さよならなんて言わせない 今日は朝からシトシトと雨が降っていた。どんよりとした重たそうな灰色の雲が賢者の島を覆い尽くしている。肌寒いのに纏わり付くような鬱陶しい湿気のせいで、オレの不快指数はかなり上がっていた。まぁ、不快の理由はそれだけじゃ無いんだけど。
普段は入れない鏡の間。この薄暗い部屋の中には、学園長や教師陣とグリムを始め、全7寮の寮長と寮生達が集まっていた。
オンボロ寮の監督生を見送るために。
ユウが元の世界に帰れると知ったのは今日の昼。いつものようにオレらと一緒に食堂でランチを食べてた時だった。
突然現れた学園長が「ユウさん、良かったですね。今日帰れますよ」なんて爆弾発言をかますもんだから、食堂は一気に阿鼻叫喚の場と化した。デュースなんかスプーンに掬っていたオムライスを皿に落としてたな。
それからはみんな授業に集中出来ず、諦めたクルーウェル先生が自習という事にしてくれた。課題そっちのけで大勢がユウの周りに集まり、それぞれが別れの言葉を口にしていった。中にはどさくさ紛れに告白してるヤツもいたが、そいつは後でシメる。
困ったような表情で一人ひとり対応しているユウを見ながら、オレは夢の中を漂っているような気分でいた。
――今日でユウとはお別れ? 明日にはオンボロ寮に行っても会えない? この世界の何処にも存在しない? こんなのは悪い夢だろ? 現実じゃないんだろ? 誰か嘘だと言ってくれ。
そんなオレの願いは空しく、現実のまま時が過ぎていき、今に至る。
闇の鏡の前に立っているユウに、訪れた生徒達がそれぞれが言葉をかけていく。
リドル寮長は1本の紅いバラの花を、ケイト先輩は最後の記念撮影とばかりに何度もシャッターを押す。トレイ先輩は何かを入れた小袋を渡している。あれはきっと焼き菓子だろう。ジャックなんか、いつも付けてたチョーカーを外してユウの首にかけてやってる。ヴィル先輩は高級そうな手提げ袋を渡しながら、ユウの頭を優しく撫でている。
皆からプレゼントを貰いすぎてユウの両手は塞がり、まるで初めて旅行に行った浮かれた観光客のようだった。ユウが貰ったプレゼントを横にいるグリムが、アイドルのマネージャー並にせっせとバッグの中に詰めていく。
「あれ全部持ち帰れんのかよ……」
「大丈夫だろ、サムさんのキャリーバッグがあるんだから」
「それもそっか。魔法のバッグだもんな」
オレが呆れたような声を上げれば、デュースがそれにすかさず答える。だけど、そこにはもう一人いて欲しい人がいる。オレの隣だけぽっかりと穴が開いているような気分だ。
オレは少し離れたところからユウの事を眺めていたから、誰がどんな言葉をかけたのか聞き取る事は出来ない。だが、ユウの華奢な姿を、表情を、ずっと目に焼き付けていたくて、ただ突っ立って見つめていた。
「さぁ、そろそろ時間です。名残惜しいでしょうが、早くしないと道が閉ざされますよ」
無情な学園長の声が部屋に響く。
「おい、エース。何も言わないでいいのか?」
デュースの心配そうな声に突き動かされるように人を掻き分け、オレはユウの前に飛び出した。デュースも後について来てオレの隣に立っている。
「エース、デュース、今までありがとう。二人がいてくれたから楽しかった」
「僕も楽しかった。向こうでも頑張れよ」
ユウもデュースも表情を歪めながら精一杯の笑顔を作っている。
――泣くなよ、ユウ。お前には笑っていて欲しいんだ。
言いたい事がいっぱいあるはずなのに、オレは喉がつかえたように声も出せず、ユウの事を見つめるだけしか出来ない。
ユウはキャリーバッグの持ち手を握り締めながらオレの事を寂しそうに見つめた後、数秒だけ俯いて顔を上げると、笑顔で片手を上げた。
「それじゃ、皆さんありがとうございました! さよ……」
その瞬間、オレはユウの頬を両手で挟み、柔らかな唇に口付けていた。
――別れの挨拶なんか言わせねーよ。バーカ。
ユウの両目が驚きに見開かれ、時が止まったかのように辺りがシンと静まりかえった。
表情を逃さないように見つめながら、赤く腫れるくらいユウの唇を強く吸い上げ、ゆっくり離れると、顔を真っ赤に染め上げたユウと目が合う。
「なっ、なに……すん……」
「ほら、時間だろ? 早く行けよ。ユウ、またな。今度はオレがそっちに行くから待ってろよ」
パニックになりながら口をパクパクさせているユウの身体を優しく押してやると、華奢な身体が魔法の鏡に呑み込まれていく。驚いた表情のまま鏡の中に吸い込まれるユウの姿は可笑しくて、でも寂しくて胸が締め付けられる。
「またな」
オレはもう一度念を押すように鏡に向かって呟いた。
――今度こそちゃんと伝えるから、待ってろよ。ユウ。