王子様になれなかった英雄のお話 しんしんと降り積もる真白い雪が、見渡す限りを銀世界に染め上げていた。
本来ならば人里から少し離れたその森は、季節に沿ぐわしい美しい碧色を纏っている筈だったが……そんな御伽噺に出てきてしまいそうな光景に、これを引き起こしたある一人の魔女の力を改めて思い知った。
「まぁ、思い知ったところで止まらないけどね。――そこにいるんだろう。トネリコ」
銀世界の中でも、一際存在感を放つ巨大な建造物。マグルに発見されないように隠されていた魔法界における歴史的文化財とも言えるそれを視野に入れて、一人の魔法使いは呟いた。
「やっと会えるね」
「うん。行こう、アルトリア」
何度も何度も、どれだけ探しても掴めなかった彼女の痕跡。自分の力量や階級、安すぎるプライドも、何もかもを動員して見つからなかったのに、こんな目立つ場所にいたなんてと変な笑みが込み上げた。
無力感に一時は自棄になって、隣にいる親友とも言える女の子にあんな無様すら晒していたのに、こうして彼女に会える機会を得たら、そんな感情は身体の全身を探してももうどこにもない。
「もう一度、彼女に出会う為に」
ただただあの大切な友人ともう一度出逢うために、二人の魔法使いは杖を振ったのだった。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
城に潜入し密かに足を進める中、その途中で幾重にも配置された敵の目に発見されて迎撃を受けた。
それを相棒とも呼べる彼女と返り討ちにし……その途中で濡れた黒髪を持つ見知った青年を発見する。理由を聞くまでもなく襲いかかってくる薄ら笑いを浮かべるそいつと、後ろから迫ってくる追っ手の足音を聞くと、やがて来るという援軍を頼りに二手に分かれ、自身は固い石でできた長い階段を走り続けた。
「はぁっ……はぁっ……」
そして長い長い歩みを進めた末に、荒い息を吐きながら漸くある場所へと辿り着く。
「やはり来たのですね」
――城の中心。玉座にも見える魔法式の前に、彼女は立っていた。
外を染め上げる雪のように、白く儚い輝きを発するその玉座。その傍に立つ――記憶にあるものよりもずっと銀色に染まってしまった彼女に向かって、名前を呼んだ。
「トネリコ」
「……それは間違いだ。――私は、モルガン。お前の知る、あの女ではない」
静かな照明の光を反射する銀色に、聞いた者をどこまでも凍てつかせるような銀鈴の声音。それは彼女がこの場所で纏う厳かな雰囲気と相まって、言葉通り嘗ての穏やかな温もりを持った彼女とどうしても一致しない。
一致、しないのに、
――言葉と共にこちらを振り向く湖の瞳は、どうしようもなく、自分が焦がれたあの美しいもので。
「貴様程度の力で何をしにここまで来たのか知らないが、即刻立ち去るなら許そう。だが、歯向かうのであれば相応の――」
「――君は、人をたくさん、殺したんだね」
だから思わず、その色の奥にあるものを……あの本に記してあった通り、その奥にあるものが本当に凍りついてしまったのかを、確かめてしまった。
「悪い人だけじゃなくて、善い人も――悪の只中で善に生きようとしてる人も、たくさん」
「……」
言葉尻を捉えた不敬をその場で処断されてしまうような彼女の様子。だが、やはりそれは見せかけのようで、無表情を貫く表情の中でも、玉座の間に響く言葉一つ一つに、眉を、瞳を据えていく様子には、確かに〝可能性〟が見えた気がした。
「ねぇ、トネリコ。そうやって多くの人を犠牲にして、より多くの人を救えれば、それは本当に、世界を救うことになるの?」
いつか彼女が言っていた、『世界中にいる生まれた時からのしがらみから抜け出せずにいる人々を、一人でも救いたい』という思い。
そんな願いを溢した彼女が、本当に心の底からこんなことをするなんて思えない。
――それが例え、もう無くしてしまったたくさんの誰かの為であっても。
「君は本当に、そんなことが――」
「――黙れ」
「っ……!」
