私の半身目に痛い夏の日差しが通り過ぎて、秋の気配が漂うようになってくる夏の夜。
もう0時を回ったというのに、東京の街の灯りは神々しく、とても強い。そして、その光が強い程、闇も濃くなる。そんな欲望渦巻く東京には呪霊が湧きやすい。けれど、今、そんな七海は日常から離れて、ホッと息をつき、東京の街の夜空を見上げている。
この季節になると、2006年の夏の夜の事を思い出す。高専一年の七海がまだ若かった頃、灰原と夜中に寮を抜け出して、高専裏手の山に行った時の事を。
七海はグラスの酒を煽ると、「ふぅ」と息をつく。ガラス張りの机の上には、灰原と七海が仲良く写っているⅬ判写真が、透明なガラスケースに入れられて飾られている。
「灰原、私の半身」
灰原の写真を肴にして、灰原の事を思い出しながら酒を飲む時は、悪酔いしない。
初々しい若い頃、七海と灰原はなぜそんな場所へ行ったのか。
「灰原、あの時、私は本当に…」
そこまで言うと、七海はグラスにまた酒を注ぐ。七海は、2006年のあの夏の夜の事を思い出していた。
◆
「灰原、こんな夜更けに私を誘って、一体何をしようというんですか」
「ん? 秘密」
灰原と七海は、高専の中を歩いて、高専の裏手の山の方へと向かっていた。
夜になると幾分か暑さがマシになるとはいえ、8月下旬。まだまだ蒸し暑い。だが、夜の空気は既に、湿度を伴いながらも、冷たく秋の気配が漂ったものになっている。
「こんな時間に。夜蛾先生に見つかっては叱られます」
そう七海が苦言を呈すと。
「いいの。その時は僕が誘ったって正直に言うから。七海は火の粉を被らないよ。安心して」
そう言って、悪巧みした灰原が笑う様は、悪戯っ子みたいだ。
「まぁいいですけど。こんな時間に誘ったのが暇つぶし、とかだったら張り倒しますよ」
七海はそうツンとして言うけれど、それは七海が灰原の事が好きなせいだ。だから、七海に気を持たせるような真似をする灰原を憎々しく思う。けれど、灰原が七海をこんな夜中に、寮の掟破りまでして七海を誘うのは、灰原が七海を友達としか思っていないからだ。
「七海はそういう理由で誘われるのは嫌なんだ」
それに、ブワッと七海の頬が赤くなる。
「いや、あの、いえ……」
七海が口籠る。七海の、灰原に対する恋心は、灰原には隠している。灰原への恋心を知られたくない。振られて、灰原と友達ですら居られなくなるのが怖いからだ。こんな他愛ない悪戯ができるような関係に戻れなくなってしまうのが、七海は酷く怖い。
「着いたよ、七海」
山道を登り、開けた場所に出た。灰原が七海にとびきり明るく笑いかけてくる。もし七海が自分の気持ちに正直になったら、こんな風に灰原に笑っても貰えなくなる。
「ここは……」
「うん。この前、一人で高専を探検してる時に見つけたの。空を見て」
今日は昼間が快晴だったので、夜も雲一つない。幾つもの星々が、夜空に輝いている。
灰原が携帯を取り出すと、何かを調べ始める。そして。
「あれがベガ。あれがアルタイルでしょ。そしてあれがデネブだね。夏の大三角形」
灰原が星の解説をしてくれる。
「確か、織姫と彦星が、ベガとアルタイルでしたよね」
「うん! で、その間にあるのが、天の川銀河! で、あっ! あれは北斗七星だ! ここは空気も綺麗だし澄んでいるし、遮蔽物が少ないから、ほんと綺麗に夜空が見えるよ。気持ちいいね」
すうっと、湿度を含んだ夜気を胸いっぱいに吸って、灰原が吐き出す。灰原の瞳が、夜空に向かって煌めいている。そんな灰原の横顔を見ながら。
「で、私をこんなところに誘い出した理由は?」
そう七海が問うてやる。少し、期待しているのかもしれない。こんなロマンティックな場所で、灰原と想いを交わせたらと。けれど。
「ただ見たかったからだよ。七海と一緒に夏の夜空を。それだけじゃダメ?」
やっぱりダメか。
「いえ、ダメではありませんけれど……」
複雑な心境になりながら、七海の頬が、夏の夜気のせいじゃない熱で、内側から熱く火照る。何を期待しているんだ。全く、馬鹿だな。灰原からの告白なんて、そんな事、万が一にもないのに。
「七海は星には興味ないの?」
「いえ。織姫と彦星は、年に一度きりしか会えないのを幼い頃に知って、母親に、なぜ二人はこんな酷な目に合わなくてはならないのか? と泣いた事があります。けれど、今思えば、年に一度でも会えるなら、それでいいのかもしれません。年に一回は会える。毎年。ベガとアルタイルが消えるまで。その時まで、二人は生きているという事ですから。今は何故か妙に羨ましいです。人間の命なんて、本当に短くて、ちっぽけなものなんだなって」
「そうだね。けど、七海がそんな事言うの、珍しいね。七海にはもうそんな、織姫と彦星みたいに半身とも呼べる存在がいるのかな?」
月灯りの元、眉間に皺を寄せた灰原に、七海は見つめられる。その真摯な灰原の視線と灰原の急な質問に、どう答えようかと七海は一瞬、迷った。けど。
「ええ、まぁ、はい」
と、本音を答えてしまう。
「そっか、七海にはもう半身にしてもいいと思える人がいるんだね」
そう言って、また灰原が夜空に視線を投げる。
