爽籟に泳ぐ貴方へ 其れは、度々用も無い癖気分でふらりと社長室へ赴く乱歩の珍しい一言から始まった。秋めいて涼しさも増す今日此頃、乱歩が小さな願い事を口にしたのだ。
「ねえ、我儘を云っても善い?」
恰も日々我儘を云わぬ人間の様な口振りだが、実の所乱歩が我儘を云う事は少ない。普段の様子からは想像出来ないのだろう。ふとした際に福沢から其の言葉を聞いた周囲の反応が妙にぎこちなく、其れ以来口にしない様気を付けているが。
「……どんな内容だ?」
「海に行きたいッ! あ、勿論二人でね!」
にこにこと笑みを絶やさず此方を覗き込む乱歩。願いが聞き届けられると確信している様だ。確かに、其の程度の願いならば受諾しない由は無い。福沢は静かに頷いた。
「宜いだろう。日程は此方で決めて善いのか?」
「善いよ。僕は此の時期なら何時でも宜いし、社長が好きに決めちゃってよ」
此の時期……? …………成程。
乱歩の言葉に思考を巡らせ行き着いた解に納得しつつ、其れならばと日程を定めた。どうせ休暇を入れる予定だったのだ。端から空けていた日付を乱歩へ伝えれば、眩しい程の笑顔でにんまり笑って可笑しそうにばたばたと手足を動かした。
「あはははははっ!! 解っちゃったんだもんなあ〜〜さっっっすが社長ッ!!! 僕の事に関しては宛ら名探偵と云っても過言じゃあないね! 勿論僕には及ばないけど!!」
「…………声が大きい」
乱歩には今更な事だが、未だ此の時間は勤務時間だ。他社員も業務中なのだから其れを妨害する様な事は有ってはならない。……うちの社員の事だ。乱歩の高笑いも慣れたものだとも思うが。
寧ろ社長には僕の事を解って貰わないと。だとか、そりゃあ此の時期だもの、解って当然だよね。だとか、気付かないなら怒るだろうけど、日程をずらす事には怒らないよ。だとか……。延々と口を動かす乱歩を端に置いて福沢は考える。
歴の長い社員達ならば、福沢の元へ向う乱歩の姿を目の端に捉えた瞬間に色々と察している可能性も否めないのだ。察知能力も亦、探偵社員には必須の能力である。だが、危険だ何だと伝達されるのは甚だ遺憾である。
***
当日。其の日は朝から大変であった。予想は出来ていたとは云え、隣で眠る乱歩を起こし寝ぼけ眼の乱歩の着替えを手伝い朝餉を平らげさせる。起きているのか寝ているのか判らぬ動きで、もそもそと食物を口にする乱歩に痺れを切らせ福沢が箸を引っ手繰り食べさせる事数十分。数年前から何度も経験し慣れているとは云え、久々の重労働にどっと疲労感が伸し掛る。未だ小さな旅行へと旅立っていないにも拘らず、だ。
そう、今回の海への旅路は小さな旅行だ。何時でも海を見る事の出来る港町に在住する福沢らだが、近場では無く以前依頼で赴いた事のある日帰りで行ける海へと目的地を定めた。折角なら海を見に行くだけでなく、二人の休暇をのんびりと楽しみたい。乱歩とではのんびりも難しいのは判っているが、のんびりと楽しみたいのだ福沢は。
故に普段乱歩の生活に彼是と口出しせず好きにさせている福沢も、今回ばかりは手を回し手伝いを続けている。内心、常に乱歩の世話を任せている事務員達へ昇給を勘案し乍ら。
福沢が真の意味でのんびりと出来たのは、家を発ち列車に乗り込んだ後であった。ガタンゴトンと揺れる車窓から流れる景色を、意味も無く眺める。普段の横浜とは違いビルの群れも群勢も無い。生い茂った木々が赤や黄を現し秋の予感を告げてくれるだけだ。何もかもを忘れる訳には行かないが、偶には息抜きも必要だろう。今日ぐらいは何も考えず乱歩の傍に居よう。左半分の温もりだけを感じていても罰は当たらないだろう。
