【くにちょぎ】5月新刊冒頭 それは、決して、思い余った末の衝動的な行動ではなかった。
今夜、食事も湯浴みも済ませた後に、恋刀である山姥切長義の部屋を訪れることは、三日も前から決まっていた。軽く酒でも飲み交わそうという約束だった。
長義との仲に「それらしい」名前がついてから数か月になる。
国広の方から想いを打ち明けて、それが叶った形だった。幾度となく逢瀬を重ね、他人の目の無いところでは手と手、あるいは唇と唇が触れ合うようなことも今では珍しくなくなっていた。言葉を交わすたび、触れるたびに想いは募り、同時に仄暗い欲求もまた募っていた。長義は唇に触れさせはしても、決して同衾を許す素振りは見せなかった。
夜に私室を訪れるよう誘われたのはその頃だった。
国広は、長義もまた、同じ気持ちで居てくれたのだろうかと期待して、歓喜した。同時にひどく緊張もした。約束通り、今日、寝支度を済ませてから気配を潜ませるようにして長義の部屋を訪れた後、国広はずっと気もそぞろだった。勧められるままに酒を飲んだが、不思議とすこしも酔わなかった。普段以上に口数の少なくなった国広に対し、長義は、やけに機嫌がよかった。彼はぎこちない国広の話術を、揶揄して笑った。
きっかけが、何だったのかは覚えていない。不意に会話が途切れた刹那に、二振りの間には互いにしかわからない、特有の甘い空気が生まれた。顔を寄せて口付けると、長義はそれを拒まなかった。ここだ、と、判断した国広は長義の肩を掴んで押し、彼の体を押し倒した。それは意図的で、計画的だった。
畳の上へ散らばる美しい銀の髪を見た時、国広は、自らの小さな失敗を悟った。本当は、硬い畳の上ではなく、せめて布団の上へ横たえてやらなければならなかった。だがそこまでの余裕はなかった、というのが正直なところだった。国広の心臓は、早鐘を打って、耳の傍で何かざわざわとした雑音が聞こえるのがうるさくてたまらなかった。
ふと、長義の顔を見ると、彼はそこへ何の感情も浮かべていなかった。畳の上へ押し倒され、国広の纏う薄汚れた白い布に体の周囲を覆われながら、驚くでも、怒るでも、恥じらうでもなかった。やけにさめた藍色の瞳には、見覚えがあった。
耳に、いつかの長義の声が響く。
「お前は俺の写しだからね。写しが本歌を慕うのは、当然のことだよ」
それは、国広が、長義に長く秘めていた想いを打ち明けたときのことだった。
拒まれるか、笑われるか、あるいは怒りを向けられるかと、さまざまに想像しながら想いを告げた時、長義の反応はそのどれにも当てはまらなかった。たださめた瞳の色をして、国広の言葉を受け入れた。そのあまりの平静さに、不安を覚えるほどだった。
「俺は、お前に、恋をしていると、そう言っているんだが、伝わってるのか」
「恋! ははっ」
長義は、あのとき、確かに声をあげて笑った。国広は、長義の心がまるでわからなかったが、澄んだ声で笑う長義はいつにも増して魅力的で、目が離せなかった。
「それで、お前が俺を好きなのはわかったけど、どうしたいの」
問われて、国広の心は、不安を抱えながらも甘く高鳴った。長義の目が、声が、少なくとも好意的に、自分へ向けられているのがわかったからだった。
「あんたを俺の、恋びとにしたい」
「いいよ、別に」
こうして始まった二振りの関係に、これまで大きな齟齬はなかった。告白をしたその瞬間こそ少々の肩透かしを食ったものの、国広の想いは、正しく長義へ伝わっていた、という確信があった。
だが、あのときは忘れていたささやかな不安が、今、不意によみがえりつつあった。国広は、長義を畳へ組み敷いた格好のまま、一瞬、その感情の読めない瞳を見下ろして呼吸をするのさえ忘れた。
「随分な扱いだな」
先に声を上げたのは長義の方だった。国広ははっとして思わず体を引きかけたが、それより早く、長義が笑った。
「それで、お前は、どうしたいの」
優しい声には、覚えがあった。それこそ、まさしく、想いを告げた時に促されたのと、まったく同じ調子だった。
「あんたを、抱きたい」
その優しさに誘われて、どうにか望みを口に出す。緊張と、期待と、恐れとのせいで、喉がからからに乾いて声が掠れた。頭にひどく熱がのぼって顔があつく、その体温は、今にも長義に伝わりそうに思ったが、またたきの向こうに見る長義の瞳は、やはりどこか、さめて見えた。
「へえ」
長義の相槌に、肩を揺らす。どうにも互いの間に熱量の齟齬があるらしいと、さすがに気付いた頃だった。こんなことをしなければ良かったという後悔と、せずには居られなかったという居直りの気持ちが、交互に胸へ去来した。
