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・ヒースの孫娘とシノの話(孫娘視点)
・ヒースがほぼ出てこない
・ブランシェット家が悲劇に見舞われる
・シノがブランシェットをクビになる
・(一応裏設定で)シノもお付き合いしてた女性とか居た
・捏造独自設定山盛り
・シノヒス度が低い
前編+後編+(設定)+オマケ2つ
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【殯宮】
奇妙な葬儀だった。
当時の私は十になったばかりの頃だったが、貴族に生まれれば早々に礼儀や教養や社会性を求められる。死の概念は理解していた。
送られるのは私のお祖母様。生来ご病気がちであまり部屋の外にお出にならず、毎日お会いすることは無かったけれどいつも穏やかにお話をして下さった。棺の中の横たわるお祖母様は生涯の闘病でか細く皴まみれだったけど、最後まで上品で安らかなお顔をしていた。
そして隣にはもう一つの棺。
瑞々しく滑らかな白皙の肌と金糸で丹念に整えられたゆるい癖のある髪。金色の睫毛に彩られた目蓋は閉じられているけど、その奥に貴石のような青の瞳があることをこの場に居る親族たちは知っていた。若く美しい青年としか言えないこの人は私のお祖父様。
人間と魔法使いの葬儀。と、呼んでいいのかもわからない。
本来魔法使いは死ぬと石になるそうだ。だからお祖父様は亡くなったわけではない。お祖母様が永の眠りについたのと同時に長い眠りにつくことにしたらしい。
列席者達が二人に一輪づつ花を添えて、お祖父様の棺に黒い布がかけられた。
「お祖父様の棺は閉じないの?」
私は思わず声に出してしまった。静かにと目で窘めた後、お父様がそっと教えてくれる。
「シノが反対したんだ。確かに父上は亡くなったわけではないからね」
私は納得したような出来ないような気持ちで曖昧な返事をしたと思う。この辺りから記憶は曖昧だった。記憶に強いのは二つ並んだ棺の奇妙さばかり。
ぼんやり覚えているのはお祖父様の棺が運び出され「普通の葬儀」になってからお祖母様がくなられたのだと理解した私の涙腺が馬鹿みたいに活動してしまったことと、お祖母様とのお別れにいらした方々に沢山なぐさめられたことだ。
親しい人と死に別れるのは辛く悲しい。
だから今でも考えてしまう。
私はこの人にどんな思いを抱いていればいいのだろう。
「…………」
見下ろしているのは棺ではなく寝台だった。ブランシェット城でも一際豪奢な天蓋付き寝台。この寝台はお祖父様の魔法使い仲間が贈ってくれたものだという。何十年経っても傷んだり朽ちたり褪せたりしない、輝く白と鮮やかに透いた青の豊かな布地の海。更に寝台の上に咲き誇る花々を敷き詰め飾り立てられている。
これらに囲まれてなお、見劣ることない涼やかな美貌で横たわる人。ヒースクリフ・ブランシェット様。
「チビすけ、あんまりじっと見るなよ」
ブランシェット城の令嬢に対して気安過ぎる従者の声が近づいてきた。私も同じぐらい気安く返す。
「どうして?」
「ヒースを見つめ過ぎるとヒース以外が目に入らなくなるからな」
私の隣に並び、シノはお祖父様を見下ろした。子供っぽい中途半端な長さの黒髪に大きな紅の瞳。お祖父様と同じか少し幼く見える程度の外見。
「そういう奴は結構居たんだ」
お祖父様とシノを交互に眺めるのはおかしな気持ちだった。物心ついた頃にはお祖父様はお体の弱いお祖母様と一緒に城の奥で引き籠るように暮らしてらしたけど、催し事などでお見えになられる時はそれなりにお歳を召した姿でいらっしゃった。だから私はこの人を自分の祖父と信じて疑わなかったのに、シノと並んでいると私達と違う魔法使いなんだとありありと見せつけられてる気がしてしまう。
「……聞いてるのか?」
「あまり」
「だから、この家の使用人が結婚もしないで生涯仕え続けたのはヒースが居たからって話だよ」
シノが叱りつける声音に自慢を滲ませた。お祖父様に心酔した使用人の筆頭はシノだろう。
「シノから見たお祖父様はどんな人だった?」
「どうした急に」
「ちょうどいい機会だから」
シノは何かと言えばお祖父様の名前を出すのに、ちゃんと聞いてみると意外と喋らない。だけど今日はお祖父様がお側に居るからか、いつものように素っ気なく「魔法使いのことを話してもお前らにはわからない」とは言わなかった。
「そうだな……」
シノがじっと横たわるお祖父様に赤い眼差しを向ける。息を飲み込む気配と微かな空気の震え。少年のまま固定された魔法使いの横顔が、急にくすんだような気がした。古い木や石に似た重い鈍色がかかっている。長い年月の静かな黙秘を一瞬で纏ったシノは、やはり私達と違う生き方をしてきたのだと如実に伝えてきた。
「……ヒースは家族思いだった」
それでも水底に落ちていくような深い響きでシノは言葉を続けた。
「旦那様と奥様……両親に愛されて生まれて大事にされて、二人に恥じないように子供の頃から努力してきた」
私は身体を強張らせる重苦しさに耐えながら視線を動かす。シノがお祖父様のことを話す間はお祖父様を、シノが息を止めるたびにシノを、代わる代わる眺めた。
「結婚してからは……愛妻家で有名になった。若奥様は身体のせいであまり外に出られなかったけど、ヒースは出先でどんなに引き止められても『妻が待っているから』ってすぐ帰ってきた。長い仕事になる時は必ず若奥様も連れて行った。お付きにもオレにも、気を配ってほしいって何度も頼みながら」
