Sweet pain2月も半ばに差し掛かる頃。
今日も遅くまで流川と桜木は残っていた。
汗でベタベタになっている床にモップをかけ、体育館を後にして、桜木が校門にいる警備員に「ご苦労さん」と挨拶し、続けて流川がぺこりと頭をさげてから帰路に着く。
あたりはすっかり暗くなっていて、二人以外に誰もいなかった。いつもの見慣れた風景である。
雪は降ってないけど、風はまだまだ冷たく、頬が切られるようだった。
「さーかえんぞ」
ダウンにマフラーと完全防寒して、ギコギコと愛車を引きながら歩く男に、学ランだけでとぼとぼついていく。そんなに着込んで、顔も白いから、のぼせてしまっている。
今日はまっすぐ帰る日だった。
その荷台に跨るまでは、まだ何日かある。
汗で湿っていても、元気に左右にわかれてる流川の直毛を見つめていたら、ふと昼休みのできごとを思い出した。
「ルカワ」
「ん」
「お前の初恋っていつ?」
「はあ?」
「教えろよ。サンコーまでに」
「なんのだよ」
「いーから。もったいぶんな!」
げしっ、とドラムバッグで流川のケツをたたく。
もうすぐ世間は、バレンタインデーという一大イベントを迎える。
冗談ではなく、学校中がチョコレートに取り憑かれていて、あの人に渡したい、この人に、好きな人に、じゃあ誰々の家で作ろうとか、どこに買いに行こうとか、女子生徒の色めきたっている会話が教室のあちこちで聞こえてくるのだ。
休み時間に机に突っ伏して寝ていても。
そして、そんな会話から、恋人の名前が聞こえてきた。
思わず耳をそばだててしまう。
"はじめてなの。好きな人が出来て、チョコを渡すの…。"
"それって、流川くんが初恋ってこと?"
"うん。受け取ってくれるかわからないけど、チャンスだと思って、告白してみる!"
(初恋、か…)
あの流川が初恋とは難儀な。
そーいえば、アイツの初恋って誰なんだろう。
数多の初恋を奪い、無に帰させたであろう男の。
わたしに感情はありませんみたいなスカした顔してんのに、なぜか世の人間を惹きつけてやまない。
その内側は、焼き尽くされそうなほど熱いことを知っているけれど。
キャーッという悲鳴と、高揚した高い声、流川を思う気持ちがこもった声が教室に響き渡った。
そして、その声に対抗意識を燃やす女生徒たちの怨念じみた声も…。耳に痛かったので、特技でパタッと閉じてみる。
この時ばかりは、この天才に相応しい聴力が憎たらしかった。
別に恋愛は自由だ。
誰に何を言われようが、誰のどんな思いだって、俺たちには関係ない。
関係ないが、こういった場面に遭遇する度、自分はとんでもない男を、世の中から取り上げてしまったんだと痛感する。
妙なくすぐったさと、すこしの罪の意識、痛みは、失うばかりだった時には到底感じることのないものだったから、どう対処すれば良いのかわからない。
この俺があのキツネのものになってることだって、じゅーぶん世界にとって危機的なソンシツであることは置いといて…。
そんなもので気になってしまった、この男の初恋というものが。
それを聞いてみる自分はどうするつもりなのか、わからずに。
できれば、幼稚園の時の同じバラ組の誰それちゃんみたいな。そういうのであって欲しい。桜木はそんなみみっちい期待を込めて問うた。
ちょっと時間は空いたが、すぐに返ってきた。
「…お前」
「…お、お前って」
「湘北高校2年10組桜木花道」
「んな」
「不本意ながら」
「なにおぉ?!」
「それがどーしたってんだ」
怒りで振り上げた拳だが、おろせない。
この男は当然だと、なんでもないような顔でそう言ってきた。あっけらかんとしすぎていて、一瞬何を言われたのかわからなかった。
そんなまさか、この俺が初恋とはなんてさみしーやつだ。この歳で、恋もしたことなくて。
でも、その瞬間、すごく嬉しくて、すごく安心した自分が情けなかった。
「………ふ、ふは、フハハ!!流川!俺が初恋とはやるじゃねーか。え?誇っていいことだぞ。常人というのはなかなかどうして、俺の良さに気付けないからな」
