キミは始まりのミーティア 前編 4(2) アズールに連れてこられたのは、陽光の国の最北端、観光で栄えている港町だった。
昼間は明るく人も多そうな場所も、まだ辺りが真っ暗なせいで少し怖く感じる。
アズールの後をついて倉庫街を歩くと、一人の男がこちらに向かってひらりと手を上げた。
「アズール、待ってたよ」
明るい口調の男は、暗い夜でもうっすらと光る様な、珍しい濃い青色の髪をオールバックにした、四十代半ば後半の見た目だ。背は高く一八◯センチといったところか? グレーの上品なスーツを着て、陽光の国にある老舗自動車メーカーのエンブレムが付いた、黒塗りの車の前に立っていた。
「僕の義父です」
「キミの義父様!?」
アズールの紹介に、ボクの心臓は跳ね上がった。
義理の息子であっても、こんな事に巻き込んでしまったボクをよく思っていないんじゃと、不安で胸が潰れそう中、頭を下げ挨拶する。するとアズールの義父は、フードから零れたボクの髪を見て「人魚姫の様だね」と青い瞳で軟派に笑い、ボクの手の甲にキスをした。
「アズール、まさか君がここまで『ヴェーネレの輪郭』を愛しているとは思わなかったよ……彼女が見たらビックリするね。あぁもちろん怒らせるつもりはないよ、美人は口説かなければ失礼に値するだろう?」
「母さんに今のことを言いつけられたくなければ、軽口はそれぐらいにしてください……後はお任せしても?」
「あぁ……君の大切なヴェーネレは私に任せてくれ。心配しなくても上手くやるよ。じゃあ行こうかプリンセス」
車の助手席のドアを開けて、アズールの義父は、ボクに向かってウインクした。
「性格はアレですが、弁護士としても、その他でも優秀な人です。安心して彼の指示に従ってください」
アズールがボクを抱きしめて、唇に触れるだけのキスをした。
その時、普段は身なりに気を使っているのアズールの顔が、汗や埃で汚れている事に気がついた。それに気にも止めず、必死にボクをここまで連れてきてくれたんだ。自然とボクの指先が、彼の乱れた髪を整えた。
「アズール……ありがとう。キミがいなければ、僕はまだベッドの中で絶望したままだった」
「今生の別の様な事、言わないでください。今後簡単にはやり取りができなくなりますが、子供が産まれたときには、タイミングを見て必ず会いに行きますから……」
「さぁ、こんな所に長居するもんじゃ無いよ、行こうプリンセス。アズール、君も気をつけて学園に戻るんだよ」
アズールの義父の車に乗り込み、ボクらはその場を後にした。バックミラーには、車が見えなくなるまで見届けようとするアズールが映り、ボクは胸が苦しくなった。
人気のないハイウェイを滑るように走る車は、遠目からでも明るい繁華街へと向かっているようだった。
カーオーディオから流れる、陽光の国のニュースを聞き流しながら外を眺め、手で腕を擦っていると、アズールの義父がボクに話しかけた。
「体、冷えてないかい?」
労るような声音で急に話しかけられ、驚いたボクは思わず「大丈夫です」と答えると、彼に「嘘はいけないよ」と、少し青くなった唇を指摘された。暖房が入ると、車内が少し暖かくなり緊張が緩んだ。
「もう少ししたら、私の陸の仕事場に着くよ。それまではもう少し辛抱するんだよ。あぁとそれと、ダッシュボードの中のものを出してくれないかい?」
探った中には、偽造されたパスポートと身分証が入っていた。弁護士がこんな事をして大丈夫……じゃないだろう。自分のために危険な橋を渡らせてしまった様だ。
その証明写真には、薄い青みがかった髪をしたボクの写真の横、新しい名前が入っていた。
「[[rb: Ridell Ashengrotto> リデル-アーシェングロット]]……」
元の名前に近い綴りの新しい名前。性別も女性という事になっている。
「関係は私の養子という扱いになるよ。君にはこれから人と人魚、両方の法の元で生活する事になる。それでも、人魚は人間の管理下に在らず、身も隠しやすいだろうからね。あと姓に関してだが、私は彼女の婿養子でね。だから新しい君の姓もアーシェングロットだよ……あぁ、もし君がアズールと結婚する事になっても、私の養子という立場だから、法律上問題はない」
本来なら、いくらアズールの同級生と言えど、同性で呪いを受けた人間に、人間を下に見る彼ら人魚がこれほど親身になってくれるものなのか?
