【くにちょぎ】12月に出したい本の作業進捗 件名:
山姥切長義の配布について
問い合わせ内容:
第三次特命調査・聚楽第に参加した備前の本丸です。
優評定を得たのですが、現時点で山姥切長義が配布されておりません。
何か申請の不備などありましたでしょうか?
ご確認いただけますと幸いです。
返信内容:
お問い合わせありがとうございます。
政府カスタマーサポートセンターです。
二営業日以内に担当者から別途ご連絡いたします。
大変恐縮ではございますが、今しばらくお待ちくださいませ。
対応:
メール返信済
物流管理課へ情報連携済
状況:
未解決
旧時代の因習にいつまでも囚われている人間というのはどこにも一定居るもので、審神者という職業を選んだ者はとかくその傾向が強いと言う。
したがって、未だに政府には、達筆な筆文字の記された蛇腹折りの手紙が届くことが少なくない。丁寧な時候の挨拶から始まるその手紙の内容は大概はつまらぬ問い合わせであって、要点のみを返信するならば三十一字で足ることさえあるが、大層な手紙をいただいてしまった場合には同じ熱量でもって返すというのが政府に残る悪しき因習の内のひとつである。近頃は、達者な筆文字を書くことの出来る者というのはそれだけで貴重だ。噂によると、その能力のみを買われて採用された政府職員というのも居るらしい。
日々硯に墨をすり続けている彼らのことを思えば、メール返信などというのは実に簡単な仕事だ、と、山姥切長義はノートパソコンのモニターを眺めながら無感情に画面をスクロールした。タスクリストをチェックしながら不要になったメールを受信ボックスから処理済みボックスへ移していく。それは、もう手に馴染んだ作業だった。
最低限の機能だけが搭載された四角い事務机。決して座り心地のいいとは言えない椅子。そのワンセットがいくつも並ぶ無機質な事務所。政府施設のその一角が、長義の現在の戦場である。
時の政府の問い合わせ窓口担当として日々メールを捌き続けて、もう何年にもなる。
未だに手書きの封書を送ってくる古風な一部の層を除き、審神者から政府への連絡手段は配布端末を使用してのメール送信というのが、現在は一般的である。長義に与えられた任務内容は主にメール返信、時に対面の窓口対応の上、カスタマーである審神者の抱える問題を解決すべき部署へ案内すること。また、そのための情報連携。それは、長義にとっては簡単な仕事だった。事務仕事は不得手ではない。
ただ、一週間ほど前までは、単純に作業量が多いという意味で、非常に忙しかった。
第三次・特命調査聚楽第。放棄された世界への経路が開いていたためであった。
各本丸へ特殊な任務が与えられている時期というのは、些細な問い合わせが増えるものである。長義は特命調査の期間中、毎日のように百を超えるメールに返信し、同時に少なくない数の窓口対応をこなしてきたが、無事に聚楽第への経路が閉じて以来、業務量は普段の水準まで落ち着きつつあった。捌き続けてきたタスクの後処理に、近頃はようやく手をつけられるようになっている。
長義の仕事は、問い合わせに対する問題解決そのものではない。問題解決のための手段を案内する、言わば仕分けの役割である。とはいえその後はすべて丸投げ、という訳ではない。仕分けた先で問題は正しく解決したのか、どのように解決したのか、追って記録する必要があり、問題解決を見届けてはじめて、長義の抱えていたタスクはひとつ抹消されるという仕組みであった。ごく稀に、案内した先では問題が解決せず、新たな案内を求められることもある。自分が仕分けた問い合わせの現状は、リアルタイムで追っていく必要がある。
長義は今、その作業中であった。タスクリストは、基本的に処理日の古いものから順に解決済みになっていく。だが一件、長く未解決のまま残っているタスクがあった。
「この一件、まだ解決していないのか……?」
強く目を引いたその問い合わせ内容に、長義は覚えがあった。特命調査の期間中、備前のとある本丸から届いたものである。聚楽第にて戦闘の結果、監査官の優評定を得たものの、『報酬』として得られるはずの山姥切長義が本丸にやってこない、というのがその内容であった。
この問い合わせメールを開いた時、長義は思わず、失笑した。色々なことが、随分と明け透けになったものだと思うと可笑しかったためだ。特命調査聚楽第もすでに第三次。作戦に参加すれば、評定次第で、監査官として同行した山姥切長義が本丸に配属されるというのは周知の事実である。第一次の作戦時は、監査官はその身分を明かすことを厳重に禁じられていた。時代は変わったものだ、という感慨があった。
特命調査に参加した各本丸は、優評定を受けた時点で山姥切長義を迎える権利を得る。長義は問い合わせを受けてすぐに、件の本丸の現状を調査した。優評定を受けたというのは事実であった。担当監査官の個体識別番号はY158-E08931。該当監査官からは、正常に優評定の報告が上がっている。どうやら本丸への送付手続きも取られているようだった。となれば、何かしらの原因で処理自体が遅れているか、あるいは処理は正常に行われているものの、本丸側の勘違いでその事実に気づいていないか――ともかく、そこまでわかれば、長義の仕事は決まっていた。本丸と政府間の刀を含む物のやり取りは、物流管理課の仕事である。長義は、課の担当者へ問い合わせ対応を引き継いで、本丸へは担当者からの連絡を待つようにと返信した。あとは、解決次第、物流管理課の方から報告が来るはずだった。もう十日ほども前の話である。
聚楽第への経路が閉じて既に一週間になる。現時点で、この一件が解決していないはずはなかった。長義は即座にメールを一件新規作成して、物流管理課への問い合わせ文章を綴った。解決済みの報告が、漏れているのだろうと思ったためであった。
送信ボタンを押して、ひと息つく。直後、背後から強く肩を叩かれる衝撃があった。
「よう、坊主。お前さん、まだこんなところにいるのか!」