長く息を止めてしまいそうな冷たい声音。その一言に込められた威圧感は凄まじく、それと同時に細い指先に握られた杖を一振りされて発せられた衝撃波は、相対するだけで心が擦り減ってしまった錯覚すら覚えた。
「……これだけの、あれだけのことが起きて、まだそんな能天気な言葉が吐けるとは思わなかった」
「トネリ――」
「黙れと言っている」
口調に混ざる、僅かに奥で揺れた何か。
激情とまでは言えないが、氷の張った湖の奥にあるものが確かに自分を見据えて――
「――あなたのその色が、わたしは憎らしい」
しかしそれは、氷の下の水面に生じた波紋によって覆い隠されてしまった。
そして湖の底に沈んでいった彼女の面影は瞬きの目に消え失せてしまうと、代わりにその感情を塗り固めたのは、心の底からこちらを見下す、激しい嫌悪。
明らかな敵対の意を込めて見据える彼女は、もう一度自分に向かって杖を構えた。
「私はもう止まらない。止まれない」
「っ……」
「理不尽な現実は、誰にでも平等に襲いかかる訳ではない。それを止めることができない夢(童話)なんて、永遠に無くなった方がいい。
それを阻みたいのなら、――命をかけなさい」
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
ふと、彼女と初めて出会った頃の夢を見た。
あれからもう随分と時間が経っていて、あの頃の思い出に浸る機会も中々無くなってしまったが、かつての情景を一片たりとも忘れたことはない。
これはそんな中の、ある一つの思い出。
「立香。魔女ってそんなに悪いものなんでしょうか」
彼女に手を引かれて、彼女の邸の中でいろんな話をするようになったある日の出来事。彼女はその日も、本を通じていろんな世界に飛び込んでいた。
「え?」
その時のオレはまだ本を読むのが苦手で、物語の楽しさを追うより彼女の隣にいられることに喜びを感じ、文字を追うたびににこにこと笑う彼女の横顔を見るのがとても好きだった。
「どうかしたんですか、頬を赤くして」
「う、ううん。なんでもない」
「……ふふ、そうですか」
だからふと思い立ったように本から顔を上げる彼女に、横顔を眺めていたことを気取られないか心配だったが……上手く誤魔化せたようだ。
「それで、急にどうしたの?魔女が悪いって……」
「わたし、魔法の本だけじゃなくてマグルの本も読んでるじゃないですか」
「うん」
「でもあちらの世界だと、魔女に幸せな結末は訪れないって言われるんです」
読む本の結末が納得いかないのか、悲しいのか。にこにことしていた表情をさらにしょんぼりとさせる金色の彼女。更には段々と声を萎ませていく綺麗な鈴の音が可哀想で、思わず声を上げた。
「そんなことないよ」
「立香?」
「オレはまだマグルのことはよくわからないけど、あっち側で魔女のみんながみんな、良くない結末を迎えるなんてあり得ないと思う」
普段からいろんな知識を吸収しようとしている彼女はともかく、自分はまだほんの少しもあちらの世界のことはよくわからない。だからこれから言うことは当てずっぽうにしかならないけれど……そんな彼女が自分に答えを求めてくれているのだから、必死に言葉を考えた。
「それは……どうしてですか?」
「だって君みたいな人がいるじゃないか」
「わたしみたいな人?」
彼女の自分と同じ青色の瞳が、期待と疑問符を宿して丸く開く。その色は窓から差し込む朝日を反射して宝石のように綺麗に輝いていて、思わず息を呑んだ。
「うん。君みたいな、一人でなんでも出来るのに、とても優しくて、いろんな人のことを考えられる人」
「……」
「だから君は、どんなところにいても一番良いと思ったことをやり遂げるんだろうし……それに助けられたいろんな人は、今度は君の力になりたくなると思うんだ」
出会ってからずっと変わらず自分の目を真っ直ぐに見つめてくれる彼女の色に恥じないように、自身もその色を見据えて言葉を返す。それを聞いた彼女は抱えていた本をさらに大事そうに抱えこんで、小さな花が綻ぶように微笑んだ。
――その姿を見て、ふと思った。
「でも、トネリコは魔女よりも、お姫様みたいだよね」
「……え?」
「え、あ」
