僕たちの室内中天嫌な予感がした。
203号室。大瀬さんの部屋の前を通ったとき。
僕は暇だったから、負荷を探して歩き回っていた。
大瀬さんに絡みに行こうかと思っていた矢先のこと。
まずはとりあえずノックをした。返事がなかったから、入りますよー、と声をかけてからドアを開けた。
そこには踏み台に乗って吊られた輪っかを持っている、あと3秒で首をつりそうな大瀬さんがいた。
頭より体が動いていた。部屋の奥の方にいる大瀬さんめがけて突進し、大瀬さんの下腹部にクリーンヒットした僕の体は、バランスを崩した大瀬さんと共にゴチャゴチャの部屋の上に倒れ込んだ。
「いったたた……ちょっと大瀬さん、何しちゃってんの?!」
「何って……死のうとしてたんだけど……そんなこともわからないの?」
いちいち物言いが腹立つ。眉毛をぴくぴくさせながら、僕の下に敷かれている大瀬さんに顔を近づけた。
「命の危機から助けてあげたんだから、感謝とかないわけ?奴隷だから無くてもいいけど…」
「助けなんかいらない」
「は?」
大瀬さんはのそのそと起き上がって、ぎりっと僕の服の袖を掴んだ。
「助けなんか、いらない。平日だし、誰もいないから、死ねると思ったのに。いおくんが入ってくると思わなくて、これで死ねるって、思ってたのに…………」
俯いていて顔は見えないが、心なしか声が震えて聞こえた。僕は大瀬さんにとっては重大なことをしてしまったようだ。でもこの僕の行動は反射的にしたことだ。
僕が悪い……のかもしれない。とりあえず謝ろう。
「あの、大瀬さん、」
「でも、いおくんに助けてもらって嬉しいって思ってる自分がいる。ほんとに…………ごめんなさい。どこまでも、ゴミで。」
「……………」
沈黙。
出せる言葉がなかった。
大瀬さんは嬉しいって言ってくれたのに。
僕も何か言わなくちゃ。大瀬さんをフォローする、気の利いた一言を言わなくちゃ。大瀬さんが生きてもいいって思えるような_______
一つしか、思いつかなかった。それしかないと思った。
大瀬さんが死なないためには。
「大瀬さん、1週間後、僕とデートしてください」
「は?」
「は?」
「いおくん……今、なんて?」
「デートしてって………えぇ?!何で?!」
「そんな……こんなクソ吉とで、デートなんて……正気ですか?!頭が……その………なってしまったんですか?!」
「うん、さっきの僕は正気じゃなかった!!ごめん、聞かなかったことに………」
なぜか、大瀬さんは露骨にガッカリ……みたいな表情を浮かべている。何で?大瀬さん、僕とデートしたいの?そんなにデートしたいなら……行ってあげないこともないけど?
「大瀬さん、僕とデートするまで、死なないって約束して。デートしたら好きにしていいから。僕は止めない。」
大瀬さんは目をパチクリさせているが、ぼくの圧におされて了承した。
「その、いおくん………非常に言いづらいのですが、この体制、ちょっと……」
僕は大瀬さんに正面から跨っていて、そういう体制に見えなくもない。僕は奴隷仕込みの速さで大瀬さんから離れ、部屋から即座に出ていった。
ドアを勢いよく閉めたあと、ずるずると扉の前に座り込み、やっちゃったぁ、と心の底からの声が出た。
「失礼します、大瀬さん」
「ぇ゙、なんで……」
「なんでって、大瀬さんが勝手に死なないように見張りに来たんですよ。今日から1週間、一緒に寝ますからね!」
ごはんを食べ終わって結構経った午後10時。すべての片付けを終えたのか、いおくんは堂々とクソのクソ部屋に入ってきた。床にバラ撒かれている画材を踏まないようにこちらに近づいてくる。
「ベットどこですか?」
「あぅ………ない、です。ゴミには必要ないので……」
「寝袋ですか?じゃあ僕も持ってきますね」