長義はまず、習慣でノートパソコンの画面へ瞬時にロックをかけた。聞き慣れた声ではあったが、いくら政府内部の人間とはいえ、仕事用の端末を不用意に他人に見せるわけにはいかない。それがここでの規則である。わかっていながら声もかけずに背後に立つ無遠慮さは、いかにもその声の主らしかった。長義は、少々の面倒が起こる気配を感じながら、可動式の椅子ごと振り返った。
「あなたか。一文字則宗」
「いかにも」
長義の肩に手を置き、若々しい容姿の割に老獪に微笑む彼は、一文字則宗であった。彼はトレードマークのごとく、常に手にしている扇子の先を端末へ向けた。
「よくもまあ、そう飽きずに一日中端末を相手にしていられるもんだ」
「あいにく事務仕事は得意でね」
「てっきり今期の特命調査で現場に復帰したかと思ったが。お前さん、まだあの本丸に未練があるのか?」
長義は、その含みのある問いかけを、敢えて無視した。一文字則宗お得意の揶揄であることが分かっていたためである。彼の方も、長義の答えを期待してはいない。
代わりに、長義も、聞いてやった。
「あなたこそ、監査官には?」
「うはは、僕には向かんさ。ここで色々と見聞きする方が面白い」
これは、二振りの間では、既に幾度も繰り返された会話であった。
この刀との付き合いも、数年になる。
一文字則宗は、以前は長義と同じ顧客対応窓口の任に当たっていた刀剣男士である。もとは他多くの一文字則宗と同様、特命調査の監査官となるべく政府で顕現された刀だったが、諸々の事情でそのルートを外れ、政府で内勤をするようになったと聞いている。彼がそうなるに至った経緯については、長義はさほど詳しくはない。
長義が知っているのは、同じ職場で働くようになってからの一文字則宗のみである。彼は端末操作よりも対面での顧客対応に能力を発揮し、その才を見出されてあれよあれよという間に転課、出世していった。今は総務部に籍を置きつつ、政府の内外、更に言うならば審神者界隈の内外を問わず刀剣男士の『顔』が必要なあらゆる任務についていると聞いている。
たとえば人と刀、多くの付喪神が混在して働く政府施設内での折衝役。たとえば基本的に閉鎖的、かつ排他的になりがちな時の政府にも稀に訪れる、外部組織との会合において刀剣男士の代表を演じる役。政府内で働く職員は圧倒的に『人』が多く、特に上層部となればその傾向は強い。組織の中で、彼ら人間に都合のいいように寄り添うことを良しとする柔軟で従順な刀剣男士というのは意外と数少ないのだ――とは、当人の言である。
彼のその処世術について、長義は、良し悪しを述べる立場にはない。ただひとつ分かるのは、ともかく顔を売るのが仕事だと言ってあちらこちらに顔を出している一文字則宗が古馴染みの長義の所へやってくるとき、彼は大概暇を持て余しているか、逆に重大な任務を負っているかのどちらかだということである。
今日はどちらか、と探る視線を送ると、一文字則宗も心得たように目を細めて手元で小さく扇子を鳴らした。その仕草で察する。彼は今日、どうやら仕事で来たようだ。
「すこしいいか。大事な話がある」
声を潜めた一文字則宗と共に、別室へ移動する。少人数での会議に使われる個室である。防音性、機密性はさほど高くはないが、それでも充分と判断したのか一文字則宗は部屋の扉が閉まるなり切り出した。
「お前さん、少し前に、備前にある本丸からの問い合わせ対応をした記憶はあるか。特命調査で優評定を得たものの、山姥切長義を未だ得られず、という内容だったらしいが」
「ああ」
長義は、すぐに思い至った。何しろ直前に対応していた件名である。同時に、少々の安堵も得た。人目を避けてまで一文字則宗に何の話をされるものかと戦々恐々としていたが、存外身近な内容だったためである。
「覚えているよ。長く保留になっていた件名だったから、丁度送り先に状況確認を送ったところだ」
「だったら話は早い。実はその件、ちょいと面倒なことになっていてな。そら」
一文字則宗は、懐から折りたたまれた一枚の書類を取り出した。長義が受け取り、開くと、そこには細々とした文字が並んでいた。『調査報告』という題字が見て取れる。
一文字則宗は、傍らから長義の手元にある書類を覗き込みながらかいつまんで文字を読んだ。
「備前の〇六九一三六本丸。第三次特命調査聚楽第に初参加。十日ほど前に優評定を受けている。報告によると、ほう、まあまあ苦労をしたようじゃないか。監査官はY158-E08931。うはは、いいハクサイとは覚えやすい。さてこの個体、正常に政府に報告を終え、本丸への送付手続きも取られているが――その後、消息不明となっている」
「なんだって?」
長義は、途中、ハクサイがどうこうという一文字則宗の冗談に気を取られて書類上の文字を追う目を滑らせてしまっていたが、驚きつつも再確認すると確かに書類にはそう記されていた。思いがけない事態に眉を顰め、一文字則宗を見ると、さすがの彼も美しい金の髪に隠されがちな表情へ、いくらか深刻な色を帯びていた。
「物流管理課曰く、確かに送付手続きは取られていると。だが本丸側に受け取りの記録はない。本丸側もそう主張している。原因不明の、行方不明だ」
「本当にそうなのか? 万にひとつで、当人がまだ聚楽第に居る可能性は?」
「それはない。当該監査官は確かに放棄された世界より一度帰還し、政府にて顕現を解除しての送付処理を進めている。そこまでの足取りが掴めている以上、有り得るとすれば、送付時の事務方の不備だろうな」
「それは……厄介なことになったな」
長義は、率直に、頭痛を覚えた。
政府から本丸へ刀を送付する機会というのは、そう少なくもない。
政府由来の刀はその全数が個体識別番号により管理され、所在を常に把握されている。本丸に権利が委譲されるまで、その管理が外れることはない。これにより、政府は、膨大な数の刀をデータ管理している。
