リクエスト01 蒼天堀組 絶え間なく聞こえてくる、重い液体がアスファルトにぶつかる度に生じるビチャビチャという音が鼓膜を無神経に刺激する。
時折混じる低音は自分の嘔吐く声。どんなに押し殺そうとしても開きっぱなしの口から、それは容赦なく吐瀉物と共に流れ落ちていく。
酒には自信があった。それなりの量を飲めると思っていて、面接でもそれをアピールした程だ。
事実、それは常識的な範囲でなら過言ではないと思う。ただ、実際に店で飲まされる量が俺の想像を大きく越えていた。それだけの話だった。
二日前から働き始めた、煌びやかなネオンが踊る繁華街に堂々と鎮座するホストクラブ『グランド』。
店のライトはつい数十分前に落とされた。それはこの店の閉店と夜の終わりを意味する。
始発列車が動き始めるにはまだ余裕のある、早朝五時を少し過ぎた、大阪・蒼天堀。
新鮮で澄んだ空気の中。グランドの裏口を出て数歩の朝日の届かない路地裏で、俺は背中を丸めながら営業中に胃に流し込んだ酒を体外へぶちまけていた。
想定した量以上の飲酒をしたからこうなっているというのは大前提だが、それに加えて……数時間前にヘルプで着いたテーブルを思い出し、俺は目を細める。
あの時口にした酒は、舌に乗せた瞬間数度瞬きした程に雑味の多い物だった。どうにもアレが、胸焼けを引き起こした気がしてならない。
本指名されていたホストの呑むペースが妙に遅いことに気付いてはいた。だがそれは、ただ奴が酒が得意ではないのだろう思っていた。
多分悪酔いするあまり質のよろしくない酒だということを、奴は知っていたのだろう。
そろそろ胃の中が空っぽになった頃だと、俺は口を閉じて唾液を呑み込む。すると口内に残った不快感を取り込んでしまったことで、途端にまたも体内から胃液とアルコールが喉を急激に這い上がる。俺は慌てて俯いて、口を大きく開いた。
嘔吐する最中、じわりと右目の視界が曇る。俯き続けることで生温かなそれは睫毛を伝って吐瀉物と共に地へ落ちた。
「……なぁ、大丈夫?」
突然頭上から降ってきた声に、俺は驚いて顔を上げようとする。
「いや、こっち向かんとそのままでええよ。ほら、これで口濯ぎ?」
左頬に当てられた冷たく硬い感触。眼帯に覆われた左目ではその正体が何かは分からない。
俺は頷くような一礼をして、左手で押し当てられた物を受け取る。それは、店で使われている透明のグラスでその中には水が揺れていた。
声に指示された通り、俺は水を口に含んで緩く濯ぎ、うがいの要領で吐き出す。舌に纏わり付く酸味は完全に洗い流すことは出来なかったが、ようやく落ち着けた。
気がつけば息も上がっていたらしい。俺は濡れた口元を拭って、呼吸を整えるために大きく息を吐いた。
グラスに残っていた水を吐瀉物にかけて捨て、目の前の壁に手をつきながらゆるゆると立ち上がる。
「……」
立ち上がった瞬間、軽く目眩がした。水を渡してくれた男は俺がよろめいたことに気付いたようで、バランスを崩しかけた身体に手を伸ばそうとする。
「気にせんで、ええ……です……」
俺は軽く後ずさりしながら小さく会釈する。最後の「です」は咄嗟に付けたもの。水を差し入れてくれた男が、まだグランドに入店して間もない俺には誰なのか分からなかったからだ。
身長は同じくらいだな。このスーツの色なら厨房ではなくホール担当……。ホストという俺と同じ立場か? そうでなくても新人の俺なら誰に対しても敬語を使っておくべきか……。
涙で滲んだ視界で捉えた人物の輪郭から、鈍い頭を無理矢理働かせている内に、暗めな臙脂色のスーツを身に纏った男がまたも声をかけてきた。
「君、名前はなんて言うん?」
不意打ちじみたあまりに真正面の質問。俺はうっかり反応してしまう。
「真島や……」
「えぇ? あ……ハハハハハハ!」
突然カラカラと笑い始めた男に、俺は面食らう。
どうしたらいいのか分からずにただ立ち尽くしていると、男は顔に笑みを浮かべたまま無作法に俺を指さして、一言付け加えた。
「自分、それ、本名やろ?」
「え? あ……」
指摘されて俺は咄嗟に片手で口元を押さえる。頬にかぁっと高い熱を感じた。
よりによってホストクラブという源氏名を使う場で馬鹿正直に俺は何を言っているのかと、自分の迂闊さに激しい羞恥を覚える。
俺は手っ取り早く大金を稼ぎたくてここにいる。そんな単純な動機と水商売という世界に慣れてないことを見透かされた気がした。どこかいたたまれない感情が胸を渦巻き、空のグラスを包む手にじわりと力を込もる。
「――――」
瞬間放り投げられた言葉に、俺は弾かれたように、俯いていた顔を上げた。目の前の男は、苦い表情を浮かべた俺と対照的に満面の笑みを浮かべていた。
――聞き間違えではない。男は「可愛ええね」と俺に言ったのだった。
「はぁ?」という素っ頓狂な声を慌てて噛み殺し、代わりに眉間に深く皺を寄せる。これでも先輩である立場への者には充分に失礼ではあるが、ここまであからさまに馬鹿にされたのだ。不愉快が顔に出るのは仕方がない。
とりあえずはこの場から立ち去りたくて店に入ろうと歩を進めると、店の裏口に男は立ちはだかる。
「なぁ、真島君」
本名を呼ばれることで、自分のしでかした失敗を鼻先に突きつけられているようで地味に苛つく。そんなことお構いなしに、男は言葉を続ける。
「この後客とアフターとかないんやろ? ほなら一緒帰ろ?」
俺の顔を無遠慮に覗き込む、この男の意図がまるで分からない。
一緒に? ……何で?