一瞬何か裏があるのかと訝しんでしまったが、安心していいよと言う彼の言葉からは、ボクへの不快感など感じなかった。
「……もしボクがアズールと本当に結婚することになったら、あなたは反対しないのですか?」
「それは、反対して欲しいと言うことかい? たとえ私が君を気に入らなくても、君の為に必死に駆けずり回ったアズールにそんな事を言えるほど、私は非情にはなれないよ」
アズールが以前、義父との関係が良好だと話していたが、この人はボクが思っている以上にアズールのことを気に入っているようだ。血の繋がった本当の父親を、紙の上でしか知らないボクより、きっとずっと彼らの繋がりは深いのだろう。
「血が繋がっていなくても、あなたはアズールの立派な父親なんですね……ボクは、血を分けていても、家族とはどこか疎遠だったので」
羨ましいなと、言葉が自然と口をついて出た。
「ん〜? それは少し違うかな。私と彼は親子でなく〝対等な関係〟なんだ。私達の間に親子や、ましてや上下関係はない。どちらかと言えばビジネスと言った方が近いはずだよ。今でもきっと、アズールの父親は一人だけなんだ」
目的地に着くまでまだ時間がかかる、だから昔話をしようと言われボクは頷いた。
彼とアズールの母親が知り合ったのは、離婚調停がきっかけだった。アズールの父親は、家族を溺愛していたが、商才が全くない男は、それでも妻の為に頑張ろうと、店を無理に大きくし経営破綻を起こした。
自分の妻には「何も心配することはない、経営は僕が頑張るから、君は厨房で料理を作り、ホールでお客様の笑顔を見ていればいいんだ」と言った裏で、妻の目が届かない支店での経営が疎かになり、飲食店としてはどうしようもない事件を起こして、本店以外の一〇〇ほどあった店は、全て閉店となった。
男は、妻に「どうしてこんな事になるまで黙っていたの」と詰め寄られ「愛する君や、家族のためだった! 僕は、君たちを幸せにするために……頑張ったのに」と自分の失態をまるで理解しておらず、その愛する家族に責任転換しようとした夫に失望した妻は、離婚を決意したようだ。
「離婚が成立して数年、私は彼女と恋人になり結婚することが出来たが、初めての子供が、稚魚の期間をすっ飛ばしてミドルスクールに通う年齢だったからね、最初はどう接すればいいか全く分からなかったよ」
ハハハッ! と笑う男は、なんだか懐かしげに目を細めた。
愛する人のために、良き父親を演じてみようとしたが、アズールはそれを笑顔で拒否した。『お前と自分に上下はない、対等なんだ』とでも言うように。
それを瞬時に理解した彼は、アズールの父親になることをやめた。止めて、ほんの少し距離を取って、彼が必要な時に知識を与えられる有用な相手として、アズールの中で自分の立ち位置を作ったのだ。
そして最後に、彼は少し悔しそうにこう言葉を口にした。 口にはしないが、あの子にとって父親は一人しかいないんだよ。どれだけ能力がなくても、自分勝手でも、自分たちを捨てて逃げたとしても、どうしても捨てられない情があるんだ。あの子は普段、計算高くて合理主義で守銭奴で疑り深い性格だけれど、一度深く執着した相手は、どれほど面倒くさくても利益に繋がらなくても、そんな事を無視できるぐらいに好きなんだろうね、と……
「だから、今回のことで、彼が私を頼ってくれた事が、実は結構嬉しかったりするんだ。最初は面倒な事を引き受けたんだなぁって、君がアズールの特別な人だと知らずに、面倒だから私に恩を売りたいギャングに君を預けようと提案して酷く怒られたよ!」
ギャングと言われて、目を丸くして驚くと。彼は、アズールに似た胡散臭い笑顔を浮かべて僕に笑いかける。
「アズールがなんで君をギャングに預けるのが嫌だったと思う?」
「……わ、分かりません」
「それはねぇ、君の姓が、別の男の名前になるのが嫌だったんだってさ!」
おかしいよねぇ、そんな事を気にしてる場合じゃないのにと笑う義父に。安全よりも、そんな独占欲で、アズールがボクを自分の義父の養子にしたことに驚いた。同時になぜだか恥ずかしくて、ボクは顔を下に向けた。でもきっと耳まで赤くなって、気づかれてしまっているだろう。
(ここにアズールがいたら『首を刎ねよ』で首を刎ねてしまいたい!!)
「アズールをよろしくね。あの子は母親に似て、アイデアを出したり働く事が大好きで、お金稼ぎや夢描いて店を大きくする事が一種の趣味なんだ。そのアズールが、人に頭を下げて対価を払ってまで君を守りたいと思ったんだ、義理の親でも少しは報われて欲しいと思ってしまうんだ」
アズールの事を思い、ボクにそう願う彼の顔は、父を知らないボクから見ても、父親の顔をしていた。
* * *
夜が明けそうな時間のネオンの消えた歓楽街は、仕事の終わった男女が帰路につき、酔っ払いが通路で大の字で眠っている。
その歓楽街の角に建つ四階建ての灰色のビルは、一階がスプレーの落書きで塗りつぶされていた。すえた匂いやアンモニア臭のする街に、ボクは顔をしかめた。
「こっちだよ」と、アズールの義父に手招きされて階段で二階に上がると、このビルに似合わない重厚なドアに国際弁護士のエンブレムが入ったゴールドの表札が掛かっていた。ここが彼の弁護士事務所なんだろうか?