だが、やはり、稀に間違いは起こるのであった。全本丸へ特定の刀の配布などを行うと、届かない、あるいは重複して届いた等の問い合わせは一定数必ずある。本丸側は気がつかないだけで、データ上配布したはずの個体と実際に配布された個体の識別番号が合わないということも多々ある。だがその多くは大きな問題にはならないのだった。配布がなければ、再配布を行えばよい。重複配布は、本丸側の希望次第で、余剰分を回収することもあればしないこともある。識別番号の不一致は、データの方を修正すればよい。
多くの場合、配布された刀は、本丸で顕現してはじめて他の同種の刀と差別化される。だが山姥切長義は――監査官は、そうではない。
監査官という役目を負った個体は、本丸所属より前に政府によって顕現され、その時点で一個体として自我を持つ。
だからこそ、今回の一件は、問題となり得るのであった。
「送付処理の不備で、別の本丸へ送られてしまったか、あるいはどこかへ保管されてしまったか……そんなところだろうな」
「今物流管理課の方では倉庫をひっくり返して照合しているらしい。が、ハクサイは未だ出て来る気配がない」
「妙な語呂合わせで呼ぶのはやめろ。別本丸で顕現され、当人が気づいて名乗り出てくるといいが」
「顕現されない可能性もある。刀のまま、連結、習合、刀解を行われればそれまでだ。あるいは顕現されたとして、そこが見知らぬ本丸だったとしても、受け入れてそのまま名乗り出ない可能性もあるだろうな」
「そんなことは有り得ない。監査官として、監査した本丸に所属するのが通例だ」
「だがそんなことは誰も明言はしていない。そうだろう?」
一文字則宗は、その時、意味ありげに長義を見ながら含み笑いをしていた。長義は、それを見て、彼がこの後何を言い、自分に何を言わせたいのかを概ね察したが、ここまで来て引き下がるつもりもなかった。
一文字則宗は、彼がひとを揶揄する時によくするやり方で、朗々と、歌うように言葉を紡いだ。
「特命調査聚楽第で優評定を得た本丸へ、山姥切長義が与えられるのは最早周知の事実。だが誰も、監査官を送るなどとは明言していない。だからな、僕は言ってやったんだ。誰でもいいから山姥切長義を送ってしまえばいい。そうすれば、向こうも文句は言えないだろうってな」
「いい加減な仕事をするな」
長義は、書類を元のように折りたたんで一文字則宗の胸元へ押し付けて返した。軽く睨むと、彼はやはり、笑っていた。長義の声は、自然低くなった。
「第一次の時ならまだしも、聚楽第も三度目だ。同行した監査官が山姥切長義であることが明白である以上、当人が配属されることが当然望まれている。監査官自身も……」
「監査官当人も、やはり、監査した本丸への配属を望むと思うか?」
「……当然だ」
「うはは。お前さんが言うと重みが違うな」
一文字則宗は、愉快気だった。彼がこの話の流れを望んでいたことは明白だったが、やはり言わされてよい気分はしなかった。目を眇めると、一文字則宗は、長義の視線を避けるように扇を広げた。
「そう怖い顔をしてくれるなよ。僕としても穏便にハクサイが見つかってくれることを祈っている。政府としても、もうしばらくは、捜索に全力をあげるらしい」
「そうか。ではこの一件はしばらくの間、未解決のまま保留ということにしておこう」
「それでな、実は、当の本丸のやつらが、カンカンで怒鳴り込んできている」
「は?」
「物流管理課の方でこれまで、一切の詳細を知らせずにいたらしい。待たされすぎて、堪忍袋の緒が切れたんだろう。僕も見たが、まあまあの剣幕だった。審神者と、刀と、ひとりずつだ」
この瞬間に、長義は、一文字則宗が自分に声をかけて来た理由を明確に察した。今の今まで、未解決件名の進捗を丁寧に伝えに来てくれたものかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
「……なるほどな。初期対応担当者として、頭を下げに来いという訳か」
「話が早くて助かる。こちらとしては詫びるしかないんだが、実はあちらさんはちょっとしたVIPでな。今は物流管理課のお偉いさんが相手をしている。下げる頭をひとつでも増やして、出来る限りの誠意を見せてお帰り願おうって算段だ」
「あなたも苦労するね」
「なあに、意外と楽しませてもらっているよ」
長義は、関係者の諸々の思惑を察した。現時点では物流管理課の対応不備が原因と思しきクレーム対応に、別課の長義を引っ張り出すには少々のしがらみがある。そこで一文字則宗が顔馴染みの長義に個人的に声をかけるという体を取ることで、物流管理課の面子を潰さずに済むという訳である。
ほとんど便利屋扱いされている元同僚を長義はいくらか気の毒に思ったが、当人は言葉の通り至って愉しげであった。長義としては、断る理由もなかった。
「構わないよ、行こう。だが、VIPというのは? 至って普通の本丸に思えたが」
「今回のカスタマーは、あの備前の老翁のお孫さんだ」
会議室を出ようと足を踏み出したばかりの長義は、その言葉に一瞬だけ歩みを止めた。振り返ると、一文字則宗が、彼にしては珍しく、神妙な面持ちでこちらを見ていた。
「お前さんにも縁のある本丸だろう?」
「……いや。俺にはもう、関係のない本丸だ」
長義は、左右に首を振って、会議室の戸を開けた。吹き込む外気を吸い込んで、出来得る限りの平静を装う。
「着替えてくる。五分後に」
片手をあげて応じた一文字則宗をその場に残し、急ぎ廊下を行く。
過ぎ去っていく見慣れた景色に交じって、脳裏にちらと過ぎるものがあった。
それは、数年前、長義が一度だけ監査官であった時の記憶だった。
かつて備前に、この人ありと知られた古参の審神者がいた。
政府が現在審神者を中心として推し進めている対歴史修正主義者プログラムの、最初期のテスト段階から関わっていた人物であるとも言われている。老齢で、備前の老翁と呼ばれた彼の人の本丸は、黎明期の主力本丸の内のひとつであった。