いおくんは部屋を出ていった。恐らく再び戻って来るだろう。約束をしたにも関わらず死なないように、と毎夜見張られるなんて、クソに信用はないんだな、当然か。
あのときいおくんは僕を助けてくれた。意味わからんすぎるが、さらに意味わからんのはデート……だ。こんなクソとデートして楽しいと思う?否。きっとデートを口実に契約を結ばされるに違い無い……
「お待たせしました、大瀬さん。さ、寝ましょう」
「え、もう?」
「もう?って……いつも何時に寝てるんですか?」
「わかんない。絵がキリの良いとこまでいったら……」
「はぁ?生活習慣バグってますね」
「なにそれ、いおくんに一番言われたくない」
「なにを〜〜〜〜!!」
持っていた寝袋と犬のぬいぐるみを投げ捨てたいおくんは、僕に飛びかかってきた。僕はいおくんに押し倒される形で床に転げた。下から見るいおくんの目はやっぱり綺麗だった。まさに漆黒。目が細いから光が入りづらいのだろう。本当に真っ黒にみえる。お風呂に入ったからだろうか。髪も少し湿っていて………
「…………ちょっと、ガン見しすぎ」
「うわぇあぁあっ!!すっ、すみません!!」
「…………………」
「………………………………」
きまずい。昼のやつはいおくんがさっさとどっか行っちゃったからどうにもならなかったけど、今回はここに留まるつもりだから、沈黙だけが流れている。
「お、大瀬さん」
「はい……?」
「絵、描いてて。後ろから見てるから。キリの良くなったら一緒に寝ましょう。」
それでいいの、と聞こうとしたが、いおくんは奥の方に行ってしまい、自分のスペースを作り上げた。そして、ぽかんとしているこちらを見た。
「描いてくださいよ。僕、大瀬さんの絵、好きだから」
「そんな、無理して褒めなくても……」
「褒め言葉は素直に受け取りなさい!」
「…………すみません、ありがとうございます」
僕は絵に向き直って近くに転がっている筆を取った。
絵の具を筆ですくい、キャンバスに塗る。
いおくんが良いって、好きって……言ってくれたから良いものを描きあげたい……と思えた。
しばらくして、もうそろそろ寝るか、と思い、いおくんに声をかけたが、彼はもう静かに寝息をたてて眠りについていた。僕はそんな彼の頭をさらさら撫でながら、
「……見張ってくれるんじゃ、なかったの」
そうつぶやいてしまった。
頭を撫で続けていると、いおくんは寝返りを打って僕の手から逃れてしまった。ちょっと残念。
小声でおやすみ、と言って僕も眠りについた。
いつも凍えている背中は、なんだかとても暖かかった。
「大瀬さん、なんで頭なんか…………」
起きたら、いおくんはいなかった。 おそらく朝ご飯を作りに行ったのだろう。いつもだったらこのまま寝るが、なんだか寂しかった。寝袋からのそのそと抜け出す。そのままのそのそと起き上がり、のそのそ階段を降りた。
ぺちぺちと階段を降りる音が聞こえたのか、いおくんがリビングの扉から顔を出していた。
「あれ、おはようございます大瀬さん。早いですね、今日何かあるんですか?」
「いや、なんか……寂しくって。お手伝いとか……」
途端に恥ずかしくなって思わず下を向く。
すると、いおくんの小さな笑い声が聞こえた。
「ふふ、大瀬さんったら構ってちゃん〜〜?お手伝いはいらないからまだ寝てていいよ。あとでいっぱい構ってあげるからね!」
"構ってちゃん"という言葉にむっとする。
「じゃあここで料理するいおくんのこと見てる」
「は?何で?寝てなよ。呼びに行くからさ。本当は眠いんでしょ?」
図星。実は今にも瞼が落ちそうなくらい眠い。いつもより2時間は早起きしているんだから当たり前だ。
「でも、昨日のいおくんだって見張ってるとか言いながら寝ちゃったじゃん」
「ぐっ……!そ、それは……………好きにすれば」
