日々戯れ、繰り返し「福沢さぁーん」
休日の私宅に響く福沢を呼ぶ乱歩の声。日々其の様な場面に当たると平和とは斯く在るべし、と福沢は思う。
声の出処から乱歩を探し当てれば、乱歩の自室からのお呼び立てであった。廊下から開いていた襖越しに顔を覗かせれば、声の持ち主は直ぐ見つかり、目が合った瞬間にへらと破顔した。
「どうした」
問うと同時に、然う云えば昔探し当ててくれるのが嬉しいと云っていた事を思い出す。
福沢からすれば唯音を聞き、其れを頼りに向かっているだけなのだが、乱歩は違うらしい。
「僕、着替えたいなあ」
乱歩は今日、自室に篭って読書をしていた様に思うのだが終わったのだろうか。或いは、読破はしていないものの途中で飽きたのかもしれない。
其の問答については謎の儘だが、今の乱歩については判る。
此れは、甘えたい時の乱歩だ。
朝起きて簡易な襟衣と洋絝姿に着替えたはいいが、面倒になったのか、今日は家で身を休める事に決めたのか、或いは気分なのか……。乱歩は下から覗き込むように福沢と目を合わせ両腕を広げ、福沢に着替えさせるように頼む。
此の、自分で出来る行為を敢えて福沢に任せる事が乱歩にとっての甘えの一つである。
「……何でも好いのか?」
乱歩は福沢の了承が得られた事が判りより一層笑みを深めた。
「うんッ! 福沢さんの好きにして?」
福沢と乱歩が未だ、保護者と子供であった頃ならば「何故、一人で出来る事を己で成そうとしない」と、叱咤を滲ませた言葉を発していただろう。
だが、今の二人はその枠を超えた世の言葉を借りるならば恋人で、福沢からしてみれば乱歩の甘い願いを無礙にする理由は無かった。
部屋の箪笥から部屋着用の着物を選び乍ら、福沢は考える。
抑も、乱歩に甘いのは昔からで特に笑って欲しいと云う欲に振り回されることが多かったように思う。自分で云うのもどうかと思うが、無自覚とは恐ろしいものだ。
だが、乱歩も乱歩なのだ。此の様に此方を見つめつつ両手を広げ甘えられては突っ撥ねるのも難しい。乱歩の仕草も言葉選びも、簡単に云うと刺さるのだ。何処にとは具体的に云え無いが。
なんとも恐ろしい奴だ。
然う内心思いつつ、着物を着替えさせる為に襟衣に手をかける。
「洋服は、釦が多くて敵わん」
屈んで釦を上からひとつずつ外しつつ、然う独り言ちる。和服は手順さえ覚えてしまえば簡単なのだ。
乱歩も釦は面倒臭がるが和服は一人では着れない為、普段は洋服を好んで着ている。其れ以前に、仕事着として愛用している探偵風の服装は洋服である為、一人でも着る事が出来ないと不便であったのだ。
「ふふっ、年寄り臭い事云わないでよ」
聞かせるつもりの無かった独り言は確り乱歩の耳に届いていたらしい。手持ち無沙汰の乱歩に頭を撫でられ乍ら、其の乱歩の言葉に眉を顰める。
「……………………お前が俺を年寄り扱いするな」
「そうだねえ、福沢さんは年寄りなんかじゃないよ。出会った時からずっとずうっと変わらない」
「其れはお前だろう」
「ずぅっと格好善いよ」と囁き、慰めるような乱歩の言葉を受けながら福沢は乱歩を見つめた。
出会ってから歳を重ね子供では無くなった。
然し、実年齢を感じさせない若さが乱歩にはあった。近頃、文字を読む際に眼鏡を付けるようになった事を心の底で気にしている福沢にとっては、由々しき事態であった。
「僕のはさあ、未だに子供だって間違われることがあって嫌になっちゃうよ。全く、世界一の名探偵になんて事云うんだ!」
そう憤慨したように云う乱歩の頭を、肌襦袢に腕を通させてから先程のお返しのように撫でる。其の儘、紐を結び長襦袢を羽織らせる。
「だが、お前は子供の時から名探偵をやっていただろう。そう怒る事でもあるまい」
いそいそと自ら長襦袢の袖を通している乱歩を眺め乍ら然う福沢が諭すと、当の本人は口を尖らせた。
「僕にとっては重要だもん。……僕は福沢さんの相方だから隣に立った時に見劣りしないでいたいんだ」
腰紐で留めて調節していると、そんな健気な言葉が聞こえた。思わず手を止めて俯いていた乱歩を見た。
「……殊勝な事だな」
「……ば、馬鹿にしてるでしょ!」
「否、可愛いと思っていた」
「なッ……!!」
俺が着せた服を纏ってわなわなと身体を戦慄させる乱歩に口元が緩む。矢張り、乱歩は可愛いな。
「お前が大人な事も、可愛い事も……俺が判っているのだから、其れで善いだろう?」
云い聞かせる様に然う伝える福沢に、乱歩は耳まで赤くして目を見開く。真正面から乱歩の瞳とかち合い、次に何を云うのかと其の儘見つめ合う。目を先に逸らしたのは、矢張りと云うべきか乱歩であった。
「…………………………福沢さんって年々狡い大人に成ってない?」
そっぽを向き真っ赤な顔で然う憎まれ口を叩く乱歩に、長着を羽織らせる。動きそうも無かった為、其の儘手を取って左右の袖を通させた。
「気の所為だ」
屋内だけでの着用のため腰紐で結んでから簡単に貝の口結で帯を留めてやる。これで着物乱歩の完成だ。裾除けは面倒らしく乱歩の場合何時も着せていない。
「出来たぞ」
着付け終わった事を伝え、そっぽを向いた乱歩の頬に口付ける。其れにバッと此方を向き直した乱歩は口をむにむに動かして福沢を見た。
「ん!」
先程着替えを頼んだ時同様、腕を広げて此方を見詰める乱歩。其の様子に合点がいき、抱き抱え乍ら乱歩の望み通り唇へと口付けた。