お祖父様を愛称で呼ぶのにお祖母様は「若奥様」と呼ぶシノにおかしいと言ったことがある。シノはおかしくなんかないと言い張った。そうなのだろう。おかしくはない。シノにとって、お祖父様だけが特別だった。無礼なほど親し気に振る舞うシノが、お祖父様にとって特別だったように。
「チビが生まれてからはいい父親になった。魔法使いの子供を怖がる奴がまだ多かったから中央の国のアーサーと共同で色々やることも増えた。西の国の魔法化学もブランシェットにヒースが持ち込んだ。でも領主の仕事には厳しかった。チビは時々拗ねてオレに愚痴りに来てた。けど、チビがそんな時はヒースの方が何倍も落ち込んでたし悩んでた。あの子に厳しくしすぎたかなって。でもうちの民の為に甘やかすわけにはいかないんだ、って言いながら祈るみたいに手を組み合わせてた。チビが領主を継ぐのに時間がかかったのはヒースが優秀だったせいだ。まあ、チビもヒースの息子だから優秀だったけどな」
小さくシノが笑った。私の知らない祖父と父の話をシノは楽しそうに誇らしげに語る。そのくせ瞳は幸せいっぱいで輝いているなんてことは無かった。遠い星を見つめる届かないさみしい横顔だった。
それがパっと明るくなる。頬が輝いて口角が隠しきれないと吊り上がった。
「チビが領主になって隠居してからは自由な時間が増えたって楽しそうにしてたな。まあ部屋に閉じこもって機械いじりばっかりしてるからよくオレが外に連れ出してやった」
「…………」
シノは同意を求めるように眠るお祖父様の頬を曲げた指の背で突いた。私は何かを言ってしまわないようにぎゅうと手を拳にする。
「シャーウッドの森も喜んでた。あの森はブランシェットが好きだけど、特に魔法使いのヒースを気に入ってるんだ。『ヒースクリフ、ヒースクリフ、東を守護する地に生まれた神秘の子。私達の魔法使い』って付きまとうんだ。精霊からしたらヒースだっていつまでも子供だからな。ヒースも嬉しそうだった」
――それが私が泣いてしまったあの時の笑顔なのだろう。
箒に乗って夜の森をを駆ける少年のような二人の魔法使い。
世界に語り継がれる精霊達のはしゃぎ声が聞こえそうだった。月の明りを受けて見合って、星のまたたきを背後に笑い合って。空を飛ぶ速さが風を生んで、森の影の命が二人を見上げて囁いていた。
私と遠く隔たった景色。
悲しくて寂しくて、誰かに泣きつきに行こうとした私を見つけたのはお祖母様だった。カーテンを閉じた部屋に招き入れられ、カンテラに火を灯してお祖母様は私を膝に抱き上げて下さった。
私はわけがわからないほど泣きじゃくった。お祖父様なのにお祖父様じゃない。シノなのにシノじゃないと言いながら。お祖母様は私の頭をやさしく撫でて下さった。
『信じてあげて。あの方は生涯あなたのお祖父様よ』
『シノもね、それだけは守ってくれるわ』
『それが約束するということが私達よりずっと難しいあの方達が私達に必ず守り抜くと誓ったことだから』
お祖母様のおっしゃることはよくわからなかった。今も理解しているとは言い難い。けれどお祖父様が約束を守っていることだけは知っている。
魔法使いのまま眠る人。私達を愛するという約束は果たされている。
ふと気が付けばシノの声がいつの間にか途切れていた。シノもきっとあの景色に戻っていたのだろう。私達が現実に返る程度の沈黙の後、また静かな声が話を紡ぐ。
「そのうち若奥様が体調を崩しがちになって、ヒースは家から離れられなくなった」
嵐の前のぬるく薄暗い風のようなざわついた声だった。さっき宝物の煌めきを語った声と同じとは信じられないほどの。
「ヒースはあらゆる手を尽くして若奥様の体を良くしようとした。医者を呼んで、体にいい食材を集めて、やさしい光を採り入れる窓を作って、綺麗な空気を通して、昔の仲間の魔法使いも呼んで。オレも色々手伝った。でもどうしようもなかった。あいつらも言ってた。『人間と結婚するというのはこういうことだとわかっていただろう』って。ヒースは……」
声が弱々しく細っていく。痛々しい声に私は勝手に続けていた。
「お祖父様……ヒースクリフ・ブランシェットは妻と共に人間として生を終え、眠りにつくことにした」
恐る恐る私はシノの方を向く。シノはどんな大人にも見たことがない表情をしていた。何となく恐ろしいものの気がしてしまって私は大急ぎで続ける。
「魔法使いである彼はとある『約束』があるために命を終えることは出来ない。だから共に眠りにつくことが彼の愛の証明……そうみんな言ってるわ」
東の国中で噂されるブランシェットの切なく美しいおとぎ話。他の従者なら大なり小なり誇らしげな表情を浮かべるのに、シノの表情は彫像のように動かなかった。いや、彫像なら見つめていてもこんな気持ちにはさせない。
嘘を見抜かれて前に立っているような気持ちにはならないはずだ。
「ああ、そうだ」
いつの間にかうつむいていた私は朗らかな声に顔を上げた。シノのいつもの笑顔だ。自分の木に咲いた花を教えてくれるみたいに、大きなカブトムシを捕まえた時みたいに、夕飯のパンが美味しいと言う時みたいに、シノは笑ってた。
「ヒースはいつも言ってた。お前たちは宝物だって。お前たちだけは忘れたくないって」
なのに何故だろう。童話の裏に隠された意味があるみたいに、そのままの言葉ではない気がした。
「だけは、って……お祖父様は何か忘れたことがあるの?」
「さあな。魔法使いは長生きだから色々忘れるんだ」
それはお祖父様のことを言っているのかシノのことを言っているのか解らなかった。シノの目はもう私を映していない。
「そろそろ部屋に戻れ。家庭教師が来るんだろ」
「シノの方が先にここに居たじゃない」
「オレはまだ花に魔力を込めないといけないんだ。ヒースが干からびるだろ」
