りゅうのうろこ「ああ、ドクター。いいところに」
古今東西、こう呼び止められて『いいところ』だったためしはないのだが、今回ばかりはドクターでさえ足を止めざるを得なかった。なにせそう呼びかけてきた相手が重岳であったからだ。長身でゆるく歪曲した角を持つ炎国出身のオペレーターは、ドクターが振り返ったのを見てにこりとその長い尾を揺らめかせた。それが彼なりの、親しみを込めた挨拶なのだと気がついたのは彼がロドスに来てそう間もない頃。甲板から下の回廊を通る彼に手を振ったら、気がついてくれた彼がしっぽごとひらひらと振り返してくれた様子がどうにもかわいらしく見えてしまって、それからというものドクターは密かに彼を見かけることを楽しみにしているのだった。
そんな彼に呼びかけられたのであるからして、ドクターはぴたりと――というにはややつんのめってはしまったが、これはドクター自身の悲しいほどの運動神経の無さによる――その場で足を止めて、どうしたのかと少し高い位置にある顔を見上げながら要件を促した。
「大したものではないのだが、これを」
予想に反して、彼の用事とはドクターへサプライズでプレゼントを渡すことであったらしい。差し出されるがままに受け取ったのは、ドクターの手のひらほどの大きさの、黒くて丸い薄板だった。
「?」
「栞にでも使ってくれると嬉しい。不要であれば捨ててもらってもいっこうに構わない、その程度のものだ」
いつものようにのんびりとした口調で、けれども彼の眼差しはじっとこちらから外されることはない。わかりやすいと言ってしまえれば楽ではあるのだが、生憎そう言い切れるほどドクターは彼のことを知っているわけではなかった。ドクターが彼について知っていることといえば、朝はずいぶんと早起きであることと、規則正しい生活が得意なタイプであること、あとは最近ドクターの執務室の戸棚にあるコーヒーミルに興味があるらしいという程度のことである。
見た目の通りに軽い薄板は、廊下の灯りに透かすと半透明で、うっすらと筋のようなものが見える。丸くはあるがよく見るとやや歪な形状はどこか有機的で、手袋越しの吸い付くようなすべらかな手触りは類似例を思いつくようで断言が難しい。けれども、
「……きれいだ」
「そう思ってくれるのならば、どうか受け取ってくれないか」
「うん、ありがとう。こんな素敵な贈り物をいただける理由には思い当たらないけれど、何か私に返せるものはあるかな」
「大したものではないと言った通りのものだ。理由が必要ならば、そうだな、貴公への日頃の感謝の気持ちというのはどうだろう」
「改めて言われると面映ゆいけれど、あなたがそれでいいのなら」
そうして少しだけ雑談を交わしてから、ドクターは悠々と立ち去る彼の広い背を見送ったのだった。それだけの出来事だったはずなのだが。
「うげっ」
「何だい、ニェン。入って来るなりいきなり」
彼女がいつからこのロドスにいるのかは知らないけれど、ドクターにとっては目覚めてすぐに出来た顔なじみで、いつの間にか執務室にふらっと入って来ては次回作の構想だという突拍子もない映像作品のアイデアを賑やかにまくし立てて艦内設備の使用許可証にサインをさせようとしてくる、つまりはドクターにとって気安い相手のひとりである。
今日も今日とてその手には数枚の書類が握られており、甲板か吹き抜けの通路か、はたまた商業区画かどこかの撮影許可を取りに来たのだろうと思われたのだが、しかし彼女はドクターの姿を一目見るや、驚愕と呆れとほんの少しの憐れみの入り混じった顔で動きを止めてしまった。
パシュン、と気の抜けた音で自動扉が彼女の背後で閉まり、一拍置いてそのことに気がついたニェンが荒々しく舌打ちをする。別段ドクターがこの部屋に閉じ込めたわけではないのだが、そんなことは百も承知の上での単なる気分、八つ当たりだろう。もう一度だけ彼女の名を呼ばわると、彼女は観念したかのように白い頭がのろのろと顔を上げた。
「なぁ、ドクター。オメーのことだからちゃんと考えた結果だとは思うが、本当にそれ受け取っちまったのか?」