男の左耳を飾るピアスが反射する光が視界にちらつき、思考が纏まらない。
俺はやや間を置いて、口を開いた。
「……アフターはないですが……新人なんで、掃除とかありますから」
俺は警戒しながら遠回しに断る。
「ふーん、じゃあ待っとるわ」
男から返ってきた言葉は俺の期待した物とはまるで違っていた。だがそれに反論する前に、男は店の中に消えてしまったのだった……。
○
新人の役目である後片付けをして店を出ると、気温や日の光の明るさ、何より街を歩く人々の慌ただしい様子から、そこはもうすっかり朝だった。
嘔吐してから丁度三十分程経過している。
あの水を差し入れてくれた男は店の中にはいなかったので「待っている」とは言ったものの帰ってしまったのだと思っていた。しかし、俺の予想は再び、いとも簡単に裏切られることとなる。
「真島君、お疲れー!」
男は臙脂のスーツ姿のまま、店から出てきた俺に大きく右手を振った。俺がなんとなく頭を下げると、男は小走りで駆け寄り持っていたコンビニの袋の口を大きく開いて俺に見せた。
「ほら、好きなの選び?」
袋の中を覗くと、おにぎりや惣菜パンや菓子が無造作に入っている。意味が分からずに俺が首を傾げると「朝飯」と男は付け加えた。
正直腹は減っていなかった。しかし、わざわざ買ってきてくれたのであろうことと、一人で食べるには過ぎた量であることから、俺は袋の中に手を伸ばす。
「御馳走様です」と言いながら適当に袋から取り出したのは、パンだった。
「どこに住んどるん? 川沿いの寮? それとも自宅……」
「あの、その前に……」
俺は男の言葉をわざと遮る。このまま男のペースに乗せられる前に、俺にはまず聞きたいことがあるのだ。きょとんとした表情を浮かべる男を前に、俺は短く咳払いして言葉を紡いだ。
「失礼ですが……何とお呼びすれば?」
「あ、ワシのこと?」
自身を指さす男に向かって、俺は大きく頷く。
「『西谷』や」
男は得意げな表情を浮かべて、わざとらしく胸を張る。俺は眉をひそめた。その名はあからさまに……。
「……それ、本名ですやろ?」
「そうや。真島君が本名教えてくれたんやから、ワシかて本名でお応えすべきやん」
「……」
しつこくミスを突かれて、不快極まりない。しかし、朝食まで用意してくれた先輩に楯突くわけにもいかない。
俺はムスリとした表情を腕で隠すために、前髪を掻き上げた。
顔を隠す為の行動だったので、髪を整える意図はない。だからこそ、左薬指の先が髪に不自然に引っかかってしまった。
「あ……」
指が変に擦ってしまったのか、髪を後ろに纏めていたヘアゴムが弾けてしまった。一瞬にして、結んでいた髪が解ける。
俺は大きく溜息をついて、憎々しさを隠さずに舌打ちをした。
短く鋭い音は、目の前に居る先輩の耳にも入ってしまったであろうか。だが、上げていた前髪がバサリと落ちてきて悪戯に頬に触れたことは、さっきから地味に蓄積されていたストレスを逆撫でするには充分だったのだ。
「え? ちょ……え……?」
狼狽えるような響きを含んだ声のする方向に、俺は視線を向ける。
声の主は西谷だった。まあ当たり前のことではある。この場にはそもそも俺とこの男しかいない。
舌打ちしたことを咎められたら深々と頭を下げて謝罪すれば、きっとこの場は丸く収まると思っていた。だが、そもそもだが、西谷の様子が俺の想像とはズレている。
西谷は目を丸くして俺をじっと見つめ、その唇はわなわなと震えていた。
「いや君……それはさすがに……」
「……は?」
「いや、髪が……」
「あぁ、ヘアゴムが切れたみたいで……鬱陶しくてすみません」
「いや! そんなんやなくて……」
西谷は俺の両手を取ると、包み込むように握った。俺達は手を取り合い向かい合う形に合っている。……意味が分からない。
「……え? 何です?」
「だって、しゃーない。そんなべっぴんさんやなんて、ワシ知らんかったから……」
西谷は何を言っているのか? その前に何で頬を赤らめているのか?
