この温もりが消えないように ある日の午後。窓から射し込む太陽の光が眠気を連れてくる穏やかな昼下がり、俺は自室で一人ぼんやりと窓の外を眺めていた。どうやら今日は南と東の合同訓練が行われているらしい。視線の先にいる人物ーーフィガロは俺の視線に気付く様子もなく淡々と先生役をこなしていた。
いつも通りの微笑みを見届けた後、俺は窓の外から自室へと視線を戻す。手元に落とした視線は可愛らしいくまのぬいぐるみに注がれていた。目の前のつぶらな瞳を見ていると、これから自分が何をしようとしているのか意識してしまい余計に恥ずかしくなる。だけど、これは来るべき日のために必要なことだ。避けては通れない。いつかは覚悟を決めなければならないのだ。
もう一度窓の外を確認して誰にも見つからないように息を潜める。この魔法舎で完全に人目に付かない場所は多分ない。それでも、誰かに見つかる可能性は少しでも下げておいた方がいいだろう。
そっと顔を近づけていけば最後に唇に待ち受けるのはきっとふかふかの柔らかい感触。両手で抱えた小さなくまのぬいぐるみを、今、頭の中に思い描いている人物に置き換える。それだけで息が上がって、手のひらには汗が滲み始めてしまう。
「はぁー……。駄目だ、やっぱり緊張する」
俺は一度ぬいぐるみを手放すと自分の胸に手を当てて大きく深呼吸をした。これくらいで緊張していてどうする。きっと、いつかはもっと恥ずかしいこともするはずなのに。そこまで考えたところで、その『いつか』を想像してしまい余計に恥ずかしくなる。
「う、うわぁーっ……!」
無性に叫び出したい気分になりながらも何とか声を抑える。両手で顔を覆ったまま俯くと頬に集まった熱がだんだんと指先にまで伝わってくる。それがまた余計に恥ずかしくて、俺は意味もなくしぱしぱと瞬きを繰り返した。
いずれ訪れるその瞬間に備えて始めたキスの練習。もう何度目かのそれは一向に前に進む気配がない。
ぬいぐるみになら気軽に触れられるのに本人を前にするともう駄目だった。目の前にいるこの子がもしフィガロだったらと想像しただけで恥ずかしくて視線をそらしたくなる。……こんな調子で本当に大丈夫なのだろうか。だんだん不安になってきた。
さっきと同じように、もう一度、大きく深呼吸をする。ふかふかのくまのぬいぐるみを再び手に取ってまっすぐに前を見据えた。
(この子を、フィ、フィガロだと思って……)
可愛らしいくまの姿に彼の面影を重ねる。ぼんやりと面影が浮かび上がってきた瞬間、ようやく落ち着きを取り戻したはずの心臓がまたバクバクと音を立て始めた。
一人きりの部屋に響くのは早鐘を打つ鼓動の音と短く繰り返される呼吸だけ。やけに大きく頭の中を支配するそれは、まるで俺を急かすかのように次第に激しさを増していった。
「……っ!」
ぬいぐるみを抱いた手に力がこもる。情けなく震える手でその子へと顔を近づければ、鼓動は胸から押し出されてしまいそうなくらいに一層激しくなった。
いつも穏やかな微笑みを形作っているあの唇が、優しい雰囲気を纏ったあの笑顔が、すぐ近くにある。そんな風に想像しただけでこの胸は愛しい気持ちでいっぱいになる。どうしようもなく震える吐息がぬいぐるみの近くで止まる。ここまで来たらもう後戻りは出来ない。
「っ……よし!」
気合いを入れるためにわざとらしく大きな声を出して自分を奮い立たせる。いまだに緊張は解けないけれど、やっとのことで覚悟は決まった。
「し、失礼します……!」
きつく目を瞑り、ゆっくりと、ゆっくりと顔を近づける。顔も体も熱を持ちすぎてどうにかなりそうだ。興奮と照れを抑えきれない自分の息遣いがやけにはっきりと感じ取れる。
そうしてようやく唇が触れた瞬間、ひときわ大きく心臓が跳ねた。しかしその直後、余韻に浸る暇もなく扉を開く音がして慌てて振り返る。すると、そこに立っていたのは今まさに頭の中を支配していた恋人の姿だった。先程と同じ練習着姿のまま、不思議そうに目を丸くしてこちらを見ている。
「えっ。……~~~ッ!?」
「あれ、賢者様?」
声にならない叫びが顔中に熱となって集まる。まさか、見られただろうか。想像しただけで恥ずかしくて死にそうになる。穴があったら入りたいとはまさにこのことだと思った。
「……ああ、驚かせてごめんね? 一応ノックはしたんだけど、返事がなかったから部屋にいないのかと思ってさ」