そもそもが、その手の能力者を代々輩出してきた家の出であったと言う。後ろ盾が充分だったためか、備前の老翁は、政府におもねることはなかった。一方で、由緒ある家柄を特別視し、ひけらかすこともなかった。彼は血筋にこだわらず、すべての審神者に対し平等に働きかけ、いわゆる労働組合のようなものまで作って、審神者側の代表者として当時の政府と数々の交渉をしたと言われている。ともかく、よくも悪くも、重要人物であった。
第一次特命調査聚楽第。
当時から最前線を任されていた備前の老翁の本丸は、この未知の作戦に臆することなく参加した。難なく優評定を得るものと、誰もに期待されての参加だった。
作戦において、長義は、彼の本丸の監査官を務めた。
政府にとって重要な本丸の監査官を任されたことは、名誉と言ってよかった。明言こそされていないが、同一の刀にも個体差と言うべき能力値の差があることは歴然。政府顕現の刀として、その能力値を把握されていない筈はない。期待されているのだ、という自負もあった。長義にとっては、誇らしい、初任務であった。
聚楽第へ出陣した部隊の面々は、練度も申し分なく、隊としての統率も取れていた。成績は上々。だが、彼らは『優』の評定を受けることはなかった。
任務のさなか、本丸で指揮を執っていた老翁が不意の病に倒れたためである。
一報を受けた部隊の面々が、慌ただしく放棄された世界を離れていった様を、長義は今でもまざまざと瞼の裏に思い描くことが出来る。彼らは、戻って来なかった。経路が閉じた後にひとり政府へと戻った長義は、あの備前の老翁ですらも老いには勝てぬ、と彼の本丸が様々に噂されているのを聞いた。
長義があげた報告書上の評定は、不可。詳細には、棄権と記された。
老翁は、一命をとりとめたものの、以来前線を退いたと聞いている。一部では既に審神者を引退したとも言われているが、その正式な報告は上がっていない。第二次、第三次特命調査聚楽第、彼の本丸からの作戦参加の意思はなかった。
長義は、監査官として、別の本丸へ行くことも出来た。だがその道は選ばなかった。以来、顧客対応窓口担当として、数年を過ごしている。
備前の老翁の本丸との縁は、その程度の、細くささやかで、一方的なものである。
着替えを済ませて指定された応接室へ早足で向かうと、途中、一文字則宗が待ってくれていた。彼もまた早足で長義に並び、共に廊下を行く。
「孫がいたとは知らなかったな」
「直系らしいが孫の方は平々凡々、審神者になってまだ半年も経たないひよっこだ」
小声で情報を共有し、その内に応接室へ到着する。扉の前で聞き耳を立てた一文字則宗からの合図を受けて、長義は軽く襟を正した。戸を叩き、中からの応答の声を待って扉を開ける。
「失礼」
ひと声かけて入室すると、そう広くもない応接室には、思った以上に多くの人影があった。向かい合わせに置かれた革張りのソファの手前側には、二人の人間。あまり見覚えがないところを見ると、謝罪に来た物流管理課の現場の人間とその上司だろう。部屋の隅には、長義の居るカスタマーサポートセンターの管理職の人間もいた。目と目を合わせて、軽く会釈のみをする。
そして、奥側のソファには、ひとりの人間と、ひと振りの刀剣男士が居た。人間の方は、慣習で、術式のかけられた白布で顔を隠しているので、すぐに審神者であるとわかった。顔は見えないが、どうやらまだ、少年と言ってもいい、年若の人間のようである。彼が、備前の老翁の孫なのだろうと、長義は判断した。
審神者の少年は、部屋へ入って来た長義を見て、軽くソファから腰を浮かせた。その隣で、勢いよく立ち上がったのは、山姥切国広だった。金の髪。意志の強そうな青緑の瞳。それらを臆せず晒していることから、すぐにわかる。修行を終えた個体である。
「はじめに問い合わせを受けた部署の者です」
誰かがそう言って、途端に少年と、山姥切国広との間で落胆が共有されたのを長義は見た。なるほど、と内心頷く。長義が入室した途端、ひとりとひと振りが勇んで立ち上がった理由を察したためだった。彼らは、山姥切長義を得るためにわざわざ政府までやってきたのである。長義を見て、勘違いをしたのだろう。
ソファに座っていた物流管理課の人間たちは、立ち上がって場を譲った。そこへ、長義と、何故かこの期に及んで付き合ってくれるらしい一文字則宗が代わりに座る。審神者の少年と、山姥切国広も、仕方なく、といった様子で再び座についた。
「カスタマーサポートセンター所属の山姥切長義です」
長義は、審神者の少年へ向けて、ひとまずは丁寧に話しかけた。正直なところ、少年の隣に、山姥切国広が居るのはやりづらい気持ちだった。
老翁の孫に、刀剣男士が同行していることは知っていた。だが、それが山姥切国広であるとは聞いていない。長義は、隣に一文字則宗の気配を感じながら、密かに彼を恨んだ。これは、事前に共有して欲しい情報だった。
ともかく役目を果たすべく、気を取り直す。
「さて、話は何処まで?」
「事情は聴いた。こちらとしては、謝罪が欲しいわけではない。ともかく一刻も早く、山姥切長義を本丸へ配布して欲しい」
長義はあくまで審神者の方へ話しかけたが、横から口を挟んできたのは山姥切国広だった。彼は、口調こそ淡々としてはいたが、ひどく苛立っている様子で、態度も威圧的だった。長義は内心、気に食わないものを感じたが、職務であると自らに言い聞かせて心を落ち着かせた。
「申し訳ないが、すぐにというのは難しい。調査には時間がかかる」
「それでは困るとこちらは何度も言っている。第一もう、十日も待たされているんだ。いい加減何とか出来ないのか」
山姥切国広の声は、低く室内の空気を震わせた。その隣で、審神者の少年は俯いて押し黙っている。彼は山姥切国広の剣幕に気圧されているようにも見えた。どうやら一文字則宗の言っていた『カンカンで怒鳴り込んできた』者というのは審神者の方ではなく、山姥切国広の方のようだ。