「真島君、これからワシの家行こ?」
唐突な提案に俺は面食らうが、とりあえず否定の意志を口にする。
「……えっと、御遠慮します」
「何で? これから何か用事あるん?」
「いや、別に用はないですけど……」
「じゃあええやん」
「いやその……今日は疲れていまして、すぐに寝たくて……」
「ほんなら余計にええやん。どーせ住んどるの、あのきったない寮やろ? ほんならワシの家の方がここから近い! せやからよりすぐ寝られるで?」
「は……?」
西谷は右手で俺の左手だけを強く掴み、歩き始めた。端から見れば、俺達は朝の街を二人歩いている。手を繋いで……。
俺はなんとか西谷の手を振り払おうとするが、西谷の長い指が俺の指にきつく絡んで解けない。俺の手をぐいぐい引っ張る西谷の背中に俺は声をかける。
「あの! 西谷はん!」
「あぁ、『西谷』でええよ。『はん』いらん」
「そういう訳にはいきませんやろ。いつから店で働いてるか知りまへんが、先輩は先輩……」
「確かに店でも人生でも真島君よりは先輩かもしれへんけど、もうワシが君に惚れてもうたから対等や」
「……惚れ……て……?」
想像もしなかった言葉に、俺は驚いて足を止める。
「そそ。もうぞっこんやで!」
言いながら西谷も足を止め、俺を振り返った。
「大好きや、真島君」
呆れるほど真っ直ぐな好意。朝日に照らされた開いた口が塞がっていない俺の顔は、さぞかし間抜けであろう。
西谷の背後には朝日が昇っていた。きっとその所為だろう。西谷の輪郭が妙にキラキラと眩しく見えた。
そんな理由だから……。だから、その人懐っこい笑顔が純粋に輝いて見えたという訳ではないのだ、決して。
こいつは俺のことを何も知らないし、俺もこいつのことを何も知らない。でもきっと……。
「ワシのこと、好きになって?」
厚かましい奴なんだろうということは、なんとなく予想が出来た。
○
「真島ちゃんさぁ、今日家から来てないよね?」
陽の光がオレンジ色に変化していく、夕方十七時。出勤した途端、俺は二階の事務所から呼び出しを喰らった。
そこに待っていたのは不機嫌であることをまるで隠さない、絵に描いたようなしかめっ面を浮かべたグランドのオーナー『佐川司』であった。
「う……」
図星を突かれて、俺は口ごもる。
「仕事終わってどこ行ってたんだよ? そこからはプライベートの時間なんて勘違いしてねぇだろうな? 店の所有物に住まわせてるんだ。夕方からの仕事で全力出すために真っ直ぐ寮で休むのが道理だろ?」
……どうにかこの場を収めなければならない。
あの後、西谷に連れられるまま辿り着いたのは、所謂ラブホテルだったとか。「一緒に風呂入ろ?」と誘われたのを一時間かけて拒否して、最終的には揉み合いというかケンカになったとか。その時の西谷は妙に嬉しそうだったとか。昼までだらだら酒飲みながら下らない話をしたとか。その頃には西谷にすっかりタメ口だったとか。ベッドは一つしかないから、あくまで仕方なく一緒に寝たとか。眠っている西谷を置いて先にホテルを出ながら、結構楽しかったなと思ってしまったこととか……。
素直に話せばとんでもなく悪いことが起きそうな気がする。こういう予感は十中八九当たる物だ。俺は必死で思考を巡らせる。
「確かに、朝仕事終わって……家には帰ってへん」
「んー……。で、どこにいたんだよ?」
「こ、個室ビデオ屋……」
「はぁ?」
「その、なんか……ムラムラして……」
「それで泊まりでヌきまくってたってこと? はー、お前若いねぇ」
佐川の顔がへらりと歪む。軽蔑が含まれた笑みで胸糞悪いが、逆を言うと俺の必死で絞り出したでまかせを信じているということだ。
「まぁ生理現象じゃあ仕方ねぇわな。でもこれからは、コンビニでグラビアでも買って寮で処理しろよ」
佐川が俺の肩をポンポンと叩きながらクツクツと笑う。屈辱極まりない。しかし、この場をなんとか凌げたのならそれで良しと……
突然「バァン」というけたたましい音と共に、事務所のドアが開く。
「真島君、起きたら隣におらんと寂しかったわ! 起こしてくれたら一緒に出勤したんに!」
「……あ?」
「ぅあー…………」
事務所には、首を傾げる西谷と、顔から笑みが一瞬にして消えた佐川と、顔面蒼白になった俺と……。
――そこからのことは、あまり覚えていない。
END