恋の音をきかせておくれよ 窓枠に背を預けて話す二人の男女がいた。女の方がはにかんだ表情で男を見上げて男がうんうんと小さく相槌を打つ。時折彼女に視線を投げながら。休み時間の廊下で外の清々しい青空に背を向けたままひたすら会話を楽しんでいる。
ふいに少し強い風が吹いた。微かな花の香りを運ぶ風が女の長い髪をふわりと舞い上げる。女は咄嗟に左手で髪を抑えてそのまま流れるように右耳の髪を掻き上げた。顕になった耳元に男がそっと口を近づける。いたずらな風に彼女に向けての言葉が盗まれないように。
圭は春を表す絵画のようなその光景を教室の中から静かに見ていた。机に座り腕を突き手に顎をのせながら、じっと。ほんの少し開いた扉の先に見えた男女の姿。二人が何を話しているかここからは何も聞こえない。
清峰葉流火に彼女ができた。
その噂の真偽について周囲の人間から何度も確認されたが明確な回答を圭はまだできていない。――なんか、ぽいね。あやしいよね。圭に問いただした者は皆口々にため息をつき圭の肩をポンと叩いた。ニコイチの親友にも関わらず何も聞かされていない悲劇を嘆いてくれているらしい。叩かれた肩はジンジン痛かった。
「葉流ちゃんの、彼女?そんなの俺が知りてえよ〜〜……」
練習後、制服に着替えながら目の前のロッカーに向かって嘆いた。返事がない代わりにホコリと制汗剤が混じった微妙な匂いが鼻をついた。
「おい清峰は?」
「先ほど部室を出ていきましたけど」
「あ、そうかそりゃそうか。わりぃな要」
バシッ。今度は藤堂に背中を叩かれた。何もしていないのに毎日肩と背中に手形が増えていく。いえぇわ。背中を摩りながら言われた言葉を頭の中で反芻する。「わりぃな要」。わりぃ……なにが?肩を叩いていった彼らも同じことを言っていた。でも一体何が悪いのかわからない。親友のポジションでありながら彼女ができた報告がないことか。いまだに俺に彼女がいないことへの憐れみか。
「うーーん」
「トイレなら待ってますから早くしてください」
「いや違うから!瞬ピー着替え終わった?かえろ〜〜」
わからないが一旦心の隅に投げ捨てる。相変わらず彼女がいない三人そろって部室を出た。
「智将はどう思う?」
暗闇の中に小さく滲む常夜灯のオレンジを見上げながら圭はもう一人の自分に声をかけた。質量を持たない身体をベッドサイドに預けた智将がチラリと圭を見た。
「つか智将は心配じゃないの?女の子にうつつを抜かすな!とか言いそうなのに」
智将である彼の葉流火に対する過保護っぷりはおりがみつきだ。だのに枕元から見た智将の横顔はいつも通り。シニカルで余裕のある笑みを浮かべていた。
「野球への姿勢が変わらないなら俺は別に構わないな」
「え〜〜、それまじ?」
「いいんだ。……寧ろそのほうが正しいんだろうし」
「え?どういうこと?」
知的さを醸す双眸がゆっくり前に戻っていく。それから声を抑えてはははと笑った。圭以外誰にも声は届かないのに。
「もう寝ろ主人。眠いだろ」
智将が黒のハーフパンツから覗かせた片膝をたてその上に額を押し当てる。そのまま目を閉じてもう何も応えることはなかった。何やらはぐらかされたような気もするけど仕方がない。大袈裟なため息を一度ついて圭も眠りについた。
ある日の練習帰りには山田と部の買い出しに吉祥寺へ行った。またある日の帰りは千早が電気屋のオーディオコーナーに行くのについていき、また次の日の練習後には後輩の瀧とひたすら部室で語り合った。――要先輩にはカンボジアの彼女さんがいるじゃないですか。太腿に石を積まれた囚人のような表情で受け流して瀧の彼女の話を聞いた。いつも飄々としている瀧がそのときだけはひどく柔らかい表情をしていて、圭は自分の胸がぎゅっと萎むのを感じた。愛する人のことを語る男の顔は同じ男からしてもかっこいいしキュンとする。――葉流ちゃんも今頃こんな顔を彼女にむけているのかな、と。