いおくんは作業に戻った。いつもちらっと見る程度しか見ていないが、やはりめちゃくちゃにスピードが速い。あっちの鍋に何か入れたと思ったら隣のフライパンにのっかってたやつを皿によそって、テーブルに置いて、またキッチンに戻って………目で追うだけでも疲れてくる。
「大瀬さん、今持ってったやつ味見してもらってもいいですか?」
「この卵っぽいやつ?」
「うん、スクランブルエッグ。美味しいと思うよー。自信作!」
近くにおいてあるスプーンで卵をすくって食べる。
口の中にバターと卵の香りが広がって、程よい胡椒の辛味を感じる。
「………さすがいおくん。すっごく美味しい。ゴミの語彙力じゃ表してはいけないくらいに……美味しい。」
「なんですか、それ。あともうちょっとで2品目できるんで、そっちもお願いしますねー」
これじゃあ小腹が空いたから味見を集りに来たただの伊藤ふみやだ。でも、たまにはこういうことをしてもバチは当たらないだろう。クソにはぜひ当ててほしいが。
「大瀬さん。今日もお部屋、行きますからね」
子どもがいたずらの約束をするような、あるいは恋人が夜の逢引をさそうかのような……そんなかんじがした。
ともかく、悪いことをするようにこっそりと言うのはやめてほしい。
「おはようございます依央利さん。今日も朝早くからありがとうございます。あれ、大瀬くん!今日は早起きだね。えらいぞ!この草薙理解が頭を撫でてあげましょう」
頭をわしゃわしゃっとなでられて、少し照れくさくなる。
「おはよう理解くん。もうすぐできるから、座ってていいよ〜」
「いえ、皆さんのことを起こしに行ってきます。依央利さんのご飯は出来立てが一番美味しいですからね!」
理解さんは階段を上がっていった。しばらくして、笛の音が聞こえてきた。それに何回も。
「理解くんも大変だね。何回言っても遅起きなのに何回も注意するなんて。」
「根気強い素晴らしいお方なんです。こんなクソを気にかけてくれて………」
理解さんへの感心の言葉をかけただけなのに、いおくんはむっとしていた。なんか………拗ねてる?
「………いおくん、」
「拗ねてなんかないです」
何で言う前に分かるんだ?いおくんはそっぽを向いてキッチンに戻ってしまった。明らかにさっきより機嫌が悪い。
「いおくん、僕はまた……何か、してしまったのでしょうか」
彼は、大きくため息をはいて振り返った。
「わかんないの〜〜?やっぱ、大瀬さんバカでしょ」
「むっ」
「バカだから奴隷契約も結ばないんでしょ〜?絶対結んだほうがいいのに!ほらっ、捺印!」
「無理です。クソなんで。ゴミの底辺なんで。」
「こちとら奴隷だが?底辺は僕だから!」
「クソ吉なんで」
「奴隷なんで!」
「クソ吉なんで」
「奴隷なんで!!!!」
「コラーーー!!!!喧嘩しない!!!!」
理解さんに怒られた。
やっぱり謎すぎる。なぜ、いおくんはこんなクソとデートに行く、などと言い出したのか。奴隷契約を持ちかけてきて、己の罵り合いになって終わるという流れはいつもと一緒だし、はたからみれば完全に不仲同士の争いだ。デートとは、愛しあう恋人同士が町中に仲良く繰り出すというクソとはかけ離れたイベントだったはずだ。やはりあれは、僕の都合の良すぎる夢だったのではないだろうか。
でも、いおくんは今日も僕の部屋にやってきた。
「汚いですね、やっぱり。きれいにしていいですか?」
今日も大瀬さんの部屋にやってきたものの、足の踏み場がゼロに等しく、大瀬さんのところになかなかたどり着けない。
「いおくんの部屋も汚いじゃん」
ああ言えばこう言う。やっぱり大瀬さんとは反りが合わないのかもしれない。僕は大瀬さんに奉仕したいのに。
「僕はいいの!で、今日は何描いてるんですか?」
キャンバスを覗いてみると、あの日無理やり大瀬さんに押し付けられた忌々しい食べ物が描かれていた。
