今日も今日とて忙しない一日のいろいろを終了して、時間は夕刻。
また忙しない一日が始まる明日までの時間をどう過ごそうかと考えた末に、偶にはわいわいと騒々しい食堂ではなく、自室で穏やかな時間を過ごそうとしていた。
「おかえりなさい、リツカ」
自室に帰ってきてみれば、留守番をしている間に読んでいたであらう一冊の本を抱えて、一人の少女が柔らかな笑みと共に出迎えてくれる。
「うん、ただいま」
その柔和な笑顔が自身の胸の中に温かな落ち着きを与えてくれたことを鑑みるに、やはりこの時間を選んでよかったとつくづく思いながら――彼女の細い身体を腕に迎え入れて、ささやかな充電をする。
「今日はここにあるもので済ませようと思うんだけど、いいかな?」
「いいですけど、材料あるんですか?」
「……わかんない。でもたぶんある」
直前の任務で出向いた先の気温がマイナスの世界だったからか、それとも単純に彼女の温もりが酷く心地良すぎたからなのか。
遠くある冷たい記憶ごと温めるようなそれに、段々と間の抜けたものになりつつある自分の声。
それを聞いた彼女はくすりと笑うと、するりと腕の中から抜け出してしまった。
「トネリコ?」
「なら、少し待っててください。今日はわたしが用意してあげるので!」
失ってしまった熱の余韻に名残惜しく名前を呼ぶと、とんがり帽子をつけた魔女は元気よく部屋を出て行ってしまった。
その後ろ姿に部屋にある食材を確認していかなくて良かったのかなとか、そもそも備えてある調理器具が些細なものでしかないことを彼女は知っているのかなとか、そういったことを確認したかったのだが、
「……もうちょっと、充電したかったなぁ」
そんなことよりも、一人部屋に残され無意識に出てしまった自分の言葉の情けなさに頭を掻いて苦笑いを浮かべるのだった。
「お待たせしました!」
少し待っていて欲しいという彼女の言葉通り、彼女は四半刻もしない合間に部屋に戻り、調理までを終えてしまった。
「すごい、手際が良いね」
「はい!これ自体は何度か作ったことありますし、お米は食堂からそのまま頂いてきたので」
材料を抱えて部屋に帰ってくるなり、軽い鼻歌を口ずさみながらひょいひょいと食材の下拵えをする姿はなんとも手慣れた様子だ。しかも煮込む時間が暇だからと副菜にまで手をつけ始める様子は、もはや少しだけ幼い主婦と言っても過言ではないように思った。
「――本当、よく似合ってる」
「そ、そうでしょうか……」
そしてその全てを終え、白い湯気を立たせるお鍋を両手に抱える魔女のエプロン姿は何度目に入れても痛いものではなく――彼女の支度中、まるで猫じゃらしを追うように揺れるおさげを目で追ってしまったことは完全な不可抗力だ。
「ねぇ、トネリコ」
だから、やっと目の前に戻って来てくれた幼い魔女の、若干朱に染まった頬を流れる髪に手を伸ばしてしまうのも、きっと不可こ――
「リ、リツカ!冷めないうちに食べて欲しいです!」
と、まるで酒に酔ったような自分の思考は、堰を切ったような銀鈴の声音に阻止されて、漸く自分の無神経さに遅れて気付いた。
「……ごめん。あー」
「リツカ」
天井の奥の、もう記憶にあるもの以外どこにもない空を仰いで一呼吸。
そして、もう一度目の前にある湖の瞳を見つめて、両の頬をパチンっと叩く。
「大丈夫……じゃないですよね」
「大丈夫。今気合い入れ直したから」
「……もう」
じんじんと痛みを訴える頬で彼女に笑いかけると、彼女はそのきっと赤くなっているであろう頬に優しく手を当てて、仕方ないと言ったように笑いかけてくれた。
「無理はいけませんよ」
「無理じゃないよ。できるからね」
「じゃあ、無茶をやめてください」
自分と似た色をしているのに、どこまでも次元が違う彼女のその瞳。
人の裏側まで見透かすそれにこんな風に見つめられれば、自分なんかが簡単に取り繕った言葉で嘘をつけるわけがなくて。
「……」
かと言って『できない』なんて、自分がこれまで通してきた見栄の為にも、言えるわけがなくて。
どっちつかずな感情に支配された自分は、ただその美しい瞳を見つめ返すしか出来なかった。
「そこで黙ってしまうのが、あなたの美点ですね」
「……意地悪」
「今は主婦に見えるでしょうが、わたしはこう見えて魔女なので」
なるほど。確かにまるでそうなることを予見していたように笑って見せる姿は、人を操る魔女のようだ。
――まぁ、その笑みの中に身に余るほどの慈愛さえ浮かんでいなければの話だが。
「む、失礼なことを考えていますね」
「いや、君が魔女なのは知ってるけど、今の君は悪さできるような魔女じゃないよなぁって」
「そんなことはありません。怒ったら怖いですよ、わたし」
「ふふ。それも知ってる」
「むむむ……」
頬に当てられた手がむにむにとこちらの頰を引っ張って、形を変える度に自分の頰から勝手に鳴る音がなんだかおかしくて。
そんな風に笑っていると、膨れっ面を見せていた彼女は「なら……」とスプーンを片手に取ってみせる。
「じゃ、じゃああなたは……わたしがこんなことも出来るって、知っていますか?」
すると、平皿に盛られたシチューをそのスプーンに乗せて、自分に向かって差し出してみせた。
「……」
「せ、せめて何か言って下さい……!」
「……(パクッ)」
「ひゃっ!?」