瀧と語った次の日。いつも歩く帰り道を葉流火と歩いていた。練習後、先に着替えを終えた葉流火がロッカー脇のベンチに座っている。彼女ができてからは着替えたらサッサと帰っていったのに。少し不思議に思いながら着替えを終えた圭が部室を出ようとするとスッと立ち上がり後ろをついてきた。――一緒に帰ろう。そんな一言もなくとにかく自然に、当たり前についてきて、一緒に帰った。
その次の日も、また次の日も一緒に帰った。休み時間にも少し開いた扉から廊下で青空に背を向ける葉流火を見ることは無くなった。代わり圭の席のすぐ後ろの席を陣取り、ひたすらハンドグリップを握っている。
カシャカシャ
カシャカシャ
金属音をたてながら圭の話すことに耳を傾けている。頷いている。
――彼女はどうしたの?別れたの?どうして何も教えてくれなかったの?
何度も尋ねたあの疑問を再び一緒に帰るようになってからは一度も口にしていない。また葉流ちゃんが隣にいる。耳をたてなくても葉流火の声はまっすぐ聞こえてくる。それならもうどうでもよかった。
「清峰くんって要くんと仲良いよね」
「わたし要くんが好きなんだ」
肩にかかるくらいの髪は茶色く染められ受験生から人気の制服のスカートから伸びる足はすらりと細い。胸元で握られた手の爪は長いのにきれいに整えられていて背の高い自分を見上げる目は濡れて潤んでいた。弱々しい小型犬を彷彿させるその女は世の中の大体の男――例に漏れず圭もきっと好きそうで。
――邪魔。きらい。俺たちの前からいなくなれ
丸みを知らぬ切先をその白い喉元に当てたくてたまらなかった。
モテたい、童貞を卒業したいと常日頃から曰う圭だが実は中学の頃はそこそこモテていた。シニアの練習後に差し入れをするファンをよく見かけたし告白だって何度もされていた。そしてその度に角が立たないようお断りしていたことも葉流火はよく知っている。
「葉流火が不安になることは何もないよ」
そう言っていつも自分を安心させてくれていた。いや、もし言葉がなかったとしても圭が自分以外を選択することは想像できない。圭の目はいつだって雄弁だ。大丈夫、心配するな、――絶対。圭の隣が自分であることは春の空が青く風が暖かいことと同義だった。中3のあの夏を過ぎるまでは。
しかし今の圭はどうだ。一度は離れた野球はまた楽しんでくれているらしい。きっと自分と同じ情熱を持っていると信じている。でも今の圭には野球以外があった。野球以外――桃のパフェにもお笑いにも、女にだって興味を持つ圭は……はっきり言って危ない。だから。
「圭のこと協力する」
(排除しないと)
誰にもこの企みを勘付かれてはならないと女の耳元に口を近づけた。圭の好み、喜ぶこと。出会ったときから片時も離れなかった俺だけが知ってる圭を快く分けてもらえると女は容易く喜んだ。――ありがとう清峰くん。優しいんだね。やすやす感謝の言葉を述べる女は20センチ上から振り落とされる視線の冷たさに気づかない。
うっかり目を離して圭に近寄られては厄介だと、大切な圭との時間を犠牲にして彼女の信用を得た。休み時間、帰り道、はては休日の昼下がりまで。そのうち校内で自分と付き合っているという噂が流れた。馬鹿馬鹿しい。そんなわけあるはずないのに、ある日圭がその真偽を問うてきた。幼い頃から変わらない大きなタレ目を小さく潤ませながら。同じ潤んだ瞳なのに圭のものはこんなにも愛おしい。両手で救って丸呑みしてこの身に閉じ込めてしまいたいほど。