明らかに俺を気遣っての発言だった。咄嗟に立ち上がったものの何も言えずに固まる俺を見兼ねて、フィガロが優しく微笑みかける。
「そ、そうだったんですね……! 俺の方こそ、せっかく来てくれたのに気付けなくてすみません」
「ううん、気にしないで。それより……」
フィガロは途中で言葉を切ると、ちらりと俺の手元に視線を落とした。彼が次に何を言うのかが何となくわかってしまい、俺は体を強ばらせる。
「今、その子と何をしてたの?」
ああ、やっぱり。予想通りの質問をされて焦りと戸惑いが胸に渦巻く。言葉に窮する俺を眺めてフィガロはにぃと口角を持ち上げた。愉快そうに細められた双眸がじいっと俺を見つめている。
「そ、れは……」
まさか「ぬいぐるみをフィガロに見立ててキスの練習をしていました」なんて言えるはずがない。口が裂けても言えない。どう言葉を返そうかぐるぐると思考を巡らせる。絶望的な状況でも心は正直で、気付けば視線は自然と彼の唇に吸い込まれていた。視線が釘付けになりそうなことに気付き、慌てて彼から視線をそらす。すると、吐息だけで笑う音が聞こえてますます恥ずかしくなった。
沈黙が訪れる。部屋の中には互いの息遣いだけがただ静かに響いていた。しんと静まり返った部屋で二人きり無言の状態がしばらく続く。このままじっとしているのはまずいと思いつつも、焦れば焦るほど上手く言葉が出てこない。
気まずい沈黙が続く中、やがて穏やかな声が不意に静寂を切り裂いた。
「ねえ、俺にはしてくれないの?」
「え……?」
フィガロは悪戯っぽく瞳を細めると人差し指で俺の唇に触れた。
「ほら、……キス」
挑発するような、でもどこか期待を含んだ目で見つめられて心臓が大きく跳ね上がる。鏡を見なくてもまた顔が赤くなっていることがわかった。ああもう、やっぱりさっきまで俺が何をしてたか分かってたんじゃないか。わかってるのに言わせようとするところに、少し前に中庭でした彼との会話を思い出す。
「……し……してほしいんですか?」
「もちろん。まさかその子にだけして俺にはしないなんてことないよね?」
フィガロは俺の反応を楽しむように、にこにこと楽しそうに笑っている。そんな目で見つめられたら断れない。フィガロもそれをわかっているのか、俺を見つめる眼差しはどこか嬉しそうだ。
「……っ、じゃあ、目を閉じてください」
「はいはい」
緊張を押し殺して言えば彼は素直に目を閉じた。長い睫毛が影を落とす様はとても綺麗で、つい見惚れてしまいそうになる。
「し、失礼します……」
ぬいぐるみを相手にしていた時よりもずっと震えた声で告げて、ゆっくりと顔を近づける。少し屈んでくれる些細な優しさにドキドキと胸が高鳴った。きっと、今の俺は採れたての苺のように真っ赤になっていることだろう。好きな人との初めてのキスなのだから緊張してしまうのは当たり前だった。
想像の中で幾度も繰り返した光景が、今、目の前にある。その事実に頭がくらくらしてくる。目を閉じているせいかフィガロの顔がいつもよりも近くに感じた。無意識に体に力が入ってしまっていたようで、両手で掴んだ彼の肩がくつくつと愉しげに揺れる。
あと一歩で唇が触れ合う寸前、俺はぐっと動きを止めて、その先に待ち受ける感触を想像しながら目を閉じた。
すぐ近くで感じていた息遣いが唇の中に吸い込まれ二人分の吐息が一つに溶け合う。彼の唇はぬいぐるみよりもずっと熱くて、ずっと柔らかかった。
ほんの一瞬触れるだけの拙くて短いキスだったけど、今の俺にはこれが精一杯だ。
(……。……キス、しちゃったな……)
すぐに唇を離し、指の腹で自分の唇に軽く触れる。触れた場所から指先に伝わる熱が恥ずかしくてたまらない。だけど、同時に胸に広がっていく満たされた気持ちは間違いなく幸せと呼ぶに相応しい感情だ。
「フィ、フィガロ……」
気になってちらりと恋人の様子を窺えば彼は誰が見てもわかるくらいに上機嫌だった。こちらを愛おしそうに見つめてくる瞳はとても穏やかで慈愛に満ちている。緩やかに持ち上げられた口角も、ほんのりと赤く染まった頬も、困ったように下げられた眉も、目が合った瞬間嬉しそうに微笑む表情も、そのすべてがこの心を幸せでいっぱいにした。