思った言葉がそのまま出てしまったことに気づけたのは、その直ぐに訪れてしまった沈黙と、彼女の呆然とした言葉のお陰だった。
目の前の彼女も一瞬何を言われたのかよくわかっていないようにきょとんとしている一方で、自分はそれに気づいた瞬間、顔中に熱が集まって――
「ち、ちが……!」
「……ちがうんですか……?」
「っ……!」
身体から火が吹き出してしまいそうな感覚に堪らず言い訳を連ねるつもりだった言葉は、遅れて頬を朱に染めながらまたしてもしょんぼりと声を溢す彼女の姿に粉々になってしまった。
「……ごめん、違わない」
「……!」
「君は魔女よりも、御伽噺に出てくるお姫様の方が似合うなって、そう思ったんだ」
「っ……!!」
自分の発していく言葉にお互いに真っ赤な顔で見つめ合う。だがそれもやがて耐えきれなくなると、自分は視線を逸らして、彼女は抱えていた本でその顔を隠した。
けれど変わらずぎゅっと袖を握ってくる彼女の指先に、代わりに発した言葉を彼女の目を見ながら最後まで伝えられなかったことをとても後悔した。
「……安心、しました」
「……?」
「あなたみたいな人の前でなら、わたしは魔女になってしまってもいいのかなって」
やがて脈打つ鼓動も落ち着いてきた頃、彼女はその美しい瞳を伏せてぽつりと呟いた。
「どういうこと?」
「ふふ。内緒です」
言葉の意味が分からなくて聞き返すと、彼女は悪戯っぽく笑って誤魔化してしまった。
その時の彼女が自分に何を思っていたのかは結局分からないままだったが、それでも二人して真っ赤になったままの顔をお互い笑い合って、その日もまた、時間が許す限りおしゃべりに興じていたのだった。
そうして楽しい時間はあっという間に過ぎると、気づけば家の門前でその日の別れを告げる二人を夕焼けが照らしていた。
「立香。その、昼間のお話ですけど」
「っ……うん」
持ち出された話題に、二人して夕焼けの赤い日差しの下の頬をもう一度赤くして微笑み合う。そしてその胸に広がる言いようもない幸福を感じていると、――彼女は瞳の奥を揺らめかせながら、それでも自分の瞳をまっすぐに見つめて囁いた。
「立香は、わたしが御伽噺みたいな悪い魔女になってしまっても、ーーあなただけは、迎えにきてくれますか?」
この時も、自分は彼女が何を言っているのかはよくわからなかった。けれど、その問いに対する答えはもう決まっていて、それを伝える為に彼女の細い手を握り、真っ直ぐに揺れる瞳を覗き込んだ。
「もちろん。オレは君が悪い魔女になるなんて考えられないけど――オレは絶対、君を一人になんてしないよ」
自身の気持ちを精一杯込めた小さな約束が彼女の胸に届くように祈りながら、そっとその手を離す。
少し気障だっただろうか。でも、気持ちに嘘はない。彼女なら、きっといつものようにそれを受け止めてくるはずだ。
そんな不安と緊張に心臓が再び鼓動を早める中、彼女は――
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「ぐ、……ぅ……」
冷ややかな床の石の感触と、打ち付けられた身体全身から走る鈍痛に呻きながら、どうにか幼い記憶から抜け出した。
まだ僅かにぼやける視界を凝らしながら顔を上げると、美しい内装を誇っていた玉座の間は激しい戦いで破壊され、無数の瓦礫や破片が散らばっている。
「……あるとり、あ」
どこからか響いてくる地響きの音に、彼女は未だ時間稼ぎの為に戦い続けてくれていることを悟ると、こんなところで休んでいるわけにはいかないと重い身体をなんとか持ち上げて、周囲を見渡した。
「トネリコは……どこに……」
覚悟を問われ、意思を示し、その果てにぶつかった銀色の彼女。本来なら勝負にもならない彼女との戦いは、彼女の意識が玉座に割かれることでなんとか戦闘の体裁を保っていた。
「……なんで死んでないんだろ、オレ」
一挙手一投足に走る全身の痛みに、自身のことながら自身の生存を不思議に思う。戦闘は体裁を保たれていただけで、その魔力量と魔法の扱いには天と地の差があったし、たった数分の打ち合いで彼女が自身に負わせた一撃の数は計り知れなかった。
