cigarette break 天幕からふらりと現れたその姿に、今日はずいぶんとくたびれているなとScoutは火を付けたばかりの煙草をくわえながらゆるりと片手をあげた。
「火は要るか?」
「あー……すまん、たすかる」
ふらふらと覚束ない足取りで天幕から出て来るなり、Scoutの隣へと吸い込まれるように収まった男は、よれた煙草をくわえたはいいものの火種をどこかへやってしまったらしい。バタバタと死んだ目であちらこちらのポケットを叩いていたのを流石に見かねてScoutはライターを差し出してやったが、礼とともにしみじみと煙を吸い込んで天を仰ぐその目元には、くっきりと黒い隈が刻まれていた。
「信じられるか? この私が、本日最初の一本なんだ。この私がだぞ」
「そりゃあ、また」
顔を隠した異族として、隊への合流当初はずいぶんな扱いをされていた彼ではあるが、その手腕が広まるにつれて今や朝から晩まで引っ張りだこの多忙ぶりだ。などと言っているScoutだって当初はなぜ殿下がこのような弱々しい異族をと反発したひとりではあるのだが、今となっては見ての通りいそいそとライターの火を差し出すまでになっているのだから、まったく人生とは何が起こるかわからないものである。べったりと疲労の張り付く表情はカズデルの冬空よりも暗く、フードの陰になった眼差しは鈍色の雲よりもなお重い。それでも、もはや自分たちは――否、自分はこの人を手放せないのだ。その頭脳を、その言葉をひとたび受け入れた時から、Scoutにとっての生というものが始まったのだから。
などとその影の深く落ちる横顔を眺めている間に気が付けばずいぶんと時間がたってしまっていたらしい。Scoutは短くなった吸殻を踏みつぶしながら、もう一本分くらいは彼の傍にいても許されるだろうかとあれこれ言い訳を捻り出そうとしたのだが、その偵察兵の優れた聴覚に、こちらへと駆け込んでくる忙しない足音が届いた。
「ドクター! こちらにおられましたか」
「要件を」
静かに落ちたよく響く声に、まだ頬に幼さの残る新兵はびしりと背を伸ばす。気持ちはわからないでもない。戦場の、あれだけの喧騒の中でさえ過たず届く彼の声は、どんな矢よりも速くこちらの心臓を射抜くのだ。何度、その囁きに命を救われたかわからない。いつだか酒の席で聞いた、願わくばあの声の中で命果てたいという熱に浮かされた誰かの告白を一笑に付すことを、Scoutはいまだに出来ないでいる。
かわいそうなほど震える声で告げられた殿下の名前に、彼はフードの下から一瞬だけ天を見上げると、深く煙草の煙を吐き出した。
「わかった。彼女はまだ指揮所に?」
「は、はい。すぐに呼んでくるようにと」
彼の煙草はまだ半分以上が残っていた。煙草一本分の休息すら許されない多忙さに同情し、今度美味い酒が手に入ったら真っ先に声をかけようと決意する。下心? もちろんあるに決まっている。だからその不純な動機を誤魔化すためにも彼の肩を軽く叩こうと手を伸ばしたところ、くるりとこちらを振り返られたから、Scoutは邪心がバレてしまったのかと一瞬ヒヤリとしたのだ。だが彼の行動はいつものようにこちらの想像など遥かに超えたもので。
「Scout、もったいないからもらってくれ」
「は? ――――ッ!?」
躊躇なくこちらの口に押し込まれた吸い口に、冗談抜きに呼吸が止まった。待て、今何をされた。彼が吸っていた煙草を……? これは夢か? でなければどこかにLogosのやつがいて幻術のアーツを仕掛けてほくそ笑んでいるんじゃないのか。そうでもなければこの現実はあまりにも俺にとって都合が良すぎる。しかし目の前の若人もぽかんと驚いた表情でこちらを見ているので夢でも幻術でもなく確固たる現実なのだろう。若者の目は完全に泳いでいたが、ドクターはといえばまったく気にも留めずにすでに背を向けて歩き始めている。声をかける暇もなかったが、あったとしてそもそも何と言えばいいんだ。間接キスに感謝を? あんたの唾液は甘く感じるな? 言えるか!!!!
いまだに動揺の表情を隠さずに彼とこちらの間でチラチラとさまよわせている若者にしっしっと手を振って彼を追いかけるように促す。あの人はああ見えて足が速いんだ、さっさとその背を守れるという名誉に与ってこい。視線に込めた圧が効いたのか、挙動不審な若者は耳を赤くしたまま慌てて彼のほうへと駆け寄っていった。その先のフードの背が見えなくなるまで見送ってから、ようやくScoutはずるずるとその場にしゃがみこむ。もはや先ほどまで吸っていたはずの自分の煙草の味すらわからなくなってしまった。しばらくは誰も来るなよと信じてもいない神に祈りながら、Scoutはもう一度だけ、口の中のやや短くなった煙草をかみしめる。
「これ、吸い終わりたくねぇな……」
誰にも聞かせられない言葉とともに、煙は曇天の空に昇って行った。