ある数日間の余録審神者は決して大人しく泣き寝入りする男ではなかった。かつて、この本丸への途絶したルートを、力づくで再開通させた男である。
一報を入れた古今伝授には、「すぐ修理させるから歌仙の身体の安全を確保しろ」と伝えた後、政府の設備管理サポートを行う部署へ猛然と食って掛かった。
決して安くはないコストを負担して、他の本丸ではそうそう受け入れないという政府純正の定期メンテナンスを受けてきた。このトラブルの少し前にも保守点検が行われ、完了報告を受け取っているのだ。
「とにかく一番腕の立つ技師を寄越してください。ボンクラは要らない。前回のメンテでどこか狂ったのは明らかでしょう。
大事な初期刀を失うような事態が、政府の手落ちで起こるなんてことが許されるはずもない。我々審神者は軍属とはいえ一国一城の主。国家賠償の訴訟も辞さないつもりでおりますが?」
松井は審神者のこういう姿を見たのは初めてだった。
本丸運営が安定し、実務の殆どを歌仙が取り仕切るようになってから顕現した彼は、歌仙にサクサクといくつかの指示を出し、現世での仕事に戻っていく審神者の印象しか持っていなかった。だが、松井はここに至って、初期刀のあの沸点の低さが、どこから来ているのかわかった気がした。
「そちらの部署で間に合わないならラボと交渉してください。開発チームに理屈のわかるものがいないはずはないですよね?はい。あとで連絡を」
通信を切った後も、矢継ぎ早にあちこちに連絡を取って本丸外のニンゲンと交渉していく。
国賠専門の弁護士へ仮依頼交渉、民間のシステムエンジニアにデータサルベージの可否を見てくれるよう依頼。休む様子はなかった。
「…主、僕にできることがあれば代わるから…少し休憩しては。もうずいぶん」
「松井江、他に今俺ができることはなんだ」
「え?」
「俺が…あいつに余計なことを言わなけりゃ、、手入れするほどでないとあいつ自身が判断していたのに…」
大きなため息。
「主のせいでは無い…手入れは必要な指示だ」
「…俺にとっての歌仙は、細川を支えたお前の元主だ…わかるか。失うわけにはいかない。今できることをやらずに後悔したくはないんだよ。キツけりゃお前さんは下がって良いぞ」
「いや…歌仙の留守を守る役割は僕が当然に果たすべきものだよ。指示を出してくれないか、主」
発信すれば返答が来る。
次々やってくるエンジニアには松井が対応した。皆一様に首を横に振り、その度松井は事態の難しさを聞かされることとなった。
燭台切が厨から定期的に食事や軽食を運んできたのは、強制的に休憩させる意図があったのだろう。
「腹が減っては戦は出来ぬ、だからね。あ、主くん、さっき三日月さんが戻ってきていたよ」
「三日月?休暇の連絡はもらっていないぞ」
「そう?骨喰くんも一緒だったけど」
そう言い終わらぬうちに、背後から鷹揚な声がかかった。
「なんだ、もうバレてしまったのか」
この三日月宗近は、審神者が審神者になる後押しをした刀だ。元々政府のある部署で班長として働いていた。
任務中にこの人間に会い、半ば強引にくっついてきて、結果的に審神者就任を促すこととなった。
その後、足抜けするように政府の仕事を辞して、勝手に第一部隊に付いて本丸へ入り込み、そのまま居着いてここの刀になってしまったのだが、政府はこの刀の経験と実績を惜しんで、審神者と派遣契約を結ぶことで、彼を取り戻した格好になっていた。
「三日月…あっちの仕事はいいのか」
