娘が、十八になった。
それをひとつの節目とすることを、トラバントは決めていた。いずれ、避けられないことである。だからトラバントは、血を吐く思いでその日を決めた。それでも、どれほどこの日が来てくれるなと、祈ったことかしれない。それでもその日はやってきた。すなわち、初めて娘が、戦場に出る日が。
任務そのものは、山賊の討伐という他愛もないものである。もしものために、信用のできる部下もつけた。だからまず、そういうことはないだろう。しかし結局それが、一度これを済ませればいいというようなのものではなく、今後娘が戦場で過ごすその一歩でしかないこと、そうして今は甘いものである戦場が、いずれどんどん厳しく、責任の重い、生き延びることの難しいものへと変わって行くことを、むろんトラバントは知っていた。
トラバントとて、なるべくならそのようなことは避けたかった。しかしトラキアのような国で、それが許されるはずがなかった。まして、民が必死になって育てた子どもを親の胸からむしりとって戦場に投入してきたような男が、それをおのれの子だけはと言う訳にはいかなかった。だからトラバントは、それを決めた。息子の初陣は十七であったし、おのれのそれは十五であった。娘ばかり先延ばしにしていることはできなかった。おのれがもし、北トラキアをフリージに奪われるような無様をしていなければ。もし、もっと国を豊かにできていれば。そうすれば、こんな目に合わせなくとも済むのに。息子も、娘も。そう思えば、苦さもいや増すものである。とはいえ娘のまえで露骨にその思いを出すこともできず、トラバントは腕を組んだままむっつりと押し黙っていた。
アルテナはいささか緊張した面持ちで、そんな父親の様子を見つめていた。呼び出したのはおのれであるのに、こうも黙られては向こうも困るだろう。だから、トラバントは覚悟を決めて、机の上の包みを指し示した。
「おまえに、渡しておきたいものがある」
開けなさい。アルテナは頷いて、慎重に包みを解いた。古ぼけた麻布の中には、槍が一振り包まれている。古めかしいが、しかしよく手入れのされた、細工の立派なものだった。──グングニルに、少し似ていた。
「あやつれるか」
大振りの穂先は確かに、いささか均整が悪くも見える。だからアルテナは小さく頷いて、おそるおそる柄に触れた。しかし槍は、まるで彼女の手にあつらえられたように吸い付いた。重さなど、まるで感じはしなかった。
すっと、アルテナは静かに構えてみた。槍は、今まで扱ったどんなものよりも、彼女に馴染んだ。そうして一度振ったとき、その感覚が爆発するように彼女の中に広がった。槍の穂先から石突まで、すべてをおのれの体のように感じた。今まで離れていたのが、不思議なくらいだった。だからアルテナは、その離れていた時間を取り戻すような気持ちで、夢中で槍を振った。
「──扱えるようだな」
父親に声をかけられて、アルテナはようやく手を止めた。そうしてかすかに上がりかけた息と、高揚する心でもって、
「私、父上の娘ですから。どんな槍も、使えないはずがありません」
と、誇らかに笑った。この槍を手にしていると、不思議と万能感のようなものが湧いてくる。それが、娘にそんな強気を口にさせた。ならばそれは、今日からおまえのものだと父親が言うと、娘はぱあっと顔を輝かせた。
「でも、兄上を差し置いて、私がこのような立派な槍をいただくわけには」
「なに、いずれあいつには、わしのとっときをくれてやる。──それで昔、おまえにはずいぶんと泣かれたものだったが」
「まあ、お人が悪い。昔も昔のことではありませんか」
ずるい。あにうえだけずるい。グングニルがつかえるなんて。ちちうえとおそろいだなんて。わたしばっかりなかまはずれなんだから。そう言いながらおいおいと泣いたことを思い出したのだろう。赤面するアルテナに、トラバントもまた、そんな娘を息子と一緒に必死で宥めたことを思い出した。大丈夫だよ、アルテナ、僕たち家族だもの。そう妹を慰める息子はまだそのとき真実を知らず、だから父親だけがひとり、後ろぐらさを抱えていた。