あの一縷の隙もない魔法ならば、確実に自分を穴だらけにすることが出来たであろう。だというのに、魔法の威力は戦闘が長引くことに衰えていって、最後には何もせずとも弾かれて……
――だがそれも今は些末なことだ。手と足と、記憶にあの暖かな日々がある限り、オレは彼女を止めなければならない。
そんな決意を改めて、もう一度彼女を探す為に周囲を見渡すと、その影を見つけた。
「え、……?」
時間が経つごとに爛々とその輝きを増していた玉座。彼女はその前に立って、白く輝く玉座を守護していた。
そして戦闘が一旦の区切りを見せた今でも、玉座は未だ光を衰えさせることはいない。
――だがその代わりに、白亜の玉座は、その真白い雪を鮮やかな鮮血に染めていた。
「トネリコっ……!?」
自身にあるのは打撲と擦り傷だけで、出血はない。それはつまり……と、妙に鮮明さを取り戻した頭で結論に辿り着く。そして玉座の前に沈む彼女を見た瞬間、足は次の思考に移る前に駆け出していた。
瓦礫に足を取られながら、何度も転げながらも構わず駆け寄って、身体に走る激痛をまるで忘れてしまっていた。
ただ、あの光をひたすら頑なに守り続けた、トネリコの安否を確かめたかった。
「……りつ、か。むかえに、きてくれたんですか」
無様に駆けずり回って漸く赤い血に沈む彼女を抱き上げると、その瞳がゆっくりと開く。そして自身の姿をその瞳に認めると、まるで安心し切ったように微笑んだ。
「これは……まさか!?」
「……そんな杖、捨ててよかったのに」
彼女の細い胴に開いた、鮮やかなまでの風穴。そこから溢れてくる鮮血と青く憔悴し切った顔を見て猶予はないと判断すると、握った杖でありったけの治癒魔法を注ぎ込む。
「っ……!?」
だが、いくら力を注ぎ込んでも、彼女の身体に灯るはずの熱はその内側に残るのではなく、彼女が握っている杖に溶けていった。
「無駄、です。あと少しで……これが、完成するのですから」
「じゃあ!その杖を離し」
「――いや、です」
腕の中の彼女に向かって叫んだ杖を放せという言葉を、彼女は脱力仕掛けている首を振って拒否を示す。その様子を見て無理やり彼女の細い指を引き剥がそうとするが、彼女は力の入らない指先をぎゅっと固く握りしめて、微笑んだ。
その顔に、瞳に、一瞬前までの安心したような雰囲気はどこにもなくて……そこにいたのは、自分がよく知る頑固な彼女そのままだった。
彼女の眩しいまでのその意思に、彼女から杖を取り上げようとする指の動きが止まる。だが、同時に代わりにずっと抱えていた疑問が口をついて出た。
「なんでっ……!」
そこまでして、この理想に縋る意味があるのか。自分たちと一緒に未来を生きる選択を、なんでしてくれなかったのか。
「どうしてっ……!」
――一人だけ前に進んで、オレを置いていってしまったのか。
そんなどうしようもない程に惨めで我儘で、答えなんて薄々わかってる問いを、今更になって言葉に乗せた。
「あなたたちに……これからもずっと、笑っていて、欲しかったから」
「っ……!」
「『悪い魔女』は……そこには、いられない……でしょう?」
その情けない言葉に、彼女は少し困ったような苦笑を漏らした後、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、自身の気持ちを語った。
「そんなわけっ……!」
「……じゃあ、あなたに……これを起動させられるんですか」
今にも消えてしまいそうなか細い声に尋ねられても、ここにくるために借りたたくさんの友人たちの助けを思い出して『出来るわけがない』と……そう叫びたかった言葉は、しかし傍に輝くそれを見て飲み込むことになった。
――彼女が身命を賭して守り続けたその光が……血を浴びてもなお白亜に輝く理想の光が、とても美しいと思ったからだ。
「………」
世界から魔法を奪う魔法。神域の天才と謳われる彼女が組み上げたそれは、恐らく既に最終段階に突入している。
彼女があと少し意識を振り絞って杖を一振りすれば、それは発動するのだろう。