「ラボの連中が、未経験の事故の対応でザワついていたのでな。聞けばうちの本丸だというので、骨喰も連れて戻った。そこらで兄弟に捕まっておろう。なに、しばらく不在にしたとて困るまいよ」
「ラボで…」
「人を要請したそうだな」
「当然だ。向こうのメンテのミスで歌仙を失ってたまるか」
「そうか。腕の良いのが選ばれて、派遣チームが準備していたぞ」
安堵の表情の審神者に、三日月は少し寝ろと言い、燭台切に部屋まで連れて行って寝かせるまで戻るな、と指示した。
彼がこの本丸のもう一振りの初期刀であるとの扱いは、本丸全体の共通認識であった。
「さて…近侍代行は、松井江か。日ごろは歌仙とさして親しげでもないようだが、いざ細川に事あるときは、やはりお前なのだな。面白い関係よ」
「それは、僕のすべきことだから」
「兼定の若い方は何を?あれがここにいるかと思っていたが」
「彼は…子守りを」
「ああ、なるほど。…では近侍代行殿に言っておこう。主には隠せ。修繕ののち、歌仙が戻れる可能性は五分を切っているそうだ」
松井は小さく息を呑んだ。
「もっとも技術屋の目論見は外れることとて少なくない。主の霊力は他に抜きん出ておるし、歌仙自身に、なにか縁が強くあれば、違うやも知れん」
「信じて、、待つだけのことだよ」
「そうだな」
「おはよう歌仙。お支度できましたか」
古今伝授が部屋の襖を開けると、幼い歌仙は外套の紐に手こずっているところだった。小夜がさっと手伝って、手甲の紐をくくり直す。中指の付け根の赤い小さなリボンを、指をぐーぱーして確かめている。
「昨日はいい子だったそうですね。大きな和泉守となにを?」
「絵本ば読んでもろうた!あ、あとね、こん部屋ん主はもんすごか怖いって言いよったよ!」
「怖い?あら、そうですか……ほほ」
小夜も小さく吹き出している
「まぁ、それはそうですね…ふふふ」
「古今伝授の太刀。用意が出来た」
松井が呼びに来て、場の雰囲気は一変した
「さぁ、手入れ部屋の前で主が待っています。向かうとしましょう」
その朝早く、政府の技師は仕事を終えて戻っていたのだった。
歌仙兼定が目を覚ましたのは手入れ部屋だった
練度が上がった近ごろは、出陣はしても負傷することもめっきり減って、かつて飽きるほど見上げたこの天井も、少しばかりの懐かしさを伴って認識された。
ぼんやりした頭で手足の指を動かし、次に膝を持ち上げて回し感覚を確かめた。
手入れ部屋は部屋そのものに治癒の力が与えられており、資源を積んで置きさえすれば、重傷でもない限りほぼ審神者の手を煩わすこともない。
軽傷にも満たない些細な傷は、別の誰かが跳ね飛ばした敵短刀の衝突による関節の不具合で、うかうかと避けきれなかった自分への戒めと、外側に口を開けているわけでもなく感染の心配もないからともうずいぶん長いこと放置してきたものだった。
昨日、荷を持って強く踏み込んだ際に、つい表情に出た僅かな歪みを、珍しく本丸に長居していた審神者に見咎められた。
「ケチるほどの資源の量でも時間でもないだろう。いつも手入れを怠るなと皆に言ってるお前さんがそれで、周りに示しがつくと思ってるのか歌仙」
こうなってはしかたない。
朝餉の片付けを終えたところで、手伝いに来ていた和泉守にだけ、手入れに入るがすぐ戻るよ、と言いおいて、歌仙は手入れ部屋へ向かったのだった。
持ち上げた足を下ろした拍子に、審神者がいることに気づく。
なぜ?