「りんご飴ねぇ…………」
夏祭りでりんご飴を買ってもらったものの、僕はそれを食べられないでいた。結局ふみやさんに食べさせたが、りんご飴を包んでいる袋を留めていたビニルテープ。それは捨てられないでいた。
「いおくん好きでしょ、これ。」
「別に好きなわけじゃないし!あのときは、大瀬さんが無理やり……」
「あんなに物欲しそうな目で見てたくせに」
ボソっと小さい声で言っているが、この耳には入っている。
「今日は絶対1人で寝ないから!大瀬さん、早めに終わらせてよね。一緒に寝るよ!」
謎の宣言をして、昨日と同じように大瀬さんの背中を見る。
絵を描く。
それは僕が諦めてしまった道。空っぽの僕に、好きなものを描いて。自分なりに表現してみて。なんて言われても無理に決まっている。でも大瀬さんはそれができている。大瀬さんの手は、現実にないものでも生み出すことができる。でも僕はできない。悔しいけれど。だから僕は大瀬さんのことをどこかで尊敬してるんだと思う。
大瀬さんの手によって、キラキラつやつやしている美味しそうなりんご飴が描きあげられていく。あのときのりんご飴の何倍もおいしそうに見える。
りんご飴に見惚れていると、大瀬さんが筆を置いて振り返った。
「あれ、今日はもう終わり?」
「一緒に寝るんでしょ。こんなクソと寝て何が楽しいのかわかんないけど。」
一言多い。
「ほらっ、大瀬さんもお布団入って!」
実は昨日の朝、大瀬さんがスヤスヤ寝ている間にごちゃごちゃだった睡眠ゾーンをきれいにして、布団を敷いておいたのだ。
「えっ………なんですか、これ」
「あれ、朝に気づかなかった?お布団だよ、おふとん。ここで寝るんだよ」
「それは分かるけど……クソには勿体ないです」
「そんなこと言ってないで……さ!」
僕は大瀬さんの手を引っ張って無理やり布団の中に入れた。そして頭をホールドして、背中を一定のリズムで叩く。
「もご………寝かしつけても……無駄………」
「ねんねむりんりん……ねんねむるんるん……ねんねむろんろん……」
「ねん……………ねむ………………」
寝た。勝った。僕の勝ち。僕の寝かしつけに耐えられる人間なんていない。
僕は大瀬さんのムニムニほっぺをつんつんした。
むにゃ、と間抜けな声が上がる。
「おやすみなさい、大瀬さん。」
温かい大瀬さんをぎゅっとして、僕も眠りについた。
りんご飴を描きあげるために、必要な画材がなかった。
あれはいおくんのために描いている。こんなクソと毎日一緒にいさせてしまってすみません、というお詫びとして。お詫びになるかわからないし、迷惑であるのと思うのでアスファルトの上を引きずり回したあとに絞首刑に処して欲しいですが。
でも、本当に絞首刑にしたあと滝に突き落としてボコボコにして欲しいくらい僕は大罪を犯している。
いおくん、僕は今、あなたのお姉さんと優雅にアフタヌーンティーをしています。
何故か?僕が聞きたいです。画材屋さんに居たんですよ、彼女。絵を描く人同士仲良くしたいとかでお茶に誘われて………もうその後はよく分かりません。すみません。ともかく、ここで死んだらお姉様に申し訳ないので、帰ってからひとりで死にたいと思います。すみません。
「あの……湊さん、でしたっけ?難しい顔をされて、どうされました?やっぱり、迷惑でしたよね」
「あっ、いっいいいいいえ、そんな、滅相も………」
「本当ですか?それなら大丈夫なんですけど……せっかくの美味しいお茶ですし、楽しく頂きましょう!」
「は、はい…ありがとう、ございます……」
「………………」
「………………………」
沈黙が続く。やっぱりクソだからこういう所で気の利いた一言の1つも言えやしない。うんこ………はダメだし……他、他………うんこしか出てこない………うんこどっか行け…………!
