2 照らしてよ、ペリドット「……身代わり、だなんて……どうしてそんなこと………」
自分の提案に呟くようにそう言った彼は、それきり口を閉ざしてしまった。元々こぼれそうなほど大きな瞳は更に大きく見開かれ、戸惑いに揺れている。まるで行き先を見失い、どうして良いか解らない迷子のようだ。
この反応も当然のことだ。彼はこちらのことなど露ほども知らないのだから。彼の兄へ対する想いを、自分がついさっきまで知らなかったように。
彼は怯えていた。兄への思慕を後ろめたいものだと考えているのだ。それを実の弟に勘付かれたのだから、それは平常ではいられないだろう。いくら同性愛が認められつつある世情であるとはいえ、大人と子供の狭間にいるモラトリアムの若者たちにとってそれはまだまだ異質なものなのだ。だから彼は恐らくそれをずっと内に抱え、いけないものだと思いながらも捨てられずに苦しんできたのではないだろうか。
けれど自分は理性的な貴方とは反対に、本能的に貴方に堕ちた。初めて欲しいと思ったんだ。貴方が。貴方だけが。未だに他に望むものなんて見つからないくらいに。マイノリティだろうとそんなことは知らない。そもそも家族という、産まれて最初に経験する最も小さな社会の中でさえ自分は異質なのだから、今更恐れることも疑問に思うことも何も無い。
「貴方が兄さんに向けているものと同じものを、俺が貴方に持っているからだよ」
「―――、」
また、揺れる。陽炎の膜が張ったように左右の琥珀の輪郭が揺らめき、自分を射抜く。
「だから、兄さんの身代わりになれるんだよ」
にこり、と。兄を真似て笑いかけると、明らかに彼は動揺した。そうして俺の提案とは関係のないことを呟いた。
「……知らなかった……君は……そんな顔でも、笑うんだな…」
”宇髄にそっくりな顔で”?
苦しげに眉の寄る額を見下ろしながら、あまりにも狙った通りになったものだから、それはそうだろうと逆に少し鼻白んだ。今でこそもうあまり言われなくなったが、幼い頃は似たような服を着せられ親に連れられた自分たち兄弟は、双子と間違われるほど顔の造りが似ているのだ。だからもし、もしこの人に先に出会ったのが兄ではなく、自分だったとしたら―――
「悪い話ではないと思うよ。お互いに疑似恋愛を楽しむというだけだ」
想い人との。
「………本気で言っているのか?」
ほとんど疑いの眼差しで彼は見上げてきた。
「勿論」
「………そんなことをして何になるっていうんだ」
「何にもならないね。傷の甜め合いだ」
意味の無い関係であることをさらりと肯定すると、驚きが杏色の虹彩に広がる。
「だったら、そんな無意味なこと……」
「しなくていいかもしれないね。貴方が兄さんを手に入れられる可能性を少しでも信じているなら」
「………」
そう言うと、傷ついたように彼は視線を床に落とした。この人は兄とどうこうなれるかなど、そんな可能性は微塵も無いと思っているのだ。まああそこまで歪みない友情を信じ切っているような顔を向けらていたら、そう思ってしまう方が自然というか。
「どうかな」
「………」
廊下に吸い寄せられた彼の視線はなかなか戻って来ない。彼がすぐに答えを出さないだろうことは解っていた。同性への片恋に苦しむ真っ当な貴方が、こんな外れた手段に簡単に頷くとは思っていない。
「そこの二人、もう予鈴はとっくに鳴ったぞ。教室に入りなさい」
いつの間にか次の授業をするために、すぐ目の前の教室に生物学教師がやって来ていて、自分たちに戻るよう促した。
「考えておいて、杏寿郎さん」
俯いたままの彼を覗き込み、そのなめらかな額に軽く口づけた。
「っ…、…!」
自分のクラスがあるのは今いるこの階の一つ下の階だ。もうどうせ次の授業への遅刻は免れないのだから、せっかく運んできた現像液を部室へしまうため教室へは引き返さなかった。絶句してこちらを見つめる彼の視線を背中に感じながら、既にもう確信に近い勝利を予感したのだった。
