永遠と呼ぶにはかくも短き「センセイ」
通り過ぎた路地の陰。低い位置からの呼びかけに、村雨は後ろを振り返った。樽や空き箱の積み重なる暗がり。貧弱な体を押し込めるようにして声の主がしゃがんでいた。
「獅子神か」
どうしてそんな所に、という言葉は飲み込んだ。見上げる少年の頬に残るどす黒い痣を見れば一目瞭然だ。痩身を屈める。あどけない頬に手を当てて顔を上向かせると、鼻腔から流れた血の跡が目に飛び込んできた。乱雑に拭きとったのだろう、白い肌に這う暗赤色が痛々しい。
「口を開けてみろ」
ぱかりと開けた口内を見る。専門外ではあるが、歯に目立った損傷はないようだ。乳歯が抜けて永久歯に生え変わってから随分経つ。生まれながらの美しい歯並びが損なわれなかったことに安堵した。
「何があった?」
「んー、内緒」
言いにくいことか。思わず衣服に包まれた胸下に目を向けると、獅子神は慌てて「あ、そういうのじゃねえから!」と顔を赤くした。
「金のことでヘマをしちゃって」
余計なことをするんじゃなかった。少年は村雨の視線から目をそらすと、埃っぽく乾いた大地をぼんやりと見つめる。住居とも言えない粗末な小屋の群れ。そこは男の性を慰めるための街だった。
村雨がこの花街へ来るようになってどれほど経っただろうか。時間の流れは彼にとってはどうでもいいことの一つで確かな記憶はないが、獅子神によると十年になるらしい。あくまで彼らの数える歳月に従えば、の話だが。
獅子神はどこからか流れ着いた女の息子だ。病や怪我で頼るとき以外は目を合わせようともしない連中のなかで、たった一人「センセイが来た」と懐いてくる奇特な存在を村雨は興味深く観察した。彼の背が伸び、言葉が増え、生意気な口まで叩くようになったのだから、彼らにとっては十年という月日はそれなりに長いのだろう。
彼の母親はかつてとても美しい女だった。悪い男に騙された良家の娘であるとか、不貞を働き追い出された権力者の愛人であるとか。まことしやかに囁かれた数多の噂に誰もが納得したが、その美貌も今はこの街の生活と薬、そして退廃に呑まれ、写し絵のように成長した一人息子を除いては見る影もない。
空色の瞳が村雨をじっと見つめる。桜色の唇が何か言いたげに薄く開いた。
「あまり無茶はしない方がいい」
「わかってる」
医を施す身からしても救いようのない連中しかいないこの花街で、彼の存在は磨けば磨いただけ光る唯一の玉だった。娼館の女主人が目をつけたのは母親の美しさばかりではなかったのも当然だろう。しかし獅子神は己が才覚をもって、降りかかる難を逃れた。
それは母親が客をとっている間、道端で遊んでいた時のことだ。誰からも教わっていない算術を砂に描いていることに気づいた人間がいた。人を買い、人を売って財を築いたその男は、この娼館の持ち主。男は獅子神に商いの才能を見出し、裏方の仕事を手伝わせるよう女主人に言いつけた。
男が獅子神に興味をもたなかったのは善人だったからではない、月のものも迎えていない幼女にしか勃たなかったからだ。しかしそのおかげで獅子神はいまだ身を売ることなく暮らすことができていた。攫われて売られた娘を追いかけてきた父親に体じゅうを刃物で削がれ、血の海で死んだ男の悪行も地獄でいくらか免ぜられたかもしれない。
「あなたには金を動かす才がある。ただそれ以上にあなたの見目が邪魔している」
村雨の言葉に獅子神はまた目をそらした。それは絶望と言ってもいい色を帯びている。この街では大した意味を持たないことを、誰よりもわかっているからだ。それでも切れた唇の端をぬぐってやると、嬉しげに、くすぐったそうに目を細めてみせる。
仔犬のような仕草は本人の自覚なしだからこそ村雨を魅了した。愛玩物という意味では地を這う蛇や水に棲む魚と変わりはないのだが、その中でも獅子神は特別なものに思える時があった。ころころとよく変わる表情、村雨への人懐こい態度と裏腹に、気を許さない相手に対する氷のような無関心。この小さな頭のどこにそれだけの複雑な回路を持ちうるのか暴いてみたい気持ちも、麦畑のようにふわふわと柔らかな猫っ毛を眺めるといつの間にか萎んでいく。
「……センセイ、次はいつ来んの?」
「さあ」
あなた達の時間の計り方では検討つかない。と正直に言うべきだったろうか。獅子神は村雨の瞳を見つめ、その中に宿る暗い紅色の光にためらいながら口を開いた。
「もしかしたら、次は会えないかもだから」
買い手がついたのだ、と獅子神は言った。
女主人はそろそろこの商売を畳むつもりらしい。となると金を任せる獅子神の存在も不要になる。
