やがて踏切を越えるとき火曜日
「カンボジアの彼女さんは清峰先輩のこと、怒ったりしないんですか?」
部室の扉に手をかけたそのとき、アルミサッシの向こう側から照夜の声が聞こえた。ドアノブを回そうとしてピタリと止めた。
「カンボジアの彼女」のワードから敬愛する一つ上の先輩の顔を思い浮かべる。それからまもなくして当該の人の焦った声が耳に入ってきた。野球部の部室が入る部活棟は壁が薄く、2人の会話は扉越しにもよく聞こえた。
「か、カンボジアの子とは別れたんだ。よくないだろ?二股なんて」
「そうなんですか……彼女さんは理解されたんですか?」
「おぅもちろん!ケイ〜オシアワセニ〜ってさ!」
「なんで男の清峰先輩を選んだんですか?」
「え、ええ〜?照っちどうした?欲しがるねえ……」
「失礼します、要先輩。……あと、照夜」
戸惑いの色を滲ませた声に手をかけたままだったドアノブに力を入れ扉を開ける。案の定、部活前から冷や汗でビショビショの要先輩とやや前のめりに先輩につめよる、至極真面目な表情の照夜がいた。
「正ピーいいところに!おっと時間だ、俺グラ整いってくるね〜」
「あ、それなら俺が……」
助かった!と言わんばかりに要先輩が部室を出ていく。まだ下は制服のままなのに。更に追いかけようとする照夜のユニを引っ張って足止めした。先輩を困らせるな。そう窘めれば「うるせーよ」と口を曲げた。
水曜日
学校から最寄り駅までは徒歩十分。毎日同じ道を学校生活と部活で疲弊した身体を引きずるように歩く。駅の入り口は小さな踏切の脇にあって、こじんまりとした改札を越え階段を登った先にホームがある。帰宅ラッシュの時間帯を少し過ぎたこの時間の人通りはいつも少ない。
「じゃあな」
「いや、今日は俺も乗る」
ICカードが入った財布を改札に押し当てる。先に改札に入った照夜が不思議そうな顔でこちらを見た。
「なんだよ、いつもこのあと彼女んちだろ」
「別れた。言っとくが今回も円満だぞ。週末からはソウルフレンドしてる」
七人の彼女とは曜日ごとに時間を作っている。部活後、電車で通う照夜を駅まで送ってから彼女たちと過ごしていたが水曜の彼女には寂しい想いをさせていたらしい。我ながら不甲斐ない。しっかり反省して他の娘たちに愛を注がなければ。
「あ、そ」
「ん?」
「別に。ほら、電車来るからもう行こうぜ」
その場の照夜は何故かへんな顔をしていたが、電車に乗ってしばらくすると何事もなかったように話し始めた。あの辺に新しい公園ができたんだと電車の外に指をさす。それから今日の授業のこと、来週の練習試合のこと。たわいのない話をしているうちにあっという間に俺が降りる駅に着いた。ホームに降り立ちドアがすぐに閉まる。電車が次の駅へと出発し、窓越しに顔が見えなくなるまで照夜はずっと笑っていた。
土曜日
サッカー部の練習試合のため今日の練習は昼まで。若干の物足りなさを感じながら着替えを進めていると隣から豪快な腹の音が聞こえてきた。裏門を出た先に新しいラーメン屋できたと藤堂先輩と千早先輩の話を思い出す。
「行くか、ラーメン」
隣で着替える照夜に声をかけた。すぐ返ってくると思っていた返事がなかなか聞こえない。不思議に思って横を向けば訝しげな視線をこちらに投げかけていた。
「いいのかよ、彼女との昼メシは」
こんなやりとりがつい最近もあった気がして……思い出した。これまた残念なことに水曜日の彼女に続いて土曜日の彼女からも先日別れを告げられた。
――私じゃまさくんの力になれないから、ごめんね。
涙を流し謝ってきた彼女の顔は今思い出しても胸が痛む。彼女のせいなんかじゃない。俺が不甲斐ないゆえの結末だ。しかし……そんなに俺はどうしようもない男なのだろうか。
「へえ、連続か、珍しい。新しい彼女は?」
「いない。いつもそんな軽いノリでお受けしているわけはないの知ってるだろ」
「まあな。それが正雪のいいところだし……。しょうがねェから俺が慰めてやる。メシ食ったらその後BASEBOY行こうぜ」
「いいな」
照夜と一緒に部室を後にする。新しいラーメン屋は美味かったしBASEBOYでは欲しかったアンダーシャツも買えた。帰るにはまだ早かったから近くの河原でキャッチボールもして。
時間があるなら愛する彼女たちのために別れた原因を振り返るべきなのに。なかなか充実した一日だったと帰ったらすぐ眠ってしまった。