「あの、最近依央利は…………どうで、しょうか」
やっぱり、そうだよな。
家にまで来るんだから、心配に決まってる。
「この前、死のうとしたら助けてくれました」
「死の………?!えと、大丈夫、ですか?」
「あ……はい、全然。いつものことですので」
めちゃくちゃに首を傾げているが、事実だからしょうがない。
「いおくんはいつも家事全般全てをやってくれるので死ぬほど助かってます。お詫びに死にたいくらいです。こんなクソ吉も気にかけてくれるし、周りを見る力もあるので………素晴らしいひと、だと思います。奴隷契約とか、持ちかけてきますけど」
思わず結構喋ってしまった。はっと彼女の方を見ると、彼女は微笑んでいた。
「良かったです。依央利は楽しく元気に暮らしているんですね。奴隷…?はちょっとよく分からないですけど、きっとあの子なりの優しさだと思います。あと、貴方のような依央利をしっかり見ていてくれている人がいて良かったです。ありがとうございます、、」
初めて会った時よりも安心しきっている顔をしていた。そして、弟思いの姉の顔。
いおくんは、やっぱり幸せ者だと思う。
その、幸せ者のいおくんが何故このクソ吉なんかに構うのか。理解し難いが、クソ吉への神の施しとしてこれからもありがたく頂戴していこう。
いおくんの様子をもう少し詳しく彼女に話そうと思った。彼女の顔に、影がさした。
「大瀬さん、何やってんの?」
「ちょっ……いおくん、離して」
「なんで」
「お金……払ってない」
「あの人が払うでしょ。大瀬さんに無駄な時間を過ごさせた報いだよ」
いおくんはボクの手首を握ってずんずん進んでいく。それも、家の方向ではない。
「なんで、そんなこというの」
「何、そんなことって」
「お姉さんのこと、何で悪くいうの」
「何でって……」
「こんなクソ吉に言う義務なんかないし、首を突っ込むつもりも無いけど、お姉さんはいおくんのことを……」
バシッと大きな音をたてて、僕の手が叩き落とされた。
「もう僕、あの人とは関係ないから。大瀬さんもさ、今日のことは忘れて。あの人に何吹き込まれたか知らないけど。あの人のことも忘れてね。」
いおくんは、家へとスタスタ歩いていった。
僕は、そこから動けなかった。
「依央利さん、おかえりなさい。今日のご飯は餃子ですか?良いですね!楽しみにしています」
「ただいま理解くん。今日も美味しいやつ作っちゃうね!」
どれだけ明るく振舞おうとしても、頭からさっきの出来事が離れない。理解くんには怪しまれなかったけど、猿ちゃんには何かあったって思われそう。
大瀬さんはまだ帰ってきていない。置いてきてしまったけれど、大丈夫だろうか。きっとご飯時になったら帰ってくるだろう。
_____午後8時。辺りはもう真っ暗。夜ご飯が出来上がってみんなもう食べ始めている。大瀬さんが帰ってきた気配はない。理解くんも部屋にはいなかったと言っていた。そろそろ本気で心配になってくる。
「いお、どうした?何かあったか?ソワソワしてんぞ」
「えっ、そう?別になんも無いけど」
やっぱり気づかれた。平然を装うとでっかいため息をつかれた。
「嘘つけ。大瀬だろ。探したいなら探してこいよ」
「依央利さん、探しに行きます?行くんでしたら私も行きます」
「ううん、ありがとう理解くん。あと猿ちゃんも。僕ひとりで行ってもいいかな。これは僕が責任とんないといけないから。」
「ふーん、じゃ、行ってこいよ」
「そうですか、気をつけてくださいね」
外はすごく寒かった。昼間は北風もなく日差しが暖かかったが、夜になるとすっかり空気が冷えきってしまったようだ。
大瀬さんと別れたところに行ってみたが、大瀬さんはいなかった。すれ違いになってしまったか。念の為、大瀬さんがよくいる河川敷にも行ってみる。
徐々に風が強くなり始め、さらに寒くなる。こんな気温で入水なんてしたら死ぬ。でも大瀬さんは入水常習犯、そして僕があんな態度をとってしまったからすでに川に入っているかもしれない。