隣には福沢に寄り掛かり寝息を立てる乱歩が居る。此の季節は朝夜と昼間で気温差が激しい。薄い上着を一枚持ってきておいて正解だった。福沢の其れを眠る乱歩へと被せておけば寒さや風邪等の心配は無いだろう。
静かに眠る乱歩へと福沢の視線が移る。此程静かな乱歩を見るのも久方振りだな。普段は放っていても一人で喋っているのだ。当たり前だが眠れば静かではあるが、そも乱歩が近くで眠っている事自体が昨日を除き久方振りなのだ。乱歩が寂しい想いをしていないか。福沢は心配であった。今回の我儘も其れが原因やもしれん。
『寂しい』を中々口にする事が出来ぬ懸想人の、健気な旋毛を眺めては撫でる。目覚めれば何時もの様に騒がしく囀り笑ってくれるだろう。列車に飽いた際の駄菓子も、必須であろうラムネも用意してある。昼餉は好きにさせれば善い。今日はお前が楽しめるのならば其れで善いのだ。すっかり福沢の視線が景色から乱歩へ移り替わっている事に口出し出来る者は残念乍ら此処には居なかった。
***
「海だーーーーーーーッ!!!!!」
列車から降り、駅を出ての第一声が此の大声である。片耳を抑えてやり過ごしつつ今にも走り出す勢いの乱歩の肩に手を置き抑える。
「いやあ吃驚した。気付いたら列車の中なんだもの。福沢さんどうやって僕を運んだの? 僕が自分で歩いた? うっそだあ〜〜!」
列車内で乱歩を眺めていた福沢は、必然的に目覚めた乱歩とばちりと目が合った。目が合い次第福沢を認識してパチリ、パチリと長い睫を二度瞬かせてから少し顔を上げて「……嗚呼」と納得した様に声を出した乱歩は流石と云う可き理解力であった。朝からの記憶が無かった事に福沢は怒りたくなったが。
其れに加えて、先程の言葉である。「嘘かどうかはお前の優秀な頭脳が導いてくれるだろう」今朝の苦闘を思い出しながらそう答えた福沢は何も悪く無い筈だ。
持ってきた鞄から駄菓子とラムネを見せてやれば目を輝かして御礼を云われる。幼気に笑顔を見せる乱歩の姿に福沢の怒りも霧散していた。そうして機嫌良くラムネを煽ってから乱歩が何時も通り話し始める。
目覚めて最初に視界に入れたものが福沢で嬉しかった事。此れから福沢と海へ行ける事への期待感。福沢が自分を良く解ってくれている事。今日の驚いた事。昨日寝た後からの記憶が無い事。列車内で佳く眠れた事。そして、福沢が大好きだという事。
「あッ!!!!」
上機嫌な儘、話を続けていた乱歩は突然声を張上げ席を立つ。先程の会話から相槌だけは続けて好きに話させていた福沢も、乱歩の突然の奇行に驚いて立ち上がった乱歩の顔を見上げる。
「如何した?」
「大変だよ、福沢さん!!」
興奮した様に話し始める乱歩。兎に角、立ち上がった儘の乱歩の手を引き再度座らせてから二度目の問い掛けをする。
「如何したんだ」
「僕が如何に福沢が大好きか、って話で思い出したんだけど、今朝って未だおはようの接吻を貰ってないよね?」
「……あ、嗚呼…………ん?」
『如何に福沢が大好きか』
福沢は此の言に小恥ずかしさを覚え、動揺して早々に相槌を打つ。然し、相槌を打ってから耳を疑う言の葉が入り、眉を顰めた。
「だから、接吻だよ接吻。口付け、口吸い……云い方は色々在るけど、いつも福沢さんがやってくれるやつ!」
忘れちゃった? 今日は未だでしょう?