魔法使いのことはよく解らないが、シノはいつもそう言っては私達を追い出す。
渋々部屋を出ようとして振り返った。不貞腐れていたから楽しいことがありはしないか少し期待してだ。
「……ッ」
振り返った私はぎょっとして固まってしまった。
マントをはためかせる子供っぽい従者は寝台を前に跪いていた。
よく似た光景を知っている。絵画で見た懺悔する人の小さな後姿だ。重い罪を内に抱え光を見上げることのできない丸まった背中。
私は廊下に飛び出して部屋まで駆けて行った。
私はシノの嘘に気づいてしまった。シノは本当はずっとあのさみしい目をしてる。あのさみしい目をしながら、いつも私達に笑いかけているのだと知ってしまった。
だからシノは何も忘れてなんかいない。お祖父様が何を忘れたのかシノだけは知っている。
シノはお祖父様にも嘘をついている。隠さなければいけないものを持っている。
そう、それはたとえば──恋だとか。
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【シエラザードはかく語りき】
朝靄が微かに花の香りが帯びている気がした。従者だろう。従者の朝は花を摘むところから始まる。
といっても彼はこの城の従者、この血の従者であっても、私の従者ではない。
「もう起きたのか、チビすけ」
予想通り彼は腕一杯に花を抱えて、私を見つけて片手を上げる。
何十年も私をチビすけと呼び、朝は花を摘んできた。その容姿が私が生まれた時から変わることが無いのと同じように、その習慣も何十年も変わらない。自分だって大きくはないくせに。
「おはようシノ」
「おはよう。年寄りは早起きだな」
「…………」
杖があったら足でもはたいてやるところだけど、あいにく今朝は調子がいいものだから部屋に置いて来てしまった。代わりに言葉で躾けるしかない。
「シノ、無礼な口を利く相手を間違えないように。誰があなたの給金を払っていると思ってるの?」
今度はシノが口をつむぐ番だった。シノは生きる力がたくましいというかしっかりしていて、魔法使いなのにお金とか仕事とかにきっちりしている。何も食べなくても簡単に死なないのが魔法使いだというのに。
そういうところがシノはあの人と少しも似ていない。
「今日のお花は素敵な香りね」
腕の中の花束誉めればシノはすぐ大きな笑みを作った。
「だろ。あいつはこういうの好きだからな」
白く大きな花弁の先が淡い桃色の可愛らしく繊細な花。温室で育てるものではなく野に広がる花畑で風に揺れて香りを届けるのが似合うだろう。とてもこんな冬の厳しい季節に咲くものではない。
「こんなのが咲いてるから近くの町でもシャーウッドの森は魔境とか言われるんでしょうねえ」
私が溜息を吐いてもシノは楽し気に笑うだけだ。ブランシェットの者でさえ今ではシノの案内が無ければシャーウッドの森は歩けない。長命の者に森番を任せてしまうと独占されてしまうということを、任命した御先祖様は思い至らなかったのだろう。あの森のどこかにシノがあの人の為に作った花畑が隠されていた。
「オレの木の花も一緒に置いてやらないとな。あいつが冬だってことがわかるように」
シノの『オレの木』というのは冬に花を付ける大木だ。冬花らしい分厚い花弁のしっかりとした花だが、彩りの寂しくなったこの時期の庭に清廉な美しさを添えてくれた。成長の遅い長命の木だが、今では大木と呼んで差し支えない。
可憐な野の花と清廉な冬花に囲まれるあの人は時が解らなくなるほどに美しいだろう。
「萎れる前に渡してくる」
シノも同じものを想像したのか急ぎ私の横を通り過ぎようとし、思い出して足を止めた。
「ほら」
「ありがとう」
腕の中の花から一輪渡される。シノが選りすぐって摘んだの愛らしい花だが、一番綺麗なものではないだろう。これは決まり事だ。
一番綺麗なものをただ一人の主人に捧げ続けたシノが通りすぎてしまう前に声をかけた。
「シノ。今日は私も後でお目にかかるとお伝えしておいて」
少年の姿の魔法使いが少年の笑みを浮かべた。宝物を自慢する顔だ。
「なら今日は一際かっこよくしといてやらないと、あいつが怒るな」
「怒るかしら。お祖父様の怒ったお顔なんて見たことないわ」
「怒るさ。『何であの子が来るのに整えといてくれなかったんだよ!』って。ヒースはオレには容赦ないんだ。」
そう言いながらもシノは嬉しそうに笑った。
魔法使いに比べると人間は面倒くさい。一年一年歳をとるし、老いた身体が言うことをきかなくなる。薬を飲んで痛むところに湿布を貼って関節に保護布を巻いて杖を付いて、ようやく一日を生き延びる。魔法使いであればどんなに楽だろう。
などと言おうものならシノは眦を吊り上げるに違いない。『魔法使いでヒースがどれだけ苦労したと思ってるんだ』と。そのくせ自分は魔法使いであることを誇ると言うのだから理不尽だ。
あの人なら何というだろうか。切なげに眉尻を下げてやわらかな苦笑を浮かべ、やさしく私の名を呼ぶけれどそれは教え説く時の声なのだろう。
説教をする顔を思い浮かべてるうちに部屋に着いてしまった。城の最上階にある寝室。少し離れているけど他の部屋と大差はない。見馴染んだ造りのドア少しの緊張を込めてをノックした。
返事はない。けれどシノが居るという確信はあった。流石のあの従者も主人の代わりに入室の許可を出さないだけの礼儀はある。なので返事があればぐらいの間を待ってから自分でドアを開けた。
「失礼します」
一礼し足を部屋に踏み入れる。シノはやはり部屋に控えていた。勿論、従者に声をかける前に主人にご挨拶する礼儀を私も持ち合わせている。
