眠れない僕を置いて笑った 御伽噺では、と笑われそうなことだが、アズールは一度、部活の先輩イデア・シュラウドとバスに乗って、麓の街へ出掛けたことがある。いつか遊んでみたいねと二人で話していたボードゲームが、そこへ行けば購入出来ることを知ったからだ。ネットで注文するというのも勿論出来たが、出品元も配送日もどうにも不明瞭で、これは足を運んだ方が手早く確実に手に入りそうだと判断し、そういうことになったのだった。
深海からやって来た人魚としては充分感動したものだったが、バスと名乗るには本数が異様に少ないらしい賢者の島のそれは、帰る頃には乗客でぎゅうぎゅう詰めだった。アズールはいつの間にか、イデアの腕の中に閉じ込められるような体勢になっていた。『ゴメン……、ゴメン、拙者のカベドンとかほんとダレトク…。』といったようなことを仕切りにブツブツと呟いて、普段以上に青い顔をしていたこと、洗濯洗剤なのか彼そのものなのか、ふわふわと香る匂いをいつもより強く感じたことを覚えている。
暗くて狭くて、静かな場所で、一人で居ることが好きだ。やりたいことは余りにも沢山あるし、このご時世、一人で生きていくことなんて何にも悪いことではない。このまま順当に歳を重ねれば、アズールもそうなるつもりでいる。それでも愛に生きる人魚族の端くれなのだろう、正直言って、生涯の親友だとか、運命の相手といつまでも幸せに暮らすとかいうものに、全く憧れがないとは言えない。(どうしてか良く勘違いされるが、双子のあいつらは、別にそういうのじゃないので。)まず、この世に居るのかどうかすら疑わしい、心を許せる相手に出会わなくてはいけないところからのスタートなので、それこそお伽噺のようなものだが。
そんなふうに思って生きてきた。イデアの匂いは、自分だけの寝床だとか、タコ壺だとか、そういうところに招き入れても、これならもしかしたら大丈夫かもしれない…、という予感がするような、そんな匂いがした気がした。
そう思ったら、もう一度確かめたくて仕方がなくなった。
件のボードゲームはプレイ時間の長くかかるもので、部活の時間だけではとても不足した。なのでこれ幸いと、どうしても今日中に決着を付けたいとゴネにゴネて、彼を自分の寮へ招いた。
ゲームの勝者はアズールだった。そんなことが負けた言い訳にはなり得ないが、他人のテリトリーでイデアは、どうにも落ち着かないような気持ちは確かにあったのだろう、終始どこかそわそわとしていた。それでも互いに楽しんで遊んだと思う。わざわざ街まで買いに出向いただけのことはあった。
その後あれよあれよという間に、イデアでも食べられそうな食事を出してやって、シャワーを浴びさせて、持っていた中で一番ゆったりとした着心地のオーバーサイズの部屋着を被せた。なんだか色々言っていたけれど、宥めすかしてベッドで寝かしつけた。アズールと同じシャンプーを使ったとはいえ、一晩くらいそうしていれば、寝床や部屋着には彼の匂いも染み付くことだろう。共にベッドで横たわってなどしていたら、いつの間にかアズールも眠っていた。良く眠れた。
窓からゆらゆらと日が差して、目を覚ますと、布団の中から這い出ていたらしいイデアが、ベッドの端っこで正座をしていた。
「???…おはようございます。」
「…おはよ〜……アズール氏…、」
「え、……何か粗相でもしたんですか?」
「しし、してないしてないッッ!!!しない為にこうなってる訳ですし…!!」
「眠れませんでした?」
「ウーーン、ア〜……、」
視線をいろんなところへやって、昨日の様子なんて目ではないくらいに、落ち着かないを体現しながらそこに座っている。彼の奇行など、さして珍しいものでもないので軽く流してしまうことにする。朝が来たとなればやることは山積みだし、仕上がったであろうその服の出来栄えを、早く確かめたい。その為には、さっさとお引き取り願わなくては。
「イデアさん。僕出掛けるので、支度をしますけど」
「えっ!!も、もう起きるの?早過ぎない…?」
「朝食の前に、日課の有酸素運動を。あなたも行きます?」
「行く訳ないでござる…。」
「でしょうね。施錠するので、あなたも着替えてご自分の寮へお帰りください」
「ハァッ!?勝手過ぎん!?なんだったのマジで……」
掛けておいた彼の洋服を、有無を言わせず手渡した。
