薄暗い廊下を歩きながら、王子はながながため息をついた。二組の長靴が、石の床に硬い音を立てている。日頃慣れた廊下であるくせに、王子の足取りには、わずかばかり元気がなかった。こっそり窺った顔のなかでは、薄い唇がわずかに尖っている。もう子どもでもないのだからおやめなさいと男はときおり言い、実際に他者のまえでは王子のその癖はなりを潜めていたのだが、男と二人きりになると、どうも気が抜けるのだろう。だからかすかに盛り上がった唇に、男は少し苦笑した。
先だって父王の暗殺騒ぎがあったので、王子の単独行動はきつく戒められていた。だから何をするにも連れが要り、その必要性については王子も重々承知しているのではあるが、しかし何事も程度というものがある。だから、
「まったく、何が悲しくてこの歳になって厠に連れなど……」
とぼやくのも、まあ仕方のないことだろう。厠ぐらい一人で行きたいものだが、しかし用を足している間の人間というものは、いかにも不用心なものである。むしろ厠ほど油断のできぬ場所もなく、そうしてそれは、ぼやいた王子自身も理解していた。とはいえ、それで気分の慰められるものではないのだろう。王子は心底情けなさそうな表情を作ると、また長い息をついた。
「でしたら、言われた通りに携帯便器をご利用になればよろしかったのに」
「部屋ですれば臭いが籠るだろうが! それに、するたび侍従にいちいち始末をさせるのも気が進まん。見られたいものでもないではないか、あんなものは」
「わがままでいらっしゃいますねえ」
ほう、と、男も大きくため息をついた。男は王子の乳兄弟で、王からも信頼の厚いものだったから、この度は護衛として起用されたものである。王子はこの男とことのほか仲が良く、それ自体は好ましいことではあったのだが、しかしひとりの家臣を贔屓していると取られかねないこの行動について、父王は時折苦言を呈することがあった。けれどもこの度は、背に腹はかえられないとのお考えなのだろう。そのあたりの機微は男も理解はしていたため、複雑な表情の父王の命を、神妙に承った。そんな男の肩を叩いて、まあよろしく頼むと王はため息をついていた。結局は王も、ひとりの父親であるということだった。
一方の王子は、気兼ねなく男を引きずりまわせることに、少しはしゃいでいる節があった。そうしてその気分の高揚を誤魔化すように、口先ではあえて不平を鳴らしている。それは王子の気恥ずかしさであり、男に対しての甘えであった。男も王子とは、産まれた頃からの仲である。そう言ったところも、やはり理解してはいた。トラキアの王太子という難しい立場で、日ごろ大人びたそぶりばかりをしていても、こういう時にはまだまだ歳若さが隠しきれないものだろう。そう思えば男には、悪態すら微笑ましいものだった。
「ずいぶんと大きくなられたことですな、昔はおひとりで厠にも行けず、よく私を起こされたではありませんか」
ねえ、ねえ。厠行こうよ。行きたいでしょ、おまえも。ねえ。夜中に寝ているところに、何度もそうせがまれて手を引かれたことを思い出して、男はかすかに笑った。城の厠と言うのは臭気や汚物の排出の都合もあり、どうしても壁際、奥まった外れに配置されることが多い。ましてトラキアの城というのは廊下の明かりも薄暗く──それこそ、爪に火を灯すような生活をしている──、幼児には恐ろしいものだった。今でこそ主君は剛毅の沈着のと言われているが、幼い頃はいたく怖がりであらせられた。それを思いだせば、不敬にも口角の上がるものである。その気配を感じ取ったのだろう、
「む、昔も昔のことだろうが」
と、王子は色をなして反論した。このくらいのことだぞ、と王子は憤慨しながらの膝を指し示して見せたが、それはどう見ても詐称がすぎると言うものだった。腿ぐらいにはなっていたと思いますがと男は正直に返したので、主君に下唇を突き出させた。
「用を足されている間も、御用心深くいらっしゃったことで。厠の中から、いるか、いるか、本当におまえいるのだなと、ずうっと」
「しつこいぞ」
「いつのことでしたっけ、私がお答えせず黙っておりましたら──」
「おい!!」
王子が慌てて遮るので、男はついに吹き出した。この年若い──と言っても数ヶ月しか違わないのであるが──主君が精一杯虚勢を張っているのを、男だって知っている。それがおのれの見栄ではなく、国のため、家臣たちが安心して着いていける王となるためであることも。その厳しさやつらさも、男はむろん知っていた。だからこんな時ぐらいは、せいぜいからかってやろうと思うのだ。──主君の詰めていた息を、そっと解かせてやるために。
「あのおかわいらしい殿下はどこへ行ってしまわれたんでしょうかね」
「こっちが聞きたいくらいだ、あの優しい「兄様」はどこだ、かげもかたちもない」
それを察するところがあるのか、王子は非礼は咎めずに、わざとらしいため息をついてみせた。つまるところ王子のがわも、うまく甘えているのである。冗談であろうとも「兄様」などという呼称は父王に聞かれれば大目玉であったものだから、ふたりは誰もいない廊下でこっそり目配せすると、ちいさく声をあげて笑った。
「だいたい、亡霊なぞいたとすれば俺の周りは死霊だらけだぞ。トラキアの玉座など、何人侍っているか知れたものかよ」
「それはそれは満員でしょうねえ、歴代の皆様をおうらみのかたも少なくはないでしょうからね」
「まったくだ。だいたい、まず各人が未練がましくしがみついていそうなものだが」
「陛下の足元にも、そら、この間のが」
「おい!」
王子は不本意そうに声を荒げたが、一瞬不安そうに足元に視線を走らせた。それが隠しおおせたとは思っていないのだろう、王子は少しばかり顔を赤らめて、
「いるものかよ、死霊など」
と、いつも以上にぶっきらぼうに言い捨てた。
「さてどうでしょうね。私も王子も、死んだことがあるわけではありませんから。死後のことなどわかりませんよ」
「……なるほど、死ぬまでわからぬままか。なんともつまらぬ話だな」
「ブラギの司祭などは、魂は生まれ変わるなどと言いますけどね」
「なら、例の聖杖で甦るのはどうなのだ。今はもう、失われてしまったと言うが」
「さて、生まれ変わるまえのを捕まえて、もう一度復活させるんですかねえ」
「む……」
王子は少し考え込んだ。主君は昔っから、こういう細かいところに引っかかったら、ずうっと気にしている類の子どもだった。王にはときおり苦言を呈され──王がやくたいのないことに対する思考やこだわりというものを変に表に出せば、振り回されるものも出てくる──、本人も表立ってはそのようなそぶりは潜めていたが、しかし本質というものはそれほど変わるものでもない。それを思い出せば、懐かしさに男の唇もほころんだ。付き合ってやろうと思った。
「では、こういたしましょう」
「うん?」
「私が死んだら、殿下の元に化けて参上いたしますので。それで証ということに」
王子はきょとんと男の顔を見つめたが、やがてかすかに苦笑した。
「また、随分とのんびりした話だな」
「いまのところ、知らずともなにか害があるわけでもありませんから。何も慌てて確かめるものでもありますまい」
まあ、こんな怖がりを残しては、そうそう死ねませんからね。そんなことを言った男の背を主君が本気で叩いたので、男はつんのめった。階段でのことであったので、それこそ死霊になりかけた。