滲む月夜ジェイミーはいつものように屋上から紅虎路を眺めていた。
なにか起きればトラブルバスターとして飛んでいくのが毎晩のことだが、この日は黄巾族たちの小さなトラブルがあった程度で、平穏な夜だった。
今日は一階の好好饅頭店が夜の営業を休んでいるらしく、いつもに比べ人通りも少ない。
「ま忙しくないことは良いことだな」
ジェイミーは一人そう呟くものの、正直なところつまらないという気持ちも少なからずあった。
今夜は誰かと闘うこともなさそうだ、といつもよりゆったりと動いていたジェイミーの瞳が、黄巾族の黄色い段ボールではない、金色の髪を捉えた。
ジェイミーはすぐにその人物が誰なのか気づく。
(…ルーク)
ジェイミーは細く息を吐いた。
金髪の男、ルークはこちらの建物へ向かって歩いてくる。
おそらく目的地はここだ。彼が来るのは初めてではない。今までも何度かここにやってきた。
(…俺がここから見てること知ってるくせに、ちらりともこっちを見やしねえ)
ルークが下の道を歩いている途中、ジェイミーを見上げたことはこれまで一度もなかった。
俺に用があるなら目配せくらいしろ、とジェイミーは腹立たしいような気持ちでルークの頭を見つめ、数秒のあと視線を外した。どうせ目が合うことはない。
その後すぐ金属のはしごを登る音がした。
無言でつかつかと近づいてくる足音に振り返りもせずジェイミーは口を開く。
「こんなに平和な夜はなかなかねえってのに、何しに来た?」
ルークはジェイミーの隣で、同じように柵にもたれかかった。
「うるせえなぁ。別にお前を殴りに来たわけじゃねーよ」
「闘うわけでもないってんなら、なおさら何しに来たんだよ」
「俺だってここで中華街を眺めたい時だってあるの」
「…あっそ」
ジェイミーはそれ以上突っかかるのをやめた。
少し前なら、ここは俺の陣地だからお前は出てけ、くらいの事を言ってはルークと拳を交えていた。
でもある一件がーールークの教え子のゴタゴタがあってからーー、ジェイミーはルークとやり合うことがほとんどなくなっていた。
ジェイミー自身は事の顛末を詳しく知らないが、ルークはあれ以来あきらかに前と違った。
昼間のバックラーセキュリティでは、様々な教え子たちと普段通り過ごしているようだが、何度も闘ってきたジェイミーには異変はあからさまなように見えた。
シンプルに言うと、ずっと元気がない。
ジェイミーはルークと闘う事が本当に好きだった。
たまには鋭いパンチを何度もくらってふらふらになる時もあったけれど、同じだけ仕返しもする、それが楽しくて仕方なかった。
(こんな腑抜けてる奴をぶちのめしたって楽しくねーよ)
ジェイミーは柵から体を持ち上げると、側に置いてあった木の椅子に腰掛けた。
「あーあ。つまんねえ」
「トラブルバスター名乗ってるくせに平和がつまんねえとか言ってんのか」
ルークはずっと柵の向こうを見つめたままで、ジェイミーに話しかける。
「街のことじゃねえ。お前の話」
その言葉にルークは振り向き、座るジェイミーを見下ろした。
この日初めて二人の視線がかち合う。
「…かかってこいよ」
ルークはジェイミーの前へ立つと、持っていた荷物を後ろに放り、構えた。
それを見てジェイミーも立ち上がり瓢箪の栓に手をかける。
ジェイミーはあまり気乗りしなかったが、元のような闘いを期待せずにはいられなかった。どうしてもルークと闘うことを体が求めてしまう。
最初はルークが一方的にジェイミーを殴り続けた。
ジェイミーはそれをいなし、隙を見ては薬湯を煽りルークを蹴り上げる。
幾度となくやってきた二人の闘い。
……が途中からルークの動きが精彩を欠きはじめる。
ジェイミーは垂らした髪の毛の間から、ルークの表情を見た。
案の定、ルークは曇った顔をしていた。
「おい」
ジェイミーは手の甲でルークの頬をはたいた。
「何がそんなに苦しいのか言ってみろ」
ルークの目が大きく見開く。殴りかかろうとしていた腕が空を切る。
そのまま二人とも動かなくなり、無言で見つめ合っていた。
一瞬ルークの瞳から一筋の雫がこぼれ落ちるのをジェイミーは見た。ルークはそのまま力なくその場に横たわる。
ジェイミーもそんなルークの横に腰を下ろした。
「俺はもっと手助けすることが出来たんじゃないか」
かすれた声でルークは言った。
ジェイミーにはなんのことかすぐにピンときた。思っていた通り例の教え子のことだ。
ジェイミーは薬湯をすすり、息を吸い込むと「まだ生死不明だろ。」と短く呟いた。
「でも」
「大体の物事は色んな事情が絡み合ってんだよ。お前に出来た事があったとしても、大きな流れは変えられなかっただろう」
ジェイミーはルークにそう言いながら、自分の色んな過去の事も同時に思い出す。
ここの街に来た事も、大きな流れの一つで、変えられない運命だったように思う。
「落ち込むのは無理もないが、いい加減追い詰められるのはやめろ」
ジェイミーは横たわったままのルークの口元に薬湯をかけた。
「うわ、やめ、」
突然口に入ってきたあまりの奇妙な味にルークはげほげほ咳き込んだ。
「特別な薬湯だからおめーにも効くだろうよ」
「荒療治だな…」
少しだけ曇りが去ったようなルークの顔を見て、ジェイミーはようやく心が落ち着く。
「俺に慰められたくて会いに来るなんて脳筋くんもかわいい奴よ」
ジェイミーがいつもの調子で軽口を叩くと、ルークが素早く体を起こした。
「な、そんな、そんなつもりじゃねぇ、俺はほんとにここの中華街が好きなだけで…」
ルークは顔を紅潮させて反論する。
この反応にジェイミーは呆気に取られることになった。
(え?俺を頼りにしてここに来たこと俺にバレてないと思ってる?マジ?)
思わず笑う口元を隠すために瓢箪に口をつける。
とりあえず元の日々は近いうちに取り戻せそうだ、とジェイミーは満足そうに中身を飲み干した。