息子にはやがて事実を教えたが、やはり娘には言えないままだった。言えないままトラバントは、娘にゲイボルグを渡そうとしていた。レンスター直系、ノヴァの聖痕を持つものにしか扱えない、その槍を。当然迷いもあったが、しかしトラバントはそれを持たせた。娘の命がかかった局面で、それを渡さないと言う選択肢は、トラバントにはなかった。
「良い槍だ。──あいにくと、わしの槍ほどではないがな」
「グングニルほどの槍を打てと言われたら、トラキア中の鍛冶屋が頭を抱えてしまいます」
アルテナは苦笑して、槍を抱きしめた。それからふと槍を見つめ、しばらく考え込んだ。
「どうした」
「あたたかい気がします。あたたかくて、なつかしくて、なんだか泣きたくなるような」
トラバントは、ちいさく唇を噛んだ。その感覚に、トラバントも覚えがあった。初めて神器を握った時に、おのれにつながる血のすべてが流れ込んでくるような、そんな不思議な気配を感じたものだ。そうしてやはり、あたたかいと言ったとき、父親はそうかと、うれしそうに、そしてどこか寂しそうに微笑んだものだった。そうして何も言わず、息子のくせのある髪をぐしゃぐしゃとかき回した。そのときの父親の顔を、いまでもトラバントは覚えている。血を受け継ぐと言うことは、畢竟そう言うものなのだろう。だから娘がいま知らず受け継いだものを思うと、トラバントの胃の腑が鉛でも流し込まれたかのように重くなった。喉が、かすかにひりついた。
「──気の弱いことを言っているようでは困るな」
「大丈夫です。私も、この日のために鍛えてまいりました。けして無様な真似はいたしません」
「ずいぶんと大きく出たものだ。まあ、それでいい。部下の前では弱気など、決して見せてはならぬゆえな。部下は命をかけて、おまえの言うことに従うのだ。おまえが頼りないようでは、半分の力も出せぬ」
娘は深く頷いた。トラバントはその返事に満足したが、しかし娘は本当にわかっているだろうかと、やはり心配になりもした。今日このときまで、娘は立派に育ててきたはずだ。大丈夫。野盗討伐程度、どうと言うこともない。そう思っていてもなお、不安というものは拭えない。かと言って油断も禁物だ、それに弱気は見せるなと言うが、忠言は聞かねばならぬ。それと飛竜は。雨霰のように言いながら、トラバントは苦虫を噛み潰した。長くなり始めている。その自覚は、トラバントにもある。しかし止めどころがわからなかった。なにせアルテナは、初めての戦である。ひとつ伝え忘れてしまったがために、万が一のことがあったらどうしよう。あれは伝えたろうか。これは伝えたろうか。そう思うと切り上げどきが、おのれでもまったくわからなかった。それでも、じつのところ娘は父親のそういう部分を知っていたものだから──兄にも、今日は長くなるぞと念を押されている──、アルテナはしっかりと聞いていた。実際ためになることではあったし、その言葉の長さの正体も、アルテナはきちんと知っていた。だからアルテナは槍を抱きしめて、愛しそうに微笑んだ。
「なんだか、父上に見守られているような気がします」
「そうだな。そうか。──それもそうだろうな」
答える唇が、わずかに震えた。鼻の奥に、かすかに砂の匂いを嗅いだ気がした。知っている。ノヴァの加護など、何の意味もない。そんなものはこの娘の父親と一緒に、砂の下に埋もれている。神器など所詮、たかがその程度のものでしかないのだ。そんなものは、誰よりもおのれが知っている。だが。だがたのむ。たのむ。たのむキュアン。たのむ。たのむから。おまえの娘だ。わかるだろう。たのむ。たのむ。
「──きっと、おまえを守ってくれる」
アルテナは、笑って頷いた。その顔が誰に似ているのか、記憶の底から浮かんだ顔を、トラバントはそっと沈めた。