雨脚その日は雨が降っていた。
「あら、捨てワンちゃんが…2匹も。可哀想に」
スーツを着た赤紫の髪の女に話しかけられるまで、俺は気を失っていたようだった。どうやって此処に来たのか思い出せない。思い出そうとしてもズキズキと頭が痛むばかり。俺の横には見覚えの無い、半透明の大きな狼が横たわっていた。弱っているようだが、決して側から離れようとしない。
「しかもうちの事務所の前でだなんて。これも運命というものかしら」
俺の背にある建物には、どうやらこの女の事務所があるらしい。
「まずは中に入りましょうか。君、名前は?」
「………分からない」
俺はそう答えるのが精一杯だった。
俺はそんな経緯で赤紫の髪の女…カフカに拾われ、病院に連れて行かれ精密検査を受けた。体や脳に特別な異常や外傷は無かったが、記憶障害だと診断された。
「連絡が取れる家族も知り合いも見つからないみたい。君、これからどうするの?」
「…分からない」
俺には分からないことだらけだった。俺の側から離れない半透明の狼も、周りの人間一人一人に、いろんな動物や虫の霊が憑いているように見えることも、この女の背後に、おぞましい程の大きさの蜘蛛が見えることも。
「お前のそれは…なんだ?どうしてそんな大きな蜘蛛が?」
俺は病室のベッドに横たわりながら、カフカという女に気になっていたことを尋ねてみた。カフカは驚いていた。
「うそ。君、この子が視えてたの?君に会ってから、私はこの子を実体化させてないわよ」
後から、この動物達はこの世界では守護獣と呼ばれ、古来から人間と共に生きてきたこと、半透明の状態…つまり霊体化させている時の守護獣は他人どころか主である本人からも視えないことを教えてもらった。
「君は隠されている筈の守護獣が視えるのね。それは特殊な能力よ。私の仕事に役立ってくれるかも…」
カフカはうーんと考え込む素振りを見せ、よし。とこちらを見ると
「君、私の事務所で働きなさいな」
行く宛の無い俺に、こう提案してきたのだった。こうして俺はカフカの元で探偵助手として働くことになる。
雨が降っている。
雨が降っている日はカフカとの出逢いを思い出す。退院して正式に雇われてからは忙しい日々だったが、こうして風雨を凌げる家を持て、食うのには困らない生活を送れている。俺の守護獣もあれから随分と毛並みが良くなった。主の健康状態が守護獣にも反映されるのだろうか?
そういえば丹恒が、予定が入っている日に限って雨が降っているような気がするとぼやいていた。龍は雨を降らすと言われているが、やはり彼の守護獣と関係があるのか。彼との出逢いも雨の日だった。
その日、依頼の帰りで駅を出た直後、美しい鱗の付いた長い尾のようなものが俺を横切った。
(…魚の守護獣か?)
最初はそう思った。魚類の守護獣というのも勿論存在する。だがそいつは、神話に出てきそうな程巨大な龍だった。俺はつい声を出しそうになるのを堪えながら、その龍の身体を辿る。龍を辿ると雨の中、下を向いてきょろきょろと捜し物をしているように見える青年がいた。
普段の俺なら自分から話しかけることは無い。だが、如何してもその龍の主が気になった俺は、その青年にどうしたのかと声を掛けたのだ。その青年が丹恒だった。
青年が言うにはどうやら友達から押し付けられた…もとい、貰ったぬいぐるみ付きのストラップを落としてしまったというのだ。幸い、俺の守護獣は狼である。彼の匂いを嗅がせるとすぐに人混みの中から落とし物を見つけた。ストラップには車掌服を着た、兎なのか犬なのか何なのかよく分からない青い瞳の生き物のぬいぐるみが付いていた。
「ありがとうございます。本当に…」
「いや、いい。そんな大きな龍は探し物には向いていないだろう」
俺がこう言うと、彼は呆気にとられたような顔をした。龍持ちには言ってはならないタイプの冗談だったのだろうか?彼は呟いた。
「なんで…本当のこいつが視えたんですか。いつも蛇の皮を被せているのに…」
「…蛇?ああ、申し訳ない。俺は少々特殊な目を持っていてな…」
「…もしかして貴方がカフカさんの言っていた、刃ちゃん、という方ですか?」
まさかのカフカの知り合いだった。世間は狭いものである。
こうして俺は丹恒と知り合った。カフカは「ロマンチックで運命的な出逢いじゃない」と言っていたが、どの辺りがロマンチックだったのか分からない。
雨の音を聞きながら回想に浸っていると、カフカから持たされたスマートフォンの着信音で現実に引き戻された。光る端末の液晶画面を見る。彼から着信とは珍しい。
「もしもし」
「丹恒か。どうした?」
「応星さん?すまない、明日の依頼の待ち合わせの時間を忘れてしまって…」
「朝の10時だ。…他には?」
「ありがとう。…これくらいのことなら、メールの方が迷惑がかからないだろうとは思ったんだが…」
「?」
「…雨の音を聞いていると、無性に貴方の声が聞きたくなってしまった。すまない。要件は本当にそれだけなんだ。では、また明日。」
通話が切れた。
溜息が出そうになる。なんだか最近特に、丹恒から俺への好意の伝え方が真っ直ぐになってきた気がする。こんなことを言われても明日何でもない顔で顔を合わせなければならない身にもなってみろ。
いや、こればかりは俺が悪い。彼からの好意に気がついていながら、敢えて無視をしているような状態だ。アプローチをしている側からすれば、それは辛い状況だろう。
しかし、彼は未来ある若者だ。それに比べ俺は、自分の素性も知らないしどんな人生を歩んできたのかも知らない。もしかすると、恐ろしい過去が潜んでいるのかもしれない。そんな人間が、彼に相応しいとは到底思えなかった。
「…じゃあ、俺があいつを完全に突き放せないのは何故だ」
俺は気付いてしまっている。彼の碧色の眼に見つめられる度に、自分の胸がひどく高鳴っていることを。彼の凛とした声を、ふと聞きたくなる日があることも。
これではまるで恋煩いじゃないか。溜息をつかずにはいられなかった。
雨は降り止まない。