部屋の隅に立ち竦んでいるその他の面々も、戦々恐々としている様子だった。長義は、自分がこの部屋へ呼ばれた本当の理由を、薄々察した。政府勤めの人間の多くは、表面上はともかく、実際のところ刀剣男士というものの扱いをはかりかねている。物として使役するか。神として奉るか。あるいは、自分たちとは違う異質なものとして遠巻きにするか。人によりその方針に違いはあれど、ともかくもここまで怒りをあらわにした山姥切国広という刀剣男士を、扱いかねて同じ刀剣男士である長義に投げてきたということなのだろう。いわゆるクレーム対応のマニュアルを鑑みても、恐らくここまでに散々謝罪をした上で、どうにも受け入れられなかったという状況に思える。
だとすれば、長義としては、むしろやりやすかった。審神者に向けては振りまかなければならない愛想も、刀剣男士相手には無用である。
長義は、足を組んで、審神者ではなく完全に山姥切国広へ向き直った。
「そちらの主張はわかるが、出来ないものは出来ない。ここは理解してもらえないか」
「出来ないでは困る。そもこちらには落ち度もない。譲歩する理由がない」
「いくら駄々を捏ねても、どうにもならないことが分からないのか? こちらとしてはもう少し、理屈の分かる相手と建設的な話がしたいものだけれどね」
「なんだと?」
「まあ待て。お前さんたち、喧嘩をしに来たわけじゃないだろうに」
机を挟んで向かいの山姥切国広は、今にも長義に掴みかかりそうに身を乗り出していた。長義もまた、無意識に、顔を寄せて山姥切国広を煽りつつあった。そこへ閉じた扇子を挟んで制止したのは、一文字則宗だった。
長義は、はたとやりすぎた己を自覚した。ひたすらに謝罪し、下手に出るばかりではなく、道理を説いて懐柔するつもりが、つい熱くなってしまったのだった。山姥切国広もまた、一文字則宗に諭されて決まり悪げに身を引いた。重苦しい空気の中、場を引き継いだのは、扇を開いた一文字則宗だった。
「山姥切国広と、審神者殿。お前さんたちには確かに非はない。こちらとしては、全面的に頭を下げて、出来得る限りの対応をするつもりだ。実際今も、力を尽くして山姥切長義を捜索している。とはいえ、間に合わんものは間に合わん。そこを汲んで、もう少し待ってもらえないものかね」
「いや、しかし」
山姥切国広は、少々落ち着きを取り戻したように見えたが、この上まだ何か言いたそうにして、横目で自らの主である審神者を見た。ひとりとひと振りの間には、瞬間的に、何か通じたものがあった。彼らには、何か、どうしても譲れない事情があるかのように、長義には思えた。
一文字則宗も、おそらくはそれを感じたのだろう。だが彼はそこに寄り添わず、その隙をつくように鞭を打った。
「お前さんたちには言いづらいが、これは最大級の特別待遇だ。政府には本来、一本丸の問題にここまでかまけている余裕はない。僕たちには、今すぐにでも捜索を打ち切って、この一件を強制的に終わらせる用意がある。つまり――誰でもいいのなら、適当な山姥切長義を一振り、すぐにでも持って帰ってもらって構わんぞ」
はっと息を呑んだ気配が、山姥切国広か、あるいはその隣の審神者から感じられた。長義もまた、思わず一文字則宗を見た。皆の視線を集めた一文字則宗は、まるでそんなことには慣れていると言わんばかりの落ち着いた素振りで、開いた扇をゆるやかに動かして自らに風を送った。
「わかってくれるな。捜索に時間がかかっているのはこちらの落ち度だが、こうして時間を取っていることそのものが最大限の誠意だと思ってもらいたい。それが受け入れられないのなら、今すぐにでも、山姥切長義を一振り持って帰れ。どちらがいいかは、お前さんたち次第だ」
口調ばかりは穏やかな、しかし脅しと言ってもいいその交渉のやり方に、長義は呆れと感心の両方を覚えた。長義には、決して切れない札だった。一部賛同しかねる部分があるためである。
山姥切国広と審神者は、一転、黙り込んでしまった。特に山姥切国広の方は、何か苦悩しているように感じられた。
長義はそこへ、口を挟まずにはいられなかった。
「誤解を与えるようなことを言うな、一文字則宗」
「さあて、誤解とは」
「俺は適当な一振りを配布して終わりにするのを、よしとは思わない。政府は最後まで責任を取るべきだ」
長義は、意識的に、背後の人間たちに聞かせるつもりで口にした。それが、長義の、本心であった。
「本丸も、監査官も、正しく当人が配属されることを望んでいるはずだ。それが不条理に阻害されてはならない。そうだろう、山姥切国広」
「……ああ」
呼びかけると、山姥切国広は、逡巡しながらも頷いた。それは、これまでに彼が見せてきた中で、一番好意的な反応であった。
長義は、内心、もしかするとこれが一文字則宗の狙いだったのかもしれないと思い始めていた。事情をわからせ、飴と鞭を与えて説き伏せる。その流れが出来つつあったためである。
乗らない手はない。長義は、出来る限り、穏やかな口調を選んだ。
「脅すような言い方になってしまったことはすまなかった。政府としては、出来る限りの力を尽くすことを約束する。だが少しだけ、時間が欲しい。理解してもらえるかな」
「……」
山姥切国広からは、これまでのような反射的な拒絶反応は帰ってこなかった。だが彼はやはり、未だ思い悩んでいる様子だった。
一瞬の膠着状態は、思いがけないところから打破された。
「でも、すぐに山姥切長義が必要なんです」
それは、長義にとってははじめて聞く、備前の老翁の孫である審神者の声だった。おずおずと、遠慮がちな、小さな声である。声変わりはとうに終えた低さであったが、まだどこか、喋り方に幼さが感じられた。顔が見えないのでわからないが、長義の思っていたよりも、審神者はずっと子供なのかもしれない。
「主」
山姥切国広が、気遣わしげに審神者の顔を覗いた。長義にとって、これまで融通の利かない扱いづらいカスタマーでしかなかった山姥切国広が、はじめて見せた身内向けの顔だった。彼はまた、何かの決意を固めた様子で、長義と一文字則宗へ強い眼差しを向けた。どうやらこれまでの頑なな様子は、主のためであったらしい、と、長義は察した。
「何か事情があるのなら聞かせてもらおうじゃないか」