「――立香。あなたは、理想の世界を……わたしの夢を……認めてくれますか?」
だというのに彼女がそれをしないのは、きっとその先にある世界を――大好きな童話がないその先の世界を、想像出来ていないからだろう。
信じてひた走って、いろんなものを置いてけぼりにしてここまできた旅路の終焉が、本当に人々を幸せに出来るものなのか。彼女はずっと一人で悩んで、迷って、その果てにここに辿り着いた。
真の意味で誰の理解も得られないまま、多くの人を魔法という童話の悪夢から醒ます為に、こんなところまで。
「君の夢は……」
そのたった一人の彼女の奮闘を、自分はもう既に知っている。だから書き連ねてきたページの分、彼女と共に目指した年月の分、加速してしまったこの理想を、オレは認めてあげたい。
――だが、そんなことをしてしまったら、魔法に導かれたオレたちの出会いは――
「立香」
「っ……」
「あなたの思いを、教えてください」
どうしようもない思考の堂々巡りに陥って、その途中に縋るような……けれど幼い頃よりずっと焦がれていたあの美しい瞳が向けられる。
オレはそれに抗う術を――相手の清濁全てを見つめようとする瞳に抗う術を、最後まで知らなかった。
「――オレは君の見る世界を、認められない」
「――」
反吐が出る。
多くの物語を『正しさ』で否定してきたその口で、最後は単なる『我儘』で彼女の思いを真っ向から否定する言葉を吐く、自分の都合の良さに。
「君と出会えなかった世界でなんて、オレはきっと心の底から笑えないよ……!」
けれど、浅はかで軽薄で、そんなどうしようもない独り善がりな結論を君に伝えたくて、オレもここまで辿り着いたんだ。
君を一人にしないために……君がたった一人で先に行ってしまっても、みんなの助けを借りて懸命に走って、やっと追いついたんだ。
――だから、お願い。待ってよ、トネリコ。
「――そっか」
その言葉を聞いて、腕の中で心底嬉しそうに笑う彼女。それは雪に包まれるこの城に、まるでそこだけ春の日差しが降り注いで小さな花が顔を出したかのような――儚く美しい、そんな笑顔だった。
「待って。お願いだ。トネリコ」
「……」
だが露と消えてしまいそうな儚さは酷く現実的で、段々と息が浅くなっている彼女から広がっていってしまう、どこまでも温かい彼女の血の温もりが――どこまでも冷たい死の感触が、何をしても、どうやっても、止まらない。
玉座の発光はもう収まっているのに。
自分の魔力が空になっても、自分の生命力と引き換えにするように魔力を注ぎ込んでいるのに。
どうして。どうして。……どうして。
あの日、自分の手を引いてくれた温かな手が、どうしてこんなにも簡単に、冷たくなっていくのだろう。
「――きれい」
彼女の震える指先が、知らず流れていた涙を拭う。だけどそれはすぐに滑り落ちて、赤い池に沈みそうになるのを必死に掬い上げた。
「違う、違うよ。君の瞳の方がずっと、何倍も……君の夢の方が、ずっと綺麗だったから。だからオレは、少しずつでもまた一緒に、って……!」
闇祓いになってから幾度となく立ち会ってきた結末が彼女にも訪れることを悟ると、必死に声にならない声を押し殺して、血に染まった彼女の身体を掻き抱く。
「……では、あとはまかせ、ます。……ある、とりあと……うまく、やるんですよ?」
「そんな、そんなのってないだろ……!オレはまた、君と……!」
耳元に迎えた、今にも途切れてしまいそうなか細い銀鈴の声音。それにこんなお願いの仕方をされて断れる訳がないのを、彼女はわかって言っている。
「おねがい、立香」
「っ……」
「これが……悪い魔女の、さいごの『呪い』なんです」
今まで自分と彼女と、そして数多くの人々と紡いできた物語を終わらせると、彼女は今そう言った。
なのに彼女は自分との物語をこれからも書き続けてほしいと、そう強欲にも言い放ち、
――これは、そのための呪いだと、そう言った。
「――わかった。でも」
もとより断るつもりもなかったものだ。結末は免れないし……ぎゅっと力のない指先に握られた手の感触に、これからの未来も潔く受け入れた。