次の水曜日は週刊ベースボールの発売日で照夜と書店に行き、土曜日は久しぶりに照夜の家に遊びにいった。たまたま実家に戻っていた当さんと一緒に夕飯をごちそうになってそのまま一泊。日曜は朝から三人でキャッチボールした。
その次の水曜日もその次の土曜日も照夜と過ごした。用事や気分によっては家に帰ったり自主トレすることもあったし、他の曜日は彼女たちと過ごしている。個性豊かな彼女たちと過ごすのは楽しいし幸せだ。
でも最近、寝る前に思い浮かべるのは照夜の顔だった。
月曜日
いつも通り駅までの道を歩いていると雑踏の音に紛れて隣から照夜の鼻歌が聞こえてきた。数年前に流行ったドラマの主題歌だった。
「機嫌いいな」
「そうか?……うん、そうかも」
「ああ」
適当に相槌を打ちつつも心の中でこっそり唸った。試合でホームランを打ったときですら鼻歌なんてしたことなかったはずだ。余程機嫌がいいらしい。最近何かあったっけ。更に心で唸りながら考えていると、鼻歌を止めた照夜が遠くを見ながら口を開いた。
「俺のすべて、なんだって」
「なにが」
「要先輩と清峰先輩。つきあってるだろ。この前は瀧に邪魔されたけど後からこっそり教えてくれた。要先輩にとって清峰先輩は『すべて』だって」
「邪魔なんかしてないけどな。すべて、か。お二人ならわかる気がする」
幼馴染で友達でずっとバッテリーを組む二人。男同士だとしても二人が隣にいることに何の違和感もない。清峰先輩にとってもきっと同じだろう。
お互いが自分の『すべて』。欠けてしまったらバランスを崩してしまうような唯一な存在なんて……。
「どうしたらなれるんだろ」
「なにが」
「……え?あ、あ〜〜やべ!もう電車くる!じゃあな!」
いつもの改札まではまだ少し距離があるにも関わらず照夜はいきなり走りだした。思わず声をかけたが先の踏切のバーが落とされ、速度を落とした電車に視界を遮られる。ああこれはきっと間に合わないだろうに。それならゆっくり一緒に歩けたらよかったのになんて、どうしてだか思ってしまった。
木曜日
同じ道を同じ時間に歩いているとほんの少しの変化にも気づけるものだと思っていた。特に自分は人よりも少しだけ周りの変化に敏感だと自負していた。
でもそれは、違う。そうではない、と思い知らされた。
「今日集合ギリだったろ。何してたんだよ」
山田先輩が集合の声をかけようといつもの場所に歩いていく。俺はその数分前まで着替えをしていた。秒で制服を脱いで秒でユニフォームに腕を通して、集合には間に合ったものの部活前にも関わらず息が切れていた。
「クラスの女子に呼び出されてた」
「告られた?」
「ああ」
「……っそ。俺はいいけど先輩方困らせんなよ」
集合には間に合っているし誰一人困らせてはいない。照夜も……そう言おうとしたのに何故か言葉がでてこなかった。目の前にまたいつもの踏切が近づいてくる。隣から鼻歌は聞こえない。困らせるなよと言ったまま、踏切を超えるまで照夜はずっと黙ったままだった。
「じゃあな」
ようやく聞こえてきたのはいつもと変わらない別れの言葉。なんともいえない気まずさを抱えて片手をあげた瞬間に踏切が閉まり電車が入ってきた。一度深くため息を吐く。とりあえず気を取り直して彼女に会いにいこう。
その場を去ろうとしてふとスポーツバッグが目についた。昨日買ったばかりの週刊ベースボール。照夜に貸すのをすっかり忘れていた。
電車が過ぎ去れば踏切のバーは上がる。開いたらすぐに走ってホームに向かう照夜を捕まえよう。まだ間に合うはず。そのつもりだった。
でも、できなかった。電車が過ぎた踏切の向こう側で、俯いた照夜がポツンと立ち尽くしていたから。
「照夜……?」
「………………ぇ、うわ!な、なんだよ!なんでまだいんだよ」
「あ、いや……」
それはこっちのセリフだ、とか、電車大丈夫なのか、とか、今ここに適した言葉は喉につっかえて何一つ出てこない。代わりにバッグに手を突っ込んでお目当ての雑誌を手に取り出した。
「これ」
「あっ、さ…………ンキュー」
やっとのことで声に出たのはたった二文字。雑誌に気づいた照夜はぱっとそれを奪い取ると感謝の言葉を小さく述べてホームに走り去ってしまった。
あんな顔初めて見た
そういえばここで別れた後の照夜を初めて見た
もしかして、今までずっと?