そもそも他人と付き合うこと自体死んでもありえなかった。あんな弱くて柔らかいだけの女を選ぶものか。今すぐその耳に目に鼻に口に、圭の全ての穴をこの想いで塞いでやりたい!しかし今はこの計画をなんとしてもやり遂げなければいけない。一度は途切れた線を未来へ強く結ぶためだ。圭に嘘をつくのは心苦しかったので回答はごまかした。
――うん、最近仲良い
これだけでも反吐が出そうだった。
時間を費やし女の信頼を得たある日。ついに彼女は圭に告白をすると言い出した。話しかけてきた当初は薄く茶色に染められていた髪を艶のある黒髪に戻していた。ひじきみたいな偽物の睫毛はやめて猫を思い浮かべる目尻を作った。伸びていた爪はヤスリで綺麗に整えられ表面はツルツルに磨かれている。清楚さの中に色気を持つ、まさに圭の好みど真ん中の女がそこにいた。
「要くん、私のこと気づいてるかな。挨拶はたまに返してくれてたけど……」
ふいに聞こえた女の言葉に頬がひくつく。挨拶?聞いていない。圭はグイグイくる女は好きじゃないと伝えていたから今日までほぼ接点なしとにらんでいたのに。急に腹の奥が重く戦慄いた。ドス黒いものが重く沈んでいくはずなのに喉元まで迫り上がって酷く熱い。
「最後に圭とうまくいく秘訣、聞きたい?」
放課後の部活棟に続く道に自分たち以外の人通りはない。この先の部室でユニフォームに着替える圭のもとに今まさに向かおうとする女を呼び止めた。秘訣。期待を込めて振り返る。すぐそばに近寄り顔を上げた目はギラギラして更に葉流火を苛立たせた。
「圭は……」
「うん、要くんは?」
目を背けちゃいけない。平気な顔しているけど誰よりも人一倍努力してる。涙も俺の前では流さなくなった。泣いていいのに。一人で泣くのは本当はやめてほしい。だから絶対、絶対いつでも片時もこの先もずっと、ずっとずっと隣にいないとダメだ。野球部がなくたっていい。ボールがあればなんとかなる。家は今は近所だけど高校を出たら一緒に住む。もう離さない。離れない。リトルの時の圭もシニアの時の圭も今もこの先も、クソみたいな女が邪魔しようとしても……!!!!!!
二人の近くを通りがかったサッカー部の同級生が血相を変えてオイ、と声をかけた。その隙に女が足早に走り去る。
――清峰、大丈夫か?痴話喧嘩なら家でやれよ
どうやらあのクソみたいな噂のおかげで助かったらしい。大丈夫、とだけ告げて葉流火も部室に向かう。大丈夫。法には多分触れていない。
練習後には久しぶりに圭と帰宅した。――今日はいいの?心配そうな表情で様子を伺っている。その目をまっすぐ捉えて葉流火はまた「大丈夫」とだけ答えた。だいじょうぶ、なんて便利な言葉。うーんとしばらく考えるような顔をしたあと圭はケロッと笑った。
――腹減った。食い物しりとりしよ
3ターン目で「ん」がついてはえーよと言ってまた笑っていた。
教師に呼び出されることも、法に触れて前科がつくこともない。しばらくたったある日「清峰、彼女と別れたらしいよ」という会話がアームグリップの金属音と心地よい圭の声に混じって教室の後ろのほうから聞こえてきた。二限と三限の間の休み時間は短い。葉流火はグリップを握るリズムをあげた。
カシャカシャカシャカシャ
「ザコシ今年天下とるかな」
カシャカシャカシャカシャ
「ちょいまち!ザコシTikTok始めたってマジか!」
ああなんて静かなんだろうと葉流火は笑った。