長義が続ける。
「俺を抱きたいって? どうして」
「あんたのことが好きだから、触れたい」
「こんな風に組み敷いて、好きに暴くのがお前の言う愛なのかな」
諭すようにも、煽るようにも聞こえたその言葉に、心臓が冷える。逃げ出したいような気持ちになりながら、しかし国広は自らの心の声を素直にさらけ出すだけの覚悟があった。
「そうだ。浅ましく、醜いとは思うが、これがお前に向ける俺の愛だ」
「ははっ」
言い切ると、長義はまた声をあげて笑った。長義の心のまるで見えない部分は、そこだった。こちらを歓迎しているようには見えなくとも、機嫌の悪い様子はない。その掴み切れない態度に、国広はいつも翻弄された。
「素直だね」
長義がゆるく双眸を細めて、不意に片腕を持ち上げる。その手は国広の頬へ触れて、褒めるように肌を撫でた。長義の手のひらはわずかに冷たく、ひどく心地よく感じられた。思わずとろりと目を蕩けさせると、しかし、またもさめた藍の瞳の色に出会った。
「冗談じゃないよ。お前に抱かれる気なんかない」
一瞬、何を言われたのかわからなかったのは、その声がやけに優しく、穏やかに向けられたためだった。するりと胸に入り込んだその言葉は、一瞬遅れて実体を伴うとともに、途端に鋭い刃を帯びて心臓を刺した。
長義が手をついて起き上がる。国広は、それに合わせて身を引き、ふらりとよろめくようにして畳の上へ尻をついた。拒絶されたのだ、という事実が、その頃になってようやく理解できるようになっていた。それも、相当に強い言葉でもって、譲歩の余地のかけらもなく。
長義の手が、肩に触れる。
「可哀相に、そんな顔をして」
恐る恐る顔を上げると、憐れむような、愛おしむような、やさしい表情がそこにあった。国広には、いよいよ長義がわからなかった。だが長義の腕が背にまわり、そっと体を抱きしめ、頭を撫でてくるのを拒否できなかった。耳鳴りがするようで、まるで気力の沸かない体にとって、その体温は心地よかった。
「大丈夫。ちゃんと、どうにかしてあげようね」
子供をあやすような、やけに甘ったるい声を聞く。国広は、その時、何も考えられなかった。ただはっきりと拒絶を受けたという衝撃と、そのくせ優しく触れて来る長義の手に、はげしく混乱して夢を見ているような心地だった。
促されて、立ち上がる。
「おいで、国広」
長義は部屋の衣装棚の前へ国広を導いた。
もう寝るだけの格好をしていた国広へ、長義は外へ出られる衣装をあてがった。寝間着替わりの浴衣を脱がされ、シャツとズボンの洋装の一式を貸し与えられながら、国広は訳も分からず着替えを済ませた。
長義が何かをするよう求めてくれることは、今、国広にとっては救いでもあった。少なくともこれ以上の拒絶を受けることはないという安心感を得るために、長義の言葉に従いたがる心があった。
「本当は、こんな無粋な布を被っていくべきではないが……まあ、仕方ないか」
長義は最後に国広が普段から愛用している布を羽織らせ、首元で紐を結ぶのを手伝った。そうして傍を離れていった。国広は、呆然と、しばしその場に立ち尽くした。長義はその間に衣装棚の引き出しを探り、何かを取り出したようだった。
それは、どうやら、手のひらに収まるほど小さい、丸く平べったい容器だった。
「手を出せ」
長義は目の前に戻って来るなり、容器の蓋を開けながらそう言った。ぎこちなく手を差し出すと、長義の指が、容器の中身を薄く掬って、国広の手首の内側へ塗り込んだ。
指が滑るぬるりとした感触と、体温が伝わる。国広は思わず肩を揺らした。
わずかに遅れて、ふわりと何かしらの香りがのぼる。
「これは」
「香水の類だよ。お前みたいのがひとりで花街をうろついていても、迷い込んだと思われるのが関の山だ。少しは気を使った方がいい」
「はな、まち」
「手首の内側に。それから首筋と、耳の後ろに。指でほんの少し取って、薄く塗る程度でいい。さあ覚えて。次はひとりで出来るように」
長義の言葉は、耳を通りはするものの、すこしも心に、頭に、届いてこなかった。ただ長義の指がやけになまめかしく、首筋へ、耳の後ろへ触れてくるのが、ただただ胸をざわつかせた。
密談でもするかのように、長義が声を潜める。
「お前と以前買い物に行った、万屋街の金物屋。わかるな」
首肯。
「あそこから三本東の通りに、柳の地に白の文字色の暖簾をさげた茶屋がある。軽屋という店だ。そこへ行って、二階へ上がらせて欲しいと言えば、話は通じる」