靴音を立てながら透き通った水晶のような空気を切った。この部屋特有の空気は冬のこの季節は寒々しささえ感じたが、一層の厳粛さをもたらしている。
歩く音しか許されない中、シノが私を見て微かに目を瞠った。口を開いたなら『どうした、随分めかし込んでるな』ぐらい言っただろう。歩くたびに毛皮付きの外套を留める鎖がしゃらりと鳴った。武の家系であるブランシェットはレースの代わりに銀糸を編み込み、宝玉の代わりに鎖を正装に纏わせる。物々しいと言える姿で私はお祖父様の寝台に辿り着いた。
「ご無沙汰しております。ヒースクリフお祖父様」
魔法使いがしつらえ魔法使いが眠る華美な寝台。心を込めて選んだであろう白と青の布地、真珠の白と湖水の青はいまも透き通った鮮やかさで言葉を失うほどに眩かった。そこにシノが添えた桃色の愛らしい野の花と真っ白な冬の花。これらは全てその人の美しさを引き立てていた。
「なかなか顔出しできず申し訳ありません」
青年の貌は最後に見かけた時とまるで変わらない。寝台がくすむことが無いように、シノが花を取り替え忘れることが無いように、当たり前のようにその人は綺麗なままだった。五十年前……それよりも遥か昔から時を止めたままの人。
「嬉しそうだなヒース」
シノがようやく声を発した。顔の周りに敷きつけた花を少し避けてお祖父様のお顔をよく見えるようにしてくれる。私はお祖父様ではなくシノの横顔を盗み見た。そして罪悪感を抱えてすぐ目を逸らす。シノがお祖父様に向ける眼差しはいつだって見てはいけないものだった。そんな私に気づくことなくお祖父様から目を離さずにシノは続ける。
「久しぶりに孫が来たってはしゃいでやがる」
「……お変わりがあるように見えないけど」
「お前はヒースの観察が足りないんだ」
シノはお祖父様の前髪の一部を捩じるように耳になでつけながら付け加えた。
「オレはわかる。お前たちと会うときのヒースの顔を作ったのはオレなんだからな」
確かに幼い頃にお目にかかるお祖父様は肖像画の曾お祖母様に似ていらした。シノ曰く『あいつが変身すると旦那様(曾お祖父様のこと)に似させ過ぎて駄目だ。あいつ自身は奥様(曾お祖母様)似なのに』とのことだ。シノの力作と言えるのだろう。
だからこの青年のお姿でシノと箒に乗って笑っている所を見た日の混乱は凄まじかった。
魔法使いだと聞いていた。魔法使いはある程度成長すると歳を取らないのも知っていた。きっと孫を混乱させないためにわざわざお歳を召したお姿でいつも接して下さったのだろうということも今ではわかる。
それでも私はあの日の傷ついた思いを忘れることは出来なかった。
「そうね。子供の頃に拝見していたお祖父様のお顔もあまり思い出せなくなってきたわ」
長い吐息と共にこぼせば、シノが何とも言えない顔をしてこちらを見ていた。年老いた猫が大儀そうに伸びをするのを見た時の私も、きっとこんな表情だったのだろう。
「シノ」
掠れないよう唾を飲んで出した声は硬く、シノは背を伸ばしてこちらに向き直った。私が正装をしてきたことで何かは察しているのだろう。
「あなたは私が領主になった頃をおぼえてる?」
「……忘れるわけがないだろ」
強張った強い声が返ってきた。あの頃この城に居た者なら皆同じことを言うだろう。
「そうでしょう。忘れられるようなことじゃないわ」
四十年ほど前、ブランシェットを流行り病が襲った。乾燥した冷気の時期に流行る病だが何故かその冬は一段と感染者が多く、不幸なことに当時の領主夫人とご子息……私の義姉と甥がそれをこじらせ亡くなってしまった。
そこから止まることなく不の連鎖が続いた。
伴侶と幼い息子を失ったお兄様は狂乱ともいえる嘆きぶりで、まともな寝食が取れずやはりご自分もすぐに病に罹った。そんなお兄様の様子を見ていたせいかお父様も病に臥せ、病魔と言うより不幸続きにお心が耐えられなかったお母様まで倒れ、冬が終わる前に皆いなくなってしまった。
そして私は代行していたブランシェットの領主に正式に就任した。慌ただしく身一つでブランシェットに戻ってきた私は、夫の家から子供達を呼びよせることは出来なかった。夫の家の跡取りとして生まれた子達だ。置いてくるしかなかった。
「……そうだな。あの頃は本当に大変だった」
シノは生傷を撫でるような声でわずかに目を伏せた。
あの恐ろしい災禍の日々。父と母と兄を喪った悲しみに浸る事すらできないほど目まぐるしかった中、シノはよくこの城に仕えてくれた。お父様の臣下とお兄様の臣下、私が連れてきた従者の中で生まれる軋轢や混乱を「ヒースクリフ・ブランシェット」の代からこの城に仕えている古株として采配を振るいよくまとめてくれた。
朝に花を摘む習慣を絶やさないまま。
……そう、花だ。冬の光を受ける朝摘みの愛らしい花々。
今も視界の端で眠る人を彩る花は、いつだってこの人に一番美しいものが渡された。亡くなったばかりのお兄様にも、臥したお父様お母様にも、突然の領主業務にすり減る私にも、一度だって一番は捧げられることは無かった。
私はもう一度決意を固めシノを見つめる。
「シノ。あなたはあの冬、ブランシェットに不忠を働いたわね?」
張り詰めた空気がなお一層、肌を刺すようにきりりと冷えた気がした。冬の空が揺らぐように、眩暈がする冷たい痛みの空気。その中で紅玉の眼差しだけは真っすぐだった。
真っすぐに私に届く。
「そうだ。オレはあの時、誰にも仕えていなかった。――ヒースだけを選んだ」
堂々と謳うように響く低く抑えた少年の声。
「チビが、ヒースの息子が泣き叫んで弱っていってるのに、オレはヒースを眠らせていて良かったと思ってた。ヒースの孫が死んでやつれて、ブランシェットの従者達まで混乱して、オレはヒースにこんな光景を見せたくないとばかり思ってた」
