ちゅーしないと具合悪くなる話「さっき、みてしまったんだが」
名取さんは視線を逸らしたまま、言った。
昔を思い出すような話し方。これは呆れている人の話し方だ、そう思うと身体が強張る。まただれかを不快な気持ちにさせてしまったのだろうと、わかったからだ。
名取さんは顔を伏せていた。
いつもの胡散臭い笑顔はないしこちらも見てない。これは呆れている、または怒っているのだとすぐわかった。
「怒ってます、よね」
「怒ってない。言葉にするとしたら、苛々しているよ」
苛々しているのは、怒っているわけではないのだろうか。違いがわからない。
学校の帰り道に偶々出会った名取さんは、どうやらその時から苛々していたらしい。声をかけられたときから既にこのように機嫌が悪そうな態度だった。
「なにしてるの」と一言声をかけられただけだったが、友人に聞くようなそれではなく問い詰めるような言葉の刺々しさを感じたのだ。
もしかしたらおれが原因で苛々しているわけではないのかもしれないが、こちらを見ないことを鑑みて、おれが原因のような気がする。
「君は……」
溜息。
その先の言葉を言うことが憚られるような話し方だった。
目を逸らさず名取さんを見つめていると、やはり呆れたように話を続けた。
「また妖になにかされたんだろ」
声音が冷たい。
「されてません」
「見たよ」
なにを、と言い返すつもりだったが、無駄なようだったので口を噤んだ。もう嘘を言っても遅いようだ。
見られていた。
名取さんに声を掛けられる前に、先生がしてくれたことを。
帰り道、また気持ち悪くなって先生がやれやれと言いながらも小さい口を頬に当ててくれていた。他に、思い当たることはない。
おれたちの関係性が人間と妖、用心棒といての主従関係だと分かっている名取さんからしたらおれたちの間で行われている行為が異常であり、その異常がどこからくるものなのかは容易に結びついたのだろう。
しかしこれを、説明するのが難しい。
妖に何かされたようだが、何をされたかわからなくて。偶然、キスすると症状が改善することがわかったが、こんな不思議なことは妖の力以外考えられないという消去法なだけだ。自分でもわかっていないことを人に説明することは難しい。
悩んでいると、名取さんは笑って、またすぐ怒っているような顔をした。
「無理に言う必要はない。どうせ私には教えてくれないだろう。でも、さっきその猫が君にしたことがどういうことかは教えてほしいんだ」
腕に抱えた先生を睨むように見ている。
そんな視線を向けられたのだから先生も黙ってられるかと腕からするりと出てきておれの頭の上に乗った。
とてつもなく重い。
名取さんに見下ろされないように高い位置に上りたかったのだろう。
「若造が。知ったような口をきくな」
「わからないから聞いてるんだよ」
「聞いたところでお前の出る幕はない」
頭がぐらぐらする。先生が重いせいだろうが、先生はおれの頭がぐらぐらしてもお構いなしに重心を激しく揺らしながらも名取さんと口喧嘩を始めた。
……おれの首がもたなさそうだ。
「先生に助けてもらってます」
「助け……?あれが?」
先生は、「黙ってろ!」とおれの頭を前足でふみふみしたが、その手を掴んで無理やりおろし、また腕に抱えさせてもらった。
まだ言い足りないようで、鼻息荒くじたばたと腕の中で暴れていたが離さないように掴んだ。
「他に何に見えたのだ」
「てっきり……」
そうだな、と言葉を選んでいるように言う。
「とうとう妖に生涯のパートナーとして求められているかのような」
「なん」
言葉尻が自分でも聞こえなかった。
暴れていた先生も静止している。どんな感情なのかはわからない。
一瞬間に静寂が流れて、またすぐ動き出した。
「夏目を助けるためのことだってことだよね」
「……はい」
合っているのにすぐに返事ができない。
先生は尚も大人しくしていた。おれから見えるのは大きい先生の小さい額だけだ。
「他に、意味がないなら私もこれ以上の干渉は控えようかな。無理に介入すると怒られそうだ」
「すみません」
「謝らなくていい」
「でも、怒らせてしまったのなら」
「そうじゃない。君たちが、線引きもできなくなってるのかとおもったから声をかけたんだ。そうじゃないなら、いい」
線引き。
おれと先生が越えてはいけない線を越えていると、名取さんは忠告しているのだとここでやっとわかった。
先生の方を見つめて、笑っている。先生の怒っているらしい顔を見て、笑っている。
「お前に言われる筋合いはない」
それは低い声だった。
その後、名取さんとは程なくして別れた。流れるようにおれの手の甲に唇を押し付けて、何事もなかったかのように去って行った。
おそらく先生が威嚇したせいだろう、キスをしてから振り返りもせず名取さんはいなくなった。無駄な争いをしないようにと名取さんが引いたように見えた。
名取さんと別れた後、その後先生も何事もなかったかのように「今日の晩飯は」などと話し始めたのでそのまま流されてそのことを声に出すことができないまま時は流れ夜になり、布団に入った。
見慣れた天井を見ながら考える。
「線引き」というものが、必要なのだろうか。
もはや破綻している気がする。
線引きとは?必要以上の介入のことか?それとも感情のことだろうか。線引きをすることによりなにが変わるのか。そしてまるで普通とでもいうように行われたが、名取さんはおれの手の甲にキスをしていった。
例に従いキスをされたので頭は軽くなったが、考えることは多くなりまた頭が痛くなった。
「私たちの関係は、なにも変わらない。お前が友人帳を持つ限り、私が用心棒として守ってやるただそれだけだ」
頭を抱えるおれの心をまるで読んだかのように先生が声をかけてきた。しかし釈然としない。
「線引きは必要なのか?」
その言葉の返事が思いつかなかった。