僕と太子と竹中さん「太子ー! どこに居るんですか〜っ!!」
僕を呼ぶ声……ではなく、太子を呼ぶ声で目を覚ました僕。ふと手元に視線を落としてやると、机一杯の書類が目に入る。
想定外の事態に思わず声を上げてしまいそうになるのをグッと堪え、一先ず1番上の書類を手に取り眺めてみる。
……あれ、この書類って、だいぶ前に僕が太子に渡した筈じゃあ……。
何か不備でもあり戻ってきたのだろうかと考えたものの、それは無いだろうとすぐに首を横に振る。
それなら訂正箇所ぐらい事前に伝えられて渡されるだろうし、そもそも僕は昨日その日の分の仕事をきっちり終わらせて帰った筈である。
……なら、今のこの状況は何だ?
夢かと思い頬をつねってみるも、痛みは健在である。あまりの惨状に思わず溜め息を吐き、何だかどっと疲れが押し寄せて来たのでそのまま床に寝転べば、心地の良い眠気がさしてくる。
「いやいやいや、仕事ォ!」
放っておいた書類の山を不意に思い出し、寝ている場合じゃないと慌てて起き上がる。
眠気覚ましに池の水で顔でも洗おうかと思い立ち、ゆったりとした足取りで屋敷の近くの池へと向かう。数分程歩けばその目的地へと辿り着き、身を乗り出して水面を覗いてみる。
そこには、太子の顔をした僕が映っていた。
比喩でも何でもない。言葉の通りだ。
「え? ……これ、まさか」
……入れ替わっていたり、するのだろうか。
よりにもよって、僕と太子が?
ペタペタと顔を触ってみる。頭には見慣れたあの冠が乗っているし、ジャージの色だって青だし。
そして何より、いつもと視界が全く違う。
非常に遺憾だが、太子の方が背が高いのは事実なので、今のこの状況はちょっぴり楽しかったりしなくもない。……本当に、ちょっとだけ。
……ああ、どうしたものだろう。
本来なら今日は日曜日、よくよく考えてみたら出勤せずとも家でのんびり出来た筈。
という事は、仮にもし僕と太子が入れ替わっているのならば、今頃中身が太子の僕は家に居る筈である。
「はぁ……どうしてこんな事に……」
思わず溜め息を吐くものの、そんな事をしていても何も状況は変わらない。
とりあえず太子の山積みの仕事でも終わらせといてやろう。それで、この身体が元に戻ったら、沢山文句言ってやる。
そんな決意の元、僕は大量の書類が積まれた机に向かった……のだが。
書類の善し悪しぐらいなら分かる。明らかに自分に有利な案を通そうとしている輩も居れば、真面目にこの倭国の未来を考えたのであろう法案まで様々だ。
しかし、外交関連の書類だけは、僕だけではどうしようも出来ないのである。
前の随の件では、大国随が相手だった為おおよその察しがついたものの、高句麗や百済、新羅といった地域への応対。こちらが優位に立てるように、しかし反感は買わぬように。
その塩梅が上手い事定まらない。
普段……といってもあまり仕事はしていない太子だが、こういう場面でふと、あの人は摂政なのだという事を再認識する。
机に山積みになって置かれた本の山の中には外交術に関して記載された本もあり、外交が苦手だと言っていたのにも関わらず、今の今まで倭国が他の国に粗相をしたという話は耳に届いた事はない。……裴世清殿とのいざこざは無しとして。
「太子、今日はそんな所で良いんじゃ……?」
ふと、背後から声をかけられ振り向いてみれば、そこには見慣れた同僚が立っていた。
どうやら、珍しく仕事をしている様子を見て気を遣ってくれたらしい。優秀な同僚である。
変に取り繕って話しても違和感を与えてしまうだけだろうと判断して、僕はその言葉に頷くだけに留める。まぁ残りの仕事は、太子が片付けてくれるだろうし。
僕はそう思って席を立ち、特にもう用は無かったものの、何となしにまた例の池へと向かった。
池へと向かうと、先程は無かった人影が水面に映っている。大方の予想は付いているものの視線を上げてみれば、そこにはやはり推測通りの人物が居座っていた。
「竹中さん、どうしてこんな所に……?」
「太子が、イナフに会ったら伝言をお願いしたいと言ってきたからだ」
「いや、だから僕は妹子です……って、太子が!?」
この状態の僕を見ても動じていない事から、恐らく太子から大体の事情は聞き及んでいるのであろう。……それにしたって冷静すぎな気もするが。
「そうだ。太子の未来予知によると、明日には入れ替わっているのも元に戻るらしい」
「うげっ……なんか信じたくない情報源だな」
「だからといって一生このままでも困るだろう?」
「そ、それは……そうですけど……」
今日、改めて実感した。
己の知識不足、自分の力量じゃ到底太子に敵わない事も。
「まぁ気楽に考えれば良いさ」
「気楽にって、そんな簡単に……いや、良いかもしれませんね、それも」
そんな事を薄ぼんやり考えながら、竹中さんと暫く思い出に花を咲かせていれば、いつの間にやらもう日が沈みそうである。
流石に屋敷に戻らなければと思い慌てて僕が駆けていくのを、竹中さんは手を振りながら見送ってくれた。
屋敷に戻ってみれば、案の定太子を探してあちこちを探し回っていた同僚に怒られ、流れるように寝室に連れて行かれる。
……この手際の良さからいって、慣れているのだろう。思わず溜め息が出そうになるのを堪えて、寝室へ足を踏み入れる。
それを見届けた同僚は、2、3度こちらに忠告をした後に去っていった。
僕はそのまま布団に身を任せ、目を閉じる。
何だか必要以上に疲れた1日だったからか、すぐさま眠気が身体を支配した。
僕はそうして、意識を夢の中へと手放したのである。
そうして訪れた翌日、目を覚ませば見慣れた家の天井が視界に映る。
「戻ったのか、僕……」
服を見てみれば、それは見慣れた赤ジャージで。何だかんだでしっくりきてしまうのが、何だかちょっと腹立たしい。
「妹子、やーっと起きたか」
「え? ……ちょっ、太子!?」
何故こんな所に、と聞く前に、太子は変わらずこちらを見ながら話を切り出す。
「いや、やっぱりちょっとは心配だったし。それで摂政の私自ら来てやったって訳! 感謝しろ!」
やたらドヤ顔でそう言い放ってくる太子に、僕は先程剥いだばかりの布団を今度は頭まで被る。
「太子のバカ」
「え、えぇ……?」
布団越しに、困惑したような声が聞こえてくる。太子は数巡の後、ふと思い立ったように声を上げて。何を思ったか、僕の布団を勢いよく取り上げた。
「あっ、ちょっ……!!」
「あれ、妹子顔赤くな……」
「うるさい殴るぞこのバカ摂政!!」
「あっまたバカって言った!」
僕は相変わらず頬を桜色に染めて、唇をギザギザに結んだまま、太子の方から視線を逸らす。
ああ、やっぱりずるい、この人は!