とはいえ確証がある訳ではない。自分が彼にした提案は、どう見ても趣味のいい選択肢とは言えない。要は彼がどこまで思い詰め追い詰められているか。想い人に恋人を手引きしてやるような、自分の心情とはあべこべなことをやってのけるぐらいには、彼は兄に溺れている。縁結びの役を担うことで少しでも兄と繋がりを持つため、もっと下世話な言い方をすれば感謝され好印象を持たれたいがため。彼の秘密裏の媚は可哀想に、報われることは恐らく無いだろう。何せ自分の恋が叶わないよう彼自ら道を塞いでいるのだから。先程ぶら下げて来た甘い餌を目の前に、彼がどこまで耐えて――最後にこちらに堕ちてきてくれるか。それを待つだけだ。彼がその身の光を剝いでこちらへ滑り落ちてくるのを、獄で独り辛抱強く小さな格子窓から射す明かりに焦がれる罪人のように。
「何故俺を撮るんだ」
「兄さんに聞いているでしょう。夏のコンクールに出品するためだよ」
五月ともなると外はもう夏のような暑さだ。最近は桜が散った途端、春なんてさっさと幕引きされてしまう。けれど日差しを遮るものがないと辛くても、逃れた先の木陰などではほっと息をつけるような春の優しさが僅かに残っている。
「そうじゃなくて…撮るのは俺じゃなくてもいいだろうという意味で言ったんだ」
兄を通して、写真コンクールに出す被写体として杏寿郎さんに協力して欲しいと頼んだ。兄がどんな風に彼に伝えたのか知らないが、断わりきれなかったのか渋々ながら応じてくれることになったのだ。
「誰でもいいだろうってこと?だったらそれこそ貴方だって良いわけでしょう」
「揚げ足を取らないでくれ。もっとモデルに向いているような人が他に沢山いるだろう」
「いないよ。だって俺がカメラやろうと思ったの、杏寿郎さんを撮りたいと思ったからだもの」
「……」
彼は全く信じていない様子で訝しげにこちらを見た。
自分が彼を想っていることすらまだ半信半疑なのだろうからその反応も頷ける。出会った当時具体的な方法をすぐに思いつけなかったとはいえ、彼の姿を何らかの形で留めたいと感じたのは十二の時だ。中学に上がって写真部の存在を知り、この方法ならばと思ったが、通う学校も違えば「自分の」ではなく兄の友人である彼になかなか叶う希望ではなかった。そしてようやく同じ高校に通うようになったがために共通項が出来、こうして今念願が叶おうとしている。けれど。
「本当はやりたくないのに兄さんに言われて断れなかったんだね」
「そんなことは…「あるでしょう?」
「違う…!俺にできることなら協力したいと本当に思っている…!ただ……ただ、君がこの前、可笑しなことを言うから……」
『身代わりをあげる。本物をあげられない代わりに、その身代わりを、貴方の好きにしていいよ』
"可笑しなこと"と言いながら、彼は十分意識はしてくれているようだ。
「あれは冗談なんかではないよ。本当に、兄さんの代わりでも良いと思ってる。それくらい、貴方が好き」
「っ……なん、…っ……、どうして君はそんな簡単に言えるんだ…俺は、お、…」
彼の言葉が途切れる。その手を取って、自分の心臓の辺りに押し当てたからだ。
「簡単なんかじゃないけどね。…ほら」
「…っ」
多分、大して煩くなっているわけではないけれど、人の心臓の音なんてそうそう確かめることなんてない。
「ね?こんなに」
彼の手のひらに移る心音。そこに自分の本心が乗っていることをどうか感じ取って。
「嬉しいな。協力したいって言いながら、被写体になるのを躊躇するくらいには意識してくれてるんだ」
「っ…」
にこりと微笑んで見下ろせば、彼はぐっと何かを堪らえるように唇を引き結んだ。
本当に好きなんだね、"この顔"。
「あんなこと………君は本気で…」
手を退こうとする彼の手首を握ったまま、俺は離さなかった。
「未だにそうだけど、今まで生きてきて貴方以外に欲しいと思ったものなんて他に一つもないんだ」
「そんなわけないだろう…欲しいものが無かったなんて……、それは単にきっと今まで意識していなかっただけだ」
「本当だよ。小さい頃から欲が無さすぎて子供らしからぬ子供だったって親によく言われるんだ」
「………」
尚も説明する自分をしばし見つめた後、彼は小さく言った。
「離してくれないか…。いつまでも掴んでいては、撮れないだろう?」
信じるかはともかく、早速協力はしてくれるようだ。
