこで楽にしててください」
「ぁ、うん…………あの、ごめんね……」
キッチンの配置くらいは把握しているのだろうけれど、つい先刻階段から転げ落ちたことを思うと念のためにここで休んでいてほしいものだ。転ぶのは慣れているから受け身も得意だよ、とは随分と前に聞いた話で、そんなものに慣れないでほしいと心苦しく思ったものだ。
司は足早にキッチンへ向かい、手慣れた様子でティータイムの準備を整える。その最中ちらりとリビングを窺えば、類は目を閉じて食器の音に耳を傾けているようだった。
盲目な分その他の感覚には鋭敏なようで、類は奏でられる生活の音や揺れる空気を楽しむことが多いらしい。暫くこの屋敷で仕事をする内に気付いた、目の見えない彼らしい日々の楽しみ方だった。
「お待たせしました、類さん」
「うん、ありがとう……ねぇ、一緒に食べよう」
「はい、喜んで!」
お隣を失礼しますと腰掛ければ、類はふわりと微笑んで頷く。その手に熱いから気をつけてくださいねと囁いてからティーカップを差し出せば、類は一生懸命に視線を落とす素振りをしながらそれを受け取った。ゆっくり口元に近付けて、ふぅふぅと息を吹きかけてそうっと啜った。
「っあつ、……ふふ、美味しいね……」
「……そうですね。お茶請けに頂き物ですが、クッキーを用意しました。取れますか?」
「えと……お願いしても、いいかな……」
「勿論。どうぞ」
遠慮がちに彷徨う指先にクッキーを差し出せば、彼は恥ずかしそうに受け取った。窓の外で吹いた風に庭の鮮やかな花々が泳ぐ音がして、それを背景にそうっと甘い菓子を口に運びサクリと音を立てて頬張る。
「お口に合いますか?」
「うん、美味しい、ありがとう」
こくんと噛み砕いたそれを嬉しそうに飲み込んで、穏やかな湯気を立てる紅茶をまた一口口に含む。ほうっと安堵したように微笑む姿は、広がる景色の一切を感じ取れない盲目の君には見えない。実際、屋敷の中の造りは把握しているからとこちらが不安になるくらい自然に振る舞うのだ。とはいえ時折油断して、階段から落ちたり庭で躓いたりと危なっかしい様子を見せるのだが。
ああまったく、目が離せない。一人でも大丈夫と気丈に振る舞うようでいて、臆病なきらいがありすぐに涙ぐむ。器用でありながら、覚束無い手付きや言葉も多い。そして何より、細やかな彼の庭園に咲き誇る花の一輪のように、美しい人だ。本当に、色んな意味で、目の離せない人。
「……司くん」
「はい? どうし──」
ぺたり、とその手が頬に触れる。ぐっと息を詰まらせる司には気付かずに、ああ良かったと確かめるように両手で司の顔を包み、なぞって、ぺたぺたと指先で擦る。類が、『見る』ときに必ず行う仕草だった。目には映らなくても触れれば形や光景がわかるからと、確かめるように手を這わすのだ。
「えへへ……あの、お礼はちゃんと、目を見て言いたくて……ふふ、司くん、今日もかっこいいね。すごく、素敵だね……」
そうして司の顔に触れる際、類は決まってこう言うのだ。かっこいいと、美しいと、素敵だと。困ったものだと司はその手に自身のそれを重ねて微笑む。出逢ってすぐから今日に至るまで、何度も君の心は美しくて温かくて優しいと、それが素敵だと身に余る称賛を紡がれてきたのに。顔を『見て』素敵だと言われると、余計に心臓が高鳴るのだ。
「司くん。素敵なお茶の時間を、ありがとう。いつも……たくさん、迷惑をかけて、ごめんね……?」
「……いいえ。あなたの……類さんにとって良い時間になったのなら、オレは嬉しいです。謝るなんてやめてください、オレ自身、楽しんでいますから」
「本当……? ふふ……司くんはいつも……とっても優しいね……」
こんなに健気に微笑む人の、傍にいられたら。頼りないかも知れないけれど、その目の代わりになれたなら。
この人を守り、愛する人でいたい。否、守るのだ。自分がこの人を、盲目の暗闇の中に埋もれてしまわないように、抱き上げていたい。
重ねた手を恥ずかしいからそろそろ離してほしいと俯く類に、もう少しこのままでいてほしいと言ったらどうされますかと、司は軽い意地悪に興じて笑みを浮かべた。そうして恥ずかしそうに涙を浮かべる表情さえ愛らしいと、満足して重ねた手を解放した。