一文字則宗が、審神者と、山姥切国広に告げた。長義もそれには賛成だった。部屋に入ったばかりの頃には強く感じられた山姥切国広からの敵愾心も、今では大分薄れて思える。今なら、落ち着いて話が出来そうである。
山姥切国広は、一瞬の沈黙を挟んだ後、口を開こうとした。それを手のひらで制止したのは一文字則宗だった。
彼は、振り返って、部屋の隅で立ち竦んでいた人間連中に告げた。
「とりあえず、茶を用意してもらえるか? 話が長くなりそうだ」
備前の老翁というひとは、単純に審神者としての霊力に長けた人物であった。
無論それだけで、彼が良き審神者たりえた訳ではない。ただ老翁の血筋に、ある種の期待を寄せる向きは確かにあった。しかし実際の所、老翁の子孫から傑出した審神者が出たという事実はない。
直系の孫である、この審神者の少年も、そうであった。
「僕は優秀な審神者ではありません。おじいさまは、何度も、審神者になるのはやめて、現世で普通の職に就けとおっしゃいました」
少年は、たどたどしくそう話した。ここに辿りつくまでに、言葉を選び、つかえながら、随分と時間をかけてである。どうやら人前で話をするのはそう得意でない様子だった。とはいえ、まだ成人前に見える少年が、これだけの大人と刀剣男士に囲まれてという状況では、それもやむなしかもしれない。
「刀を顕現出来るというだけで、こちらとしては是非本丸を持ってもらいたいものだがなぁ」
一文字則宗は、用意された茶を飲みながらそう口を挟んだ。政府としては、審神者と本丸がひとつでも多いに越したことはない。長義には、備前の老翁の言い分もわかった。政府がしているのは、形はどうあれ、戦争である。能力のない孫を参加させたくないと思う気持ちは、理解できる。
あとの説明は、山姥切国広が引き継いだ。
「ご隠居は、ひとまずは主が本丸を持つことを認めた。だが戦果をあげられなければ辞めろと言っている。無論、主がそれを聞く義理はないが、身内には認めてもらいたいというのが主の希望だ」
「ほう。それで、戦果というのが――」
「特命調査聚楽第で優評定を得られるほどの実力があるならば、まずは認めてもいい。ご隠居はそう言っている」
山姥切国広は、備前の老翁を、ご隠居、と呼んだ。聞けば、老翁の本丸は、細々と任務をこなしながら、まだ存続はしているらしい。
長義の脳裏に、かつて、一度だけ対面したことのある老翁の姿が浮かんだ。老いてはいたが、矍鑠としていた彼の人は、今、どうしているのだろうか。
「山姥切長義を得られなかったことを、ご隠居はずっと悔やんでいた」
過日に思いを馳せていた長義は、続く山姥切国広の言葉にどきりとした。自らの心臓が跳ねたのを周りに悟られないよう、細く息を吐く。敢えて気づかない振りをしたが、隣の一文字則宗は、意味ありげな視線を長義に送っていた。
山姥切国広が続ける。
「だからこそ、ご隠居は、特命調査での戦果にこだわったんだろう。主はその期待に応えた。優評定を得たと知らせてから、ご隠居はご機嫌で、主に対する態度も明らかに変わってきている。正式に認めてもらえるまで、あと少しなんだ。審神者を続けたいのなら、話したいことがある、一度山姥切長義を連れて本丸に来いと打診されて、こちらもそれを受けた。期日は明日だ。だから、明日には、山姥切長義が居なければ困る」
「……なるほど」
長義は、落ち着かない気持ちで、ひとまず相槌を打った。
老翁の本丸は、長義にとって、かつてささやかに関わりのあった本丸である。だが今の長義は、完全なる、部外者でしかない。それでも客観的に話を聞くことは難しいような気持ちが、ふつふつと長義の中に生まれていた。
何か胸につかえるものを感じて、用意された茶を飲む。既に淹れられてから時間の経った緑茶はぬるく、もやもやとしたものを流し込むには丁度よかった。
出来るだけ、今の自分の立場を忘れないように、意識して冷静に言葉を選ぶ。
「事情はわかった。だが、山姥切長義が手元に居なくとも、特命調査で優評定を得たという事実に変わりはないだろう。政府の手落ちだと説明して、明日の対面を延期することは出来ないのか?」
「出来るだろうが、ご隠居は厳しい人だ。俺たちの口から説明して、万が一にも、虚偽の報告をしたと取られては困る。政府の方からご隠居に、正式に説明を入れてくれるか?」
「それぐらいはお安い御用だ。すぐに報告書を用意して、必要があれば直接人をやろう」
長義は、この時、これでこの一件がひとまずの進展を見せるだろうという手応えを得ていた。先方が即日対応にこだわる事情と、その打開策が見えたためである。備前の老翁へは、政府から正式に説明をし、もう少し待ってほしいと頭を下げればよい。その間に、行方不明の山姥切長義を見つければ解決という訳だ。どうやら本丸の方にも、その提案を受け入れるだけの用意がある。
だが、長義の提案を受けて、にわかに背後がざわつき始めた。横から、一文字則宗がそのざわつきを代弁した。
「待て、待て。そいつは上手くない」
「上手くないって、何がだ」
「お前さんなあ、相手はあの、備前の老翁だぞ」
長義は、一文字則宗の意図するところを、はかりかねた。一文字則宗はおもむろに扇を広げて身を寄せてくると、はたしてそれで良いのだろうかと長義ははなはだ疑問だったが、これみよがしに声を落として扇のかげで耳打ちしてきた。
「御老公は未だに例の組合のお偉いさんだ。多大な影響力がある。今回の一件、知られれば、全本丸に政府の不祥事として伝わるぞ。それで色々問い合わせてくる本丸も増えるだろう。藪はつつかん方がいい。おまけに、もし、ハクサイが行方不明のまま見つからないなんてことになってみろ。どれだけ詰められるか、考えただけで面倒だ」
「あなたね……」
山姥切国広と、その主の前であからさまな密談をする一文字則宗の度胸に、長義は呆れた。だがおそらくは、それすらも計算の内ではあるのだろう。