彼の入浴中、これを預かった時、『完成したものがこちら』という言葉が過ぎった。陸へ上がってから知った、料理動画の定型文だ。このままこれを吸い込んでしまえたら良かったけど、そんな迂闊なことはしなかった。もし目撃されれば只では済まないだろう。きちんと我慢して、時を待った。そこまで、あともう少し。
アズールがすっかりランニングウェアに着替え終わった頃、イデアも丁度寮服のベルトをかっちん、と止めたところだった。それからこちらに向かって振り向いて、口を開いた。
「アー、アズール氏、パジャマありがとう…。これクリーニングして返したら良い?べ、弁償したらいい…?w」
その腕の中には、アズールが丹精込めて仕込んだ部屋着。それを持って帰ってしまうなんて、あまつさえクリーニングするなんて、とんでもない。表情にこそ出さないが、じわりと手のひらに汗をかく。
「…いえ、気にせず置いていってください。元はといえば僕が我儘を言ってあなたを朝まで引き止めたんですから、そんなことまでは」
「いやまあそれは全くその通りだけど…ww…え何?怖…、とにかくこれは一度預かりますんで」
「いいですって」
「いやいやいいですってホント、ちゃんとやるから、任せて」
「〜〜〜っ、分からない人だな、放せッ…!!これは僕のものですよ!!!もう早く帰ってください!!!」
「ハ〜〜!?なんなの!!?じゃあとで臭くなったとかわるくち言わないでよね絶対!!好きなだけ滅菌するなり自分の手で捨てるなりするがいいさ…!!」
中々引かないイデアについ気を揉んで、部屋着をぶんどって、扉の外まで押し出した。タコは全身筋肉である。人間なんて、ましてやイデアになんて、パワー勝負で負けるはずもない。
「痛い痛いもうそんなに押さなくても帰るっての…!!じゃあねッ!!またね!!」
「はい、また部活で」
無事相撲にも勝ったので、最後はにっこりと爽やかな笑顔で、扉を閉めた。そのまま耳をそばだてて張り付く。てくてく…、と遠ざかる靴音を聞き届けてひと息吐いた。やった。ついに、手に入れた。
緊張しながら一先ずその場で、襟元に鼻先を埋めた。くるりと香るのは、お気に入りのいつものランドリーリキッドの匂いと、その中に混ざった、少し違う匂い。自分の使った部屋着は、こうはならない。
そのままベッドへ持って帰った。イデアがはじめに横たわっていたあたりにうつ伏せで潜り込んで、貸した部屋着で頭を覆い、吸う。………はぁ、……やはりこれは、…なかなか……。芳ばしい。心が安らぐ気がする。なんだか手足の力が抜けて、気持ち良くなってきた。すん、すん、すん、………。
「………ねえ、なにしてんの…?」
追っ払ったはずの男の声を聞いて、硬直した身体が、スプリングの上でビク、と飛び跳ねた。震える腕で目だけを覗かせて、そろりと見上げるとやはり、さっきまでこの部屋にあった青い炎の髪が揺れていた。
「言っとくけど拙者ノックもしたしお邪魔しますもちゃんと言ったからね…、慌てて追い出されたから普通にスマホ忘れて取りに来たんですけど……。…デュフwww、アズール氏ほんと、そういう陰湿なとこ草を禁じ得ない…w」
言いながらイデアは、無作法にもずかずかとベッドに上がってきて、どんどん逃げ場がなくなる心地がした。何を笑っているんだろう。衝撃の余りおかしくなってしまったのか?取るべき行動の判断がつかずに固まる。近寄られてやっと、彼の毛先が普段見ない、桃色に染まって弾けて燃えていることに気が付いた。
「僕の匂いがすきなの?」
「……ご、ごめんなさ、」
「怒ってないよ。大丈夫だから教えて」
「…はい、……」
厳密に言うと、それを確かめたくてこうしていた。まだ自覚があったわけではなかったのに、そう言うしかない気がした。彼の声はこれまで聞いたことがない程柔らかく穏やかで、優しい顔をしていた。
「あのさ、……ぼ、僕もすきだよアズール、…抱き締めてもいい…?」
え。…何が。話が飛んではいないだろうか。どうやら咎められはしないらしい…、ということをなんとか感じ取ったばかりで、とてもついていけていない。
いつの間にかのしかかられるような体勢になっていて、アズールの顔のそばで、彼の手がベッドについている。それはいつかのバスの中のようだったけど、今度は長い髪にも覆われるように囲まれて、温かい大きな手のひらが、アズールの返事を急かすように頬を撫でた。
「は、……はい、…」
そう言った瞬間、さっき残り香だけでくらくらしてしまった程の、もはや大好きなそれが、抱えきれない程降ってきて、ぎゅう、と全身捕まった。そうして陸でも骨抜きになった。