【つるみか】11月の再録本に載せようと思っている書き下ろし冒頭 IDと許可証の提示を、と求められて、鶴丸国永は万屋街の入口で立ち尽くすより他なかった。
本丸から、そう少なくもない頻度で通っている、いつもの政府管轄の万屋街である。日用品を売る店があり、酒を売る店があり、飲み食いの出来る店があって、奥へ進めば大きな声では言いづらい用を足せる店までもが並ぶ、本丸所属の刀剣男士であれば訪れたことのない者はほとんど居ないと言ってもよい、馴染みの場だ。鶴丸は今日ここへ、本丸の用足しにやってきた。厨に常備する調味料の類を、買いに訪れたのだった。
いつもと様子が違うことは、近づいた時点で察していた。万屋街は政府が構築した一種の仮想空間であるという性質上、本丸と同じく四方が塀で囲まれており、出入口は一箇所に定められていたのだったが、その一箇所しかない出入口にやたらと人だかりが出来ていたのである。見ると、そこは関所のごとく通り道が狭められ、入る者と出る者がそれぞれ制限されている様子であった。鶴丸は、入ろうとする者たちが作る列の最後尾に並び、呑気に順番待ちをした上で、いよいよ、というところで思いがけない要求にあった。それが、IDと許可証の提示であった。
提示を求めたのは、『関所』に多数いた人影の内のひと振り、山姥切長義である。彼は政府の所属らしく、首からこれ見よがしに四角いカードを提げていた。ID、つまり、身分証である。『警備一班 山姥切長義』という文字が、鶴丸には読み取れた。政府のIDの特徴だが、四辺が赤く縁取られている。
鶴丸は、一旦、知らぬ顔をしてみることにした。
「なんだなんだ、今日に限って。昨日まではこんなの無かっただろうに」
「政府施設を利用する際は、IDと許可証の携帯が義務付けられているはずだが?」
山姥切長義はにべもなかったが、彼の言うことは正論であった。本丸所属の刀剣男士は、もれなく全員、政府から身分証を発行されており、これは状況により携帯が義務付けられている。また本丸から出て政府関連の施設を利用する際は、主が都度発行する許可証が必要である、というのが正式な規則である。とはいえこれは、あくまで規則の上ではそうであるというだけであって、実情は、形骸化していた。夕餉の支度に間に合わせるために急遽醤油を買いに行くたびに、いちいち許可証を発行していては、煮物を作るにもことである。
鶴丸は、実際、IDを携帯していなかった。許可証の発行も申請していない。これまで、それで、万屋街への入場を咎められたことは、ただの一度もなかった。
どうやら今日に限って、何かしらの監査が行われているらしい、と鶴丸は推測した。規則が規則としてある以上、それが正しく運用されていることを確認する必要がある、という事情は理解できる。とはいえこれまで穴だらけだった運用である。どうにかその穴を引き続きくぐり抜けられないものかと、鶴丸は声を潜めた。
「いや、それが、今日は忘れちまってな。すぐそこに買い物に行くだけなんだが、なんとかならないか?」
「本日より厳重に検査を行うと昨夜のうちに重要事項扱いで通知を入れてある。知らなかったというのなら、あなたの本丸の審神者が周知を怠ったということにもなるが」
「おっと、これは失礼した。出直そう」
どうやらこれは誤魔化しのきかない状況である、と判断した鶴丸は迅速に撤退した。山姥切長義という刀は本丸の仲間にもおり、意外と話せばわかるやつだが、ここぞという場面では非常に厳しい刀である。宥めすかしてどうにかなる相手ではない。
鶴丸は本丸へ取って返して、主である審神者へ事情を話した。
「あー、ごめんねえ! そういえばそんな通知来てたね」
主は、すぐに許可証を発行してくれた。主は決して不真面目ではないが、少々抜けたところがあり、とはいえその失敗を素直に改められる、憎めない人柄である。鶴丸は、率直に言って主のそういう人間味のある部分を愛していた。申し訳なさそうに手を合わせて謝る主を見て機嫌をよくした鶴丸は、万屋街への無駄な一往復を苦とも思わなかった。
「はい。確かに」
改めて『関所』で必要書類を提示すると、山姥切長義は淡々と確認作業をした上ですんなりと入場を許可してくれた。彼もただ、忠実に職務を果たしているだけということである。ものものしい『関所』を抜けた先の万屋街は、拍子抜けするほど普段通りであったが、どことなく、その場の空気には、緊張感が漂っていた。
