「あなたと見るから綺麗なのです」「随分遠くまで来ましたね」
「そうだなァ。この辺で良いっしょ」
満月が綺麗な夜だった。燐音は埠頭の駐車場に車を停めて、下車を促す。助手席に座っていたHiMERUは手を塞ぐ大きめな荷物は車内に置いたまま、スマホだけをポケットに入れて車を降りた。
「海に行きたい」と言い出したのは珍しくHiMERUの方だった。俺っちも海は好き。人が少ねェ夜の海なら尚更。
「海か、いいね。行こうぜ。もうすぐ夏も終わっちまうしさァ」…とすぐに了承した。大事なお姫様が行きたいというのだから、断る理由もない。今日はお互い、夜から空いていたわけだし。
夜中の海の波の音は存外大きいもので、風の音も相まって騒がしかった。
「もう夏も終わりですね」
HiMERUは白く長い指を浅瀬につけて、波をちゃぷちゃぷと弄んでいた。
「そうだなァ。あっという間」
花火でも持ってくれば良かったなァ、と呟き HiMERUの隣に並んで、燐音も同じように手を海水に浸す。生温い水だ。まだ夏の名残がある、冬には遠い季節の海の水だった。
「珍しいね。メルメルから行きたい場所のリクエストなんて。しかも海」
「なんとなく……海が良かったのです。あなたと思い出を作るのなら、海がいいと思っただけ」
「そう。2人の夏の思い出に、海を選んでくれたってわけねェ」
本当に何となく思いついて決めたらしい。HiMERUはあまり人混みを好まないし、この時間帯を選んだのは正解だった。
「ふふ、……Crazy:Bとの、あなたとの夏は楽しかったです。本当に、心の底からそう思うのですよ」
HiMERUはそう言いながら浅瀬から離れて、砂浜に腰掛ける。それでもしっかりとハンカチを敷いて座っている辺りが彼らしいなと思った。
「楽しかった、か。まァ、そう言われるのは素直に嬉しいよ」
燐音もHiMERUの隣に腰掛けて、話し出した。
「俺っちはさァ、あんたが1番大切になってから、本当に変わっちまったよ。寝ても冷めてもメルメルのことばっかり考えてる」
「熱烈ですね。良い意味で捉えてもいいのでしょうか?」
「おいおい推理が得意なンだろ?当たり前っしょ?後にも先にも現れねェよ、俺っちをここまで惚れさせる奴なんてさァ」
「ふふ、そうでしょう?そんなHiMERUをこうして独り占め出来るなんて、天城は幸せ者なのです」
HiMERUは悪戯っぽく笑い、どこか揶揄うようにそう言った。
「……なァメルメル。俺っちとあんた、もう少しさァ……、その、うん……」
『一緒に住まない?』そう言いかけて、やめた。せっかくこんな良い雰囲気だけど、やっぱりまだ気恥ずかしくて。
「いや……なんでもねェや」
誤魔化すように笑った。しどろもどろな態度の燐音をHiMERUはじっと見て首を傾げた。不思議そうにじっと見られると恥ずかしくなってしまい、燐音は半ば無理やり話を逸らした。
「水は温いけど、夜はわりと風が冷えるなァ。寒くねェ?」
「少し、肌寒いですね」
「上着貸すよ」
「……いいえ、大丈夫」
そう言って、HiMERUはぐいっと身体を寄せてくる。急に近付かれて、不覚にも胸が高鳴った。
「えっ、ちょっ、メルメル」
「なんですか。いいでしょう、これくらい。付き合っているのですから」
それに、誰もいない。と呟いて、HiMERUはそのまま燐音の肩に凭れ掛かり、HiMERUの髪の毛がふわりと燐音の首筋を撫でた。
あぁ、ダメだ。キスしたい。愛しいとか、離れて行かないでとか、一緒に暮らしたいとかいつになったら燐音と下の名前で呼んでくれるのか、とか。色んな感情が溢れ出すとすぐに触れたくなってしまう。メルメルはここにいるんだって、心を安心させたくて。
「なァメルメル」
少し低くなった声でHiMERUの名前を呼ぶと、彼はこちらを見て「はい」と返事をした。次の瞬間には思わず口付けていた。
触れるだけの優しいキスをして離れると、HiMERUはふふ、と声を出して笑った。
「急ですね」
「悪いかよ」
「……いえ、別に?」
HIMERUは笑いながら『もう一度』とでも言うように目を閉じる。その仕草が堪らなく愛おしくて、今度はHiMERUの顎にそっと手を添えて再び口付けた。唇を押し付けるだけの、優しくて甘いキスをして、そのまましばらくお互いの体温を確かめ合うように抱き合っていた。
「少しくらいなら、いいですよね」
夜も更けて、そろそろ帰ろうと波打ち際をゆっくりと歩いていると、HiMERUが不意に立ち止まり、海の向こうを見つめて呟いた。どうしたのかと燐音が振り返ると、HiMERUはしゃがんで靴を脱ぎ、浅瀬の中にと足を踏み入れた。
「せっかくなんですし、どうです?天城も」
ぱしゃぱしゃと足音を立てて、水を足で軽く蹴りながら歩く。
「おい、メルメル。暗いし危ねェから、あンまり遠くに行くなよ」
「大丈夫ですよ、子供じゃないですし」
HiMERUを追いかけるように燐音も浅瀬に足を踏み入れる。
「燐音」
ふと聴こえた、燐音と呼ぶHiMERUの声。聴き間違いかと思って顔を上げると、ぱしゃ、とHiMERUに海水を飛ばされた。
「な〜にすンだよ!」
「ふふ、隙だらけです」
声や姿はいつも通り大人びていても、普段見せることのない、まるで子供のようにはしゃいだ様子でHiMERUは月の下の暗い海を歩いて行く。燐音もつられてはしゃぎたくなってしまい、見失わないようにHiMERUを追いかけた。
「ねえ。月が、綺麗ですね」
そう言って振り向いたHiMERUが、海の中に消えてしまいそうで、照らす大きな月にさらわれてしまいそうに見えて、思わず手を伸ばした。
「死んだっていいよ、あんたとなら」