彼はその事務所を通り過ぎて、もう一つ上の階を目指し、表札が薄れて読めない部屋のドアをノックして、返事も聞かずにズカズカと中に押し入った。
「フレド、アルマ、ちょっといいかな?」
躊躇しながらも、後を追って部屋の中に入ると、消毒液の匂いがした。受付に待合スペースの革張りのボロボロのソファー。受付には、ナース帽をかぶった初老女性が立っていた。
「アーシェングロット、今日はなんなんだい!? まーた、面倒事でも持ち込む気かい?」
女性が〝面倒事〟と口にすると、奥から血まみれの手術ガウンを羽織った初老男性が、大きな音を立てて飛び出してきた。
「まーーーーたお前か! 面倒事を持ってくんじゃねぇって言ってんだろッ!!」
「アルマもフレドも、そんな言い方だと私がいつも面倒事を持ってくるような人魚だと勘違いされちゃうじゃないか」
ハハハハッ! と笑う義父は、口をへの字にして眉間に皺を寄せるボクの背を押して「私の娘だよ」とボクのことを二人に紹介した。
「おい、ルフィーロを娘なんて、冗談も大概にしろよ」
フレドの言葉に、義父とアルマが驚いた。
「へぇ……すごいね。彼のことを一発で男と見抜くなんて、流石だなぁ!」
「女の服で隠してても、基本的な身体の骨格は男だ。それぐらいは分かる」
「彼はね、今ではこんな落ちぶれた闇医者なんてやってるけど、本当は黎明の国の国立医大の有名な魔法医術士だったんだ」と、義父はボクに説明してくれる。
魔法医術士のフレドと聞いて、実家にあった論文を思い出した。確か高名な外科医で、彼の魔法術式による手術は〝神の手〟と称されるほどだ。もう十年以上前に急に医学界から姿を消したと聞いていたが、こんなところで街医者をしているとは驚いた。
「で、今日は何の用だ、つまんねぇ用だとつまみ出すぞ!」
「この子の事なんだけどね、呪石に呪われて妊娠したんだ」
「はぁ!? 解呪してぇなら『anathema』でも頼ればいいだろ」
「この子は、解呪ではなく子供を産もうとしてるんだ。呪いに関しては産まれてくる子供から引き剥がすことが出来そうなんだけれど、呪いによる疑似子宮での妊娠だ、どう転ぶか全くわからない。でもフレド、あなたならどうにか出来るんじゃないかい?」
フレドは、ガシガシと頭をかいて、ボクのお腹の上に魔法石の付いた指輪をかざした。
「くそ……本当にガキがいやがる。まだ妊娠して一週も経ってねぇな。お前は、この腹の中のガキを、ガキのお前が本当に産む気なのか?」
コクリと頷くと、フレドは溜息をついて、舌打ちを一つ。仕方ねぇな、ウチで面倒見てやるよと、子供が産まれるまでの主治医となってくれた。
アズールの義父は「よかったよかった」と言って、暇なときには私の書類の整理でも手伝ってくれると助かるよと、ボクに真っ黒いクレジットカードを渡して、珊瑚の海にある自宅に帰ってしまった。
残されたボクは、フレドの妻であり、助産師でもあるアルマに、四階の二人の自宅に連れて行かれた。
客間として使われている部屋を使うように指示され、彼女の使っているレースのネクリジェとバスタオルを渡されて、シャワーを浴びて寝るようにと指示された。
男と分かっても女性として扱われるのは、ボクの体がお腹の子の母体となっているからだろうか?
ざっとシャワーを浴びてネクリジェに腕を通し、ボクは客間のベッドに潜り込んだ。酷く体が重い、疲れているのに神経は尖ったままで、眠気なんてちっとも訪れなかった。
ハーツラビュル寮生、友人、クラスメイト。薔薇の王国もお母様も、自分の名前も、全てナイトレイブンカレッジ置いてきた。
持ってこれたのは、このお腹の子と、フロイドへの捨てられない気持ちだけだ。
妊娠してすぐ、フロイドとの呪いの繋がりを感じなくなった。もしかしたら全てから目が醒めたフロイドが、束縛を嫌う彼を呪いで縛って、ボクを好きだと思わせていたことを怒っているかも知れない。
それとも、ボクがいなくなって、ほんの少しでも好きだという気持ちが心に残っていて、残念だとでも思ってくれるんだろうか?
(こんな事、考えてちゃいけない)
そうだ、今はお腹の子供の事や、anathemaに見つからないことだけを考えなきゃ。
眠りにつき、朝、目が醒めれば、ボクはもう完全にリドル・ローズハートでは無くなってしまう。リデルという人魚の養子という人生が始まるのだ。
そう考えると、胸が苦しい、鼻の奥がツンとして、目の奥が熱くなった。
ボクはベッドの中、シーツを頭まで被り、少し泣いた。