告白の返事は実はまだしていない。
待たせるのはポリシーに反するからいつもはすぐ返事をしている。他にも付き合ってる子がいるけどそれでもいいか聞いて、了承してくれればつきあう。俺から断ることは基本的には今まで一度もなかった。
なのに今回は待ってもらっている。少し考えさせてほしいと、断ってこそいないが受け入れることもしなかった。そんなことは初めてだった
火曜日
今日も今日とて照夜と駅までの道を歩く。先週の踏切での出来事は次の日には何事もなかったように処理された。
同じ道を何度も歩き微かな異変を見つける。最近そんなゲームが流行っていたなとぼんやり考えていると制服の胸ポケットに入れたスマホがぶるっと震えた。
「彼女からか?」
「ん。少し遅れるって」
毎週、彼女の塾の時間の前に一緒に食事をするのだが、家の用事で待ち合わせに遅れるとの連絡だった。何も問題はいらない。OKのスタンプをまず送って更に一言付け加える。
「あいしてる、ね」
「おい見るなよ」
「それ新しい彼女?」
「いや違う。この前の子は……お断りさせていただいた」
まっすぐ前を見据えていた照夜が男にしては大きめな目を更に見開いて勢いよく俺を見た。珍しいじゃん!つか初めてじゃね?どうしたんだよ!足を止め興奮気味に聞いてくるから思わずこちらと足を止める。
「言わない」
「なんでだよ、教えろよ」
黙って首を振る。告白してくれた子へのせめてもの礼儀だ。たとえ振ってしまったとしても大切であることは変わりない。
そんな俺を知ってか知らずや照夜はしつこく尋ねてくる。どうするか考えあぐねているうちにまたいつもの踏切にやってきた。
「ちぇ、明日は答えてもらうからな」
「黙秘します」
「かっこつけやがって。じゃあまた明日」
いつもと同じ別れの言葉。電車はまだきていない。踏切のバーもあがったまま。踏切を挟んで照夜の顔をじっと見つめた。
「なんだよ。早く行けよ」
「いや、今日は照夜が行くの見てる」
「は?なんで?」
「なんとなく。どんな顔してるか見たほうがいいと思ったから」
焦る必要がない静かな踏切でまっすぐ目を見て伝えた。なんだよそれ。きもいっつーの!途端に騒ぎ出す様子を見てなんだか楽しくなってくる。
「じゃー先行くわ。もう電車くるし」
「おう。気をつけて」
「ん。…………」
――あのさ
階段に足をかけた照夜が突然振り返った。
「俺はっ、その……大好きのほうが、正雪らしいと思う」
「へ?」
「じゃ、じゃあな!また明日!」
それだけ言うと今度こそホームに向かって階段を駆け上がっていった。立ち去る間際に見えたのは真っ赤な頬と固く結んだ口元。
遅くなると言ったがそろそろ彼女が待ち合わせ場所に着か時間だ。遅刻は厳禁。もう行かなくては。なのに根っこが生えたみたいに俺はその場から動けなくなってしまった。
どうして遅れたの?彼女は俺に尋ねるだろう。なんで告白断ったんだよ?照夜はまた明日も聞いてくるだろう。それなのに、どうしよう。自分でも何もわからない。
ただ俺の中には照夜に笑っていてほしい自分がいる。いやいつもじゃなくてもいい。元気がなくてもいいし弱音を吐いたっていい。怒ってたってぼーっとしてたっていい。笑ってるのが一番だけど、どれも全部、照夜は照夜だから。
「俺のすべて、か」
要先輩、俺、前よりずっとわかる気がします。
電車がくる気配もないのに踏切の鐘の音が頭に響いて離れなかった。
終