「何かあったんですかね」
隣で、鯰尾藤四郎が、少々愉快そうにあたりを見渡しながらそう言った。鯰尾は、本来用のないところ、鶴丸が一度追い返されてきた経緯を聞き、面白がってついてきたのである。彼の首には、鶴丸と同じく、慌てて用意してきたIDが提げられていた。本丸所属の刀剣男士用のIDは、四辺が青で縁取られている。
「単なる監査にしては、ちょっと大袈裟すぎません?」
「さあ、鼠でも入り込んだのかもな」
鶴丸は、鯰尾ほど、この事態に興味がなかった。ただ面倒だと思うばかりである。それだけに、返答にも身が入らなかったが、何も適当なことを言ったわけではなかった。
政府施設、および本丸関係施設に部外者が入り込む可能性は、低いとはいえ無いわけではない。これまでに、最悪なところでは、政府施設に時間遡行軍の侵入を許した例さえある。万屋街という場所に忍び込むことが、侵入者にとって利のあることなのかどうか、という点はいささか怪しくはあるが、無いと言い切れる話でもない。
鯰尾は、今少しこの珍事について議論したそうに見えたが、鶴丸としてはともかく用を済ませることが第一であった。それで適当に相槌を打ちながら目的の店に行ったところ、そこでまた、思わぬ要求にあった。これまでに、幾度となく醤油やら味噌やらの品を購入してきた馴染みの店であったが、店先で、再び許可証の提示を求められたのである。
「政府の職員に、必ず確認するようにとキツく言われておりまして」
店員は、人型をしてはいても人ではなかったが、実に人間じみた申し訳なさそうな顔をした。政府の職員と言われて鶴丸の脳裏には『関所』の山姥切長義の顔が浮かんだ。なるほど抜け目なく、個々の店にも通知を出しているようである。万屋街に入場する際のみならず、店の利用時にも、許可証の提示が必要ということだ。そもそも一日限りの効力しかない許可証の役目は既に終わったものと思い込んでいた鶴丸は、入場後にどう扱ったか記憶がなく、慌てて袖や懐を探った。
「あれ、どこやった?」
「ちょっと、さっき出したばっかりじゃないですか」
鯰尾に急き立てられながら探った懐の奥から、しばらくして鶴丸はくしゃくしゃになった許可証を発掘した。店員は、許可証の右上隅に印字された文書番号を手元の台帳に丁寧に書き写してから、ようやく買い物を許可してくれた。
醤油を二本、腕に抱えて店を出た時には、鶴丸は妙な疲れを感じていた。
「ここまであからさまに管理されると、嫌な感じですね」
鯰尾もどうやら同意見だったと見え、二振りはそのまま、どちらともなく真っ直ぐ本丸へ帰ることを選んだ。普段であれば、土産のひとつも見繕うべく、あちらの店へこちらの店へと寄り道をするところである。だがその度に、いちいちくたびれた許可証を出すのではたまらない。鶴丸は、いくつかある馴染みの店へ視線をやることもなく、足早に歩を進めた。
その歩みが止まったのは、一軒の店の前に差し掛かった時であった。紫ののれんを店先にさげた、つぶあんが美味いと評判の、どら焼き屋である。その店のどら焼きを、特に好んで褒めていたのは本丸の三日月宗近で、鶴丸も、何度か土産に持ち帰ったことがある。今日は無論、買わずに帰るつもりであったが、その店の前にちょうどまさしく、三日月宗近が佇んでいたのだった。
別本丸の三日月である。彼がやけに目を引いたのは、店先で、何やら店員と押し問答をしていたためであった。端々から聞こえてくる会話から察するに、先程の鶴丸と同様、許可証を求められている様子である。三日月は、困り顔で、両腕が懐を繰り返し探っている。
鶴丸は、ははあ、と状況を察した。どうやらあの三日月もまた、許可証をすぐに取り出せずに難儀しているのだろう。あるいは入場した時点で用無しと踏んで、何気なく仕舞い失くしてしまったのかもしれない。鶴丸は、しばらく様子を眺めていたが、三日月の懐から許可証が出てくる様子はなかった。それで、鶴丸の足は、知らず動いた。
「おいおい三日月、探したぜ。きみ許可証を持たずに買い物に行っただろう?」
後ろから声をかけて、三日月の肩を叩く。三日月は、振り返って、はじめ驚いた様子で目を見開いていたが、鶴丸が懐から許可証を取り出したのを見てその瞳に怜悧な色を宿した。彼は、すぐに、笑みを作った。