「ありがとう。じゃあ、そこの樹の下に立って」
言われた通り、彼は指示されたところへ歩いてゆく。第一と第二校舎の間に設けられた中庭。放課後の部活動の時間の今、高い校舎の狭間に運動部の生徒の声が時折降ってくる以外はとても静かだ。
夕方の翳りを帯びた日射しが若葉の色を反射させ、緑の傘の下へおもむろに立った彼の瞳に映り込む。淡い琥珀がそれを従順に受け入れ明るい翠緑の輝きを放つのを、ファインダー越しに見つめた。
「こういう目的で撮られたことがないから…どうしたら良いかわからない」
木の下に移動するよう指示されてからは特に何も要求されないことが逆に不安なのか、シャッターを切る自分に彼は遠慮がちに声を掛けてきた。
「そのままで特に何もしなくていいよ。俺も人を撮るのは貴方が初めてだから、やって行く内に掴んでいくしかないんだ」
「えっ、そうなのか…?」
「うん。初めて撮る人は杏寿郎さんて決めていたから」
「……、そんな……責任重大じゃないか」
自分の告白に一度言葉を詰まらせた後、真面目な彼はそう言って何とも言えない顔をした。コンクール用だなんて実はほとんど口実で、彼を撮れれば何だって良かったのだけれど。
「まぁ楽にしていてよ。好きに撮るから」
彼からしたら無責任にも感じるようなアドバイスに、「そんなにカシャカシャされたら楽になんて出来ない…」なんてこぼしながらも、ずっと大人しくしていた。
「せっかく部活が休みだったのに付き合ってくれてありがとう」
一通り撮らせてもらった後、今日撮影したものを今度チェックしてもらいたいからと言うと、彼は連絡先を教えてくれた。初めは気乗りしなかったことでも、自分がどんな風に表現されているのかそれなりに気になるようだ。誰が見るか解らないところに自分の顔が写ったものが出品されるとなれば誰だってそうかも知れないが。
「出すからには賞を撮りたいし、いくつか候補を上げるために杏寿郎さんが良ければまた撮らせて欲しい」
受験生の身の彼は、所属している剣道部の部活が休みの今日などは勉強に当てたかったろうにそれを惜しまず協力してくれた。面倒見の良い彼は、自分を犠牲にしてでもまた力になってくれるのだろう。
「分かった。一度乗りかかった船なのだから、俺も責任を持とう」
「ははっ、……そんなこと言うモデルなんて、きっと杏寿郎さんぐらいだろうね」
およそアマチュアのカメラに付き合うような台詞に聞こえず思わず笑うと、驚いたように目を丸くしているから、視線だけでどうしたのかと問い掛ける。
「……いや、笑うと本当によく…」
「………」
言いかけて途切れた言葉の先。
"宇髄によく似ている"。
不自然に途中で止めたその意味に、意識してくれているのだと思っていいだろうか。あの提案を。
「杏寿郎さん、この前俺が言ったこと、少しは考えてくれたの?」
尋ねると、真摯だった瞳は途端戸惑いに濡れて、感心したように当てられていた視線は逸れてしまった。
「………」
「ねえ」
「考えるも何も……おかしいじゃないか……君は、そんなものでいいだなんて……、本当に思えるのか……?」
身代わりで、なんて。
「いいよ。永遠に手に入らないならそれでもいい」
「…俺にはそれが、理解出来ない…」
「そう。じゃあ確かめたらいいんじゃない」
「…?なに「本当にいいと、思えないかどうか」
再び自分に向けられた視線をしっかり捕らえたまま、腕を引いて体を寄せて、驚きに染まった顔に被さるように―――
「っ、」
唇が彼のそれに触れようとした瞬間、彼は腕を振り解くと、そのまま走り去ってしまった。
きっと兄の顔でも重なったのだろう。あんまり至近距離だとピントも合わず、区別がつかないかもしれない。
あの人が言ったように自分たちは―――よく似ているから。
「なんかあいつがさ、煉󠄁獄にモデルやって欲しいって言うんだけど」
協力してやってくんねぇかな。
数日前の昼休み、購買のパンを齧りながら言われた宇髄の言葉に、内心暗い雲が立ち込めた。あまり気が進む頼みごとでは無かった。大抵のことは自分で役に立つことならばと請け負っても構わないと思えるのだが、写真のモデルだなんてとても自分に向いているとは思えなかったからだ。しかもコンクールに出品するためのものだなんて、余計に。