――でも、魔女のお願いを聞くなら、その代償に自分だって最後に欲しいものを要求したっていい筈だ。
掻き抱いていた身体を少しだけ離して、冬の女王――いや、ただの一人の少女が持つ宝石のような湖の瞳を覗き見る。
そしてその瞳の奥にあるものが、自分の青を今度こそ見つめたのを確認する。それをすれば、忽ち少女はずっと長い間溜め込んでいた雨の水をしとしとと溢しながら――『それまでは求めてはいない』と、ごく微かに首を振った。
「っ……お願い。オレはもうこれから先もずっと君しか見れないから――君も、オレだけを見て」
ぽろぽろと溢れる涙に、あれだけ美しかった瞳の輝きが溶けていってしまいそうで、咄嗟にそれを優しく拭う。そしてもう一度、刻一刻と色を失いつつあるそれに、懇願するように自分の色を写し込んで――
「…っ、か」
――その時、自分が彼女のあの瞳から逃れられないように、彼女も自分のこの瞳から逃れることなんて出来なかったのだと、今更になって気がついた。
だから、もう殆ど彼の日の温度を無くしてしまった指先をもう一度強く握って、彼女と過ごした幾多の日々を思い出す。
「トネリコ。オレは君を―――」
そして同時に胸に広がってくる温かな熱が、ほんの少しでも彼女の指先に伝わるように言葉を――
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
一歩一歩ゆっくりと、駆け上がってきた階段を降りていく。その途中から身体はすでに限界を訴えていて、がたがたと震える足が縺れて転びそうになるのを必死に堪えた。
「……」
城のあちこちから聞こえてきていた戦闘の音は、今やどこにも聞こえない。自分と共にここに乗り込んできてくれた彼女は、きっと仲間と協力して既に戦いを終えたのだろう。
その彼女と連絡を取りたいが、生憎と自分に残された魔力はもう残されていない為、守護霊を出すことすら出来ない。
「……上手くやれって言ってくれたのに、これじゃ怒られちゃうね」
こんな血や傷だらけの姿を見たら、彼女はその翠緑の瞳を悲しそうに歪めてしまうだろう。だけど次の瞬間にはあの時みたいに優しく抱き締めて、頭を撫でて……静かにそっと傍に寄り添ったまま、壊れかけの自分を何度でも包み込んで――
「――そんなの、もう許される訳がない」
腕に抱く赤銀に染まってしまった彼女の前で……ましてや彼女の呪いに誓いまで立てておいて、今更他人の温もりに縋るなどしてはならないし、あってはならない。
「……まだ降ってるんだ」
玉座の間から通じる長い階段を降りきって、正門へ出る。すると、彼女が残した雪は未だ降り続けているのに、曇天の空には明るい日差しが差し込み始めていた。
「お姫様を迎えにいくには……オレは遅すぎたんだね」
その日差しに迎えられて、漸く外の光景を視界に捉えた自分は、長く続いたこの長い冬の終わりを今更実感した。
美しく気高いお姫様を魔女に仕立て上げ、自分がそれを手ずから打ち破ったのだと。彼女の物語を終わらせたのは自分なのだと、やっと実感したのだ。
――あれだけ暖かかった心に、ぽっかりと大きな穴が空いたみたいだ。
きっともう二度と埋められないそれに、けれど仕方がないと笑ってから――彼女の冷たくなった唇に、もう一度誓いを立てる。
「でも見ててね、トネリコ。オレは君の分まで……君以上に頑張ってみせるから」
もう永遠に開くことのない宝石の瞳。そこから流れた涙の跡に落ちる雪の雫を拭って、大丈夫だよと笑いかける。
どんなに辛くても、どんなに苦しくても、今まで二人で歩んできた物語の続きを一人で書き切って、その先にある夢を見続けると――そう彼女に誓ったのだから。
「だから……返事は、その後に聞くよ」
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
こうして英雄は、冬の女王の冷たい身体をその両腕に抱えて凱旋する。
ぽっかりと開いた穴と、それに生じた多くのひび割れに、彼女との約束だけを敷き詰めて。
そして彼は、出来上がった不出来なそれを抱えると、ーー自分に似つかわしいブリキの心だと笑うのだった。