★付き合う前の話 突然だった。
いつものことだが、予想できないタイミングでそれは起こる。
後ろから頭をがっつり掴まれて無理やり首を捻られる。痛い。
歯と歯ががち、と当たって「うぇ」と変な声も出してしまったがそれでも先輩が俺の頭を掴む手の力は緩まなかった。
すぐ口を押し付けられていることに気が付いて流れに任せる。もう既に歯が当たって痛いし首も変な方向に曲げられて言わずもがな痛いし、変に抵抗したらこれ以上痛いところが増えると知っている。
先輩は目を瞑っていたが平常心を取り戻しつつある俺はそのまま目を開けて閉じられた瞼を眺め続けた。
すぐに舌が入ってきたが、それを押すでも撫でるでもなくただ流されて逆らわないでいる。瞼の下で眼球が動くのが見えて、それを見ながら「明日、首痛くならないといいな」と思った。
どれくらいの間か正確にはわからないが頭を抑える力が抜けて行って、申し訳なさそうに離れていく。先輩の視界から外れたところで隠れて肩口に口元を押し当てて拭く。別にその行為が嫌だったわけではない。でもこの歳で口元べちょべちょで外を歩くことなんてできないから拭いた。
先輩は、自分からしてきたくせに、まるでこんなことしたくなかったとでも言うように大きく溜息をついて俺の目の前で口を拭った。俺の気遣いを見習ってほしいと、思う。
「その……。いつもごめん」
「ええ、本当に」
「ご、ごめんな!」
「いいです、慣れてるんで」
さっきまでのがっついた雰囲気はもうなくて、おろおろとした表情で俺の機嫌をとりに来る。俺も溜息をつきたかったが、ここで溜息をついたら先輩がもっと気にするだろうと分かっているので我慢。自制の効かない三十過ぎのおっさんなんて……とついこの間も落ち込んでいるところを見たばかりだった。
「我慢できなくなるっていうかなんていうか」
どうやら俺に弁解しようとしているらしいが、求めていない。
「なんかわからんが、そうしなければいけないような気がして」
「知りませんけど。他でやらなきゃいいんじゃないですか」
「さすが市川……分別つきすぎだな……」
「先輩は、ついてなさすぎです」
ごめん!とまた声を荒げて頭を深々ぺこぺこと下げて謝り続けている。
いつもと同じで、先輩は自分の気が済むまでこれを繰り返すのも、いつものことだった。俺がもういいと言っても自分が納得するまで繰り返すのだ。もう回数を忘れるほどに、同じことを繰り返しているのでこの先の事は見なくても分かっていた。
「なんでそんなに謝るんですか?」
先輩のこれは、おそらく怪獣が関係しているのだろう。元々そういう……少し無理やりというか。そんな性癖がありそうな人ではないし、普段から他人に優しい人だから、人が嫌がることはしないと信用している。
そんな彼が、雰囲気もタイミングも読めず突然こういった、捕食行動のような、ことをしてくるのは異物が混じっているからではないだろうか。
「先輩の意思」ではないと分かっているから、怒る気力も嫌うこともなかった。
「同性の同僚にこういうことされたら怒らねえかな、とか今更思ったり」
俺の顔色を窺ってくる先輩のほうが白い顔をしている。よっぽど、嫌われたくないのだろうなとそれで分かった。
「うーん。今のところ俺は怒ってないですが」
「が?」
続きを予測してさらに焦った顔をして作って見せる。
嫌なことを言われる覚悟を決めたのかその顔はすぐ気合の入った顔に変わって、わかりやすい人だ。
「先輩にそうやって毎回まいかい同じように謝られて宥めるのは、正直面倒くさいなと思います」
「市川……」
毎回、「大丈夫です」「怒っていません」と伝えているのに散々に唇を押し付けてきた後我に帰って謝罪をぶつけてくるのだ。謝罪を、一日中。
今のところキスしかされていないし、それも良いとも悪いともなにも感じないのだから「いいですよ」と伝えているのに。先輩のこれは、欠伸をしたら涙が出るとか動いたら腹が減る、みたいな生理現象的なことだと解釈しているので責めることではないのではないか。それに対し謝られても言葉に困ると、そういう訳だ。
今回も怒っていないと伝えているのに随分と申し訳ないという顔でこちらを見つめてきていて、居たたまれない気持ちになる。
なので、一つ提案。
「こういうことをするのがいけない関係じゃ、なくなれば先輩も気が済みますか」
「つまりどういう」
「触っても噛んでもいい関係になれば、先輩が謝らなくなりますか」
「どんだけ謝られたくないんだよ」
「だって面倒ですし」
これは、付き合うということ。
別に先輩のことが性的に好きとか自分のそばにいてほしいとか、そういう思いは今のところない。仕事の先輩、同僚として好きでいい関係のままいたいとただそれだけ。先輩が面倒なことを考えなくなればそれでいいなという、思いだけだが。
先輩は細かく説明しなくてもわかったようで一瞬変な顔をして、その後もっと変な顔をした。
「俺、市川に嫌われてない?」
「嫌いな人にこういう提案しないと思います」
「でも好きでもない、だろ」
「これからはわからないです」
好きだけど、付き合う云々の好きでないことは確かだった。先輩として。人としての好き。恋愛対象の好きではないとはっきり言うべきだった、はずだ。
違うと断るところだったのにそう言わなかった自分はずるいんだろう。
その俺の返事に、変な顔をしていた先輩が歯を見せて笑った。耳が赤くなっているのを見てしまって、俺までその熱が移ったような気がした。
お互いに分かっている。これは、恋愛ではない。先輩の異物混入からなる仮名生理的欲求を満たすための付き合いだということ。
なのに。
「痛くないようにするからな」
「誰が下だって言いました?」
でも、付き合いは付き合いだから。感情がこれから変わったら、それはそれだと思う。