一文字則宗の言うことは、確かに、政府側の本音ではあった。つまり、大ごとにはしたくないということだ。老翁の孫であるという点を除けばまったく特別な力を持たない、この若い審神者の小さな本丸までで、問題を堰き止めておきたい。それであれば、いくらでもコントロールのしようがある――ということだろう。
山姥切国広は、険しい顔をしていた。当然のことだ。おそらくは、話している内容も、ほとんどは聞こえてしまっていただろう。これは、一文字則宗の、パフォーマンスという訳である。
長義も静かに頭を回転させて、情報を処理した。山姥切国広と、その主。彼らは、山姥切長義を得るためにここへ来ている。その目的を果たすためには、後ろ盾ともいえる備前の老翁へ何もかもを話し、協力を仰ぐのが近道だろう。
一方で、彼らは、備前の老翁へ自らの力を示すべき立場にある。本丸として、自立したところを見せなければならないという訳だ。備前の老翁に助けを求めるという札は、彼らにとっても、切りづらいに違いない。
つまりは、交渉の余地がある。
長義と同じ判断を、おそらくは、一文字則宗もしたはずだった。彼は、一見して、人好きする笑みを正面へ向けた。
「ひとつ提案がある。聞いてくれるな」
「……聞こう」
山姥切国広もまた、ひどく思案気ではあったが、一文字則宗の言葉に頷いた。彼は彼で、自分の本丸にとって一番よい道を選び取るために、必死に思考しているはずである。
長義は、場の主導権を元同僚に委ねた。
「先程も話した通り、政府としては今すぐにでも山姥切長義を一振り、この場で配布してもいい。だがお前さんたちの本丸のために、全力を尽くしてハク――いや、本来配布されるべき山姥切長義を捜索しよう。出来得る限りのことをすると約束する。代わりに、ひとつ、協力して欲しい」
「なんだ」
「此度の一件、他言無用として貰おうじゃないか。それを約束してくれるなら、お前さんたちが目下抱えている問題についても、解決策を提示できる。つまり、こいつをな」
不意に伸びてきた一文字則宗の腕が、長義の肩を引き寄せた。長義は、薄々、否、激しく嫌な予感を覚えたが、理性を総動員した上で、どうにか黙っていた。
「明日一日、お前さんたちの本丸に貸し出そう。こいつに『山姥切長義』を演じさせて、御老公に謁見でもなんでもしたらいい。明日さえ乗り切ってしまえばいいんだろう。なぁに、誰にもわからんさ。それに、こいつは、その役にうってつけだ。なんたってその昔――」
「一文字則宗!」
長義は、一旦、ここでどうこう騒いで場を混乱させるつもりはなかった。だがどうしても、その瞬間は、一文字則宗の口を塞がなければならなかった。
名を呼んで、軽く睨む。一文字則宗は心得た様子で肩を竦めた。
「――まあ、ともかく、優秀な刀だ。事情も知っている。これ以上の適任は居ないだろう。どうだ?」
山姥切国広と、その主である審神者は、互いに顔を見合わせて何か探り合うような様子を見せた。審神者の方は顔前に布を垂らしているが、彼の所有物である刀には、顔を見ずとも何か通じ合うものがあるのかもしれない。
「要求ばかりだが、俺たちに利はあるのか」
「僕にはあるように見えるがね」
山姥切国広の低く棘のあるひと言を、一文字則宗が笑みで交わす。沈黙の後、山姥切国広は、ひとつ大きな溜息を吐いた後で、決断したようだった。
「わかった。その提案、乗ろう」
山姥切国広は、ある程度慎重だった。
「他言するか、しないかは、後から決める。成功報酬だと思ってくれ。こちらにとって不利な展開になった時は、必ず公開する。それでもいいか」
一文字則宗は、その要求を飲んだ。長義には、一文字則宗の腹が読めた。山姥切国広がどう考えているかはわからないが、本丸側は、『山姥切長義の身代わり』を老翁に謁見させた時点で、積極的に隠蔽に加担したことになる。そうなれば、彼らとしても、真実は表に出しづらくなるだろう。一文字則宗の狙いはおそらく、そこにあった。
明日さえ乗り切ってしまえばいい。
これは、政府側の本音だった。
部屋の隅ではらはらと事の成り行きを見守っていた各課の関係者である人間たちも、大きな異存はないようだった。一文字則宗は、彼らに諸々の許可取りのための申請を依頼した。本日中に、長義を本丸側へ一時貸与する。期間は明日いっぱいまで。それだけのことを為すためには、気の狂いそうなほど多くの申請が必要であった。
準備に時間がかかることは、本丸側も了承した。彼らをしばらく応接室に待機させ、一文字則宗と長義は準備のために奔走する――という体で、長義は、ようやく応接室から出ることが出来た。
一文字則宗と共に退室後、すぐに廊下を進んで、手近な空き会議室に彼を連れ込む。
肩を掴んで、壁に押し付けると、抵抗できるはずの一文字則宗は甘んじてそれを受け入れた。
「どういうつもりなんだ」
「そう怒るな。お前さんには重大な任務がある。わかるな?」
任務、という言葉を出されて長義は鼻白んだ。随分と勝手なことをしてくれた一文字則宗を糾弾するつもりが、仕事の話をされてはやりづらい。
「本丸へ、出来る限り親切にし、恩を売れと言うんだろう」
「うはは、さすがだな。わかってるじゃないか」
一文字則宗は、片腕を伸ばして長義の頭を横から撫でた。これは弟分とでもいうべき関係の刀を多く持つ彼の、くせのようなものである。長義はそれを嫌って腕を払った。一文字則宗は、その隙に壁と長義の間からするりと抜けて、扇を振った。
「政府は約束を破らん。出来得る限りの力は尽くす。それでハクサイが見つかればいいが、五分五分で見つからん可能性もある。その時になって、大事にされないよう、今の内から手を打っておく必要がある。政府は精一杯やってくれた、というところへ顧客感情が落ち着くよう、精々媚びを売ってこい」
「それで最終的には、別の山姥切長義を配布する事で決着させる気か」
「僕としては、それがお前さんになるというのが、本丸の感情的にも、お前さんにとっても、いいと思うがね」
「……勝手なことを」
長義は、心底から苦々しく思って眉を顰めた。長義にとっても、本丸にとっても、そう簡単な話ではない。だが、一文字則宗が、いつになく真剣な顔をしているのを見て、強く反発は出来なかった。