挑むような眼をしたシノのお祖父様への忠義と献身は誇りだ。それが私達への裏切りを伴っていても。
「ヒースが起きたらチビは助かったかもしれない。お前も一人で苦しむことは無かった。それでもオレはヒースを起こさなかった。あれはヒースが恐れていたものだ」
誇り高くシノは私に告げた。
「オレはヒースだけを守った」
罰を恐れない罪人としてシノはここに居る。けれど私には怒りも憎しみも無かった。老母の私はそれを察している。
それがどれだけの嘆きなのか、私は目の当たりにしてきた。
「……お祖父様は、自分より先に我が子を亡くなることを恐れて眠りについたのね」
自分より長く生きてほしい。人間の親から子へならありふれた、けれど切実な願い。だけど魔法使いのあの人にはあまりに難しかった。
シノが頷く代わりに一度目を閉じて、視線を床に落とす。私はお祖父様の方へ顔を向けた。時を止めて眠る一人だけの寝台。あの日、隣には穏やかな老女の棺が隣に並んでいた。
お祖父様の愛情が嘘だとは思わない。私なりに調べたが、魔法使いの寿命は個人差が大きく一概に言えないが、ただ眠り続ければ寿命が延びるということは無い。文献によれば長い眠りから目覚めることなく寿命が尽きて石になった魔法使いも過去には存在した。お祖父様は確かにあの日、お祖母様とご一緒する形で死を迎えたのだ。
更に年経た私は知っていた。掻き集めても掻き集めても、隙間から砂が零れ落ちていくように失われていくもの。愛する人から命が抜けていくのを止めようがないその絶望。お祖父様がお祖母様のそれを少しでも先延ばしにしようと必死だったのを覚えている。
目を開く時間を減らしたお祖母様を見つめながら、お祖父様はこの先の絶望と対峙しなければならなかったのだろう。我が子を看取る時が来ることを。
私が黒い布を垂らしたブランシェットに呼び戻されても心が砕けてしまわなかったのは、遠くのあの子達が無事だったからだ。それだけを心のよすがにしていた。もしもあの子達に何かあったなら、もう二度と会えないのだとしたら、私も兄と父母に続いただろう。
シノは、だからお祖父様を起こせなかった。
「…………」
深く長く息を吐いた。何度も想像してきて解っていたことだけど、実際に言葉にされるとどうしても胸につかえるものがある。次の言葉を発するのは泥の中で脚を上げる億劫さだった。それでも急き立てるものがある。私に残された時間の少なさだ。
部屋に置いてきた杖に頼りたいのを堪え、背を伸ばし胸を張って威厳を整えた。
「シノ。我が偉大なる祖先、ヒースクリフ様の心身をよくお守りしました。現ブランシェット当主としてその働きに礼を言います」
シノは一瞬なにを言われたのか解らない様子で呆けた顔をしていたが、すぐに従者としての立場を思い出したらしく本人なりに恭しい態度で腰を折ってみせた。
「勿体ないお言葉です」
慣れない礼と殊勝な言葉に笑いそうになってしまう。まあまあ生きたはずだが、シノのこんな言葉を聞いたのは生涯何度あっただろうか。
心が緩まりそうになるからやめてほしい。私にはまだ仕事がある。
「同時に、ブランシェットへの不忠を認めた以上この城にあなたを置き続けるわけにはいきません」
「…………」
シノが顔を上げた。先程の宣言のように堂々としているのだろうという私の予想に反して、シノは悲し気に眉を寄せている。
はたと気づいた。シノは、お兄様の棺にその日一番美しかった花を捧げた日もあったのだろう。お父様とお母様のお部屋の窓際に夜咲きの花を置いた日もきっとあった。今朝私に渡した花は今日摘んだ花の中で一番美しいものだったのかもしれない。ばつの悪い顔でお祖父様の寝顔に今日は許してくれなんて言いながら。
思わず夢想してしまう。これからもシノがブランシェットに仕え続け、穏やかな日々が流れることを。私の子孫たちが庭でシノと遊んで声を上げて笑う光景を。シノが保護した小鳥を子供達が覗き込む日もあれば、育てた花を自慢される日もあるのだろう。誰かに叱られ泣いた時に隣に黙って座ってくれる時もある。それは素晴らしい未来だった。
私が今『ただし今後忠心を尽くすのなら今回だけ見逃しましょう』とすればそれは実現するかもしれない。
だけどシノはそれでも毎日この部屋に来るのを止められない。お祖父様に朝摘みの花を捧げて、毎日ブランシェットの子孫の話をし続ける。遠い、触れられない宝物を見る眼で。
私は降り積もる長い時間の重さを目蓋に感じながら更に口を開いた。
「貴方に最後の仕事があります」
最後という発言にシノがピクリと肩を震わせた。私は気づかないふりをする。
「ヒースクリフ様にご起床いただきなさい」
シノが驚愕に目を見開いた。何かを言わせないよう老いて乾いた咽喉で声を張り上げる。
「どうあってもお目覚めいただくわ。それが私の当主としての最後の仕事になるでしょう」
シノがハッと息を飲み、眼を震わせた。幼い大きな紅の瞳は常より潤むだけで小さく光って見える。私達の最後は近かった。
「気づいているでしょう。私とあなた以外にこの城でお祖父様を覚えている者はもう居ないの。あの子も跡取り教育はしたけど、お祖父様をどこかおとぎ話と思ってるわ。私の孫だからもう仕方ないけど」
この城で育てず後継としてある程度の年齢で引き取った子だからか、軽々しくシノとお祖父様のことに踏み込もうとすることがあり何度か叱った。シノも私と同じように気安くしてるように見えてどこか一線引いている雰囲気がある。
「お祖父様は人間としてお祖母様とお亡くなりになりました。それを証言できる者が居なくなる以上、この城の飾りになっていただくわけにはいきません」