「真っ赤だぞ、顔」
「お前知ってるか?初恋は実らないってのが通説なんだぞ」
「ホー」
「俺だってそうだったんだ。俺様に感謝しろよ。お前の初恋を実らせてやったんだから!」
「………」
「何だねその目は。事実なんだから仕方なかろう!ハーッハッハッ……」
「初恋どころじゃねークセに」
桜木はすっかり気分が良くなっていたので、流川の失言はたんこぶ一つで許された。
今度は涙目の流川が、スタスタと先をいく桜木に尋ねる。
「お前はいつなんだよ、それ」
「へ?」
「ハツコイ」
「え……そんな、そんな昔のこと…」
そう言われてしばらく考えてみたが、思い出せなかった。
たしか、小学生の時で、なんとか子さん。失礼だけど、輪郭もボヤーっとしている。50人も前だから。
終わったことは振り返らない、潔く前向きな男・桜木花道である。
我ながらタフだと思った。よくもここまで、心折れずに人を好きになり続けたものだ。
たぶん、おそらく、最後になりそうな男は、よほど気になるのか、深刻そうな顔でこちらを見ている。いや、みまもっている。
流川とこんな話をすることは初めてだった。
「うー………ダメだ、思い出せん…」
「気合い入れろ」
「無理なもんは無理っ」
「……じゃあ、お前の初恋も俺にしとけよ」
「は?!」
突然いつものジト目になってそう言ってきた。なんか怒ってるし。
頭の中でどんな計算をして導き出した答えなんだ。失礼にもほどがある。お前の前に好きだった人だって、そう、あのお方だっているのに。
「思い出せねーならその程度ってこったろ」
「サイッテーだお前は!底なしの!!」
「そんなヤツより俺の方がすごい」
ふん、とそっぽ向いてエラソーにそう宣う流川に、空いた口が塞がらない。すごいってどういう意味だ。こんなに自己中で今までどうやって生きてきたんだ。いっそ笑えてくる。
「馬鹿野郎、この人でなし!もうお前にはチョコやんねー!」
「チョコ?」
「あっ」
しまった。咄嗟に名前が出てしまった。しかも、やる前提のような言い方で。
そんなつもりはなかったのに。
女子生徒に感化されてしまったのか。
慌てて口を押さえても無駄だった。
「なんだよチョコって」
「…もーすぐだろ、バレンタイン」
「それがどーした…………って」
合点がいった流川は目を見開き、信じられないという顔で桜木を見つめる。
「別におかしかねーだろ。好きなヤツにチョコ渡す日なんだからよ」
桜木がヤケクソでそう言い放つと、流川はあまりの喜びで、どんどん顔が火照っていった。周りに花が飛んでて、ポーっとしている。
この男が、俺にチョコを渡そうとしている。しかも、好きなヤツって言ってる。俺のこと。
じ〜ん、と心に染み入る言葉だった。
桜木は直接的な表現でなかなか愛情を示してくれないから、これはかなり貴重な経験で、流川はよく反芻した。
そんな流川の様子が、手玉にとっているみたいでおかしくて、桜木の機嫌はどんどん良くなっていく。
「ま、お前もう、一生ぶん、いやそれどころか、五生ぶんくらい貰うんだろーしなー」
「てめー…」
「ふん!」
チラッと流川の方に目を見やると、鬼の形相で睨みつけてきているが、それでも桜木は笑いが止まらなかった。
ちっぽけな独占欲が満たされていくし、こんなにあわてている姿を見ることは、そうできないことだから。
流川はいつのまにか自転車を停めていて、後ろから躙り寄ってきていた。
試合中くらい腰を低く落として。
「ふざけんな。一緒にしてんじゃねえ。くれ。寄越せ。言葉に責任を持て」
「誰がそんな態度のヤツにやるか!」
「楽しーか、そんなに人を振り回して」
「ものすっっっごく!!」
「ショーワル男………」
「はっはっは!」
お前も少しは、苦しんだらいいんだよ。俺は痛みだって、甘んじて受け入るから。
心底恨めしそうに見つめられて、流川の手から逃れながら、 どんなチョコを用意しようか考え始めている桜木だった。