暇つぶし荒く浅い息遣いが、仄暗い円柱状の建物に響く。殺人鬼の首に提げられた懐中時計の鎖が、身動きする度に擦れて鳴っている。なんてことのないその無機質な音が、目眩がするほど恐ろしかった。
「そんなに怖がらなくたっていいだろう」
小さな子供の姿をした殺人鬼は、ゆっくりした声で言う。
不思議そうに首を傾げているが、人様の足の骨をご丁寧に両方砕いておいて、何をしらばっくれているのか、と男は内心毒づく。
その子供は、ぼさぼさの髪といい、ぶかぶかの服装といい、何とも中性的な容姿の子だった。
一見、大人しそうに見えるが、サイズの合わないパーカーに散らされた血痕と、辺り一面に倒れ伏す仲間が、その正体を証明してくれている。
「た、頼む、こっ……殺さないでくれ!」
「ころさないで?……あぁ、死にたくないんだね」
ゆっくりと言葉を反芻し、殺人鬼はにこりと微笑む。
落ち着き払った態度は大人そのものだ。
「わかるよ。誰だって死ぬのは怖いものだよねぇ」
しみじみと頷く殺人鬼。
両足の痛みが、まるで肯定するように激しくなった。
生きながらえたい一心で、男はもげるのではないか心配になるほど必死に首を縦に振る。
できるだけ悲痛な表情を意識して、視線で懇願する。
「でもぼくだって怖かったんだぜ?きみ達ったら急に来て、ぼくの服を脱がそうとするんだもの」
そう、彼らはこの小さな殺人鬼を陵辱しに侵入してきたのである。
噂で聞く限りでは、殺人鬼は性別不明という話だったが、最近、『男を知らない若い女』という噂が囁かれ始めた。それを確かめに来たのだがあっさり返り討ちにされた訳だ。
「もう二度としないから見逃してくれッ。何なら金も払う!そ、それにあんたの体は暗くてよく見えなかったしッ」
「ラスカル。ぼくの名前はあんたじゃなくて『ラスカル』だよ。……でも、うん。そんなに反省してくれてるなら……そうだねぇ」
殺人鬼……ラスカルがポンと手を叩いた。
「じゃあ三十秒当てゲームしよう。勝ったら帰らせてあげるよ」
「はぁっ?」
思わず素っ頓狂な声が上がる。
何だそりゃあ。機嫌を損ねないよう、全神経を集中していただけに、拍子抜けだ。
騙し討ちかとも思ったが、ラスカルは柔和な笑顔を崩さない。
「……?ぼくの顔に何かついてるかぃ?」
「い、いや」
どうやら本気らしい。
挙句の果てに、「怪我が悪化したらいけないから」と横にさせてくれた。
しばしの戸惑いの後、男は安堵した。
虫の息の仲間達には悪いが、自分だけ生き残れそうだと思ったのだ。
男は口元を緩ませた。
ちょうど額の上辺りに水道があるらしく、断続的に水滴が落ちてくるのがわかる。
バルブが緩んでいるのだろうか。
一つしかない蝋燭の灯りを持って、ラスカルは部屋の隅に座り、懐中時計を開いた。
「そうそう。言っておくけど、ギブアップは無しだからね。約束だよ」
「あぁ……分かった」
「ゲームスタート」
ラスカルの合図から、三十秒当てが始まった。
だが、異変はすぐに起こった。何度やってもなかなか当たらないのだ。
それも誤差なんてレベルではない。
時間が全く進んでいない、と言っても過言ではない。
おまけにこの、額に落ちてくる水滴。これのせいで、集中できない。
「またハズレだねぇ。まだ十一秒だよ」
「ほ、本当か?その時計壊れてるんじゃないか?ちょっと見せてみてくれねぇか?」
「これは大事なものだから他人に触らせたくないんだ」
「ならせめて休ませてくれ、足が痛ぇんだよ!」
言い訳ではなく、事実だった。
さっきより明らかに痛みの度合いが違っている。きっとパンパンに膨れ上がっているのだろう。
内出血も起こしているかもしれない。痛みと疲れで満身創痍状態で、いっそ気絶してしまいたかった。
だがしかし、断続的に額にぶつかる水滴に刺激されて、それも叶わない。
「休むのもダメだよ。ギブアップできないって言っただろう」
ラスカルは、依然として笑顔のままだ。
無慈悲なゲームは尚も続く。何度も間違える。間違える。脳内に水音が響く。響く。
ピチョン。
ピチョン。
ピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョンピチョン
「ああああぁああ!!やめろ、やめろぉおおお」
滅茶苦茶に頭を振り乱す男。
発狂寸前の男に向けて、幼子に沈黙を促すように人差し指を立てて「しー」と囁くラスカル。
そしてたった一つの灯りを吹き消した。
満たされない睡眠欲求と、激痛と暗闇に包まれ、恐怖でいっぱいになった男は完全に精神崩壊した。
金切り声を上げたのを最後に、完全に黙る。
ラスカルが近付いて見ると、男は泡を吹いて失神していた。
「これ水責めっていうんだ。動かさずにひたすら額に水を落とし続ける拷問だよ。長時間行えば、眠れずにやがて精神崩壊を起こす……シンプルでいいよね」
ラスカルは淡々と、誰に言うでもなく解説する。
失神している男の胸倉を掴んで頬を叩くと、ぴくりと肩を跳ねさせた。
白目を向いているので、ほとんど聞こえていないかもしれないが、耳元に口を近付けて言う。
「いいかぃ。町に帰ったら今日あったことを誰彼構わず言い触らすんだ。あ、でもぼくの容姿については嘘の情報を流すように。……性的なのはやめてね、気持ち悪いから」
彼らにした事の物騒さとは正反対の、優しい穏やかな声だった。
ラスカルの声が聞こえていたか定かではないが、ひっくり返った男の目から涙が溢れた。
男を放り、他の刺客共の様子を見て回る。全員、生きているようだ。
数時間もしたら、刺客共は重傷の体を引きずって帰っていくだろう。
「……さて。次はいつお客さん来るかな」
楽しみだ、とわくわくとした独り言もそこそこに、ラスカルは懐中時計を弄ぶのだった。
終