「……」
「いいか、絶対に、適当な他の店へは行くなよ。あそこにあるのは政府の認可の下りた店ばかりだが、それでも格式に違いはある」
「長義……待ってくれ」
国広は、ようやくそこで、長義の言葉を遮った。状況に流されながらも、少しずつ、事態を把握しつつはあったが、とても理解は出来なかった。
何かの間違いではないかという、ささやかな期待を込めて聞く。
「お前は、俺に、何をさせたいんだ……?」
「他所で、発散して来い」
長義ははっきりと答えて、国広の背に触れながら部屋の襖を開いた。
とん、と軽い力で押された瞬間、国広の足は無意識に大きく動いて、たたらを踏みながら廊下へ出る。
振り返ると、笑みをたたえた、長義の顔があった。
「長義」
「必ず俺のところへ帰っておいで」
目の前で、静かに襖は閉められた。
途端に自分の体から、何か知らない香りがのぼった。柑橘系の果物のような、雨の日の森林のような、それは何とも言えない香りだった。
国広はまだ夢見心地で、どうするべきが最善なのかもわからず、ただ、与えられた指示を盲目的にこなすために、本丸を出て万屋街へ向かった。
もう夜も更けた時間に万屋街を訪れたのは、はじめてのことだった。昼は賑やかに軒先に商品を並べている店々も、既に皆暖簾を下ろし、明かりを消してしんとしている。
万屋街の一角に、夜でも明るい区画があることは知っていた。居酒屋が軒を連ねるあたりと、夜こそ開く花街である。『軽屋』はその、花街界隈のはずれにあった。
国広は、その店を知っていた。昼は店の一角で、ごく普通の茶屋らしく団子を売っていたからだ。夜には酒を出すことも、店の二階に貸し部屋の類があることも知っていた。ただ、利用したことはなかった。
「上を使わせて欲しいんだが」
店を訪れて店主に言うと、人の女の姿をした店主は営業用の笑みをたたえて、しかし値踏みするように国広を見た。国広もまた、彼女を見返す。人の姿をしてはいるが、人ではない。ただ、付喪神の気配とも違った。化生の類か、鬼の類か、ただともかく万屋街で商売をしているとなれば恐らく悪意のあるものではない。
「おひとりですか」
「そうだ」
答えると、店主は国広を二階の部屋へ案内した。そこは六畳ほどのごく普通の和室で、誰が居るでもないことに国広は安堵した。ただ、当たり前のように敷かれた布団にぎくりとした。部屋に入ると、その布団から、なるべく遠い所へ腰を下ろす。
実のところ、国広は、未だに一縷の望みを抱いていた。長義がわざわざ店を指定したこと、その店がいわゆる花街における主流の形態ではなく、曲がりなりにも茶屋を装った店であったことが、その希望を抱かせた原因だった。
国広にとっては、長義の提案は、まるで意味のわからない妄言としか思えなかった。そこに、何か、裏の意味が含まれているのではないかと、そう期待して、確かめずには居られなかった。
だから、しばらくして、部屋の襖を開けて着物を着た妓が入って来た時には、心底失望した。
彼女は、やはり、ひとではなかった。だが人間の、美しい女性の姿をしていた。しどけなく襟を乱した着物姿の彼女は入るなり畳へ額づいて名を名乗り、そうして、彼女の仕事を始めた。
部屋の隅に居た国広の傍らまで近付いてきて、その身を、もたせかけてきたのだった。いやに柔らかい女体の感触と、濃く漂う白粉の匂い。彼女が甘えた声を出し、ふと手の甲へ触れて来た時、国広は、強烈な嫌悪感を覚えて思わずその身を突き飛ばしてしまった。
「すまない」
謝罪を置いて、逃げるように部屋を出る。階段を軋ませて階下へ下りると、不審げな顔をして出てきた店主に金を押し付けてそのまま店を飛び出した。行く先もわからず走り抜いて、花街を離れながら、国広は、自分の考えの甘さを呪った。
裏の意味などあるはずもない。
あれはやはり、単なる拒絶で、他所で発散して来いと言われたのもそのままの意味であったのだ。
長義の心が、わからなかった。見知らぬ妓を抱いて来るようお膳立てまでされたというのは、この腕が、誰を抱こうと心は軋まないということなのか。他所で発散することで、収まる欲だと思われたこともたまらなかった。
一方で、その気もないのに、熱を帯びた手で触れられるおぞましさを、国広は今しがた知ってしまった。長義は、不意に押し倒されて、もしやあれほどの気味の悪さを覚えたのか。想像して、恐ろしく思う内に、先の店の妓への自らの態度を後悔する。彼女は仕事でしたことだろうに、強く拒絶してしまった。自分があれほど傷ついたことを、見知らぬ相手に――。国広の心は、走りながら、千々に乱れた。