「前は母さんとセットでって考えてたみたいだけど向こうはもうぼろぼろ、オレはオレで無駄にでっかくなっちゃったし」
獅子神がそう言って立ち上がる。出会った頃は腰にしがみついていた背丈が、いつしか村雨の肩のあたりまで伸びていた。食糧事情がよくないために痩せこけているものの、手足の大きさを見るとまだまだ伸びる余地がありそうだ。
「ハハッ。犬みてぇな言われ方」
全身をくまなく観察した上で評すると、獅子神は真っ白な歯を見せて笑った。艶やかな前髪が乾いた風になぶられ、顔の輪郭があらわになる。目元にはまだあどけなさが残っていたが、高い鼻梁や引き締まった顎は大人への兆しを垣間見せていた。
不意に瞳が揺らぐ。
「……オレ、どうなるんだろ」
そう呟く声は弱々しかった。
こないだ、角の店の女がアソコに花瓶突っ込まれてめちゃくちゃに腹を殴られたんだってさ。泡噴いてるし、センセイを呼んでもダメだろうって夜のうちにどっかに放り出された。
獅子神が言葉を止めて口をつぐんだ。
「怖いのか?」
「痛いのは怖くないけど、奪われるのは怖いな」
貞操か、尊厳か、それとも生命か。
一度にすべてを奪われる最悪の未来を想像したのか、獅子神はぶるりと体を震わせた。
「オレ、奪われるならセンセイが良かったな」と小さな声がつぶやいた。不安を消そうとして、ぎこちなく浮かべた笑顔が痛々しい。
「だってセンセイなら悪いとこ治せるから、痛いことをされても心配ないし」
「私はあなたに苦痛を与えたことなどないが」
「そうだけど」
「心配なら約束しよう。あなたの傷は私が必ず治す」と伝えれば、獅子神は嬉しいと笑った。そうして「……そっちだけか」と口ごもる。
「他に何かしてほしいことがあるのか?」
「ちち、ちがっ、何にもないから大丈夫!」
なぜか顔を真っ赤にして両手を前で振る。
「そろそろ戻らないとまた打たれる。じゃあな、センセイ」
「獅子神」
戸口へ向かいかけた獅子神を呼び止めると、肩を震わせてからゆっくりと振り向いた。彼の目にかすかな期待が宿っているのが見てとれる。何か応えてやろうと思ったのも束の間、獅子神は不意に顔を曇らせて小さく首を横に振った。まるで今生の別れをするかのように。
自分以外が彼に与えること、奪うことを許さないと決めたのはその時だ。人の心を持たない村雨は、己の内側に湧き上がった激しい感情が怒りだとは気づくことはなかった。
その夜、花街は紅蓮の炎に包まれた。
※※※
「センセイ、やっぱり自分の身ぐらいは守れるようにした方がいいんじゃねえの?」
獅子神が握っていた拳をほどき、両手をこすり合わせた。地面に沈めた男たちを爪先で蹴り、完全に気を失ったことを確認してから背を向ける。
「そういう時のためにあなたがいるのだろう」
そうなんだけどさ。と獅子神はうそぶく村雨の元へと戻ったが、何やら顔を顰めている。
「どうした? どこか痛むのか」
己の両手で包み込み、傷や痛みがないかを確かめてやると、むにゃむにゃと妙な声を出した。息が上がり、頬にも赤みが増していた。決して苦痛を与えないと約束したのに困ったことだと思いながら、注意深く顔を見る。
すると獅子神は躊躇いがちに口を開いた。
「よかったのか?」
「何がだ?」
「その……『お礼』を断ったこと。向こうは満更でもないって感じだったのに」
歯切れの悪さが気にかかり、じっと見つめると、獅子神はまた目をそらしてしまう。こればかりは幼い頃から治らない悪い癖だった。
花街をまわり赤斑に覆われた女や、鼻の取れた男たちを診た日々は随分と昔のことだ。今の村雨は獅子神に乞われるままに人助けのようなことをしていたが、それを面白くないと思う連中もいるらしい。男たちがぶら下げた首飾りは、先日病気を診てやった老女が身につけていたのと同じものだった。巷を騒がせている生き神様を信じる集まりで買い求めたとか。
どれだけ金を積もうとも治らなかった病をぴたりと言い当てた村雨を、老女とその家族は丁重にもてなした。そればかりではない、生き神だという老人に捧げるはずだった末娘を贈りたいとまで言い出したのだ。
「あの娘はあなたを見て頬を染めていたな」
「あれってセンセイ向けだろ?」
「あなた、どこを見てたんだ?」
せっかくの端正な顔も間の抜けた表情で台無しになった。
共に過ごすうちに精悍に成長した獅子神だが、時折幼い頃と同じあどけない表情を見せる。それも彼の魅力の一つではあるのだが。恵まれた体躯と端正な顔を持つ青年に惹かれぬ者はいない。
「あの娘だとて死にかけの老人に囲われるよりも、若く見目の良いあなたに娶られたいと思うのは当然だ」