曇りなき眼でそう口にする乱歩に頭痛がする。そう云った言の葉は公共の場で云うものでは無い。声を抑えろ。幾ら周りに人が居ないからと……自宅なら未だしも此処は列車内だぞ。
「はい、ちゅ〜〜」
仕舞いには唇を尖らせ催促までしてきた。乱歩の機嫌が頗る宜いのは判った。其れ故か何時も依り言動が子供地味ている気がする。が、駄目なものは駄目だ。
「公共の場だ」
「むぅ……」
乱歩の尖らせた唇は直ぐに膨れ面へと変化する。そうして、福沢はふいと顔を逸らした乱歩の旋毛を見詰める羽目になった。普段は鳥打帽に護られ、外では見る事の少ない旋毛。当人と同じく奔放に跳ねる毛先と共に元気に主張する其れ。福沢は見慣れた物であるが、他はそうでは有るまい。不意に、世間に晒すには勿体無い様な、何とも惜しい様な気分に陥る。そうなれば、必然的に隠そうと人は動くだろう。
撫でるでも無い、唯掌を頭に乗せるだけ。だが福沢の掌の重みで、乱歩が再び福沢の方を向いた。
「……撫でて機嫌を取ろうったって————」
文句の言葉が途切れる。吊り上がった乱歩の眉も途端に下がる。其の変化を目の当たりにし、良くもまあ此程器用に表情を変化出来るものだと感心してしまう。
「狡いよ、そう云うの……」
余程変な顔でもしたのか。乱歩は再び、福沢の身体にぽすりと顔を中心に全身を埋める。
「乱歩……?」
呼び掛けても返事は無く、其の後は只管頭をぐりぐりと押し付けたり、ぎゅうぎゅうと身体に腕を回し抱きついて来たり……猫の様な仕草に首を傾げるばかりだ。無論、愛らしい仕草には違いないが、由が判らねば反応にも困る。
図らずも甘えた家猫の様な乱歩を纏わせ、のんびりとした旅路に困惑する。
只管此方に甘えてくる乱歩。如何やら機嫌が悪くなった訳では無いらしい。
「はぁ〜充電した〜〜!!」
駄菓子を全て平らげ、空の瓶をからんころんと鳴らすと漸と乱歩が口を開いた。其の頃には、目的の駅は直ぐ其処であった。自室の如く寛ぐ乱歩を眺め、此処は福沢宅だったかと何度そう錯覚した事か……。流石に福沢の膝に甘えようとした時は確り制止した。此処は公共の場である。
そうして列車を後にしたのであった。
***
却説、走って何処かへ行かぬ様に手を捕まえて二人で歩く。砂浜は足が取られ易い。乱歩が転ばない為にも合理的な判断であろう。
吹き抜ける風の中海辺に二人、他に人影は無い。平日の、其れも秋の海辺ならば常にこうなのかもしれない。だが、今は二人だけの此の景色が有難かった。
海へ行って何をするのかと思えば、乱歩は一言「入る」とだけ答えた。
入る?! 幾ら何でも無茶である。
「大丈夫、少し濡らすだけだから」
福沢の焦りが伝わったのか、全く大丈夫では無い補足が入る。
手拭いはあるが其れ程大きくは無い。もし、全身濡れてしまえば? 替えの服も無い。
福沢が脳内で様々な考えを巡らせている間に、乱歩は繋いだ手を離してから靴を脱いで横に置き、其の儘靴下も脱ぎ出す。
「おい……!」
「大丈夫、大丈夫〜」
そうして、大丈夫しか云わなくなった乱歩が悠然と砂浜を歩き、寄せては返す波に向かう。そうっと爪先を濡らして「冷たっ!」と零す。
当たり前だ。
此の儘其の冷たさに諦めてくれないかと願っていたが、乱歩は両の足首を濡らしてバシャリバシャリと其の場で蹈鞴を踏む。小さな悲鳴を何度も上げ、其れでも笑顔で水面を数度蹴り上げた。水面から放物線を描いて飛んで行く海水を眺めてはきゃらきゃらと子供の様にはしゃいだ。
「陽射しの少ないこの季節でも、こんなにキラキラ光るんだ!」
福沢は何度も 蹌踉けてしまうでは無いかと肝を冷やした。時折強く吹き荒ぶ秋の嵐がごうごうと音を出している。乱歩が楽しんでいる為、無闇に止めはしないが此の儘では風邪を引いてしまう恐れもある。乱歩の様子を眺め乍らも、何時でも対処出来る様には準備して置く。