「大瀬さぁーーーーーーん!!!!!!!」
特に声は返ってこない。見渡してみても大瀬さんらしき影は見当たらない。
否、いた。
大瀬さんはこちらを向いて、目がバッチリ合ったあと川へ歩みを進めた。大瀬さんの足が水しぶきを立てて川に沈んでいく。
「ちょっと、大瀬さん!?何しちゃってんの?!」
大瀬さんは再びこちらを向いた。そして口を動かした。
“いおくんのせいだよ”
確かに、そう動いた。一瞬足が止まった。でも何とか気を持ち直して大瀬さんに飛びつく。僕と大瀬さんの体が川に一緒に倒れ込んだ。マジで冷たい。ありえないくらいに。僕はたった今川に飛び込んだだけだが、大瀬さんは何時間も前から外にいたはず。低体温症になってもおかしくない。
「大瀬さん大丈夫?!急いで家に帰んないと、僕も大瀬さんも死んじゃうよ!」
僕は立ち上がろうとしたが、大瀬さんがボクの服の裾を引っ張って阻止した。
「じゃあもう一緒に死のうよ」
「は?嫌だよ!僕、まだみんなに奉仕し足りないんだけど?」
「それならいおくんは帰りなよ。僕1人で死ぬ」
「は?ダメだよ!そしたら、大瀬さんは……僕のせいで……」
「いおくんのせいで死ぬなら本望だよ」
大瀬さんは立ち上がって岸から離れていく。
「ごめんね、大瀬さん」
僕は大瀬さんを川の底に押し倒した。大瀬さんの顔は川に沈んだ。このままでは死んでしまう。
だから、僕は空気をめいいっぱいに吸って、大瀬さんに口移しした。
驚いていたが大人しかった大瀬さんはジタバタし始め、僕が体を起こすとすごいスピードで起き上がった。心の底から驚いている顔だった。
「いおく、ん?え?僕……今………?いおくん何した?」
「人命救助、だよ?」
「いや、そうだけど……違う、何してんの?!」
「大瀬さん、また僕に命助けられちゃったね。これはもう僕にどうお礼すればいいのか分かんないね?」
「今すぐ死にます」
「はいはいはいダーメ!デートの約束したでしょ!」
「そのデートって何?こんなクソとデートしても楽しくないよ」
この鈍感野郎。本当は気づいてるんじゃなかろうか。
「デートに誘ってるだけじゃなくてキスもしちゃったんだよ?僕たち。まだわかんないわけ?」
黙ってしまった。きっと分かっていながら分かっていないふりをしていたんだろう。信じたくなかったんだろう。
「クソ吉のクソ勘違いでなければですが、やめておいたほうが………」
「………大瀬さん、おうちに帰ってゆっくり話そ?ここじゃ寒くて頭が回んないでしょ?」
ざばざば水をかき分けながら岸へと進む。大瀬さんの手を絶対離さないように握る。今のところ素直に着いて来てくれているから大丈夫だろう。
堤を上がりきって、舗装された道路に辿り着いたとき、背後からべちゃっという音がした。そして、僕の視界から大瀬さんが消えた。
彼はもう、限界だった。
「おはようございます依央利さん。体調はどうですか?」
白い天井。天彦さんの顔。自分の部屋だった。
起き上がろうとすると止められた。大瀬さんのことを探しに行くとでも思われたのだろう。その思いはやまやまだが、僕は休んでいる暇はないのだ。すぐに奉仕をしなければ。
「……………大瀬さんは大丈夫ですか?」
ポロッと口から出てしまった。やっぱりそれが1番大きかったのだろう。
「大瀬さんは理解さんが見てくれています。おそらく大丈夫でしょう」
途端に、僕の部屋の扉が物凄い音を立てて開いた。今話題に出た2人の争う声と共に。
「大瀬くん!!低体温症を舐めてはいけません!!まだ寝ていてください!」
「クソにはそんなの不要です、それよりいおくんと……!」
「大瀬くん!!お願いだからっ、言うこと聞いて!」
「こればっかりは無理ですっ!」
僕と天彦さんは呆けるばかりだ。開いた口が塞がらない。静かに見ていた天彦さんが僕に耳打ちをしてきた。
「依央利さん、大瀬さんと何か話さなければいけない事があるんですか?」
「まぁ……ありますね。結構大事です」