「俺が向いているとは思えないが……」
弁当の唐揚げを口に放り込みながら本心を口にすると、宇髄は途端気色ばんだ。
「はぁ?!何言っちゃってんの?お前が被写体向きじゃなきゃ日本人で他に誰が向いてるってんだよ」
「それはいくら何でも買い被り過ぎだろう」
本気で言っているような様子の宇髄に思わず苦笑いで返す。不思議で仕方ないのだが、どうも彼はこの自分の容姿を何故だか彼の中で特別なものに区分けしている節がある。この彼こそ類稀なる姿形をしているというのにだ。
「んなことねぇって。じゃなきゃ俺、描きてぇって思わねぇもん。あー、なんかこんな話してたら久々にまた描きたくなっちまったな」
また、描く。
口の中の肉の塊を飲み込んだ音と同時に、あのスケッチブックを滑る鉛筆の音が、頭いっぱいに蘇った。
「……、…」
二人きりの部屋。まだ外は暑くて外の蝉の鳴き声が遠くに聞こえて。紅い視線にじっと観察される、終わりなどないような長い焦燥。暴れる鼓動をばれないようにするのが酷く難しくて、息苦しくて。
あの時の視線を、あの特別な空間を、思い出しては恥ずべき思想を、自分は何度も――
「俺じゃなくて彼女を描かせてもらえばいいじゃないか」
初めて彼の部屋を訪れた時――あれはまだ彼が中学に転入して来て間もない頃だった。家に遊びに来ないかと誘われて学校帰りに寄ったその日、スケッチブックを手にした宇髄に描かせて欲しいと頼まれた。くだらない話に花を咲かせたり遊んだりするのだとばかり思っていたから正直面食らったが、真剣な瞳に押されるようにして思わず頷いていた。そしてすぐに後悔をした。ポーズを取らされるだとか特にそんなことはなくて、ただベッドに腰かけているだけで良かったのだけれど、とにかく彼が描いている間は何度も何度もスケッチブックから顔を上げる度に無言のまま見つめられるものだから、変に汗をかいて仕方なかった。彼に特別な感情をもっていなければ何ともなかったのだろうが、もうすでにこの時には虚しい懸想に囚われていて、あの時は早く終わってくれとばかり思っていた。絵を描くことが趣味の一つであるという宇髄の、初めて知った一面。あれから時折何度か頼まれて描かれたことはあったけれど、彼の何に自分の気に入るところがあるのか未だに解らないでいる。
「何だよつれねぇなぁー。煉󠄁獄描くと満たされんだもん。ああ絵描いたわーって感じして」
「彼女がヤキモチ焼くぞ、そんなこと言うと」
「妬こうが何だろうが事実だし」
「………」
食べ終えた弁当の蓋を閉じる。自分の無意味なこの気持ちも一緒に仕舞って、後で洗って流して捨ててしまえればいいのに。
「…俺が断ったら、君の弟は困るのだろうか」
「さあ?けど協力して金賞でも何でもド派手に掻っ攫っちまえよ。まあ、あいつの腕次第だけどさ」
相変わらず豪胆無比な発言に、やっぱり苦笑のような息が漏れた。
なあ、宇髄。君の弟にキスされたんだ。額にだけれど。だから気まずい、だなんて――。
言える訳がない、本当の理由はもっと大きい厄介なもので。
『身代わりにしていいよ』
(君を想っていることが知れてしまった)
「そうだな…」
何だか虚しいじゃないか。自分も彼も、想う人には届かない願いを抱えていて。少し、どうとでもなれ、なんてやぶれかぶれな気になってくる。
「…じゃあ、引き受けようかな」
「おー!そうしろそうしろ」
先に出会ったのが君じゃなくて、君の弟だったら、きっと上手くピースが組み合わさったのにな。
シャッターを切る音の止んだ、誰もいない高く聳える校舎の狭間。翳り出した陽を背にした彼に。
「っ、」
やっぱり君を捨てきれないでいる自分を見せつけられた。
確かめたらいい、と言う彼の唇の先が、本当に触れそうになって。掴まれていた腕を必要以上に強く振って逃れた。
「……っ…」
背を向けて走り出しても、彼の言葉すら追いかけて来なかった。
それが逆にもう、抗えないところへ自分が足を落としたことを彼は知っているのだという、無音の追っ手に感じたのだった。