キミのココロ、ボクのキズ 6
二、三日おきにお誘いの連絡が入るようになってからひと月が経過した、月曜の午後三時半を少し回った頃。公安からの要請を受けてアドバイザーとして捜査に加わり、別件で姿が見えない降谷に代わり、その場では降谷の代理として風見が指揮を執っていた。風見は新一を見るや少しばかり相好を崩して歩み寄ってくる。
「久しぶりだね、工藤くん。忙しいところすまない」
「いえ。ご連絡ありがとうございます。降谷さんは別件ですか?」
「ああ。まあ一言で別件とも言い難いんだが、一応今回の件とは別に動かれているんだ。三日もすればこちらに合流すると仰られていたからそれまでの指揮を代理で執ることになってね。半年前の一件と絡んでいることもあって、半年前に尽力してくれた君に要請したんだ」
「なるほど。菱形重工と瀬戸製薬の一件ですね?」
半年前に降谷から要請があり共に解決した案件を脳内で反芻しつつ資料を受け取ると、ふと例の童顔部下、緑下がひょこりと顔を覗かせた。
「あ! 工藤さん! 半年ぶりじゃないですか!」
「緑下さん、ご無沙汰しております。今回もよろしくお願いします」
「いやいやむしろこちらの方が全面的にお世話になりっぱなしで……! 今回もよろしくお願いします」
屈託なく、まるで小型犬のように人懐っこい笑みを振り撒きながら隣に並んだ緑下の左手薬指に、キラリと光るものを見つけてわずかに目を見開いた。
「え……? 緑下さんそれって、結婚指輪ですか……?」
そう口に出すと、「あ! 気づいちゃいました? へへ、そうなんです実は」と心底嬉しそうに左手薬指にはまったマリッジリングを、まるで結婚会見を開いた芸能人のごとく手の甲をこちらに向けて見せてくれた。
「学生時代から付き合っていた彼女とついひと月前に籍入れたんです」
今が幸せの絶頂期とばかりに嬉しげにそう話す緑下は、「気を引き締めろ、これからミーティングだぞ緑下」と風見に叱られ肩を竦めてみせる。
────ひと月、前……。
ジク、と。少しだけ覚えのある月日に考えすぎだなと軽く首を振る。
「そうだったんですか、おめでとうございます」
「ありがとうございます! まさか課内きっての色男である降谷さんを差し置いて俺が一番乗りでゴールインするとは思いもしませんでした。まあ、降谷さんは生涯独身だって宣言されてましたし、もう長らく片思いの相手がいるみたいで、その恋は実りそうもないって諦めたみたいに笑って話して──」
「緑下! お前は余計なことをベラベラと話すなとあれほど……! もういいから資料整理手伝え!」
皆まで言わせずに風見によって首根っこを掴まれズルズルと引きずられていく緑下を見遣りながら、ズクリズクリと痛む胸と、あまり宜しくない鼓動の高鳴りに目の前が少し眩む。
────降谷さん……。プライベートな話まで、緑下さんにはしてるのか……。風見さんとは長い付き合いだからその手の話をしていても不思議はねぇとは思ってたけど……まだこの部署に来てさほど年数が経過してる訳でもない新人の部類に入る緑下さんに……?
そこでジワリと、嫌な予感が蔓延り始める。
────ひと月前に入籍した緑下さん。
「……いや、まさかな。考えすぎだろ……」
────頻繁にアポを取っては俺を抱きたがるようになった降谷さんも、ちょうどその時期……。
さらに思考を巡らせる。
────緑下さんが降谷さんの部署に配属されたのは…………。
そこでハタリと息を飲む。
────ちょうど、四年前。
四年前。突如として始まった、降谷との体の関係。
同性相手に望みのない恋をしていると話していた彼。
『互いに遣りきれない想いを吐き出してみないか』と持ちかけてきた肉体関係。
望みのない片想いの相手はノーマルな性癖しか持ち合わせてはおらず、望みの欠けらも無いと笑った彼。
学生時代からの恋人とひと月前に入籍した緑下。
ドクリ、ドクリとまるで鼓膜のすぐ隣に心臓が配置されてでもいるかのように、やけに大きく鼓動の音が聞こえる。
あの日の居酒屋で、穏やかで優しい眼差しを緑下に向けていた降谷の横顔が、思い出される。
────考えすぎ……だろ。
ザワつきが大きくなるばかりの胸を何とか抑え込むために自分自身に言い聞かせ、今は事件に集中しろと己を奮い立たせた。
何とか全てを振り切るように事件早期解決に全神経を集中させたおかげで、降谷が合流する前に事件は解決し、事件解決から二日後、降谷から連絡が入った。俄にざわめく胸から目を背け、今夜の約束を取り付けて夜を待った。