一瞬の沈黙を気まずく思って、その場を離れる。実際、こんなことをしている場合ではない。会議室を出ようと扉を開くと、部屋を出る直前に背へ一文字則宗の声がかかった。
「もういいだろう。そろそろ現場復帰を考えろ。お前さんにはその方が似合う」
「心外だな。こんなに優秀な事務員を捕まえて」
長義はひと言返して部屋を出た。やるべきことは多かった。その状況を、長義は、むしろ有難く思った。
賽は投げられてしまったのだ。かくなる上は、成し遂げるしかない。
ようやく諸々の許可が下りた頃には、既に深夜近かった。
山姥切国広とその主は、政府により、精一杯のもてなしを受けたようである。だが彼らの表情は明るくはなかった。身支度を終えた長義は、彼らと共に、言葉少なに本丸への道を行くことになった。
「今回の件は、俺と主だけの秘密としたい。他の刀との接触は出来るだけないようにするつもりだが、いざという時は、お前は監査官のふりをしてくれ」
政府から本丸に繋がる転送ゲートへ向かう途中、山姥切国広はそう話した。長義は、正直なところ、この刀への接し方に少々迷っていた。顧客にするように丁寧に接して機嫌を取るべきかもしれないが、既に幾らか強めに接してしまった後でもある。今更取り繕っても無駄だろう。逡巡の末、長義は、不要にへつらうことはやめた。自分にとって重要な顧客は、山姥切国広ではなく、その主の方である。
「本丸全体を欺こうということか?」
「そうだ。今回の一件、本丸の全員に理解を得てから決行するには時間がなさすぎる。一時的にとはいえ、怪しい者を本丸に入れるのに反対の者もいるだろう。黙っておいた方が都合がいい」
「なるほどね。異存はないよ、従おう」
「そうしてくれ。無駄に失望させる必要もないからな」
さらりと告げられたそのひと言に、長義は一瞬、自分が息を詰めてしまったのを自覚した。失望、とはつまり、本来望まれている山姥切長義が行方不明であることを、まだ皆に知らせたくはないということなのだろう。本丸の刀たちは、一瞬でも任務で時間を共にした、監査官こそを求めているということだ。それは、当然と思われた。
山姥切国広の横顔を盗み見る。にこりともしないその仏頂面からは、どのような感情も読み取れはしなかった。だが彼自身、失望しているに違いなかった。山姥切長義という刀と、彼とは、浅からぬ縁があるのは周知の事実である。
長義の脳裏に、ふとかつて自身が監査した特命調査の記憶がよぎった。あの時の部隊の面々は、今どうしているのだろうか。交わりそうで、交わらなかった刀たち。彼らは得られなかった優評定を、山姥切長義を、惜しんでくれたのだろうか。
長義は、自らの無意味な感傷に、ひとつ息を吐いて終止符を打った。
やがてひとりと二振りは、深夜の本丸へ辿りついた。長義は、本丸という場に足を踏み入れるのは、これで二度目だった。とはいえ前回、備前の老翁の本丸へ監査に向かった時は、門前で代表者と話をしたぐらいのものである。それでも、違いは歴然としていた。備前の老翁の本丸とは比べ物にならないほど、門構えからして素朴な、そこは小さな本丸だった。
審神者は――否、一時的にも長義の主となった少年は、正面口から帰城した。その間に、長義と国広は、裏口から入っていくことにした。深夜とはいえ、主の帰還ともなれば、迎えに出て来る刀は必ずいる。そこに長義が居合わせるのは、後々の面倒を引き起こすだろうとの判断だった。
裏口から、縁側を経て、本丸の居住棟へ入り込む。国広は、大胆に暗い廊下を進んで、一室へ長義を案内した。そこは、殺風景な、六畳の和室だった。客間の類だろう、と長義は想像した。
「明日は早くに出る。迎えに来るから、すぐ出られるよう支度をしておいてくれ」
「ちょっと待て、偽物くん」
簡単にそれだけを言い置いて部屋を出て行こうとした国広を、長義は慌てて引き留めた。国広は、振り返って、至極曖昧な、よく見ると戸惑っているような顔を見せた。
呼び名のせいか、と気がつくまでには、少々の時間が必要だった。
「ここにいる間は、偽物くん、と呼んでも構わないな? そう呼ぶのが自然だろう」
「ああ……構わない」
「支度をしろと言われても、洗面所の場所もわからない状態では困る。部屋を出てほしくないのなら、せめて水ぐらいは用意してくれないか」
長義はそれでようやく、翌朝のことを国広と話し合うことが出来た。早朝、まだ本丸の皆が活動し始めるよりも早く、まずは身支度の案内のために国広が声をかけてくれるということで話がまとまった。
「俺の部屋は隣だ。少し主と話をしてくるから、先に休んでいて構わない。寝間着と、布団は、押し入れにあるはずだ。何かあれば声をかけてくれ」
国広は、今度こそぴしゃりと襖を閉じて、部屋を出て行った。ひとり残された長義は、物の少ない部屋を見回して、溜息を吐いた。
山姥切国広という刀の一部にはありがちな性質だが、どうにも気の利かない刀である。長義は部屋のあちこちを開いて、自力で衣紋掛けを発掘すると着慣れないストールを脱いで掛けた。政府で事務作業中、正式な戦闘衣装の一部であるストールを身に着けることは滅多にない。
続いて押入れを開いた長義は、思わず息を呑んだ。
そこに、政府から支給している、山姥切長義用の内番服が置かれていたためだった。そうか、と長義は理解して改めて部屋を見渡す。この部屋は、山姥切長義を迎えるために用意された個室なのだろう。それは、思えば当然のことではあったが、長義は奇妙な居心地の悪さを感じた。
「ここでは俺の方が偽物だな」
呟くと、知らず自嘲の笑みが浮かんだ。長義は、内番服をそのままに、同じく用意されていた浴衣を身に着け、布団を敷いて早々にそこへ横になった。目を閉じると、布団からも、部屋からも、知らない本丸の匂いがした。それは、ひどく落ち着かなかった。
しばらくして、隣室に物音がした。国広が戻ってきたのだろう。長義は、どうにか眠りにつこうと幾度も自分に言い聞かせたが、眠気は、容易には訪れなかった。