軋む関節に躊躇う自分に叱咤して、私は腰を折った。どんなにこの身体が自由が利かない老いたものになってもシノのものよりずっと流麗だっただろう。
渾身の優雅な一礼を従者に捧げ乍ら、正装を纏った当主最後の務めとして声を張った。
「ヒースクリフ様を魔法使いにお返しします」
「…………」
シノの無言は長かった。当主に頭を下げさせていることにも老体に無理をさせていることも長々気づかず、動く気配と風ににつむじの髪が乱されてようやく私は顔を上げる。
道を失った子供の頼りない様子でシノはお祖父様を見下ろしていた。寝台の端を掴む指が花を少し潰している。
戸惑い、恐怖、悲嘆、焦燥、憧憬。幾重にも絡み合ったシノの想いを傍から見ているだけで理解など到底できるものではないが、それでも頬に血が通っていくのだけは確かだ。唇が微かに開いて名を呼ぶのは、祈りのようにも見えた。
何十年、何千夜、何万回、シノはこの人に会いたいと思ったのだろう。どんな呪文で踏み止まってきたのだろう。
「……ヒースは」
シノにとって封じの呪文の一つ。許された愛称の響きはどこか甘やかだった。
「眠りにつく前にオレに言った。ブランシェットの誰かが起きてほしいと言った時は絶対に起こせって」
シノが泣きそうに顔を歪めた。私に見えない思い出の中のお祖父様を見つめながら。
そこに浮かぶ複雑な感情は読み解かないようにした。この場に居合わせる者の最低限の礼儀だ。
「それと、オレが……」
途切れるのはささやきとも言えない声だった。ベッドに隠した秘密を覗く時、シーツから漏れ出る光を音にするならこんな声になるのかもしれない。
お祖父様を思い出す。あのおやさしい口調でシノに何を言っただろうか。覚めるような青の瞳を煌めかせて、シノの手を包みながら真っすぐに見据えて告げたのだろう。
「オレがヒースを必要としたら、いつでも起こしていいって」
言うなりシノはお祖父様を見つめたまま床に膝を着いた。辛うじて涙は出ていなかったが、声は割れた泡みたいに上擦っている。
目線の高さをほとんど同じにして、なあ、とシノは呼びかける。
「それじゃいつ起こせばいいんだよ」
苦笑の吐息はもう泣き笑いを隠しきれていなかった。
咽喉を引き攣らせながらそれでも言わずにいられるかとシノの魂が叫ぶ。
「お前が必要じゃない時なんて無かった」
横たわったままのお祖父様をシノが抱きしめた。永遠の寝台を飾る役目を終えた花が舞い散る。涙にも祝福にも見えた。
花弁の雨の中、時を動かす呪文が響いた。
もうすぐあの冴え冴えとした青の眼が開かれるのだろう。視界に一番に入るのも、名を呼ばれるのも、手を触れられるのも私じゃないけど。
でもお祖父様はすぐに私に気づいてくれる。見覚えも無いぐらい老いた私だけど、あの頃みたいに微笑んでくださるだろうか。そうだといい。
だけど私は人差し指を立てて唇に押し当てよう。目を閉じてあげてもいい。
どうかヒースクリフ様、貴方に抱き着いてるシノの気が済むまで泣き尽くさせてあげて下さい。
物語の最後は笑顔と涙が良く似合うという。恋も同じだと思うんです。
****
(裏設定)
計算に自信がない大まか年表(年齢は誕生日のずれがあるはずだけど無視)
仮名として嵐が丘から名前を拝借したけど悪意は無い。ほんとに。
(原作10年後) ヒース(28)とキャサリン(23)結婚
5年後 ヘアトン(ヒースJr)誕生、ヒース(33)キャサリン(28)
20年後 ヘアトン(20)領主就任&結婚、ヒース(53)とキャサリン(48)隠居
1年後 エドガー(初孫♂)誕生 ヒース(54) キャサリン(49)
2年後 キャシー(孫娘)誕生、ヒース(56)、キャサリン(51)
10年後 キャサリン(61)永眠、ヒース(66)眠り姫 エドガー(12)キャシー(10)
20年後 エドガー(32)一家事病死 ヘアトン(53) キャシー(30)
年明け ヘアトン(54)夫婦永眠 キャシー(31)ブランシェット領主就任
38年後 キャシー(69)死期を悟る ヒース(125)59年ぶりの目覚め
大いなる厄災の件は賢者様が頑張ってくれたので片付いた(なのでもう賢まほじゃないんだけど何だかんだ当時の仲間と付き合いはある)
ヒースの外見は20歳前後(大人の貫禄は無いけど子供には見えないかなぐらい)、シノは18前後(子供卒業手前だけど高校生でも通りはする)ぐらいのつもり
ヒースは魔法使いで相手探しが難しい&本人が結婚したがらないもあって結婚が遅かった
子供が出来るのが遅かったのと子供が一人なのは奥さんの身体を労わってのこと
シノはヒースの息子(ヘアトン)を「チビ」と呼んでた
ヘアトンに子供(ヒースの孫)が生まれると「チビの子供だからチビチビ(エドガー)だな」「チビが増えたな。今までで一番小さいからチビすけか」と愛称を付けてヒースに呆れられてた
基本的には全員死ぬまでその愛称で呼んでた
息子はともかく孫世代だと、やさしくも厳格な貴族お祖父様ヒースよりいつでも兄ちゃん姿の気さくな家人のシノの方に懐いてた(地味に落ち込むヒース)
ヒースの奥さんはうっすらシノとヒースの間の感情に気づいてたけど政略結婚も止む無しの貴族の出だし二人とも魔法使いだし仕方ないと思ってた。最終的にシノに同情してた
ヒースが目覚めてから賢まほ仲間に挨拶回りした
シャーウッドの森はどこくらいの広さかは検索してもはっきりわからなかったけど低めに見積もっても街一個ぐらいはありそうだったのでその内のどっかにシノが下賜された土地(実はまあまあ広い)があっておうち建ててる