「灰原にはいないんですか?」
「ん? 僕もいるよ。けど、その人、とても危険な事をしていて、いつも僕が守ってあげなくちゃって思ってばかりの人でさ。あまり無茶をして欲しくないんだけど、すぐに無茶をするんだ。仕事熱心だから」
「私の好きな人も、そうです」
灰原の好きな人は、女性の補助監督なのだろう。補助監督には、媚びたところがない凛とした人が多い。灰原に想われる人が羨ましいな。と七海は思う。
「七海の好きな人の事について、聞いてもいい?」
その話題に触れられたくなくて、いや、触れられるのが怖くて、七海は頭を左右に振る。
「そっか。なら、もし、七海が半身を失った時はその人の事を、年に一回は思い出してあげて。そうだな。夜がいいかな。夏の夜。今日みたいな、夏の夜」
夜空から、また灰原が視線を七海へと戻す。灰原の眉間の皺が深くなっているような気がする。何か、泣くのを堪えているような。
「灰原……」
「そろそろ帰ろうか。身体、冷やすとまずいし」
そう七海を気遣う灰原の顔を見ると、途端、七海の頬が赤くなり、灰原の目が見れなくなる。意識してはいけないのに、意識してしまう。灰原が好き。灰原が好きなのは女性の補助監督なのに。言いたい。本当は、灰原に自分の気持ちを言ってしまいたい。
「灰原、わっ私は……」
「何?」
灰原が月灯りの元、酷く男臭い顔をして、七海に近づく。
「灰原の事が……」
その刹那、ぎゅっと灰原に抱きしめられた。
「はっ、灰原っ!!!」
「七海、期待してもいいの? その後の言葉、聴きたい。僕がどうしたって?」
それに、瞬間湯沸かし器のように、七海の全身が赤くなった。心臓も身体も、どこもかしこも痛くて堪らなくなって。
「好きです」
言ってしまった。言えばもう後戻りはできないのに。
「良かった。この僕の想いは片想いじゃなかったんだね」
そう言って、灰原が七海から身体を話すと、伸び上がって唇に押しつけるだけのキスをしてくる。
「灰原……」
突然の事に驚く七海に。
「僕、七海にずっとこうしたかった」
そう言って、また灰原に抱きしめられる。
「灰原が好きなのは、女性の補助監督じゃないんですか?」
「違うよ。いつも、僕の前で、チラチラとチラついて、光ってて、危なっかしくて、僕が守ってあげなくちゃってなるのは、七海だけだよ」
「灰原……」
灰原に身体を離されて、けれど、灰原の温もりが消えるのが嫌で、七海の方から灰原にキスをする。クチュッと音が鳴って、唇の隙間から、灰原の舌が忍び込んでくる。とろっと灰原と七海の唾液が混じり合う。
甘い。
こんなに甘い食べ物、食べたことがない。
「んっ、七海……」
「灰原……」
キスの合間に、溺れるようにお互いの名前を呼んで、唇を離す。てらてらと光る自身の唇を舐めとる。
「このままこうしていると、七海に何するかわからないや。帰ろう」
灰原が男の矜持で強がって、自身の欲を抑えて笑うと、七海と一緒に灰原が山道をくだり始める。
高専の寮への帰り道、これは夢なんじゃないかと七海は思う。灰原も、七海が好きだなんて。チラリと灰原を見るけれど、灰原の表情は暗くてよく見えない。
寮へとつく。寮は明かりが煌々と灯っている。また五条さん辺りが、夏油さんや家入さんを巻き込んでドンチャン騒ぎをしているのだろう。五条さんは一人でいるより、集まりを開く。それに七海も灰原も何度かお邪魔した事があったが、五条さんと夏油さんが延々マリオカートをしているところに、家入さんがヤジを飛ばして、灰原と七海はトランプをするというカオスな状況だ。けれど、それが不思議と嫌いではない。
「ね、七海。僕、今日は一人になりたくない。七海と一緒にいたい!」
そう直球に、灰原に好意をぶつけられれば、七海も嫌と言えるはずもなく。
「それなら、少しだけ」
と、灰原を七海の部屋へと招いた。部屋に入って明かりをつけた瞬間、背後から灰原に抱きしめられる。
「灰原……っ!!!」
「七海! 僕、どうしよう。凄く嬉しい!!!」
七海の首筋に顔を埋めながら、灰原が囁く。そして。
「七海、好き」
くるりと身体を180度回転させられると、灰原に唇に押しつけられるだけのキスをされる。
「ごめん。キスをずっとしたかったから。七海を見る度に」
「そうですか」
七海の頬が熱い。
「今日は星を見に、七海を誘って良かったよ。僕の半身」
そう言って、灰原は笑ってくれた。
◆
現実に意識が戻る。
灰原はもういない。七海の心の中にしか。けれど。
「灰原、私は本当に幸せでした」
そう気持ちを、写真の中にいる灰原に伝えれば、灰原がいつも側にいてくれるような気がして……。
ただ、七海の気持ちが落ち着く。
灰原と若い頃の七海の写真に、酒の入ったグラスをくっつけて乾杯をすると、一級術師となって借りたマンションの一室から見える夏の夜空を見上げようとする。けれど、夜空より、街の灯りの方が明るい。
「私はこんなところまで来てしまいました。けれど、いずれ灰原と会う時が来るでしょう。その時は、あの世で待っていてくださいね。私の半身」
そう言って、七海はふと笑うと、ほろ酔い気分で、また心地よく酒を煽るのであった。