「一手、ご教授願いたい」
木剣を持って、トラキア王が立っていた。背後の騎士たちが、ひそかにざわめく。非礼だと思いながらも、しかし聖戦士直系同士の立ち合いである。行儀よく直立しながらも互いに目配せをしあい、こっそりと肘で小突きあっている。誰もが期待を込めて、主人と客人を見つめていた。その彼ららしからぬうわついた様は主君の眉を顰めさせたが、しかし気持ちはわからないでもない。背後に控えたパピヨンだけが、いつものように、少し困った顔をしていた。
「剣は不得手でな。鍛えていただけるのなら、ありがたいのだが」
そんな畏怖と敬仰、憧憬の視線の水位が高まるなかで、この男は傲然と笑ってみせた。嫌な男だった。おのれの持つものをしっかりと理解し、最大限に利用する術をつけている。それが小面憎かった。エルトシャンのような男からすれば、なおさら。なぜとっととこの男の首を落としていないのかと、エルトシャンはこの場にいない親友に内心悪態をついた。
断ろうかとも思ったが、こうも周りに期待されてはそれも難しい。だからいきなりこんなところで申し出てきたのだろうと思えば、それも腹立たしいものだった。勝手な男だ。そう思いながらも、エルトシャンは諦めて承諾した。
「謹んで請け負おう」
その答えを期待していたのだろう、クロスナイツの若者が、内心の喜悦を隠せずすぐさま木剣を差し出した。その軽々とした仕草はやはり褒められたものではなかったが、叱りつけるほどでもなく、諦めてそれを受け取った。ただ、今日の調練は厳しめにするように通達しておこうとだけ思った。
トラバントが槍を得手とするように、エルトシャンは剣を得手とする。それは、彼らの血の奥深くに刻印されたものだ。そう言った意味では、エルトシャンに剣での立ち合いを挑んでくるこの男は、どうにも嫌味なものだった。槍を持ってくるのならば話はわかる。だからエルトシャンは正直その瞬間まで、相手のことを甘く見ていた。それがトラバントが合図とともに木剣を構えるに至り、本能がエルトシャンの全身に警告を発した。そうして相手が地を蹴った瞬間、それは脳内を劈かんばかりの轟音となっていた。
この男、剣も遣う。それはエルトシャンにとって意外だった。なにが不得手だこの狐。いや、ハイエナか。素速い踏み込みと的確に振り下ろされる剣を捌きながら、エルトシャンは舌を巻いた。一撃一撃が重い。そのくせ剣に気を取られると、すぐさま蹴りが飛び、左手が服の裾を狙ってくる。なんだこいつ。なんだこいつ。国王同士の立ち合いだぞ。少しは遠慮ぐらいしないのか。多少当たったところで司祭はいるが、それにしたってどうなんだ。大体なんだこの太刀筋。喧嘩殺法ではないか。足癖も悪い。品がない。これが王者の剣か。師匠の顔を見せてみろ、即座に首を落としてやる。こんなところでよその国王相手に披露するものか。空気を読めこの馬鹿。畜生。「親善試合」でこんなことをするか、士官学校の学生でもあるまいし──
そう思った瞬間、エルトシャンの胸中に火がついた。防衛一方に回っていたのをやめて、今度は大胆に踏み込んだ。剣の間合いに慣れていないトラバントの手元に飛び込んで食いつき、距離を取らせようとしない。一手一手の遅れの積み重なりがとうとう許容しきれなくなった時、トラキア王の喉もとに、ついに木剣が勢いよく突きつけられた。紙一重の距離はそれこそ「親善試合」にはあり得ないものであったが、構うものかと思った。
「お見事!」
しかしトラバントは気を悪くもせず、笑って木剣を手放した。負けたにも関わらず晴々とした笑顔で、それがかえってエルトシャンを不愉快にさせた。
エルトシャンが黙って背を向けたので、トラバントは一瞬鼻白んだ。エルトシャンは無言のまま兵卒から訓練用の槍を受け取ると、トラバントに向かって乱雑に放った。
「一手、ご教授願いたい」
返事も待たず、エルトシャンは重心を下ろした。
「槍は不得手でな。鍛えていただけるのなら、ありがたいのだが」
きょとんと目を丸くしたままのトラキア王に対し、ノディオン王は高慢に言った。断られるなどとは、微塵も思っていなかった。手のひらを持ち上げて「来い」と挑発する。それも国王としては品のない所作ではあったが、もはや知ったことではなかった。ハイエナに礼儀など、払ったおのれが馬鹿だった。
「キュアン相手に、槍では一本しか取れない」
次は二本取りたい。エルトシャンが平然とそう言うので、トラバントが口の端を釣り上げた。口笛でも吹こうと思ったのか一瞬唇が窄まり、しかしすぐさま元に戻った。流石に品位にかけるとでも思ったのだろう。今さらだこの馬鹿、とエルトシャンは胸中で毒づいた。
「三本取れるようにしてやる」
トラバントが、言うと同時に地を蹴った。さすがにダイン直系の面目躍如と言ったところだろう。エルトシャンは槍についても決して凡庸な使い手ではなく、その自負もきちんと持ち合わせていたが、しかしそれでも全ていなされた。十分に鋭いはずの突きが、あっさりとかわされる。薙ぎ払いを受け流される。そうして打ち合いを重ねて行くうちに、ついに相手が反撃に出た。ただの樫の棒が驚くほど自在に動き、思考の死角から飛び込んでくる。その速さも尋常ではなく、かわしかねて金髪が数本散った。当人に似て意地の悪いやり方だと悪態をつくものの、しかし捌くのが手一杯である。エルトシャンは粘ったものの、ついに一本取られたが、悔しさもなかった。恐ろしいほどの爽快さがあった。弾ませた息の中に、充足した長い吐息が混じる。汗に濡れた肌を初夏の風が掠めるのに、エルトシャンはわずかだけ瞼を閉じた。見れば流石にトラバントも肩で息をし、汗みずくになっている。
「ここまで全力で撃ち合ったのは久しぶりだ!」
やはりおそろしく嬉しそうに、トラバントは笑った。それは実際にそうなのだろう。その孤独は、エルトシャンにもわかった。エルトシャンとて同様だった。アグストリアでは、士官学校のあの煌く季節に感じたようなときめきはなかった。誰もがエルトシャンを一等高いものとして扱い、優れたものだとして、自分と同列だとははなから思いもしなかった。──シャガールですら。むしろシャガールこそが、それに囚われている節があった。
だからこの男が初めて対格の存在を得てどんな気分になっているかは、エルトシャンには少し想像がついた。笑うともともと細い目がきゅっと細まって目元が下がり、口が大きいので、案外愛嬌のある顔になる。それに好感を持ってしまったことが、いささか複雑なものだった。
「滞在中、また構ってくれると嬉しいのだが」
いい立ち合いだった。そう言ってトラバントが手を差し出すので、エルトシャンは仕方なくそれを握った。一連の非礼のお返しがてらと力任せに握り返したが、トラバントは気を悪くした様子もみせず、かえっておかしそうに笑っていた。感嘆の息を漏らす騎士団をよそに、背後のパピヨンだけが、やはり変わらず困ったような顔をしていた。