いまだ自分の容姿に頓着しない男へ伝えると、ぎょっと目を剥く。
「……別に……オレは娶るとか、そういうのはいらない」
いつもの威勢の良さを引っ込めて蚊の鳴くような声で呟くと、鼓動がまた一段と早くなる。
「前から聞こうと思っていたのだが、あなた達が頬を染めるのは何のためだ? 生き物の寿命は心拍に定められている。無駄に脈を上昇させて体に負担をかけるのは賢い挙動とは思えないが」
「何のためって……センセイ、知らないのか?」
「何度伝えればわかる? 私は」
いつからこの世にいたのかもしれない。司るのは死と再生。知恵と秩序、そしてすべてを焼き尽くす炎。この世の理の外にあるのだと。
「それは知ってるけどさあ……」
口を開け閉めしたり、服の裾を引っ張ったりと忙しくする獅子神に確かめると、臆病な目つきがこちらを見ていた。いつか見たのと同じ、あの期待の色を乗せて。ふと幼いころを思い出す。
「獅子神。もしかすると以前あなたが言った『奪われたい』という言葉と繋がるのか?」
思いつきで言っただけなのに、獅子神はみるみるうちに顔どころか首元まで真っ赤に染めて、わあわあと叫び出した。
両手で顔を隠して、それはダメ。言っちゃダメだと繰り返す様は見ていてなかなか楽しい。普段感じることのない感覚は、人の子達の言う愉悦に似たものかもしれない。
「騒いでないで教えてくれ」
「いつの話だよ……すごい昔のことなんだから、もう忘れてくれ」
「私にとっては短い間だ。それにあなただって覚えていたのだし、問題はないだろう」
「それは、色々知らなかったからだよ!」
成長し、外の世界を知って。獅子神はようやく村雨の姿が出会った日から変わらないことに気づいたようだ。人とは違う時間を生きる男を、それでも獅子神は選んだ。
同様に村雨も獅子神を選んだ。
美しく育ちゆく生き物を手元に置いて観察するのは愉しかった。村雨が目を閉じて開ける、その一瞬のうちにしなやかに、たおやかに彼は成長した。無垢な心はそのままに老いていく様を見届けたい気もするが、その場合はいずれ獅子神を失うことになる。この愛しい生き物がいなくなることを考えただけで、半身をもがれたような錯覚さえ覚えた。
「そうだな。そろそろ潮時かもしれない」
「潮時って……何のことだ?」
不安げに揺れる表情は、見知った頃から何も変わりはしない。
「分かった、今夜あなたを奪おう」
「うん、……こ、今夜ぁ?」
突然の宣言に獅子神は目を白黒させた。
「そうだ。何か都合が悪いのか?」
「都合っていうか、心の準備っていうか」
「まわりくどい。ダメなのかどうかだけを教えろ」
視線を泳がせるばかりでこちらを見ようとしない獅子神になおも言い募れば、しばらく言い淀んでから、赤い目元でこちらを睨む。
「オレ、すごい待ったんだけど」
唇を尖らせる姿を見た瞬間、不意に彼らが頬を赤らめる衝動の出所が分かった気がした。
腕を伸ばし、腰を抱いて引き寄せる。自分よりも大きな体は、いともたやすく腕の中に落ちてきた。獅子神の反応を見る限りこの対応は間違っていなかったらしい。おっかなびっくり背中に回された手に満足する。あたたかい。冷たいままの村雨の体に染み込むような熱は、おそらく獅子神だからこそだろう。
やわらかい髪が鼻先をくすぐる。数千回と腹を割き、数万回と死を観察して。みじかい生を享受する生き物のいとしさを、村雨はようやく理解した。
「それは悪かった。詫びとしてあなたに永遠を与えよう」
「永遠って何のことだ?」
言葉の真意をはかりかね、獅子神が眉をひそめた。正しくは永遠に近しい永い時。ゆるやかに流れる水は、何も知らぬ者からすると留まっているように見えるだろう。村雨の生はそれに似ていた。
瞬きするほどの間に呆気なく朽ちていく生き物の病を覗き、腹を暴いて暮らすのにも飽きてきたところだ。己を見つめる空と水の色をした二つの珠を覗き込む。
「あなたと居るのは飽きないからな」
そう伝えると、獅子神はまた顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。
(おまけ)
「時に獅子神、私は与え方は知っていても奪い方を知らない。あなたに教えてもらわないといけないな」
「知らないって、……ウソだろ、センセイ!」
※※※
花街育ちで色事の知識のみ(重要)詳しい獅子神さんがセルフプレイでやり方を教えたり、先生が飼ってた蛇みたいにちんちんが2つなくて良かった穴が足りないところだったって安心したり、でも蛇と一緒で24時間交尾するんだ!ってアワアワする続きの書きかけを間違えて削除しました解散!!!!!