ふむ、と天彦さんは少し考えたあと、大瀬さんを羽交い締めにしている理解くんの所へ向かった。
「理解さん、どうやら2人はなんやかんやあったようでして。2人でお話をさせてあげませんか?」
「なんやかんや……?まさか、ふしだらなことではないでしょうね?」
「「…………………」」
「ちょっと、なんで2人とも黙るんですか。まさか、2人で昨日の夜、ふしだらなことを………っ?!」
人工呼吸という名目でキスをしただけだが、おそらくDTの彼にはふしだら認定させるだろう。そして天彦さん、視界の端っこでエクスタシーしないでもらいたい。
「まぁでも、それで大人しくなってくれるなら良いでしょう。天彦さん、私たちはお暇しましょう」
「そうですね。知らぬがセクシー、とも言いますから」
「なるほど、知らぬがセクシー………勉強になります、先生!」
少々訳の分からないことを話しながら2人は去っていった。残されたのは半分開いたドアとそれに隠れてこちらを見ている大瀬さんと僕。僕は大瀬さんをちょいちょいっと手招きして布団に座らせた。
少し気まずいのか、僕と微妙な距離をとってモジモジしている。
「その、ごめんなさ、」
「僕、大瀬さんのこと好きだよ」
僕と大瀬さんの間の空気だけ、3秒くらい固まった。大瀬さんは少しだけ枯れた喉で、え、とだけ言った。まるで肺から二酸化炭素と一緒に吐き出したみたいに。
「僕、大瀬さんのこと好きになっちゃったの。いつ好きになったかはわかんない。最初は契約結んでくれない意味わかんない人だったけど、今はなんか違う。意味わかんないのは変わんないんだけど、なんか、特別……っていうか?」
「でも、いおくんって空っぽなんじゃないの」
このクソ野郎。自分で僕の心に踏み込んどいて何言ってるんだ。
「僕の心にりんご飴をぶっ刺したのは誰?!あの後僕、めっちゃモヤモヤしてたんだから!結局、ふみやさんに食べてもらったけど、テープだけは、捨てられなくて………大瀬さんが、僕を空っぽじゃなくしちゃったんだから!!!」
「………いおくんは、このクソのせいで変わっちゃったの」
大瀬さんの空気が変わった気がした。
「うん、まぁそうなるかもね。だからさ……」
「ごめんなさい死にます」
毎度思うが、どこから取り出したのかナイフを自分の首に突きつける。ボクはそれを必死で止めるが、この人、意外と力が強い。
「好きな人に死なれて嬉しいわけないじゃん!!死んで僕にトラウマでも植え付けたいわけ?!」
「ちがっ、そんなんじゃ………」
「じゃあ何、お詫びとでも言うの?!お詫びにならんし!超思い詰めるし!」
「ごっ、ごめんなさ」
「すぐに謝んのやめて!」
何とか大瀬さんを押さえ込み、最初の並んで座る体形に持ち込んだ。さっきより、大瀬さんとの距離を詰めて。
「大瀬さん、君が僕にどのような感情を持ってるかだけ教えて。好きでも嫌いでもめんどくさいでも何でもいいから。」
大瀬さんは黙って俯いてしまった。でも、これを聞き出さないと僕は諦めることも押し続けることもできない。大瀬さんの答えが出るまで、僕は待つ。
数分たって、ようやく大瀬さんの口が動いた。
「僕は……きっと、いおくんのことが知りたいんだと思う」
「知りたい………?もう結構知ってるんじゃないんですか?」
「そうかな……奴隷ってのもわかんないし、空っぽじゃないのに空っぽっていうのもわかんないよ」
「空っぽじゃなくしたのは大瀬さんだって言ってんじゃん!」
「それは申し訳ないと思ってるけど、僕は最初、いおくんのこと苦手だったんだ。なんでだろ、ってずっと思ってたんだけど、多分……同族嫌悪だったんじゃないかな、って」
「は?同族嫌悪?」
思わず腑抜けた声が出てしまった。同族嫌悪って。もしかして僕、今まで嫌悪されてた感じ?同じような匂いがするな、とは思ってたけど。
「あっ、クソと同族とか言ってすみません……でも、それ以外考えられなかったから。良いように利用しているように聞こえるかもしれないけど、僕はいおくんを知って、僕を知りたい……んだと思う」