城の従者をクビになったので森番もなんだけど、臨時で時々雇われてる(後継の森番は森の中の整備道しか知らないので)
ブランシェット城にはヒース&シノを呼びだせる鳥形使い魔を置いてある
ブランシェット城を出た後の生活はシノの自給自足+ヒースが時々時計を作って売って稼いでる(材料&販売協力のクロエ&ムル)
****
──今夜、シャーウッドの森を飛ぼう
ヒースクリフにそう誘われた時から何の話をされるのか、シノは解っていた。
「彼女との結婚が決まりそうだ」
予想通りのことを予想通りの静かな横顔と滑らかな口調で聞かされ、シノは準備していた祝辞を捧げるつもりだった。
なのにどういうことか口がまったく動かない。脳からの指令が切れてしまっているかのように、口周りの筋肉は強張ったまま、眼球は何故かヒースクリフから下がりシャーウッドの森を見下ろしている。こんなものどうでもいいのに。見ているのはヒースクリフであるべきだと解っているのに。
「聡明でやさしい人だ。……大事にしたい」
空から見下ろすシャーウッドの森にヒースクリフの声が被さった。
自分達の肉体はもう五年以上前から成長を止めているが、ヒースクリフはもう28歳だ。領地持ちの跡取り必須の貴族としては遅すぎる結婚と言える。領主の資質も人格も申し分なく、大貴族の美青年でありながらここまで結婚が遅くなったのは、魔法使いであることよりも本人が望まなかったからだった。
それでも、いつしかあきらめをつけたらしい。
ヒースクリフが選んだのは容姿に自信の無さげな娘だった。実際シノがちらりと見ただけでも、露出を避けた厚いワンピースとつばの広い帽子の隙間から、シミやねじれが肌に浮いていた。闘病跡だろう。生来病気がちで子を授かれるかあやしいという噂もあった。ヒースクリフは全く気にしなかったようだが。
強いて言うのならかつての師である魔法使い、かの呪い屋に似ている雰囲気がないでもない。顔立ちはもっと馴染みやすい、異世界からの賢者として呼ばれた者の方が似てるだろうか。まあそういったところがヒースクリフにとって打ち解けやすかったのだろう。
良かったな、と心から思っている。
誰も文句のつけようがない完璧な女性を妻にしてほしいという気持ちもあった。だがそれよりも幸せに笑っていて欲しいと切に願う。
だからおめでとうと言いたい。なのにどうしても咽喉も舌も唇も意思に反して動いてくれなかった。
「ごめん、シノ」
その声が聞こえて弾かれたように顔を上げた。かちりと目が合う。子供の頃は気弱でよく目を逸らしていたのに、こんな時に限って真っすぐに見据えてくる。誰もの心を掴む深い青の瞳が僅かにうるみ、月と星の光を受けて信じられないほど綺麗だった。
「ごめん……」
「なんで謝るんだ」
「…………」
昔だったら素直なヒースクリフは「だって」と理由を語っただろうが、今日は黙っている。その沈黙こそが言葉にしてはいけないものが故だと如実に伝えてきた。
口に出来ない想いを互いに抱いているのはもうずっとわかっていた。
「明日、ファウスト先生と南の国へ行ってくる」
「……うん」
以前ぼかしながら言われたことがある。結婚する時は記憶をある程度封じるかもしれないと。南の国へ行くということはそういうことだ。
「ごめん」
「もう謝るな!」
悪い癖でつい声を荒げてしまった。シノはすぐに我に返ってヒースクリフを窺ったが、彼は粛々とシノの怒声を受け止めていた。驚きも怯えもせず微かに目を伏せるだけだ。
何十年も見てきたのに、月光の下で憂う姿が綺麗だった。夜闇と対比した白い肌が浮き立って、星明りを返して煌めく青がこの世のどんな宝石より美しい。
吸い寄せられるように箒を近づけた。
「シノ」
少しだけ驚いた声で呼ばれて、けれどヒースクリフは距離を取ろうとはしなかった。箒の柄が当たってカツと小さく音が響く。眼に焼きつけたくてシノは更に顔を近づけた。
シノがこの世界で最も大事にしてきたこの──幼馴染は、自分との思い出を忘れに行く。
「ヒース」
咽喉を振り絞った声は情けなく震えていた。それで解ったのか、ただ望むタイミングが同じだったのか、ヒースクリフが目を閉じた。小さな涙がまつ毛に絡んでいるのが見える。こんな距離で見たのも初めてでは無いのに、これだけは初めてだった。
唇を押し当てると、外気で冷えた温度がすぐに互いの熱になる。箒に乗った空で魔法使いのキスをした。
この先どんな主従になろうと、記憶の欠けた幼馴染として過ごすことになっても、この夜空の下だけは恋人だった。
****
「一種の認識障害にかかってる状態だね」
消毒液と乾いた草の独特の匂いの中、シノは発言主をじろりと睨んだ。信用は出来るが信頼はできない、シノのフィガロへの評価は根底にそれがある。だが腕が信用できることも確かだった。なので問いを重ねる。
「どういうことだ」
「ん? そのままだけど」
「ヒースはそんなことを頼んだのか」
どう説明したものか、という教師面でフィガロはシノに湯気の立つマグカップを差し出した。何かの茶だろう。自分も同じものをもって診察椅子に腰かける。
「事情は聞いたけど、記憶が無ければ好きって気持ちがなくなるわけじゃないんだよ。恋という言葉も概念も知らない赤ん坊だって好きな相手嫌いな相手が居るからね。出会いから丸々記憶を無くしたとしてもいずれ気持ちが芽生える可能性は高い」
フィガロはそこで茶を啜り、なんとも気の毒そうな顔でシノを見た。
「なんせ、君はまだ仕えるつもりなんだろ」
表情に台詞を付けるのなら「その愚かさに同情するよ」と間違いなく言っただろう。腹立たしいが、たとえファウストでもネロでも同じことは思っているだろう。シノは彼らの物言いたげな視線を無視してきた。