「やあ鶴丸、来てくれたのか。すまなかったな」
「今日は許可証を持ち歩いてないとしょっぴかれるぜ。ほれ、これでいいかい?」
鶴丸は、話のさなかに、店員へ許可証を差し出した。店員は、どこか安心した様子で、文書番号を控え始めた。店としても、せっかく来てくれた客を、追い返すことはしたくないのだろう。許可証に記されているのは万屋街を訪れた理由と本丸名、本丸番号、日付と審神者の署名ぐらいのものである。許可証の効力の及ぶ範囲は、本来その本丸に所属する刀剣男士のみとなるが、外からわかりはしないのだった。
鶴丸は、話の成り行き上、三日月が買おうとしていた箱詰めのどら焼きの代金を支払った。紙袋を三日月に持たせ、並んで店を離れると、今の今までにこにことして鶴丸と親しげにしていた三日月は、すっと笑みを薄めて声を潜めた。
「おぬし、大胆なことをするなあ。いやしかし助かった。代金を……」
「怪しまれるようなことをするなよ。このまま万屋街を出るから、出てからでいい。店員はともかく、政府のやつらに目をつけられると面倒だぜ」
懐から財布を出そうとした三日月を、鶴丸は小声で制した。途中で気がついたことだが、どうやら万屋街には幾らかの政府の人間、および刀がうろついているようである。警備班とやらの連中だろう、と鶴丸は推測していた。
不正に許可証を利用して他本丸の刀に買い物をさせたことが、そう重大な悪事であるとは鶴丸は思っていなかった。とはいえ明るみに出れば、面倒なことになるのは間違いない。
鶴丸は、素知らぬ顔をして三日月と連れ立って歩いた。そこへ青い顔で割って入って来たのは、一部始終を見ていた鯰尾であった。
「鶴丸さん、どういうことですか」
「ちょっと同じ本丸のフリをして許可証を貸しただけさ。きみなあ、あんまり大きな声で話すなよ」
「まずいですって。どこの誰かもわからないのに」
「あの厳重な関所を通って来たんだから身元ははっきりしてるだろう。第一、菓子を買わせてやったぐらいでそんなにまずいことになるか?」
二振りは、不自然に身を寄せ合って歩きながら小声で言い合った。三日月は、察して数歩後ろに下がったようである。先ほど、店先で不意の芝居に合わせた瞬発力から見ても、大分勘のよい個体である。
鶴丸も、一応、考えなしに動いたわけではない。だがどうにも納得のいかない様子でいる鯰尾に、鶴丸はもう一段声を落とした。
「軽率なのは確かだったが、そう怒ってくれるなよ。このタイミングで、三日月が、好物を買って帰れないんじゃ寝覚めが悪いだろう。縁起も悪い」
「それはそうですけど、でも」
鯰尾は、そこで一旦言葉を切った。万屋街の出入口が見えてきたためである。見ると、そこにはまた、長蛇の列が出来ていた。出ようとする者を厳重に調べているようである。
鶴丸は、一瞬、何かしらの違和感と、嫌な予感を覚えた。だがその正体を探っている暇はなかった。無事に万屋街を出てから頭を整理しよう、と、鶴丸は一旦問題を脇に追いやった。
「見咎められると面倒だ、一緒に並ぶのはよそう。出てから合流して――」
だが結果的に、その判断は誤りであった。声をかけながら振り返った時、そこにあるべき姿はなかった。三日月が、忽然と、姿を消していたのである。隣で、鯰尾が、小さく声をあげた後、溜息を吐いた。
しばらくあたりを探したが、結局三日月は見つからなかった。
「ひとつ、仮説いいですか?」
「聞こう」
「思うにあの関所って、既に入り込んでる怪しいやつを、出さないための関所ですよね。怪しいやつはもう中にいる」
「俺もそんな気がしてたところだ」
「あの三日月さん、ID提げてませんでしたけど、気づいてました?」
「いやあ、まったく」
「……通報します?」
「……少しだけ検討しよう」
鶴丸は、鯰尾とともに、急いで本丸へ戻った。一旦、情報を手に入れたく思ったのである。
醤油の瓶を抱えたまま主の部屋へ飛び込むと、主はまず、それを見て笑った。それから鶴丸と鯰尾の要求に応え、政府からの通知をあらためて確認してくれた。主は政府からの通知を見るなり、驚いた顔をした。はじめて見たような反応ではあるが、実際、一度目はまともに中身を読んではいなかったのだろう。
主曰く、通知内容は、こうであった。
「なんかねえ、他所の本丸で、審神者を斬っちゃった子が逃走中なんだって」
鶴丸は、鯰尾と顔を見合わせた。