知りたい。それが大瀬さんが僕に向けている感情らしい。大瀬さんの様子からしても嘘をついている感じは無い。つまり、一緒にいたい、ってことで良いのかな。さすがに勘違いも甚だしいかな。
「………じゃあ、大瀬さんはさ、僕と一緒の方がうれしい?」
「………いおくんが、嫌でなければ」
「嫌なわけないじゃん。何回言えばわかるの?今すぐ押し倒されても良いくらいなんだけど」
さすがに言い過ぎたか。ちらっと大瀬さんの顔を様子見する。なんだか、思ったより驚いていなさそうだった。
「い、いんですか」
「えっ、か、構わない、よ?」
大瀬さんがのそのそ近づいてきた。僕の体はベットの端に追い詰められる。
「ちょっ、大瀬さん、マジ?!」
「…………」
どんどん大瀬さんの顔が近づいてくる。ここまで早い必要ある?ない。あったら困る。このまま押し倒される?いざとなると心の準備ができなくなる。ちょっと待って、と大瀬さんに言い続けているものの、止まる気配がない。ついに、僕の頭がベットにくっついてしまった。大瀬さんは至って落ち着いていた。いや、なんで?もしかしてそういう経験がおありで?マジ?よりによってあの大瀬さんに経験が?いや、それは無いはず……多分。
大瀬さんの顔がリアル目と鼻の先にまで近づいてきた。思わず目をぎゅっと瞑って、そのときを待っていた。
しかし、横からぽすっ、というベットの空気が抜ける音がしただけだった。
「やっぱり怖い?」
僕の横に寝っ転がった大瀬さんは、僕に優しく問いかけた。僕は思わず目を逸らしてしまったが、怖気付いてしまったのは本当だから躊躇いつつも頷く。
「僕も」
「マジ?よくここまで来たね。」
「嘘つかないでよいおくん。押し倒されちゃだめじゃん」
「なっ、あれは言葉の綾ってやつだし!」
しばらく沈黙が続いた。2人、至近距離で寝っ転がりながらただただ天井を見上げる。まるで空っぽな白に限りのない空を映しているかのように。
僕はふと思った。今度、大瀬さんに空を描いてもらおうと。この空っぽを真っ青に染め上げられるくらいに美しい空を、描いてほしい。
「ねぇ、大瀬さん。まだ押し倒すとかはできないけどさ、こういうのならできるよね」
僕は、大瀬さんにちゃんとしたファーストキスをした。この前のは人工呼吸。今度は恋。もう大瀬さんはクソにそんなことしたら汚れる、とかはもう言わない。僕の気持ちを分かってくれたから。だから僕も、大瀬さんに責任持って僕のことを知ってもらおうと思う。
それで、君が思い描く空を教えて。
「大瀬さん!!!デート、行きましょう!!!!」
「えっ、明日の予定じゃ………」
「待ちきれない、行くよ!」
描きかけのりんご飴を置いて、僕たちは家から出た。
僕が大瀬さんの手首を引っ張って、ただ歩き続ける。この前と状況は全く違うが少し似ている。前と違って大瀬さんも文句を言わずに着いてきてくれるし、僕はとても気分が良い。この前のモヤモヤした感じも晴れて、気持ちいい快晴に包まれていた。
そして、僕たちが辿り着いたのは、例の低体温症になった川。あの後結局僕も低体温症ギリギリまで行って、家に着いた途端倒れ込んだらしい。家の中がポカポカで良かった。
「いおくん、こんなとこ来て何するの?心中?」
「違うわ。まだそんな事しないし。でも、いつか大瀬さんが本当に死にたくなっちゃったけど1人は寂しい、って時になら心中してあげてもいいかも」
「…………言質、とってもいいですか」
「マジ?冗談のつもりだった」
「…………………」
分かりやすくへそを曲げないでもらいたい。
大瀬さんもここ2日くらいでめちゃくちゃ変わった。
「まぁまぁ大瀬さん、今日はお願いがあったんですよ。デートがてらに」
「お願い……?」
今日が快晴でよかった。僕の目にも、きっと大瀬さんの目にも綺麗に晴れた空が映っているに違いない。
「大瀬さんの空の色を見せてほしいんだ」
君の世界を僕に見せて。