「じゃあ出来なかったのか」
「頼まれたことはちゃんとこなしたよ。心配しなくてもヒースクリフは誰かを好きなまま、何も思えない人間と結婚するなんてことにはならない」
「じゃあどういう状態なんだ」
「シノ、質問が戻ってるよ。一種の認識障害状態だって言っただろ」
直情型のシノとしてはフィガロの態度は何とも気に入らない。それでなくともこの件に関して余裕など無い。それを察しているのかフィガロも言われる前に更なる説明を続けた。
「だからさ、好きだと思っても『これは恋愛感情だ』って答えに辿りつけないようになってるんだよ」
フィガロは空にある雲でも説明するように続けた。
「例えば君の言動に好意を抱く。で、それが恋愛感情であったとしてもそう思うことは無い。齟齬を生まないように無理な誘導は仕込まなかったけど、好意的な感情を抱いたことについては自分で適当な解釈をするだろうね」
「てきとうな解釈?」
「そう、『これは親しい幼馴染との会話で嬉しいんだ』とか『忠臣の働きに満足して幸福感を得てる』とか、ヒースクリフならこんな感じで考えるんじゃない」
「…………」
それで大丈夫なのだろうか。自分達はそんな誤魔化し何度も何度も繰り返してきた。その度に微笑む相手の眼の光に、もしくは切なげな翳りに手遅れを思い知ってばかりきたのに。
フィガロが雲の説明の後に予想通り雨が降ってきた時のような笑みを浮かべた。
「まあそれだけなら誰でも無意識にやったりするよ。だから本人が言ったように恋愛感情を湧き起こしそうな記憶は思い出しにくくなるようにしてある。完全に消すには数が多すぎて支障があるから『おぼろな記憶』って感じになってる。気を付けてあげて」
言われるまでもなくヒースクリフが記憶を封じるというのは前もって聞いていた。気を付け方などわからないが、それは覚悟の上だ。
そうそう、とフィガロは思い出した声で眉根を寄せた。
「気を付けると言えば、記憶もしにくくなってるから。恋愛感情に結び付きそうな……そのつもりじゃなくて二人で出かけたりしたら、ヒースクリフだけ忘れたりすることがこれから増えると思う。これも気を付けて」
「…………」
は、と言うはずが声にならずに一瞬で咽喉が乾ききった。フィガロの心底可哀想だと思っている色味の薄い眼が、優しさともいえるそれが疎ましい。
目を逸らしても縮こまった心臓が戻らない。幼い頃のヒースクリフと今の姿が思う浮かんではかすれて、鼓動も止まったかと思うほど締め付けられた。
「ああ。そんなに怯えなくても大丈夫だと思うよ。ヒースクリフはこれから結婚するんだし、その相手を好きになれるように仕向けといたから。ヒースクリフの性格からしてその上で誰かに心奪われるような真似はしないよう自制するだろうし、シノのことを有難い幼馴染の従者って思ってくれるよ」
フィガロは本気でフォローをしているらしく幾らか早口だった。シノもぐっと唾だか息だかを飲み込んでなんとか声を出せるようにする。
「……わかった。ありがとう」
低い押し殺した声だ。ファウストやネロやミチル辺りなら心配そうにしただろうが幸いにも相手はフィガロだ。
「大丈夫そうなら対面する?」
易々と言ってくるフィガロの言葉にシノは頷いた。フィガロが防音魔法をかけたらしい奥の部屋のドアに向かいノックする。しばらくしてヒースクリフとその話し相手を務めていたファウストが出て来る。大丈夫かという問いと平気ですという会話が穏やかな空気に紛れていく。
「シノ。ごめんね迎えに来させちゃって」
真っ先に自分に声をかけるところが変わらない。眉を下げた笑みも変わらなかった。ただ、あの夜空にあった張り詰めた美しさはもう無い。
幼馴染の友人に向ける笑顔は陽だまりの猫のようにゆるやかにあたたかく、これが失われないならもうなんだっていい。
「迎えにぐらい来るさ。お前は大事な主君なんだからな」
「大袈裟な。先生もご迷惑をおかけしました」
「いや……僕も、飲ませすぎてすまなかった」
ファウストが辻褄合わせの謝罪を口にする。ヒースクリフどころかシノもフィガロも見せないといった様子で床を睨むように見ていた。
「久しぶりにファウストに会って気が緩んだんだろうね。でも自分の酒量はちゃんと知ってないと」
「フィガロ先生もすみません」
どうやらファウストに会って飲みすぎて不調になったのをフィガロに診てもらった、ということになってるらしい。無理があるような気がするのだが、根が素直なヒースクリフはそのまま受け入れたようだ。
「どう? 頭痛は治まった? 気持ち悪さや記憶は?」
「体は大丈夫ですけど、ファウスト先生の家に行ったあとの記憶が曖昧で……」
「まあそれぐらいなら大丈夫かな。お大事に」
診察の体でフィガロが探りを入れた。ヒースクリフを観察対象にされているのは気分のいいものではない。シノは強い声で「ヒース」と呼んだ。
「これ」
「え? この辺りの花?」
「綺麗だろ」
「うん。ありがとう」
野摘みの花束にヒースクリフは嬉しそうに笑った。子供頃と変わらない笑い方だ。
「前もシノにこうして花を貰ったよね」
「まあな……一番最初にやった花は覚えてるか?」
「え、一番最初……?」
ヒースクリフは顎に手をやり真剣に記憶を引っ張りだそうとしているようだった。それでも探しても探しても見つからなかったのだろう。見知らぬ町で帰り道を探しても解らないように。
「ごめん。覚えてないかも」
申し訳なさそうに謝る声まで子供の頃から少しも変わらない。思い出せないということはそういうことなんだろう。
「いいさ」
シノは泣きそうなのを堪えて笑ってみせる。フィガロが「きみたち難儀だね」と呆れ混じりに呟いていた。