ひとりでさっき入ったときにはいなかったはず…いや、今日は現世での仕事に行って、本丸へ顔を出すのは夜の予定だったろう。
驚く歌仙が口を開くより先に、審神者が声をかけた。
「目覚めたな。お前さん、自分が何物だか言えるか?」
「何って……君がその手で選んだ歌仙兼定でなければ、一体何だって言うんだい」
審神者はしばし歌仙の目を見た。
「それが聞きたかった……よし、歌仙、俺はこれから仮眠する。起きたら政府に精密検査に行くから、用意しておいてくれ」
「え?ああ、君の軍属用の健康保険者証を用意しておけばいいのかい」
「俺じゃない。お前さんのだ、歌仙」
説明はややこしいからとにかくここを出る、と云う審神者のあとをついて小部屋を出て、執務室の入り口で、中にいた長谷部と、次いで松井江と目があった。
「歌仙…お前」
長谷部が変な顔をしている。
「やぁ、おはよう長谷部。松井も……松井??どうしたんだい!」
松井江は立っていることもできなかった。あふれだした涙を拭いもせず、膝から崩れるようにして手を床に下ろし、そのまま肩を震わせる。
審神者が松井の背に手を置き、静かに撫でさする。
「よく頑張ってくれた…お前さんたちの協力に俺は感謝し切れないよ」
「主、松井はいったい…」
困惑する歌仙に、長谷部が
「歌仙、覚えていないのか」
と声をかけると、
「いい、いい、長谷部。俺が追々説明する。まだ検査を受けなきゃならないが、長谷部は縁の者たちに、ひとまずの無事を報せてやってくれ。松井にも…誰か迎えを寄越して休ませてやってくれないか」
「かっ…歌仙……」
「あ、あぁ、大丈夫かい松井江」
屈んだ歌仙の耳に、嗚咽の合間に絞り出すように聞こえた声は
「良うぞ…お戻りあそばした…松井は…幸甚の極みにござります…」
「兼さん殿、少々休憩してはどうか。無理は怪我のもとであるぞ」
山伏国広がそう声をかけたとき、和泉守はその日何回目かの薪用の材を運んで戻ってきたところだった。
歌仙が審神者と手入れ部屋へ入ってからずっと、休みも入れずに薪割り作業を続けている姿を、山伏は見ていた。
「もう薪小屋へ収まらないであろう。体を動かしておる方が気が紛れるならば、拙僧の隣で仏でも彫るが良かろう」
この山伏は細工物を得意とするが、ときに仏を彫ることもする。無心で己と向き合うこともまた修行の一環であった。
「……ああ、山伏。オレも情けねぇな…かっこよくて強いとは程遠いぜ。あんたの言うとおり、なんかしてねぇと考えこんじまう」
「嵐吹く日は心頭滅却せずとも良い。自然体もまた意味あるものよ」
堀川派の山での修行に付き合って、幾度も山行に出てきた和泉守は、この修験者とも腹を割って話せる間柄であった。
「悪いことを思わねぇようにぐるぐる考えてたらよ……オレたちの戦が、いつまでも終わらねぇ理由がなんとなく…分かったような気がするんだ」
床几に腰掛けていた山伏の横へ腰を下ろす。
「語られよ。聞こう」
「オレは歴史を変えていいとは思っちゃいねぇ。それはこの本丸の、オレ達の歴史であっても違いはねぇよ…ただ、きっと身近に起きたことを受け入れたくねぇ人間が、歴史修正に手を染めちまうんだなって、今ならなんとなく…いや、悪ぃ、忘れてくれ」
「己の痛みで敵を思われたか…きっと歌仙殿は、貴殿のそういう優しさをも慈しんでおられるのだな。優しさ故の辛さを乗り越える強さも、貴殿はきちんと持っておられるよ。
幼子を主に預ける前に、貴殿なりに足掻いて見たのであろう?ならば運もその手で引き寄せられようぞ」
「兼さん!!!探したよ!!!」
「国広」
「手入れが終わったって、いま長谷部さんが!」
息せき切って走ってくる堀川の声に、緊張で体温が下がったのがわかった
「…で?」
立ち上がった和泉守は、目の前にやってきた相棒の瞳が潤んでいるのを見た
「わかった…錬結の用意をすりゃいいんだな」
声が掠れる。
まっすぐ立て、ふらつくんじゃねぇ、オレは格好良くて強い和泉守兼定だ。己の足に言い聞かせる。
「違うよ!!!!ちゃんと大きくなって、自分の名前も言えたって!手入れに入るまでのことも覚えてるって!」
「…は?」
「しっかり召されよ!」
