近くて遠い 頼まれていた今日の仕事を粗方終え、グッと伸びをしてから先程まで書を認めていた筆を机に置く。
ふと障子の間から覗く空を見上げてみれば、お天道様がいつもよりもだいぶ高い場所で地を照らしていた。こんなに早く仕事を終えたのは、本当にいつぶりだろうか。
何故こんなにも今日は仕事をすんなり終える事が出来たのだろうかと、今日の一日を振り返ってみてふと気付く。
……今日は、あのバカ摂政の顔を一度も見ていない。
大方、最近ずっと外で遊びにかまけていた太子のことだから、今頃は馬子様の元で溜まりに溜まった仕事をせっせと片付けている最中なのだろう。
それにしたって、太子が仕事中にちょっかいを出してこないだけで、こうも変わるものなのかと。僕は隋へ旅立ってからという波瀾万丈な日々を思い出し、思わず深い溜め息を溢してしまう。
まぁどちらにしろ、今日はこんなにも早く仕事を終わらせられたのだ。いつまでもこうして物思いに耽っている場合では無いのである。
机上にあった仕事道具を片付け、いざ帰ろうと机の前から踵を返した所で、まるで金縛りにでもあったかのようにその動きが止まる。
自分でもそれがよく分からずにまるで他人事のように戸惑うものの、踵を返そうとした足は中々思い通りに動かない。
暫くの間そうしていれば、不意に同僚の声が耳を掠める。
数人で話しているのだろうか。何やら盛り上がっている様子である。
とはいえ今の状況下、会話に混ざりに行くことも出来やしなさそうなので、心の中でその同僚にひっそりと謝りながら会話に耳を傾けた。
「いや〜、今日の太子ってば何だか凄いみたいで」
「えっ、そうなのか? いつも小野と外に居るイメージしか無かったが」
「知り合いから聞いたんだが、なんでも1ヶ月分の仕事を物凄い速さで終わらせてるらしくて」
「お、おう……何というか、流石太子というか……」
「普段からああだったら裴世清殿との面会の時も……」
段々とその話し声は遠ざかっていき、やがて言の葉一つも耳に入らなくなった。
……あの太子が、そんな真面目に仕事を……?
にわかには信じがたい……が、あんな話が出ているくらいだ。きっと本当なのだろう。
太子が仕事をしている姿だなんて、冠位五位の自分は勿論目にする事は出来ないけれど。あの人もあの人なりに、頑張っているんだなぁなんて薄ら思いながら、いやいやと頭を振り考え直す。
そうだ、今はまずこの言う事を聞かない足への対処が先決である。流石にいつまでも朝廷内に留まり続ける訳にはいかない。
今度こそ覚悟を決めて、踵を返し一歩進んだ所で、今度はよく見知った同僚の声が背後の方から投げ掛けられた。
「妹子さん、そんな所でどうしました?」
声に釣られて振り返ってみれば、僕の予想通り、その声の主は調子丸くんであった。
「仕事終わったから、そろそろ帰ろうと思って……」
「……妹子さん、結構前に仕事終わってませんでしたっけ?」
「う……」
それを言われてしまうと、何も返す言葉が見つからない。
僕の視線が宙を向いている事に気付いたのか、調子丸くんは少し困ったように笑った後、ひっそりと小声で言った。
「この前の宴会で出したお酒が余ってるんです。良ければ一緒に飲みませんか? きっと良い気分転換にもなりますよ」
なんて笑いながら調子丸くんが言うものだから、僕は思わず食い気味に聞き返してしまう。
「え、だって……貰い物でしょ? 気持ちは有難いけど、流石に調子丸くんに悪いし……」
「一人で飲むより、誰かと談笑しながらの方がお酒の味も美味しくなりますから。気にしないで下さい」
「え、あ……じゃあ、お言葉に甘えて」
結局上手く丸め込まれ、その言葉に首を縦に振る。それを見た調子丸くんはといえば、嬉しそうに顔を輝かせ、あっという間にテキパキと準備を始めるものだから。誘ってもらったとはいえ見ているだけは流石に悪いと思い、その小酌の準備を手伝った。
二人で用意すれば意外とすぐに場は整うもので、調子丸くんが用意した日本酒を相酌し、盃を交わす。
空を見上げてみれば、いつの間にかすっかり陽は沈んでいて。何にも遮られる事のない満点の星空の上には、満月が浮かんでいる。
確か、今日は十五夜だった筈。今頃太子も、こんな風に月を見上げているのだろうか。
……と、いけないいけない。隣に同僚が居るのに関わらず、酔いが回っているせいかどうにも別の事ばかり考えてしまう。
「調子丸くん、ありがとうねお酒……って、あれ?」
慌ててお礼を言おうと調子丸くんが座っていた方を見やるも、そこに彼の姿は無い。代わりにそこには、何かの紙をちぎって急いで書いたようなメモらしき物が一枚。心なしか文字が滲んでいる。
それを手に取って目を通して見れば、そこにはつらつらと「胃の調子が悪いので帰ります。残ったお酒はお好きに飲んで下さい」……要約すればそんな事が書かれていた。
まだ酒瓶にはたっぷりと酒が入っているものだから。いくら僕がお酒が強い方の人間だからといって、これだけ飲めば明日の仕事に支障をきたすに違いなかった。
誰か飲む相手でも居れば……もう朝廷内には同僚なんて残っていないだろうし。太子は……そうだ、仕事だ。
何だか一日会わないだけで、こんなにも太子の存在が自分の中で大きかった事を突きつけられたような、そんな気がする。相手は摂政。本当は僕なんかがお目にかかって良いような人でも無い。けれど、あの人は好きな時に摂政命令を使って僕を呼び出して。……太子との距離は、何だか近いようで遠いのだ。
「あのバカが……」
そう溜め息混じりにぽつりと呟いた僕は、盃に残っていた酒を一気に煽る。
ぼんやりとした意識の中、背後から今日一日中頭から離れなかったあの人の声が、投げ掛けられたような気がした。