特権と幸福福沢諭吉は滅多に愛の言葉を吐かないらしい。
それは相手——つまり江戸川乱歩へ向けての話であって、それはつまり計る相手は乱歩自身で、乱歩と比べれば誰だって言葉が少ないと言えるだろう。
社長だって判り難いが乱歩さんと同じ位自分の愛する人を想っている。
それは二人を傍で見てきた与謝野が一番善く知ってるつもりでいた。
「社長もワルい人だねェ……。
妾から言ってやろうかい? 」
知ってるつもりだが、それが相手に伝わっていないのなら想っていないのと同じだ。
何よりも乱歩さんを哀しませるなんてあってはならないことなのだ。
「いいの、そういうところも好きなんだもん」
机に手を伸ばし伸びながらそう呟く乱歩を見て、つい笑みが溢れる。
——社長が社長だから好きなんだよ。
乱歩の口から何度も聞いた言葉だ。
相手の全てを肯定する程の愛とは如何程のものなのか。与謝野は残念乍ら乱歩の思考に賛同出来るような恋には出会ったことは無かった。
そんな強い思いをひとつ胸に秘め日々を生きる乱歩を与謝野は凄いと思ったし可愛いとも思った。
「乱歩さんは本当に一途で健気だねェ。
妾が嫁に貰いたいぐらいだよ」
「あははっ僕には与謝野さんは勿体無いよ」
与謝野の言葉にさらっと年相応の青年のような言葉を返すもんだから少し驚く。普段は年下のような言動をする乱歩だが時折こうやって実年齢を感じさせる言葉を投げかける。
そうだ、妾はこの一つ年上の何でも見通す名探偵に救われたのだった。
「そうかねェ……妾には社長に乱歩さんは勿体ないと思うけど? 」
頬杖をつきため息混じりについ本音が零れた。
二人を尊敬し関係性だって尊重している。羨望の気持ちもないと言ったら嘘になるだろう。妾もいつかそう思える人と、なんて女にとっては乙女心を擽られるものだ。
だが、思うのだ。
乱歩さん程の人を射止めたその幸運を。
この愚か者を慈しむ神様のような人を傍に置き従わせる果報者が何をすればその様な幸福を掴めるのかを。
そんな与謝野に対して乱歩が悪い顔で笑う。
「与謝野さん、社長相手に云うねえ……? 」
妾の中でも乱歩さんは特別だから、誰であろうと不相応に感じてしまうんだよ。
例え社長であろうとそう思ってしまうのだ。
「そりゃあそうさ!
何度でも云うけど、妾は乱歩さんの味方だからね!
相手が社長であろうと誰であろうとアンタのためなら妾は戦う覚悟だよ! 」
「ほんと、与謝野さんはイイオンナってやつだよ」
「当たり前だろ? 」
拳に力を入れて与謝野が宣言すると悪い顔をやめた乱歩がいつもの笑顔で笑った。
まぁ僕ほどの相手となれば誰だって釣り合いが取れなくなるもんだよね。だって僕だもん。
いつもの自信家な乱歩の様子にほっとしつつ返事を返した。そんな時。
「でもさあ…… 」
不意に乱歩の雰囲気が変わった。
突っ伏していた身体を起こして首を傾げてじっと此方を見つめてくる。
乱歩は話していくうちに口元が段々緩み、締まらない顔になっていた。
「そうやって言葉には出来ないから自分の出来る範囲一生懸命に態度で表してくるんだよ?
それって凄く可愛いと思わない? 」
話し終えた時には緩みっぱなしだった。
いつもの子供っぽい仕草でも年相応な態度でも無く、これは……恋する人間の顔だ。
自分の愛しい人がどれだけ素晴らしいかを語る幸せな顔だった。
「…………こりゃあ参ったねェ。
一本取られたよ。
愚痴に見せかけた惚気じゃあないか」
こんな幸せそうな顔を乱歩さんにさせるんだから社長はやっぱり凄いんだよね。
成程、二人の先人達にはまだまだ敵わない様だ。
先程はさんざ福沢に勿体ないやら不相応やら好き勝手に云っていたが、与謝野とて福沢の事が好きで尊敬しているのである。
この人が居なければ与謝野は乱歩さんと出会えて居ない。つまり与謝野が救われ居場所が出来ることもなかった筈だ。
溶けた表情をした恩人を見ながら昔云われた言葉を思い出した。
——こんな事話せるのは与謝野さんしか居ないよ!
なんだかんだと乱歩からこの様に話してくれるこの立場は役得としか思えない。
これは古株の特権ってヤツだねェ。
福沢も知らない二人の秘密の相談事。いや、相談事とすら云えないただの恋話(こいばな)なのだろう。
与謝野にとってこの時間が何よりも楽しい時間だった。与謝野を幸せにしてくれた乱歩と福沢——二人の幸福を知ることの出来る貴重な時間はこうして過ぎていくのであった。