「福沢さぁーーんッ!!!」
寒さを訴える事は確実な為、後で暖かい飲み物か食べ物を用意しなくてはならないな。
そう考える福沢へ乱歩は笑顔で手を振る。そう遠くも無い距離で其れ程大きな声を出さなくとも聞こえていると云うのに。其れが楽しくて堪らないのだと、全身で表現する乱歩に口元が緩んだ。
「転ばぬ様に気を付けろ。……身体を冷やす前には帰って来い」
「はぁい!」
云いたい事は云った。後は好きにすれば善い。
風の音と波の音、乱歩の出す笑い声と水音。其の場にある全ての音である。
其れにしても、冷えるからと長靴下を履かせなくて良かった。脱ぎ着に苦労しただろうからである。洋絝もゆったりとした大きさを選んだ為、両手を使いたくし上げる事で濡らさずに済んでいる。
福沢に宣言した通り足だけを濡らす乱歩にほっと胸を下ろした。
「ふーくーざーわーさーーーん!!」
復もや乱歩が此方を呼び、来い来いと手招き迄している。
「どうした?」
呼ばれるが儘、乱歩に近付く。足元が濡れるぎりぎりまで来た所で止まれば、乱歩は腕を上げた。
「飽きた。連れてって」
先程迄楽しそうに遊んでいたのに相変わらず気紛れなものだな。否、風邪を引かれては困る。早々に飽きてくれて助かった。
抱き上げろ、と腕を伸ばす乱歩を掬い上げるのは簡単だ。然し。
「始めたのはお前だが……足が汚れるのが嫌なのだな」
確信を持って溜息混じりにそう尋ねれば、「そう! 流石は僕専門名探偵!」と機嫌良く返される。威張るな。
諦めて乱歩を支えて抱き上げれば、更に機嫌を良くして首元にじゃれついてくる。今日はとことん甘えたいらしい。
先程迄福沢が立っていた、乱歩の靴や靴下を置きざりにしている場所。遠くない其の場所へ福沢は足を進める。甘えたいならそうしたら善い。福沢としても嫌な訳では無い。寧ろ冥利に尽きる、のだ。何の、と問われれば様々な肩書きが脳裏を駆け巡るので敢えて省略させて貰う。
撓垂れ此方を見上げる乱歩と目が合う。乱歩お得意の上機嫌なしたり顔で口元を歪める表情を見て、ふと思い出す。乱歩の笑みで細まった目を、一驚させ丸くするには十分だったらしい。
福沢は、乱歩の口を己の其れで塞いだのだ。
しっとりと重なった唇の接着面が名残惜し気に離れて行くのを感じ乍ら、顔を離す。そうして先程迄合わさっていた乱歩の唇に親指を擦らせる。
「な、ッな……なっ、なぁ……ぇッ?!」
外でされるとは思っていなかったのだろう。意味の無い言葉を繰り返す乱歩を其の儘に、手拭いで足の水分を拭き取り靴下を履かせる。
「先程云っていたな……今朝の分だ」
片手で乱歩を支え不安定な体制にも拘らず、不満の声は上がらない。其れ程先程の接吻は衝撃的だったらしい。
目を白黒させる乱歩が可笑しくて、意味も無く顎の下を擽り戯れる。
自棄に大人しい乱歩に此方はあまり苦戦せず足元を整え、地に降ろす事が出来た。云われるが儘、素直に靴下を引き上げる乱歩が可笑しかった。靴も自分で足を入れ、爪先を鳴らす様に地を蹴っている。無意識の行動であろう。
「………………福沢さん、大好き」
漸と反ってきた言葉は聞き慣れた、其れでいて一等嬉しい言葉だった。お前が素直に伝えてくれるから、此方も返す事が出来る。小さな声で幼く愛を伝える乱歩に、息を零す様に笑い再び掬い上げる様に抱き締める。
「嗚呼、俺もだ。乱歩……愛してる」
今朝も伝えたが、お誕生日おめでとう。お前が誕生し、俺と出逢い共に歩んでくれる此の日々に感謝している。此れからもどうか宜しく頼む。
遮る物の無い二人きりの浜辺で伝えた言葉に、乱歩は確りと頷き微笑みを浮かべた。秋風が何度吹き荒れようとも離れぬ様、ぎゅうっと抱き締め合った。