「それと言われても、何か呪いのアイテムでも持っているのか私は」
「気付いてないのかよ。何も言わずに帰りゃよかった」
途端にうんざりした顔になった彼女を促せば、最終的にしぶしぶと赤い爪で指し示されたのは、つい先日彼女の長兄からプレゼントされたばかりの丸い栞だった。言われた通りに手元の読みかけの書籍に挟んで使っていて、落下防止のために穴を開けてリボンでも付けようかと思っていた矢先のことであったので、ドクターはきょとんと目を丸くした。
「そもそも考えたも何も、廊下歩いてたら渡されただけなんだが」
「うわっマジかよ。何考えてんだあの兄貴」
あからさまに関わりたくないという顔はしていたけれど、生来面倒見の良い彼女はどかりとドクターの執務机に腰かけて、深いため息とともに教えてくれた。
「それな、兄貴の鱗だよ」
「うろこ」
彼女の口から発せられた突拍子もない言葉にびっくりして、思わず書類を確認する手が止まってしまった。
「あー、鱗つってもな、便宜上っつーか、厳密には違うんだが……ほらオメーだってあんだろ、くしゃみしたらうっかり小さい自分が出てきちまったり」
「あのもちもちのニェンたちにそんな誕生秘話が」
「ん? オメーらはあんまりそういうのはないのか?」
「私の知る限りではあんまりないかなー」
「ふぅん、そんなもんか? まあ、いい。つまり言いたかったのは、それがまぎれもなく兄貴の一部ってことだ」
「……穴開けてリボン通そうと思ってたんだけどやめたほうがいい?」
「そこらへんの道具じゃかすり傷もつけらんねぇよ」
うーん、それは困った。私の不器用さだといつ落として失くしてしまうかひやひやしているので、何かしら早急に手を打ちたかったのだけれど。
「つーか、今の話聞いてたか?」
「君のお兄さんの大事なものなんだろう? 失くしたら悪いじゃないか」
「そうじゃねぇよ、ドクター……」
何故だかがっくりと肩を落とす彼女の、ぷらんと床まで垂れ下がったしっぽを眺めながら、兄弟姉妹とはいえあまりしっぽの形は似ていないのだなと見当違いのことをドクターは考える。彼のしっぽの先端には金色の剣がついていて、ゆらりと振られるたびにキラキラと輝くそれを見るのを楽しみにしていたのだと、ドクターはようやく自覚した。しっぽだけではない。頭上から降り注ぐように朗らかに響く声も、長身から想像されるよりはるかに静かな足音も、時折りかみしめるようにゆっくりと細められる眼差しも、思い返せばずいぶんと多くを詳細に覚えているものだとドクターは自身の心に対して苦笑した。それが何を意味するのか、これからどう化けるのかはわからなかったけれど、思い返すだけでほわりと暖かくなる自身の心の動きを見るに、多分そう悪いものではないのだろう。
やがて執務机にだらしなく腰かけながら大きなため息とともに顔を上げたニェンは、こつんと彼女の兄の鱗だというそれに爪を当てながら、奇妙な眼差しで言葉を続けた。
「それな、砕いて飲めば千年生きられるとか言われてるんだ。本当かどうかは私も知らねぇけどな」
だがそういう伝承があることは、人の中に長く生きた彼ならば十二分に承知しているだろうことは明白であり、承知の上でドクターに手渡したはずだ。
ぽかん、と口を開けたドクターの珍しい表情にようやくいつも通りのいたずら心に満ちた笑みを浮かべた彼女は、ひょいと身軽に机から飛び降りながらひらひらと赤い指先をはためかせた。
「そん時は兄貴に頼めよ。間違ってもミキサーなんかにぶち込んだ日にゃ、キッチンごとまとめてドカンといっちまうからな」
「待ってくれ、そんなこと聞かされてしまったら私は次にどんな顔で彼に会えばいいんだ!?」
ドクターの叫びも虚しく、白いポニーテールは無慈悲にも扉の向こうへとさっさと去って行ってしまった。ちゃっかりしたことに、彼女の持って来た書類の束はいつの間にか机の上に揃えて置かれている。その隣の書籍に刺さったままの例の栞を視界に入れてしまい、今度こそドクターは赤くなった頬を冷ますために天井を仰ぐしかなかったのであった。