ばぁんと大きな手に背中を叩かれ、はじめて、和泉守の中に手入れ成功の事実がすとんと落ちてきた。
どくんどくんと心臓の音が聞こえて徐々に体温が戻ってくる。汗が背中を流れ落ちるのがわかった。
「そうか…なら、、いい。びっくりさすんじゃねぇよ国広」
「兼さんが勝手に勘違いしたんじゃないか」
「…うるせぇ…いや、そういやそうだな」
ふたたび材木の方へふらりと向かい、まさかりを掴んだ彼に堀川は驚いた。
「兼さん、歌仙さんのとこ行かないの?自分の目で確かめなくていいの?」
「オレにはお前の言葉を疑う理由はねぇよ。国広が大丈夫だったって言うんなら、そのとおりなんだろよ」
「ええ……?なにその変な意地の張り方」
「なぁ国広よぉ、あのひとは、歌仙兼定は誰のもんだ?」
「え?」
「オレたちは誰のもんだ」
「……」
「なるほど。主であるな」
「そうだろ。主が、、あのおっさんが正常に戻った之定の顔を見飽きるまでは、オレらが邪魔しちゃなんねぇ…昨日までの主のツラ見たら、いくらオレでも遠慮ってもんがあらぁな」
言いながら、鼻がぐすぐすなりだした。
「あのひとはオレだけのもんにゃ絶対になりゃぁしねぇのさ。オレだってそんくらいのことはわかってる…」
「兼さん…」
「ってぇのは嘘だな。こんな湿気たツラ、之定の前に差し出せるかっての。この薪を割り切ったら、風呂入って寝る。格好良く戻しておかねぇとな」
「もう…そんなこと言って」
「カッカッカッカッカ!!磨き上げた極上の刀になって、彼を驚かせてやるつもりであるな?それも良かろう!!兼さん殿の言葉通り、主殿とのゆっくりした時間が歌仙殿には役立つやも知れぬしな」
歌仙がことの詳しい次第を聞かされたのは、政府の施設でのしつこい検査を受けている間のことだった。研究員たちは、同様のバグが発生することを防ぎたいからと、手入れ前後の詳細を訊き出そうとしたが、当の本刃はトラブルの間のことを覚えてはいなかった。
審神者が代わりに古今伝授と松井の報告を伝え、研究員は、おそらく発生原因は特定できるだろうと答えた。
無事戻ったことに関しては技師も研究員も首をひねった。初期刀な上に日頃ほぼ審神者の業務を代行していて、帰属意識が非常に強かったことのほかに、なにかもうひとつ小さな呪いのようなものが効いた様子があるとのことだったが、そこにいた誰も、その「呪いのようなもの」が何かまるでわからなかった。
帰城したあと、歌仙は短刀たちを一振りずつ抱きしめ、世話になった(と聞かされた)刀に挨拶して回り、久々に戻ってきた三日月が部隊の通常業務を指揮して変わらず日課をこなしたことに感謝した。
夜はちょっとした宴となり、歌仙が自室に戻れた頃には薄い雲の向こうの月もだいぶん小さく高くなっていた。
「待たせたね。お入り」
戸口のそばに来ていた和泉守を見ると、歌仙ははじめて大きなため息を吐いた。
「君にも、ずいぶん心配をかけたんだろう。済まなかったね」
「あんたのせいじゃねぇさ。謝るもんじゃねぇ」
「実のところ、狐につままれたような感じだよ。寝て起きたら大騒ぎで…僕の知らない僕が、ここで寝泊まりしていたんだろう?理屈はラボで聞かされたけれど…ねぇ和泉守。この僕は君の良く知る歌仙兼定かい?歪んだ時間軸の上の別モノじゃないかい?」
「あんた疲れてんだ。あの小さいのがいた時間が放棄された世界線なら、もうその経路は閉じられた。戻ってきたんだよ。おかえり、之定。顔見て安心したぜ。オレはもう行くから、落ち着いて休みな」
立ち去ろうとした和泉守の袖を俯きがちに引いたのは歌仙の方で
「もう少し、、居て欲しいというのは贅沢かい…?」
返事の代わりに抱き寄せ、ふと思いついてそのままぐっと力を込める。
「ど、どうするんだい」
足袋の指先が廊下から少し浮いて、恋刀の顔がすぐ目の前にある。
「ああ、重てぇ。もう片腕じゃ持ち上がらねぇな」
「別に検量でも肥えてもいなかったはずだよ?」
「いいんだ、こっちの話さ」
ちゅ、とそのまま軽い口づけをして、
「じゃ、ご要望どおり先代様に御伽話でもしようか。どうせ数日非番なんだからな」
秋の風が木の葉を散らす季節のことだった