万屋街で、他に行くあてもなく、やがて走り疲れると、国広はもう閉じた店の物陰でうずくまってしばし休んだ。休みながら、とりとめもなく思考を巡らせ、深みにはまっていく内に、随分と長い時間が経った。
帰っておいで、という長義の声がふと耳によみがえったのは、もう明け方近くなってからのことだった。
それは、細く頼りないながらも、一筋の光る糸に思えた。思い起こせば、確かに拒絶はされながらも、長義はずっと、優しかった。帰って来いと言ってくれた。
国広は、それを頼みに、ふらりと立ち上がって本丸へ戻った。
「遅かったな」
長義の部屋を訪れると、すぐに中から声がかかった。襖が開いて、手招きをされる。長義は、どうやら、起きて待ってくれていたようだった。
「おかえり。俺の可愛い写し」
長義は正面から国広の体を抱いて、腕を回すと背と後頭部を撫でてくれた。柔らかくもなく、媚びた白粉の香りもしない長義の体は、触れられて心地よく思えるばかりで泣き出しそうに愛おしくなった。恐る恐る背へ縋ると、長義は拒む気配もなかった。強く腕に力を込めて抱きしめると、これまで抱えて来た何かしらの恐れが、すっと消えていくような心地がした。
「上手くやれたのか」
だがその問いに、身が強張る。上手くはやれなかった。長義以外の相手に触れることなど考えられずに、逃げ出してきた。そう自らの潔白を訴えたい気持ちと、一方では、それは長義を失望させることになるのではないかという恐れがあった。長義は、望んで、国広を花街へ送り出した。こうして、笑みで迎えてくれている。
逡巡の後、国広は、無言でただ頷いた。言葉を紡がなかったのは、積極的に長義を欺くつもりはないという、ささやかな逃げを打つためだった。
「……そう」
長義もまた、言葉少なに相槌を打つと、やがて抱擁を解いて間近で国広と目を合わせた。国広は、長義の目を見難く思ったが、そこに何かしらの感情を読み取りたくちらり、ちらりと窺って、結局のところは、何を得られることもなかった。
「まだ朝までは時間がある。ひと眠りしようか」
長義は、国広の服を脱がせ、着替えに手を貸すと寝床へ誘った。寝間着に着替えた国広は、誘われるままに布団に入った。長義と同じ布団で寝るのは、はじめてのことだった。愛しい相手と共寝をする、その事実に、確かに高揚する心があった。
ただ、そればかりではなかった。
狭い布団に、寄り添うようにして向かい合い、目を閉じると、ほどなくして長義の立てる小さな寝息が聞こえてきた。瞼を起こすと、目の前に、無防備で幼い寝顔があった。見ている内に、どろどろと、胸に何か重たい澱が溜まっていくような気がした。
今夜のことは、何だったのかと、思えば思うほど悪い夢のようだった。
怒ればいいのか。悲しめばいいのか。何のつもりかと長義を問い詰めるべきなのか。だがことが終わった今、愛しい相手はこうして隣で、憂うことなく眠りについている。
その幸福を壊すことも恐ろしかった。
胸が苦しく、とても眠れそうにはなかったが、鎮めるべきは心のみではなかった。鬱々とした熱が体の中でくすぶって、たまらなかった。
はじめて恋びとを畳へ押し倒した高揚。直後の後悔。それでもどう触れようかと考えることはやめられず、期待した浅ましい肉体。夜の街で白粉の匂いを纏った妓に触れられて嫌悪しながらも、確かにその色を帯びた雰囲気にあてられた自分がいた。
手を伸ばす。触れるとそこは熱を帯びて感じられた。それがどうしようもなく情けなかった。幾度となく長義に触れる想像をして昂った熱を慰めた手のひらは、今夜、この状況でも、そのように動いた。下着の下で手が動くたび立つ濁った水音と、目の前から聞こえる健やかな寝息の音には、恐ろしく汚いものと美しいものとの間のごとく、大きな隔たりがあった。それは、まるで、国広と長義の間の隔たりのようにも感じられた。
薄く開いた長義の唇から、吐息が漏れる。想像の内で、国広はその唇をはげしく暴き、犯した。そのように触れたことは、現実では一度もなかった。手が動くのを止められず、声が漏れそうになるのを必死で抑えて、国広は布団の内でぎゅうと身を縮こまらせながら、やがて薄汚い欲を吐いた。
肩で息をしながら、目頭が熱くなるのを感じた。それが興奮によるものなのか、悲しみによるものなのか、わからなかった。考える内に、虚しくなった。
だが、目の前の恋びとは、ただ、ただ、愛おしかった。
その愛おしさに、睫毛が濡れた。
これがはじめての夜の顛末である。