赤くなった頬を更に赤らめ、銀鈴の声音と細い指先を震わせるその姿。それの衝撃に思わず少しの間だけフリーズしてしまったが、次の瞬間には差し出されたそれをぱくりと口の中に収めていた。
「美味しい!」
「そ、それ、料理だけの感想じゃな――」
「でももう一口欲しいよ、トネリコ」
「う、うぅ……」
自分の言葉に彼女は再びスプーンで皿から一口分を掬い上げると、それをおずおずと自分の口先に運ぼうとするが……それが本当に口先に届くよりも前にぱくりと。
温かなシチューが舌の上で広がり喉を通って、最後に腹の少し下辺りに落ちたことが確かにわかった気がした。
「うん、やっぱり美味しいよ。ありがとう、トネリコ」
「く、口にあったようでよかったです……」
「じゃあ次は俺の番だね」
「え……え?」
呆然と呟く彼女の手を取って、その細い指先からスプーンを抜き取る。そして目の前に置かれた皿から、彼女と同じように一掬い取って――
「ほら、トネリコ。あーん」
「っ……!」
そう言って、彼女の口元に差し出した。
……正直、自分でもこれは少しやりすぎな気がするが、それでも許して欲しい。
任せて欲しいと言われたが、準備を全て彼女一人に任せてしまったし、先程の無礼に対するお詫びをしなければならないのだ。
「……」
眼前に差し出されたスプーンと、自分の顔を交互に見つめたまま動かない彼女を見つめること数秒。
やがて彼女は頬を林檎のように赤くしながら、その小さな口でぱくっとスプーンの先を口に含んだ。
「どう?君の作ったシチュー、美味しいでしょ?」
「……味が、わからない、です」
いつのまにか頰だけでなく耳まで真っ赤にした彼女は、視線を逸らしてぼそぼそと小声で答える。
その姿を見て自分はまたくすくすと笑みを浮かべると、スプーンにもう一口分をよそって、隣に座る彼女の手を引いた。
「じゃあ味がわかるまで、俺が食べさせてあげる」
「っ……」
そう言って穏やかに笑って見せれば、彼女はその瞳を驚きに見開いてぱくぱくと言葉に出来ない言葉を発して俯いてしまった。
「ほら、あーん」
だが、それでも俯いた彼女に向かって言葉で促すと、ゆっくりと彼女は潤んだ視線を戻して――
「……ぁーん」
――蚊の鳴くような声とともに、再び小さな口に差し出したスプーンが飲まれていった。
「……」
彼女の慎ましい咀嚼音が部屋に響くのを聞き届けた後、細く白い喉がシチューを飲み込むまでの様子を見守る。
しかし、その頬や耳がまだまだ赤いこともまた認めると、その赤い耳に向かって問いかけた。
「もう一口、いる?」
「……はい」
自分の言葉に応える彼女の声に、本当に少しではあるが喜びが交じっていることも聞き届けると、自分はそのスプーンにもう一口分のシチューをよそった。
そして、気づけば耳朶まで真っ赤になってしまった彼女の口元にそれを運んだ後――彼女は先ほどのように待つことなく、パクっとそれを飲み込んだ
「……リツカ」
「うん」
「……まだ、わからない、です」
俯く彼女の言葉に、今度は言葉ではなく行動で答えた。
再び開かれた小さな口にスプーンを運び、彼女がそれを飲み込むまで待った後、また次を差し出す。
それを何度も何度も繰り返して……気づけば皿の上にはもうシチューはなくなっていて、残るのはスプーンによそった最後の一口だけ。
それを自分は未だ物欲しげに見つめる蒼い瞳に迷いなく差し出して、小さな口がぱくりとそれを含むのを見届けた。
「トネリコ。最後は俺も食べたいよ」
「……?」
「……ごめん」
許してもらう為にしていた筈なのに、最後にこんなことをしたらきっと怒られるどころじゃすまない気もするが……なんとなく、今は大丈夫な気がして。
だから事前に独りよがりな思考よろしく、独りよがりな謝罪だけを勝手に述べて。
「んっ……」
――綺麗な桜色に色づく唇に自分のそれを押し当てると、驚きに薄く開いた奥に押し入ったのだった。
「お粗末様でした」
「うぅぅ……!!」
そうやって二人で共に食事を終えた後。
赤い頰を膨らませて、こちらを恨めしそうな目で見上げながらぽこじゃかと手を挙げてくる彼女に対しての弁明もそこそこに、自分は彼女の身体ごと抱えてベッドに身を投げ出した。
「ひどい……これじゃあもうお嫁になんか行けないです」
「?俺にくれるんじゃないの?」
「っ……!!」
「いたいいたい」
抱え込まれた腕の中の彼女の慟哭に対して、さも当たり前のことのように慰めて見せる。すると彼女は尚のことぽかじゃかと腕を振ってみせた。
「でも、……ありがとう、トネリコ」
「……」
「本当にとっても元気出たよ」
彼女の小さな身体をぎゅっと抱き竦めると、艶のある金の髪の上から本心を告げる。すると彼女は頰の朱みを濃いものへと変えながら、またぽつりと呟いた。
「リツカも、ずるい人ですね」
そうして呟かれた言葉には苦笑いを浮かべるほかない。
しかし、まぁ――
「君が魔女って言うのなら、俺もそれなりに狡賢くないとなって」
自分でも似つかわしくないだろうなと思える悪い笑みを浮かべて、そう言って見せる。すると彼女は自分のその笑みを見つめると、額をこつんと自分の胸に預けて囁いた。
「……存外、悪くないですね」
「えー?」
自分はその言葉に口先だけの不満を垂らすも、彼女の単純に自分に甘えてくれるようなその仕草に応えるのだった。