A lingering aroma 残り香「無い! 無い、無い、ないっ!」
魔法史の授業が終わり、次の授業は飛行術というところで監督生が騒ぎ出した。
「ンだよ、そんなに慌てて。何か忘れモン?」
エースが呆れ顔で監督生に尋ねれば、その通りだと言わんばかりに勢いよく何度も首を縦に振る。
「なに忘れたんだよ?」
「運動着……」
「つなぎの方?」
「Tシャツの方……デス……」
「なんでつなぎを持って来ててTシャツ忘れんの?」
エースが、溜息交じりに呆れた声を出す。
「昨日、洗濯して干したまんまだったの……。でも、まぁ、仕方無いから、つなぎだけでいっか」
先ほどまでの慌てぶりからは想像できないほど、あっけらかんと凄い事を言い放った監督生にエースが目を剥く。
「ダメ、ダメ、ダメ!」
「え? なんで?」
反対されると思ってなかった監督生は、キョトンとした表情でエースを見ている。
監督生のその表情から、エースがなんで反対しているのか分かっていないということが、ありありと感じられた。
(バカなの? ホント。信じらんねー)
つなぎの中が下着だけだとすると、前についているジッパーを下ろせば簡単に胸の膨らみが見えるし、中途半端に腕を上げれば半袖にしたつなぎの袖口から、きわどい部分の肌が見える。長袖にすれば見えないかも知れないが、太陽がギラギラと照りつける夏場では自殺行為にも等しい。
監督生が女性だという事は、エースやデュース、グリムに先生達しか知らない。
熱中症なんかで倒れて、知らないヤツに介抱でもされたら……。
そう考えただけで、エースの頭の中は焦りと興奮でいっぱいになる。
(オレが見た事無いのに、他のヤツになんかぜってー見せねぇ)
「とにかく、ダメなもんはダーメ! ほら、オレの貸してやるから。これで我慢しとけ」
不純な動機を隠しつつ、エースは言うが早いか、バッグから取り出した赤いTシャツを、監督生に放り投げた。胸元に飛び込んできたシャツを受け止め、監督生は申し訳なさそうにソレを抱きしめる。
「借りちゃっていいの? エースは? 予備なんて無いでしょ?」
「いいよ、オレは男だし。寮服の白シャツ着れば問題ないっしょ」
「ありがとうエース! えへへ、なんかハーツラビュル寮生になったみたいで、ちょっとワクワクする」
可愛くはにかみながら、手にしたTシャツをギュッと胸元に抱き込んだ監督生の姿に、エースは一瞬で体温が上がる。
(オレの彼女、可愛すぎじゃないか!?)
付き合った覚えのない彼氏(・・)から、そんな事を思われているとは露知らず、監督生は借りたTシャツを広げてみたり、自分の身体にあてたりしてキャッキャとはしゃいでいた。
エースは赤くなった顔を誤魔化すように咳払いをする。
「ゴホン。あー、ユウ、これで貸し一つだぜ」
エースはウィンクを監督生に投げつけ、そのままデートの誘いを……と思ったところで、満面の笑みを浮かべた監督生から無慈悲な提案がなされた。
「じゃあ今度、チョコクロワッサンおごるね」
「へ? あ、あぁ。忘れんなよ」
肩すかしを食らったエースが、監督生の言葉に反応するのが一瞬遅れたせいで、不満があるのかと勘違いした監督生が気まずそうに声を潜める。
「え、別の物が良かった? あんまり高い物だと買えないんだけど……」
「あ、いや、チョコクロワッサンで!」
エースは慌てて繕うが、監督生はまだ訝しげな表情で見つめていた。
「ホントに?」
「ホント。だーっ! もうこの話は終わり! んな事より、遅れるから早く着替えていこうぜ」
心配そうに見つめる監督生に、まさかデートに誘いたかったとは言えず、エースは誤魔化すように話しを打ち切った。
なんとか飛行術の授業も問題なく終わり、――放課後。バスケ部の部室で運動着に着替えようとしていたエースは、手にした赤いTシャツをまじまじと見つめる。
監督生は洗って返すと言っていたのを、部活で使うから洗わなくていいと固辞したのだが、今になって洗って貰った方が良かったのではと、エースは少し後悔をしていた。
(ユウに、汗がしみこんだTシャツを着て喜ぶ変態だとか思われたらどうしよう……)
そんな不安がエースの胸を過ぎる。
監督生としては、むしろ申し訳なく思って何度も謝っていたのだが、時間が経つにつれエースの頭は変な考えでいっぱいになる。
エースが、ジッとTシャツを見つめ続けて数分。
(やめやめ。オレらしくもない。明日、ユウにあった時に、どうにかすればイイっしょ)
エースは溜息を吐きながら、監督生から返して貰ったTシャツに腕を通す。襟ぐりに頭を通そうとした瞬間。微かな甘い香りが鼻腔を擽った。不思議といつまでも嗅いでいたくなる匂いに、エースはすんすんと鼻を鳴らす。
そのままTシャツの中で匂いを嗅ぎ続けていると、背後で扉が開く音が聞こえた。
「あれー? カニちゃんじゃん。何してんのー」
独特の間延びする喋り方と声に、エースの身体はギクリと強張る。
急いでTシャツから顔を出し、後ろを振り返ると、そこにはフロイドがニヤニヤと不穏な笑顔で立っていた。
「フロイド先輩! 脅かさないでくださいよ。じゃ、オレは先行ってますね」
なんとなく居心地が悪くなったエースは、コソコソとフロイドの横を通り過ぎようとしたその時、ガシッと肩に腕を回され、動きを封じられる。そのままフロイドは体重を乗せてのし掛かってきた。
「お、重い……。フロイド先輩、離してくださいよ~」
エースは迷惑そうな表情を隠して、へらりとぎこちない笑みを浮かべる。
フロイドはエースの首元に顔を近づけると、すんと鼻を鳴らした。
「あれ~? なんでカニちゃんのシャツから小エビちゃんの匂いがすんの?」
その言葉に、エースの身体が固まる。
(は? もしかしてこの甘い匂いって……ユウの……?)
そこまで考えた瞬間、エースの身体は血液が沸騰しそうなほど熱くなった。血液が徐々に下腹部へと集まってくる。
(ヤバい、ヤバい、ヤバい!)
「フロイド先輩! 失礼します!!」
ムクリと息子が起き上がってくるのを感じ、エースは急いでフロイドの腕を振りほどくと、一目散にトイレへと走り去った。
小さくなっていくエースの後ろ姿に、フロイドが舌打ちを鳴らす。
「チッ、つまんねーの。あ、でもカニちゃんが戻ってきたら聞けばいいかー」
フロイドがニヤリと笑みを深くしたところへ、ちょうどジャミルが部室に入ってくる。
「フロイド、エースが走って行ったが、どうしたんだ? 何やら切羽詰まった顔をしていたが……」
「あ、ウミヘビくん、お疲れ~。今さ、カニちゃんと話してたら、急に焦って走ってったんだよね」
「ほう。それは気になるな」
「でしょでしょ。それで~、カニちゃんが戻ってきたら、色々と聞いてみようかと思ってぇ」
「なるほど。それは是非とも参加したいな」
フロイドとジャミルの二人は獲物を待ち構える獣のように、エースが戻ってくるのを、ほくそ笑みながら待っている。
トイレから出れば地獄が待っているとは、個室で籠もっているエースには知る由もなかった。