いつもの如く三度肌を重ね、今夜は背後から耳を噛まれた。何かを言いたげでありながら相変わらず言葉を飲み込んだままの降谷に家まで送られる車内でふと、新一はずっと気になっていた話題を切り出すことにした。
「そう言えば緑下さん、ご結婚されたんですね」
「……ああ」
気のせいだろうか。少しだけ相槌までに間があったように感じたのは。
「何でも学生時代からの恋人とゴールインしたんだとか」
「そうらしいな」
何の動揺も見せずに淡々と答える降谷に内心安堵しつつ、横目に様子を伺うことをやめられない。
「降谷さんは生涯独身を貫くつもりだって聞きました」
「……緑下から聞いたのか」
「……どうして緑下さんからだと?」
「その話はアイツにしかしていないからな」
「風見さんには?」
「風見にもしていない。俺が生涯独身を貫くつもりだと話したのは緑下ただひとりだし、叶う予定もない想いを抱いてる相手がいる話は君と緑下二人にしかしていない」
その瞬間、今まで浮かれていた心が瞬間冷凍され、目の前で無惨にも握りつぶされたような衝撃を受けた。
「どう、して……」
「え?」
思いのほか掠れた声になり、聞き取りにくさから聞き返してくる降谷に、震えてしまわぬよう腹に力を入れ、再び新一は口を開いた。
「どうして緑下さんにだけその話を……?」
「やけに緑下に食いつくな」
そこで初めて、剣呑な声を降谷が出したように思え、ビクついた。ちょうど赤信号になった所で、ハンドルに右手をかけたまま、少しだけ新一に体を向けた降谷に一瞬ひるみそうになった新一は、このままモヤついたままは懲り懲りだとさらに腹に力を入れ、膝に置いた手を握り拳を作り、グ、と見返した。
「降谷さん」
「何だ」
「降谷さんの報われない恋の相手って────もしかしなくとも、緑下さんですか?」
「…………」
スローモーションのようだ。
見る間に見開かれていく、灰青の双眸。
────ビンゴ……かよ……。
息を飲みフリーズする新一を置いて前に向き直った降谷は、ちょうど信号が青に変わったことで車を発進させながら、ボソリとこう言った。
「……そうだと言ったら?」
「っ!!」
────やっぱり……!
ハハ、と。自分でも驚くほど無味乾燥な声で笑い、頭のてっぺんから一気に冷水を浴びせられたような衝撃に、ココロがスゥ、と冷えていく。まだ尚何かを口にしようとしていた降谷の言葉をさえぎり、新一は声を絞り出す。
「予定を思い出したのでここで結構です。降ろしてください」
「予定……?こんな夜道に降ろすなんて危険なことは出来ない。送るから場所を──」
「結構です。それと……」
────ハハ……俺、とんだピエロじゃん。
不意に言葉を区切った新一は、今にも押しつぶされそうな胸に無理やり蓋をして、こう続けた。
「終わりにしましょう、降谷さん」
「!?」
新一のその言葉に慌てて路肩に車を停車させ、先程よりもさらに目を見開き、完全にフリーズする降谷をジッ、と。目をそらさず、まるでその角膜に、脳裏に、焼き付けて忘れないようにするように見つめたまま、新一はもう一度はっきりと告げた。
「もう終わらせましょう、こんな関係」
「っ! できたのか……? 他に、誰か……」
────もう、無理だよ降谷さん……。
これ以上、この人に溺れ、翻弄され、掻き乱され、搾取されていたら……いずれ自分は完全に壊れてしまう、と。自分だけではなく、きっとこれは彼のためにもならない。お互いを蝕むことしか出来ない不毛な関係なのだ。そう思い、精いっぱいのキレイな笑みを浮かべ、キレイな嘘をつく。
「はい。やっと……好きな人が出来たんです。これからはその人と幸せになるために……こんな関係は、解消したい」
「っ」
ギリ、と。思い切り降谷の爪がハンドルに食い込むのを見たが、最後の余力を振り絞り、新一はキレイな笑みを崩さないまま、続けた。
「サヨウナラ、降谷さん。四年間ありがとうございました。……楽しかったです」
最後の最後は声が震えてしまったけれど、どうかその弱さには、その嘘には、気づかないで欲しい。
────泣くな…………泣くな、俺……。
せめて……。せめて降谷が自分を思い出すとき、このキレイな笑顔を脳裏にうかべてくれるように……。だから。だから。
────泣くな、頼む……泣くな、俺。
それでもじわりと目の表面に涙の膜が張り始め、軽く頭を下げて誤魔化して、まるで逃げるように新一は、降谷の車から降りて────闇夜に向かって走り出した。