言葉にせずとも伝わる感情に幸せを感じていると、突然手を握られた。ぴくりと跳ねた指先が条件反射で手を引こうとするのを阻まれる。そのまま絡んだ指先を優しく握られて、もう片方の手は頬に添えられる。頬に触れる冷たい指先に自分の頬が熱くなっていることを実感して、余計に顔に熱が集まった。
包み込むように頬に添えられた手を気にしていると、そういえば、と前置きしてフィガロはベッドの上に鎮座するくまのぬいぐるみに視線を向ける。
「ところで賢者様、どうしてこの子とキスしてたの?」
ギクッ、という擬音が聞こえてきそうなほど分かりやすく肩を跳ねさせた俺にフィガロの目の色が変わる。なんだか嫌な予感がする。でも、どうせバレてしまうのなら下手に取り繕わず正直に言ってしまった方がいいだろう。
「キ……キスの練習をして、まし……た……」
消え入りそうな声で告げるとフィガロは眉を上げてぱちぱちと瞬きを繰り返す。
ちぐはぐな温度が混ざり合って一つの同じ熱を分け合う。俺に合わせて少し屈んだままの体勢でこちらを眺める瞳と目が合うと彼は堪えきれないという風に笑い出した。くすくすと放たれる笑い声は、まるでそこからどんどん幸せが溢れ出ているかのようだった。
「それってつまり俺とキスするためってこと?」
「……はい」
改めて言葉にされるととんでもなく恥ずかしい。落ち着かずに視線を右往左往させる俺とは対称的にフィガロは照れた微笑みを浮かべていた。その表情はどこか嬉しそうで、恥じらうように頬が淡く染まっている。
「……もう一回する?」
羞恥心に悶える俺を一瞥したのち彼が告げる。それはいつもの冗談にも、本気で言っているようにも取れる言い方だった。
「物足りないって顔してる」
「え、っと……」
戸惑っている間に再びめいっぱい顔が近づけられていた。吐息が触れ合う距離で目と目が合い体温が一気に急上昇する。心臓が壊れそうなくらいバクバクと音を立てているのがわかった。身体中が熱く火照って、どうしたらいいのかわからなくなる。
「……っ」
ぬいぐるみよりもずっと柔らかい感触を思い出して胸が高鳴る。身動きが取れずに固まる俺を面白いものを見るような目で眺めながら、「冗談だよ」と笑ってフィガロは詰めた距離を戻した。
「あ……」
つい名残惜しそうな声を出してしまい咄嗟に口元を手で覆う。気恥ずかしくて、慌てて彼から目をそらせば小さく笑う声が聞こえた。
「驚かせちゃった? ごめんね。でも、きみが毎回素直で可愛い反応をしてくれるから俺もついからかいたくなっちゃうんだ」
「い、いえ……」
どう答えればいいかわからずに視線を彷徨わせる。なんだか落ち着かなくて深呼吸を繰り返しているうちに、ふと思い出したこと。
「あ……。そういえば、フィガロはどうしてここに?」
「え、どうしてって……。きみ、俺のことずっと見てたでしょ? だから気になって様子を見に来たんだ」
さも当然のようにさらりと放たれた言葉に今日何度目かの気恥ずかしさを覚える。まさかそれもバレていたなんて思わなかった。俺はそんなにわかりやすいのだろうか。
「……き、気付いてたんですか」
「そりゃあ、あんなに熱心に見つめられちゃったらね」
くすくすと小刻みに揺れる肩をただ呆然と見ていることしか出来ない。
「……なんてね。本当は、俺がきみに会いたくなったからここへ来たんだ」
窓から射し込む太陽の光が青灰色の髪を優しく照らす。窓の外を見つめる瞳は穏やかな海のように凪いでいるのに、涼しげな目元とは対称的に彼の耳はほんのりと赤く染まっていた。
「俺だってきみのことずっと見てたんだよ」
ごく自然に、何でもないことのように呟かれた言葉。それはいつものよく通る声とは違う、ともすれば消えてしまいそうなほどの小さな声だった。
「フィガロ……」
名前を呼べば彼は少しだけ照れたように笑う。そんな表情を向けられたら困る。だって、こんなに好きなのにもっとあなたのことを好きになってしまうから。もっと、あなたのすべてを知りたくなるから。
「フィガロ、こっち向いてください」
さっきフィガロにされたのと同じように彼の手を取り指先を絡める。何も言わずに見つめ合うと俺たちはどちらからともなく顔を近づけた。
唇に押し当てられる柔らかい感触にどうしようもなく幸せを感じて堪らなくなる。一人分に溶け合う呼吸はいたく甘い。じんわりと甘く染み渡る優しい気持ちを胸に抱えながら、俺も静かに瞼を下ろした。